あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

さらば2007年 亡羊師走詩歌集

2007-12-31 09:29:54 | Weblog


♪ある晴れた日に その18


満月やわれに二、三の憂いあり

土佐文旦優しき母の匂いなり

糞1個ひり出す午後の寒さかな

ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い

イヴ・クラインの青切り裂くやF30

大空を2つに切り裂くF-4EJ

袈裟懸けに双子座より落つる流れ星

その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる

沖縄スズメウリ繁茂す 沖縄独立せよ

グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ

脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか

建長寺の若き僧侶の青頭

念仏は脱兎の如し若き僧

こもごもに短き詠歌となえつつ老婆が2人峠越えたり

一座建立一日一恕の幸せを君に

高窓の光のどけき冬の朝妻と並びて抜き手切りたり

当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな

会者定離盛者必滅と鵺が鳴く

電車の中で彼女が生涯にわたって絶対見ないであろう部位をじっと見ている私

盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり

なにやらんこていな料亭ありしかど無残な更地になりにけるかも

秋晴れの丸一日を費やして描きし路線図を破り捨てたる息子

当たりの悪き林檎買い来るごと障碍児生まれしかな

百葉落ち死者に近しき夕べかな

戦友が放り投げたる赤ん坊をこう突き刺したんだとT氏語りき

あどけなき無言の挽歌うたいつつ小楢散るなり夕陽の丘に

窓際を流るる秋に呼びかけよ かのモルフォ蝶いずくにありやと

年毎に故人増えゆくアドレス帳

人生といふ棒を振ってしもうた男なり

朝な夕な新聞のページ薄くなりあと数日で年改まるか


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空の空なる空はない

2007-12-30 09:23:54 | Weblog


♪バガテルop32

ひところの私の趣味はデジカメで毎日自分の顔と空の写真を撮ることだったが、最近は空を飛翔するものを撮影することに「固まって」きた。

飛翔するものならトンビでも烏でもスズメでもUFOでも何でもいいのだが、圧倒的に飛行機が多い。ジャンボやヘリやプロペラ機やいろいろな飛行機がだいたい5分か6分に1機くらいの頻度でいろいろな方向に飛び交っている。

部屋にいてどこかでブーンという音が聞こえると愛用のデジカメを持って道路や露台に飛び出して上空にキョロキョロ探し求め、ともかくその機影をとらえる。朝から晩までこれをやっているから夜中でもブーンという音が聞こえると目が覚める始末。まるでノーローゼである。

自宅の周囲はあまり空が広くないので、近所の神社や広場や空き地で空にレンズを向けているから、向う三軒両隣の人々はほとんど狂人扱いで、最近は朝晩の挨拶にも顔を背ける人が増えてきたような気が心なしかする。

それはともかく自宅の上空を、毎日毎日これほど頻繁にこれほど多くの航空機が往していようとは夢にも思わなかった。先日横浜の栄区にある栄プールの上空で1機を撮影していたら、もう一機が近接遭遇したので思わずあっと叫んだくらいだ。

鎌倉は最近米軍の陸軍第一軍団前方司令部が進出してきたキャンプ座間にも、同じく米海軍空母の母港である横須賀にも、自衛隊の厚木基地にも近く、おまけに羽田や成田を発着する民間航空機の侵入離脱航路にも近いので、軍民合わせて飛来する頻度がこれほどの数になるのであろう。

幸い大和市や厚木市などのように上空すれすれに巨大な戦闘機が耳を聾せんばかりの轟音をあげながら接近することはないから助かっているものの、一日中鳥しか飛ばないのんびりした空、無人の空、旧約聖書の伝道の書にいう「空の空なる」空はもはや1瞬も存在しないことがはじめて分かった。
航空機に許された飛行範囲がきわめて限定的なものであることを考えれば、いまや大空も陸地並みの交通ラッシュ状態に近づいているといえそうだ。


♪大空を二つに切り裂くF-4EJ

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五味文彦著「王の記憶」を読む

2007-12-29 09:30:10 | Weblog


照る日曇る日第81回&鎌倉ちょっと不思議な物語93回


京都、奈良、鎌倉、平泉、博多、鳥羽、六波羅、宇治、鎌倉などの都市の形成や発展にまつわる記憶を、それぞれの王権の成立と対置しながら描き出す著者の会心作である。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉

という蕪村の句は、西行が出家を願うために鳥羽上皇のいる鳥羽へ急行する有様を詠んだとされるが、鳥羽の離宮は摂関家によって整えられた宇治と同様、都市の別業として造営され「院政期と武士を象徴する場」として記憶されていた、と著者はいう。

発展する京のリゾートとして位置づけられた鳥羽離宮の中心には宇治の平等院を模した大伽藍が造成され、西行など鳥羽殿の御所の武士たちは天皇や上皇に城南寺で流鏑馬を披露した。

後に鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会に召されて流鏑馬の芸を伝えた信濃の武士諏訪大夫盛澄もそのひとりだった。盛澄は鎌倉幕府への帰属が遅れたことで囚人とされていたのだが、関東の武士に流鏑馬の芸を伝授したために頼朝の計らいで赦されて幕府に使えるようになったという。頼朝は鶴岡八幡で放生会を行なうためにそのイベントとしての流鏑馬を必要としたのだった。ところが有名な熊谷直実は流鏑馬の的立ての役を忌避して所領を没収されてしまった。

それはともかく後鳥羽の近臣である藤原清範を奉行にして流鏑馬を名目に畿内近国の軍兵を募ったところ1700人の兵が集まり、これが幕府打倒の挙兵へと繋がったという。このように鳥羽は院政期の王権が武士の存在を意識しつつ鴨川の水辺に造った都市であったと著者はいうのである。

またここで話を鎌倉に転じると、鎌倉幕府を開いた頼朝の父義朝の拠点は現在の亀谷の寿福寺にあった。房総の上総の支援を受けた義朝は、水路六浦から私の家の隣を通って横小路を抜けて寿福寺に入った。これが鎌倉の東西を走る北部の交通路であり、南部には旧東海道があった。その途次の逗子の沼浜には義朝の御亭もあった。

また鎌倉にはかつて源頼義とその子義家によって由比ガ浜にもたらされた鶴岡八幡宮、甘縄神明宮、荏柄天満宮があり、この3箇所の宗教的拠点が中世都市鎌倉の宗廟を形成した。義朝の死後幕府を開いて鶴岡八幡宮を北側に転地した頼朝は、治承5年の正月元旦に八幡宮寺に詣でたが、これが後世の初詣のさきがけになった。

すなわち武家国家鎌倉はまず宗教都市として発展したのである。ちなみに由比ガ浜の海岸から北側を眺めた地形が鶴のようだったので「鶴岡」八幡と呼び、それに対して義朝の故地を「亀が谷」と呼ぶようになったという。

頼朝は父義朝を供養するために元暦元年に御所の南に勝長寿院を建てたあと、奥州藤原氏の菩提を慰霊するために平泉の二階堂を真似た永福寺(その名のようふくじは奈良の興福寺に因む)を造営し、妻の政子はその義朝ゆかりの地に寿福寺を立て、(いずれも福という字が使われていることに注意)、悲劇の三第将軍実朝の御願寺は、これも私の家の近くに聳え立っていた壮大な七堂伽藍大慈寺であった。(寿ではなく慈に力点が移行している点に注意)

このように鎌倉はますます宗教都市としての性格を強めていったが、関東長者の王権は脆弱なものであり、建久4年の「曽我兄弟の敵討ち事件」の真相は、頼朝に対する暗殺未遂であるという説もあり、実際に源家は北条氏をはじめとする御家人たちの一揆によって頼家も実朝も殺されてしまう。

鎌倉は王殺しの血塗られた記憶の地でもあると著者はいい、そのことは私の向う三件両隣で夜な夜な現れる血だらけの武者の亡霊たちが800年後も実証しているといえよう。


そして最後に、中世都市の3つの類型は、京都と博多と奈良であり、その類型は原理、基軸、性格の3つの構成要素で区分できると著者は要約している。

都市   原理    基軸   性格
京都   中央    ヒト   政治
博多   境界    モノ   港湾
奈良   異界    ココロ  宗教

これを図式化すると上記のようになる。例えば博多は列島の西に位置し、海の彼方の大陸との接点にあってモノが集まった。唐物と本朝のモノが交換される境界的な場に博多という都市は成立をみたのである。

では中世都市はすべてこれらの類型に収まってしまうのかといえば、そこまで画一的ではなく、同じ政治都市でもたとえば承久の乱以降の鎌倉ではおのずと異なる要素が編入されてくる、と述べながら、規模雄大な構想を持つ本書はあっけなく終わってしまうのである。

♪糞1個ひり出す午後の寒さかな 亡羊


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ジョン・アーヴィング著「また会う日まで」を読む

2007-12-28 10:07:43 | Weblog


照る日曇る日 第80回

05年に出たジョン・アーヴィングの最新刊が本書である。上下2巻約2500枚の原稿は書くも書いたり、訳も訳したり、そして読むも読んだりの大長編である。それを簡単に要約すると、著者を思わせる少年がまだ見ぬ父に再会するまでのあれやこれやを例によって世界中を寄り道しながら半世紀にわたって旅する自伝的ビルダングスロマンというようなものであろうか。

しかし前半は刺青の話が延々と続くので消耗する。主人公の母も父もタトーをたしなみ、とりわけ母親は名だたる名人からも高く評価される腕前である。その刺青で客を取りながら自分を捨てて北欧へ行ってしまった主人公の父親を捜し求めるうらぶれた旅路が、これでもかこれでもかと描写される。

父親はオルガンの名手で教会の名オルガンを求めて放浪の旅を続けているがいたるところで女性とトラブルを起こしては追放されているらしいが、親子はついにめぐり合えないままで郷里に戻ってくる。

中盤は一転して主人公の故郷カナダのトロントにおける恐ろしく早熟な性体験と演劇クラブ活動などがアマルガムになった猥雑な小中高、そして大学までの奇妙な学校生活が執拗に描かれる。まことにシュトルムウントドランク、嵐のような青春時代である。

そしていよいよ後半は成人して俳優になった主人公がどういう風の吹き回しかオスカーを手中に収めて著名人となり、最後の最後に瞼の父と再会するのだが、このシーンはあらゆる予想と期待を上回る素晴らしさで、「さすがアービング!」と叫びたくなる。

気が狂う寸前まで本作と取り組んだ成果が、下巻第5部第39章に全面的に発揮され、540ページからそのクライマックッスが訪れる。どうか途中で投げ出さずにおしまいまで読んでください。

余談ながら主人公ときたら、「いつも」いろいろな女性に自分のペニスをつかまれながら、さまざまな映画を見ていたようだ。黒澤の「用心棒」で切られた片腕を銜えた犬が歩いているのを見た三船敏郎の怒った顔がかっこいいと述べているが、そのときだって美貌の女教師にそれをむんずとつかまれていて、「つい勃起してしまった」などと平気で書いているのだが、そんなことで真面目な映画鑑賞といえるのだろうか?
 
1985年のトロント映画祭では、なんと両サイドの美女から2本の手で陰茎をつかまれながら三島のドキュメンタリー映画「ミシマ」を見ていて、その映画館で「ゴダールのマリア」が上映されていると誤解した熱烈なカトリック信者からデモ隊の攻撃を受けているが、それくらいは当然のことだろう。喰らえ生卵!

ちょうどこの年のこの頃、私はパリのシャンゼリゼのたぶんバルザック座で同じ「ゴダールのマリア」を見ていたはずだが、いくら左右を見回してもちょっとでもペニスを触ってくれそうな女性はただのひとりもいなかったことを寂しく思い出したことだった。

♪イヴ・クラインの青切り裂くF30 亡羊

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ある丹波の女性の物語 第38回 夫と父

2007-12-27 08:50:16 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第60回

 父と一人娘と養子、というだけでも仲々むずかしい人間関係であるのに、継母との関係もあり、父の積極的な性格に、養子タイプのおとなしい夫の性格は相反して、却って相性がいいのではと、私は思ったのであるが、綾部での同居の生活が始まってからは、それぞれに言い分があり、私にはそれぞれの立場が理解出来るだけに、むずかしい立場に立たされる事が多かった。

 丁度その時私は居合わせなかったので、直接の原因は分らなかったが、一寸したはづみで、夫はもう限界だからこの家を出て行きたいと、父に言う事件が起きた。夫は抑えに抑えて来た思いを抑えきれず、父に投げつけたのである。

 いずれそういう事もあろうかと思っていた私は覚悟はしていたので、父に「長い間お世話になりました。私も夫に従ってこの家を出させていただきます」と言った。
父はただオロオロするばかりであったが、平伏して、「ワシが悪かった。謝る。どうぞ出て行かんでくれ」と夫に詫びた。

その後も、夫は何度か口惜しい思いをしたであろうし、父も我慢出来ぬ我慢をしてくれたであろうが、そうした事は二度と起こらなかった。
 程なく、父は履物店の経営には全く口を出さず、経済的にも干渉しなかった。
 父は甥達2人と京都でネクタイの事業を再開したのである。


秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
 もみじ散りしく 庭のかたえに 愛子

弘安さん納骨の日
なき人を 惜しむように 秋時雨 愛子



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ある丹波の女性の物語 第37回 大阪

2007-12-26 10:00:58 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第59回

 9月22日に次男が生まれた。産湯を使うと、一番大きい盥にいっぱいになるような大きな子であった。

 その後、商店街は次々店が開き、戦前の体裁がととのうようになった。
 我が家も夫の就職口もなく、店を再開しょうと私は父と大阪へ仕入れに行った。梅田の駅を降り、堺筋から難波まで市電に乗ったが、途中只1軒、山中大仏道という仏具屋の真新しい、大きな建物が目立つだけで、北から南まで一面の焼野原であった。
父がこの土地を今買っておきたいものだ、といったのを、大阪へ行くたびに思い出し今昔の感にたえぬ。

 一応商品が揃うようになってからと思ったので、他の業者より一歩おくれたけれど、履物店を再開した。おかげで、昔からの信用もあり、女の子1人をおいたけれど、花緒をたてるのが間に合わず、外へ出して頼む程よく売れるようになった。

 23年7月には長女が生まれた。父の思い通り、眞善美の3人が揃ったわけである。
 継母は相変わらず床に就く事が多かったが、夫は健康を取り戻し、店の仕事にも次第に慣れては来たが、初めての経験なので、父を頼りにし、自然父と娘が店の主流になる事が多かった。

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も 愛子

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか 愛子

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鈴木清順監督の家

2007-12-25 10:50:16 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語92回

クリスマスイブイブの夜に義母と話していたら、彼女たちが昔住んでいた長谷の家は、映画監督の鈴木清順氏の旧宅だったというので驚いた。

そこは吉屋信子邸の斜め前にあって、私もある夏の日に一度だけ訪ねたことがあったが、いまは取り壊されてしまった。なんでも玄関までのアプローチが長く、前庭の左側に丈の高い竹が欝蒼と茂っており、蓋をした井戸があったような気がする。

義母の話では外側はおんぼろだが内部は広く、立派な茶室や映画の機材やフィルムの現像室など数多くの部屋があったそうだ。また鈴木監督が引っ越したばかりで郵便ポストには誰かからのラブレターが入っていたそうだが、どこに届けていいか分からないので結局行方不明になってしまったという。

後年あの傑作「ツイゴイネルワイゼン」でベルリン国際映画祭特別審査員賞に輝いた鈴木監督は、当時おそらく日活から解雇され仕事がなくなりつつあった時期だから、生活費に困って鎌倉の寓居を手放してしまったのだろう。

夜になると鼠が天井裏を走り回り、なんだか怪談じみた不気味な雰囲気をかもし出したというが、確かに真夏の昼なのに、長い廊下や納戸のあたりに暗き闇と中世鎌倉の地霊が棲みついていたような気がする。

鈴木監督の代表作には釈迦堂切通しや小町通りの奥にあるミルクホールなど鎌倉ゆかりの旧跡や隠れ家が登場するが、私は確か「ツイゴイネルワイゼン」で大楠道代が潜んでいた水の底のイメージは、この長谷の閉じられた秘密の井戸にあったのではないかと想像を逞しくしてしまった。

いずれにせよ監督の鎌倉滞在は彼の芸術に決定的な影響を与えたのである。

ところで私自身もこの海岸から遠からぬこの古びた家とその住人に大きな感銘を受け、その翌日生まれて初めてひとつの短歌を詠んだ。

♪鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きたり

当時私は神田鎌倉河岸のほとりにある小さな会社に勤務していたが、消費者から受けた苦情に対する謝罪文などを、「どうかご海容下さいませ」などと気どって書いて、それを総務のタイピストをしていた年配の小柄な女性に渡すと、彼女は「へええ、あんた若いのに海容なんて言葉をよく知ってるわねえ」と褒めてくれるのだった。

そこで歌が出来た翌日、早速彼女に私のそのつたない短歌を披露すると、彼女はしばらく考えてから「へえー、生まれて初めての歌にしては悪くないわね。でも最後の「たり」を「おり」にするともっといいわよ」という助言を受けた。

若く傲慢不遜だった私は、「いや、やっぱり「たり」がいいです」と言ってその場を立ち去った。それから間もなく、私はこの不可思議な趣のある旧家に住んでいた若い女性と縁あって結ばれたが、その年配の小柄な女性が、俳人として知られる井戸みづえさんであることを知ったのはずいぶん後になってからのことだった。
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日曜日が待ち遠しい

2007-12-24 10:07:23 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語91回

毎年恒例の市の健康診断を受けた後、横須賀線の鎌倉駅の裏駅のそばを自転車で走っていたら、線路際の料亭『吉兆』が営業を終了していた。この日本料理の店は私の近所の人が経営していて、一時はマスコミにも大きく取り上げられ、クロワッサンなどの雑誌を硬く握り締めたおばさん集団が門前市をなして詰め掛けていたが、好事魔多しでなにかまずいことがあったのだろう、広大な自宅もいつの間にか取り壊されていた。

そのほか鎌倉ではT工務店が倒産して一家が夜逃げしたという噂だし、日本経済の再びの地盤沈下と小泉格差政策の荒波をかぶってあちこちでよからぬ事件が起こっている。物言えば唇寒き師走である。

踏切を越えて小町に入ると、「Vivement dimanche!」なる喫茶店がある。最近世間ではこの「きっちゃてん」という立派な日本語をリストラして、得体の知れないカフェーという呼称に全面的に切り替えようとしているが、「Vivement dimanche!」というおふらんす語をつけていはいても、実態は普通の喫茶店である。店主がトリュフォーの大ファンらしく、店の外装や内装もカラフルで、とりわけ奇妙な看板が印象的である。

Vivement dimanche!というのはフランソワ・トリュフォーというフランスの映画監督の作品のタイトルである。邦題では『日曜日が待ち遠しい!』とネーミングされたこの作品は、前作の『隣の女』に続いて、彼の短い晩年の最後の恋人であったファニー・アルダンが主演し、共演がジャン・トランティニヤン、音楽はお馴染みジョルジュ・ドリリューのコンビによる小粋なサスペンスコメディであるが、何度鑑賞しても白鳥の歌とも思えぬその軽やかな疾走感が、残された私たちをかえって悲しませる。

当時トリュフォーはすでに不治の病に冒されており、翌1984年10月21日の日曜日に亡くなってしまうので、『日曜日が待ち遠しい!』は彼の遺作になってしまった。
私はちょうどその頃、彼を起用してテレビコマーシャルを製作しようと考え、すでにその了承ももらっていただけにこの突然の訃報はショックだった。

しかし幸い同じヌーヴェルヴァーグの監督ジャンリュック・ゴダールが、死せるトリュフォーに代わって私の「世界の映画監督シリーズ!」第1回の企画を救済し、2本のCMを作ってくれたことは大きなよろこびだった。1968年のカンヌ国際映画祭がきっかけで決別したこの2人の間を私が製作したCMがつないだことを思うと、その世にも不思議な奇縁に我ながら驚く次第である。

しかし思えばトリュフォーは、ジャン・ルノワール、オーソン・ウエルズ、ヒッチコックの剄い系譜を受け継ぐアレグロ・アッサイの演出家であった。餘りにも生き急いだ彼は、そのイストワールの余情や余韻をあえてかなぐり捨てて非情とも言うべき乾いた猛烈な速度で進行し、逆にかえってそのことが、観客に対して無上のリリシズムとあえかに夢見られた彼岸への憧憬をもたらしたのである。

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ある丹波の女性の物語 第36回 ズンドコ節

2007-12-23 12:03:21 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第58回


 そんな暮らしが2、3年も続いた。追々ヤミ商品が街に沢山並ぶようになり、古着も店につるされて売買されるようになった。お金さえあれば、何でも買えるようになったが、貯金は封鎖され新円に切り替えになった。

教会の礼拝に行っている留守の間に、その新円を泥棒にすっかり取られてしまい、当座とても困った。親戚から折角送って来た虎屋の羊羹も、ついでに持って行かれ、甘党の父はすっかりしょげてしまった。

 戦後の開放感が拡がっていった終戦後はじめての21年のお盆には、誰が始めたのか大通りに自然に盆踊りの輪が出来た。それが次第に当時はやりの「ズンドコ節」に変って行ったのである。タンスにしまいこんであった浴衣姿の若者、おじいちゃん、おばあちゃんまで加わり踊りは一晩中続いた。

 何かが爆発したような異常な興奮の渦が街中に広がって行った。その後も毎年盆踊りは続けられたが、ズンドコ節のあの激しさはもう無かった。
 
久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ  愛子

うめもどき たねまきてより いくとしか
 枝もたわわに 赤き実つけぬ  愛子
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ある丹波の女性の物語 第35回 虚弱体質

2007-12-22 10:06:30 | Weblog


遥かな昔、遠い所で第57回

 早々に復員が始まり、内地に配属されていた近所の人達も帰って来た。
暫くしてガダルカナルで戦死した番頭の兼さんの遺骨も帰って来た。父が引き取りに行き、夜おそく提灯をつけて兼さんの自宅に遺骨は帰った。

出征時おなかにいた末の子は、白木の箱を持ち先頭に立っていた私の父を見て、「お父ちゃん、お父ちゃん」と喜び、みんなの涙をさそった。真夏の事で供える花もないままに、私の庭の秋海棠の花を手折って供えた。秋海棠は、そんな想い出と共に悲しい花となった。

 うちでは夫には召集もなく、みんな揃って終戦を迎える事が出来たが、遠慮のない父は、「うちの輸入品は弱虫ばかりで困る」と、母や夫のことをなげいた。言われる当人達はそれ以上に、この上なく辛い事であったろうが、二人とも呼吸器が弱く、とても労働の出来る身体ではなかった。

私達も頑強ではなかったが、力を合わせて野菜作りにはげんだ。豆の季節には、豆の中にお米がまじっているような御飯、夏ならお芋や南瓜であった。戸棚にごろごろしている南瓜を見ると力強かったし、土間に拡げられたじゃが芋、さつまいもを見ると、心がゆたかになるような気がした。

 父は昔の知り合いを訪ねて、商品の残り物を食品に換えて来てくれたり、以前のお手伝いさんは、私の派手な着物類は農家の娘さん用に喜ばれると、お米と交換してくれたりした。 

水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
 ふじばかま咲き 秋深まりぬ 愛子

ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
 袋につめて 彼岸まゐりに 愛子

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よりよい古典音楽演奏を求めて

2007-12-21 07:44:54 | Weblog


♪音楽千夜一夜第30回

例えば下手な絵描きが描いた下手な絵が、3次元の絵画的空間ではなく、単なる絵の具の堆積として私たちの目に映ることがありますが、ジャンルは異なるとはいえそれとまったく同様な「展覧会の絵」現象がいま全国のコンサート会場で起こっているような気がします。

ではどうしてこういうことが起こるのでせうか?
部外者で素人の私にはよく分かりませんが、それは演奏家とりわけ指揮者の精神の内部に自分独自の音楽がないか、もしいくばくかのそれがあったとしても、それを楽員や聴衆に対して自信を持って的確に伝える能力が欠けているからではないのでせうか?

音楽の創造にとってもっとも重要なこと、どういう音楽を立ち上げ、それをどうやって外部に伝えるかということでせう。しかし現在の音楽教育や演奏の現場では、後者の音楽におけるHOWという機能を最優先するあまり、もっと重要なWHATの創造の課題がおきざりにされているのではないのでせうか。さうして苦労してせっかく手塩にかけて培養した幼く稚拙な創造の芽さえ効果的に周囲に伝達できないので、だからあれほどにつまらない演奏が日夜かくも膨大に流通しているのではないかと思うのです。

いろいろな努力と遍歴を重ねてはみたけれど、自己の音楽ヴィジョンをついに強固に確立できず、ただ楽員とのおためごかしの協調性と協奏のよろこびだけでその場しのぎの音楽をやろうとする指揮者たち(例えば小沢氏のウイーン国立オペラ就任記念演奏会におけるブルックナー9番の演奏やロストロポーヴィッチ氏との最後の「ドンキホーテ」のリハーサルにおけるテンポの設定不指示をカール・ライスター氏に指摘されても反省しない没主体的な指導性)が年々粗製乱造され、その成り行き次第のダルな演奏態度によって現代の再現芸術のレベルを日々劣化させているのではないでせうか?

この致命的な機能不全を解消する秘策はありませぬ。というのは音楽におけるWHATの創造は、音楽以外の暗黙知と広範な人生体験から生まれてくるからです。ひとりの人間としてより深く、より良く生きようとする不断の努力と研鑽からしか良き音楽家は生まれないと私は信じています。

いくら朝から晩までヤマハが買収したベーゼンドルファーを弾きまくっていても、あるいは神仏に祈って7度生まれ変わっても、所詮漢(おとこ)バックハウスにはなれないし、天才コルトーやリパッティには逆立ちしたってなれませぬ。けれどもたとえ永平寺で100年修行を積んだからと言っていい音楽家になれるとは限らないのです。

それではすべてお手上げかというとそうでもなくて、私たちは偉大な先人の音楽文化伝承の技術を丁寧に学ぶことによっていくらかはWHATからHOWへとつながるこの問題をキャッチアップできるはずです。

なぜなら演奏のエッセンスは、楽譜の解釈にあり、楽譜の解釈は楽譜の物語化、象徴化にあり、指揮者の仕事はこの独自な物語とシンボルの立ち上げと効果的な移植にあると考えられるからです。
指揮者(演奏家)は己の脳中と胸中に浮かんだ抽象的なWHATを、あれやこれやの具体的な指示へと置き換えなければなりませぬ。

いつか斉藤秀雄氏の弟子の飯森泰次郎氏が、死せる師匠の指揮法についてピアノを演奏しながら具体的に語っておりました。それは「タンホイザー序曲」の冒頭のシーンでありましたが、「ここは疲労困憊したローマの巡礼たちの思い足取り、ここは彼らにようやく希望の光が見えたかすかなよろこびの瞬間」というふうに、斉藤氏はまるで平家物語の語り部さながらに一小節ずつ弾き振りの指導を行なったといふのです。(ここでセルの演奏を参照してください)

また今は亡き朝比奈氏は、ベートーヴェンの第7交響曲の練習で、「ここは縦の線は無視してください。音は汚くても構わないから歌って、歌って、歌ってください」とまるでトスカニーニのように大フィルを叱咤しておりました。(なんというアバウト小氏との違いでありましょうか!)

さらにはクライバーやチエリビダッケやムラビンスキーやミュンシュやクーセヴィツスキーのリハーサルをご覧あれ。すべてがこの物語化と象徴化による音楽の結晶化作業の連続です。

さうして彼らが楽員に強烈に彼らの物語を解説し、象徴化へいざない、あるいは反抗する楽員を説得し、折伏する指導的言語と、その教育的指導を受けたあとの楽員による演奏は、その前後であきらかに顕著な違いがあるのです。音楽的境地の瞬間ごとの生成進化があるのです。

こうした音楽の物語化は演奏芸術における象徴化作業にきわめて忠実な手法であり、いまでもけっして古びてはいないし、教育的有効性を失ってはいないはずです。

最後に私は、楽譜と音楽は不即不離の関係にこそあっても、楽譜そのものは実は音楽演奏とも、ノイエザハリッヒカイトなんちゅう客体的な楽譜解釈による客観的な?演奏とも、さらには思い切って音楽の本質とも原理的には無関係ではないかと思うのです。

世間で信じているやうに、楽器の演奏ができることと、演奏された音楽の本質が理解されていることとはまるで関係がないので、かのジャン・クリストフではありませぬが、プロより頑是無い子供の素人のほうが演奏されたその音楽の本質を直観していることが多いように思われます。


盲目の老人が独り住む家に今年もたわわに蜜柑つけたり 亡羊

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徳富蘇峰著「終戦後日記Ⅳ」を読む

2007-12-20 08:49:32 | Weblog


照る日曇る日 第79回


徳富蘇峰は1863年熊本生まれで福沢の慶応を嫌って京都に出て新島襄の同志社に学び、1887年に民友社を設立して「国民乃友」「国民新聞」などの有力メデイアを発行しいわゆる平民主義を唱道した。
明治、大正、昭和の3代を生き延びた言論人にして政治家の彼は、戦時中は大日本文学報国会会長、大日本言論報国会会長をつとめ、その天皇中心主義を生涯にわたって貫いた。

いわば筋金入りの保守であるが、言論人兼政治家という点では最近の読売社主兼主筆兼3流暗躍政治家のナベツネ、あるいはその先々代の正力と同類項の言行一致型の策士である。不仲であった松方、大隈の両領収手を握らせ、念願の松隈内閣を誕生させた影の立役者こそ誰あろう国民新聞社主の蘇峰だった。

蘇峰のみならず明治の御世には、尾崎行雄、犬養毅、子規の恩人日本新聞の陸羯南をはじめ数多くの新聞記者や社主が政界に進出し、彼らの理想を実行に移そうとしていたのである。平成の御世に生きる一新聞社主が自民民主両政党の連合を企むことはそのアイデアがいかに虚妄であろうともそれをやってはいけないと誰もいうことはできない。しかし彼奴がワンワン吼えても歴史は勝手に動くだけの話だ。

さてその蘇峰が書き継いだ日記「頑蘇夢物語」の完結編「終戦後日記」が本書である。日記といっても当時蘇峰は巣鴨に収容こそされなかったが立派なA級戦犯であり、進駐軍によって監視されていたから外部には公開されないままについに今日に至ったいわくつきの日記である。

本書の前半で、著者はなぜ日本が過ぐる大戦に敗れたか執拗に自問し、自答している。蘇峰が挙げるのはまずは人物の欠乏で、上は恐れ多くも明治天皇と昭和天皇、下は桂と東條、海軍の東郷平八郎と山本五十六、陸軍の大山、児玉と山下、板垣などの人物の出来具合を月旦する。

次はルーズベルトやチャーチル、スターリン、蒋介石とわが帝国首脳のスケールの大小、さらにわが帝国の東亜民族指導の資格欠如、大和民族の先天的後天的欠陥、戦争の構想の欠落、満州から中華事変への暴走起点となった盧溝橋事件の処理方法に言及し、中国の真価を知らずに蔑視して突入した支那事変を「世界戦史上最愚劣の戦争」であったと決め付ける。

ユダヤ人と並びおよそ世界で最強の漢民族と事を構えたわが帝国の無謀と愚劣を痛罵してやまないのだが、ではかつての日清、日露と同様にわが帝国の命運を賭けた大東亜戦争を肯定し、全面的に加担し、積極的に応援したご本人の立場との整合性はいったいどうなるのだろう。

結局は自分ひとりが賢くて優秀で、自分以外の日本および日本人はすべて阿呆であったとでも言いたいのだろうか? しかも日本がこの史上最悪の戦争に突入したすべての原因は、鬼畜米英と悪辣非道なソ連の陰謀にあり、わが帝国の落ち度は皆無であると他方では断言するのだから何をかいわんや。己の過去の言動を正当化する不敵な物言いとしか思えない。もしこの人が存命ならば己と帝国の無謬に乗っかったまんまで次の戦争の準備をするだろう。

しかし後半の「百敗院泡沫頑蘇居士」と題する失敗に満ち満ちた半生の記は、伊藤、井上、松方、大隈、陸奥などとの交友や人物像、東武グループの総帥根津嘉一郎の陰謀によって手塩にかけた国民新聞を追われたいきさつなどを赤裸々に描いてじつに興味深い。

また本書の執筆当時に急激に進行しつつあった米ソ冷戦の初期の動向の観察の鋭さ、その後の世界予測の正確さは、94年の生涯をしたたかに生き抜いた硬骨漢の真骨頂をものの見事に表現しているようだ。


♪ベット・ミドラーのインタビュー アイアイアイと私が五月蝿い 亡羊

♪高窓の光のどけき冬の朝妻と並んで抜き手切りたり

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NHKは大好きなのですが、N響が

2007-12-19 09:06:25 | Weblog


♪音楽千夜一夜第29回

先日の「第9」公演では、近くに座った中年男が演奏中にさかんに巨大な望遠レンズをつけたキャメラで舞台を撮影していました。鎌倉の芸術観ではよく頑是無い赤子を泣かす若い母親がいたり、いびきを立てて爆睡するリーマンがいたりしますが、東京では演奏中に携帯で会話する聴衆が後をたたず、マーラーの9番の消えゆく余韻を会場のみんながかみ締めようとした瞬間、突然狂ったようなウラアの蛮声を浴びせかける体育会系男が出没するのみならず、最近は客同士が乱闘したり演奏中に交尾するカプルまで出現したという話を聞くので、私は極力演奏現場から遠ざかってクラシックの演奏を録音や録画を楽しむことが多いのです。

前にも書いたように「NHK大好き人間」の私は、当然NHK交響楽団の演奏を視聴する機会が多いのですが、それにしても昔ながらに相変わらずなんと退屈でつまらない演奏が延々と続いていることでせう。

ケント・ナガノとか準メルクルなぞの日系の若者についてはこれまでは多少応援しながら聞いておりましたが、浦和の闘莉王の素晴らしい仕事ぶりに比べたらまるで月とスッポン、比較の対象ですらなく、さんざん聞いた私が馬鹿だった。もうとうに彼らの将来はあきらめております。

以前の首席のシャルル・デユトワさんも、首になったモントリオールのオケとデッカに入れたフランス音楽の光彩陸離の演奏があまりにも素晴らしかったので大いに期待していたのですが、音響最悪巨砲ホールでのあまりにも空虚な演奏は(最初と最後とその中間の元妻との競演を除いて)いちじるしく精彩を欠き、その跡を継いだアッシュケナダ氏は、力余ってルイ14世の宮廷楽長リュリのように指揮棒で右手を刺し貫いたときには、これからどう大器晩成してくれるかと一抹の不安とともにこれまた大きな期待を小さなこの胸に懐いた次第ですが、やはりその不安が現実のものとなり、哀れ安部首相ともどもシドニー響に転出となった模様です。

彼はバレンボイムと違って指揮よりピアノがやはり本領だったようですね。いっそプレトニコフかロジャー・ノリントンを招くという手もあるかと思ったのですが、アシュケにこりた当局はもはや首席をおかないことにしたようです。

ロバの耳を持つ私には、スクロバチエフスキー(読響にいった)もプレビンもマリナーもつまらなかったし、多少ともましなのはでぶでぶネルロー・サンティさんくらいでせうか。

それにしても近年N響に客演する多くの指揮者たちによる演奏を聞いて感じられることは、彼らの多くが、音楽ではなくて音符を精密機械のように音響工学的に、オートクチュールではなくてプレタポルテ風に、四輪の運転マニュアルのように安直に演奏しているように感ぜられることです。

それは確かに楽譜どおりの演奏なのでせう。しかしながら私個人にとっては音楽的感興に打ち震える瞬間なぞは微塵もないのがとても残念です。だから愛する超ローカルオケ鎌響にせっせと通っているのです。
蓼食う虫も好きずきとはいえ、高いお金を払いながらあの紅白歌合戦ホールに毎月通い続ける定期会員の方々の心根が、私にはてんで理解できまへん。


♪その縄跳びの輪にどうしても入っていけない自分がいる 亡羊


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下手な小説のような松木武彦著「列島創世記」を読む。

2007-12-18 13:23:14 | Weblog


照る日曇る日 第78回

石器時代から縄文、弥生、そして古墳時代に入るまでの、のちに日本列島と呼ばれることになる地域の歴史物語が、本書である。

あえて物語と書いたのは、この本が単なる石器や土器やらの物理的資料本位の考古学&歴史学概説にとどまることなく、「ヒューマン・サイエンス」とかいう現在欧米の人類学、経済学、歴史学などで大流行の最新型の学説を援用して、この父祖未生以前の時代の来歴について大胆な推理と解釈を施しているからである。

旧態依然とした考古学の分野に、人工物や行動や社会の本質を「心の科学」(認知考古学)によって見極め、その変化のメカニズムを真に迫って描き出そうという若き学徒の言うやよし。さいかしいざ読んでみると、「人間みな人類、我々はみなホモ・サピエンスの末裔であるからして、その心性は15万年間にわたって普遍的である」、と暗に仮定し、「新人も現代人もさぞや同じ知性と感性の働きをするに違いない」、という証明不能の粗放な科学的立場から、大昔の人々の生活と意見をさながら小説のように奔放に語るので迷惑する。
どだい嘘か真か誰にも分からぬ話を、その道の専門家から、いかにも本当でござい、としかつめらしくしゃべられても、こちとらは「ははあ、さようでございますか」、と黙って拝聴するほかないのである。
具体的には、著者は縄文や弥生の時代ごと、地域ごとに「物質文化」の変化の波が現れ、それは土器の過度の修飾などの人工物に「凝り」が盛り込まれる方向性に現れ、その方向性を読み取ると当時個人と集団のどちらのアイデンティティをより強く表現していたかが科学的に解明できる、とかなんとか講釈するのだが、私のみるところではそれこそ跡付けの見てきたような思い付きと主観的な思い込みと想像と予断の積み重ねに過ぎない。せめてそれぞれの講釈の根拠となった資料や引用箇所を網野氏のようにちゃんとそのつど表示してもらいたいものだ。

しかし梅原猛や網野善彦や岡本太郎や和辻哲郎などの思い付きと主観的な思い込みと想像と予断を笑って許せた私だが、著者のそれにはなかなか素直にうなずけなかったのはどちらの人(にん)の出来の所為だらうか。

ただひとつ確かなこと。それは著者もいうように、列島には約4万年前から1500年前までの間に列島が寒冷化していく時期が2回あり、(①第一寒冷化期=後期旧石器後半の約2万年前まで、②第一温暖化期=後期旧石器後半から縄文前期、約2万年前から7千、6千年前まで、③第2寒冷化期=縄文前期から晩期、7千、6千年前から2800、2700年前まで、④第2温暖化期=弥生前半2800、2700年前から紀元前後まで、⑤第三寒冷化期=弥生後半から古墳時代を経て奈良時代後半の紀元前後から後8世紀末ごろまで)この気候変動こそが、現代と同様、列島史を動かした最大の要因であるということだ。


♪脳漿と精巣はどこかで繋がっているのであらうか

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♪日本語で歌う「第9」演奏会を聴く

2007-12-17 11:20:56 | Weblog


♪音楽千夜一夜第29回

最近ドイツの長老指揮者ハンス・マルチン・シュナイトを音楽監督に迎え、人気、実力とも赤丸上昇中のオケなのでとても期待していたのだが、結果は見るも、じゃなくて聴くも無残なものだった。

冒頭の「エグモント序曲」で最初の野太い音が出たとき、「ああ、さすがはプロだ。いつもの鎌響とはさすがに違う骨のある音作りだなあ」、と感嘆したのだが、うれしい驚きはそこまでだった。
あとはまるで中学校のブラバン(中学生とブラスバンドには大変申し訳ないのですがものの譬えなのでご勘弁を)のように健康的で、陽気で、元気で、単細胞な音楽が延々と続けられたのだった。

その演奏は精緻なダイナミクスの計算がなく、音色の繊細さや音楽の光と影の交錯に乏しく、それでいて正確無比で、細部が異常なまでに磨きぬかれ、私が評価しない、あるいはできない小沢やサバリッツシュやブロムシュテットやオーマンディやムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団の音楽作りに似ている。

例えば第9のもっとも美しい第3楽章では、なんの叙情も音色の自己耽美もなく音は国道1号線を疾駆するダンプカーのように走りすぎ、最終楽章のはじめのところで、チェロとコントラバスがひそやかに歌い始めた美しい「歓喜の歌」のメロディが2丁のバスーンなどによって同伴される箇所などは、凡庸な指揮者の演奏でも思わず息を呑まずにはいられない霊妙な音楽的佳境の瞬間であるはずなのに、彼ら演奏者は格別の思い入れもなく、淡々と通過してしまう。

それに続くバリトンの第1声がドイツ語ではなく、「わが友よ、歌うならもっと快い歌を歌おう!」という翻訳のゆるい日本語であったのには驚いたが、演奏自体はもはや私にとってなんの感動も伴わず、知性の陰りや理性のひらめきはおろか、ひとかけらの霊感すら天上から降臨しないまま、能天気な音符たちが1時間以上もえっちらおらっち眼前を軍隊行進していき、気がつけばすべてが終わってしまっていたのだった。

最初の「エグモント序曲」で野太い音が出たと書いたが、この音は20年以上も前に愛聴した新星日響の音だと演奏中に気がつき、あとで現田茂夫という指揮者の経歴を調べたらはしなくもこのオケの出身者であった。

あのころの新星日響はコンサートマスターをウイーンフィルのヘッツエルのように不慮の事故で失い、その悲しみを消去しようと毎回それこそ松脂から炎の出るような全都随一の激烈で悲愴な音楽をやっていたが、あれから四半世紀を経ていまや中堅の域に達したこの指揮者になんら進歩の形跡がないことに気づいた私は、「にんげんそう簡単に変わるもんじゃあないぞ」の思いを新たにしたことだった。

私は音楽の生命が光り輝く精霊の森に分け入りたかったのに、案内されたのは鳥も花も死んだ冷たい化石の森だった。嗚呼、冷感症の自称音楽家たちによってずたずたに傷つけられたベートーベンの名曲よ! こんな演奏は悪魔にでも食われてしまえ!と(私だけは)心の中で呪ったことであったよ。

老婆心ながらこれからベートーベンを演奏しようと思う若い人は、間違っても小沢など斉藤秀雄ゆかりの教師につかず、古い図書館の地下室に眠っているロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を開いてほしい。そしてそのなかで、主人公の少年が生まれて初めて彼の交響曲のライブを耳にした瞬間に彼の魂を震撼させた音楽の圧倒的な素晴らしさ、また音楽が人生を変えることの恐ろしさ、その無上の快楽と毒性について知ってから指揮棒(楽器)を手にしてもらいたいものである。

指揮 現田茂夫 演奏 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
独唱
ソプラノ 亀田真由美
アルト 稲本まき子
テノール 小林彰英
バリトン 末吉利行
合唱 日本語で歌う「第9」2007合唱団
会場 鎌倉芸術館


♪グルダのヴェートーヴェンとモザールは良いがったく彼奴のジャズのどこがいいのだ
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