あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

パゾリーニの映画「奇跡の丘」をみて

2018-06-30 07:07:16 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1366


顔、顔、顔、これは奇跡の映画ではなく、顔の映画である。

黒白の鋭い陰影を突き抜けて迫って来る、これは人間の顔の映画である。
聖書に描かれたとおりの、イエスの誕生から刑死と復活までをなぞる物語のように見えるが、その実は顔の物語なのである。

イエスの顔、マリアの顔、ヨセフの顔、ヨハネの顔、ユダの顔、祭司長の顔、
サロメの顔、ヘロデの顔、そしてイエスの顔やマリアの顔、ヨセフの顔、ヨハネの顔、ユダの顔、祭司長の顔、

それらを演じた役者の顔を画面越しに眺め、画面の奥から眺められる、そんな不可思議な映画。
ひとつ一つの顔の中に、パゾリーニが考える人間の永遠の相が籠められている。

この国の宰相の顔は、この国の民の中でも図抜けて醜い顔だとおらっちには思われるが、では、おらっち自身はどういう顔をしているんだろう。
鏡の前に晒すのが恐ろしい。


   トランプの指示あるまでは最大限の圧力を止められない日本 蝶人


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邦画いろいろ 

2018-06-28 11:12:05 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1361、62,63,64,65



1)宮崎駿監督の「ハウルの動く城」
この映画をみていると、アニメーションでは、実写では不可能な、より美しくリアルな世界を描くことができることがわかる。タイトルは宮崎が固執した「ハウルの蠢く城」のほうが内容に合致しており、糸井重里が作ったとかいうキャッチフレーズ「ふたりが暮らした。」は何のことやらさっぱり訳がわからない。

2)平山秀幸監督の「しゃべれどもしゃべれども」
まったく期待せずに見たが、なかなか面白かった。役者とはいえ伊東四朗、國分太一、森永悠希、香里奈の落語に感心。八千草薫、松重豊がいい味を出している。しかし香里奈はなんで恥部丸出しのあんな阿呆なことをしたんだろうなあ。

3)黒沢清監督の「岸辺の旅」
死者たちはいつも我々のすぐ近くにいて我々をじっと見守っている。のだろうか。しかし果して死者とうまく交合できるのだろうか。見るほどに謎は尽きない。
しかし壺を外した妙な音楽が場違いに鳴っているし、役者、特に浅野忠信の台詞が聞き取りにくいのは困る。
しかし、ラストの「また会おうね」には泣けます。

4)米林宏昌監督の「借りぐらしのアリエッティ」
人間の住まいのすぐ隣に住んでいる小人たちとは、何者か。村上春樹の小説でもお馴染みのそれは、身近にいる小さな生き物たちの比喩であり、私たちの分身でもあるようだ。この映画に登場する自然や人物の映像の美しさは驚くベきものがある。

5)是枝祐和「海街ダイアリー」
鎌倉を舞台にした個性豊かな4姉妹の物語であるが、ラストの、ちょっと長すぎる海辺のシーンなど、人気女優が大勢出ている鎌倉の観光映画のような印象がある。
どうせ鎌倉で撮影するなら、せんだって忽然と姿を消した荏柄天神脇の宏壮な名建築、清水家、あるいはたった今破壊されつつある置石(段葛)の「峰犬猫病院」でやってほしかった。
しかし主演の綾瀬はるかの演技力はそれなりの進歩を遂げており、あの「おっぱいバレー」と同一人物とはとても思えない。
   https://kamakura.keizai.biz/headline/252/

 中原の中也が好きなチャイコフスキーの「舟歌」をくちずさむ水無月 蝶人


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しりあがり寿著「ア○ス」を読んで

2018-06-27 11:27:05 | Weblog


照る日曇る日 第1080回


はじめからおわりの表3まで、恥部も露わな痩せた孤独な女が、「トモダチ」をつくりたいとさ迷い歩く、いささか風変わりな漫画である。

われらが自分の頭を叩けば、しゃれこうべの音がする。そのコツコツと響く虚しい音を聴かされ、感に絶えてじっと聞き入っているかのごとき、面様なる書物である。

題名はアヌスかアリスか、それともアマルスか知らないが、偶にはこういう実存をえぐる漫画があってもいいだろう。というより、こういう「ことぶき式」のが、所謂マンガではなくて、本来の漫画なのだろう。

タクシー会社の役員がガス会社の社長を648票差で破り五所川原市長選に勝利す 蝶人


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宮下奈都著「羊と鋼の森」を読んで

2018-06-26 11:21:22 | Weblog


照る日曇る日 第1080回



森は木で、鋼は弦で、羊はハンマーのフェルトで、これらが三位一体となってピアノがつくられるというが、これはめずらしや調律師を主人公とする、感動的というまでには至らない、ちょっと少女小説のように甘めのビルダングスロマンである。

私の家にも中古のヤマハのアップライトピアノがあって、脳に障碍のある長男がなんとヘンデルやシューマンやショパンの小曲を弾きまくっていたときには、年に1回戸塚からやって来る調律師に調整をお願いしていたので、ちょっと主題に親しみの湧く本だった。

私はすっかり忘れていたのだが、妻が言うには、その都度私は「もっと明るく」とか、「ドンントと迫力を出して」とか、毎回その場の思いつきで注文を出していたらしいのだが、この本を読んで、いたくその愚を悟った。

ピアノを弾けないド素人が、「もっと明るく」とか「強く」とかいうても、それは椅子の高さとか、演奏方法とかが関係してくるので、高音から低温部のどこそこをどう響かせるかという具体的な調弦に還元すべき問題ではないらしい。それなのに私は、専門家に向って、さながら愚民党の麻生焄のように、偉そうに「指示」していたのである。

しかし調律師さんは、そんな阿呆莫迦クライアントの音楽技術と感性を一瞥で鋭く見抜いて、きっと適正な調律をしてくれたに違いなかろうことが、この本を読んでよく分かった。

小説の中で一卵性双生児の高校生が出てきて、ある日突然、姉のほうがピアノを弾けなくなってしまうのだが、(その代りに妹が「ピアノを食べて生きる!」ことを目指す)、うちの息子も、いつからか黒鍵に触れようともしなくなった。

恐らく彼が「名演」を繰り広げるたびに、愚かな私が「ブラボー!」などと蛮声張り上げて喝采したり、しつこく写真撮影をしたので、嫌になってピアノから遠ざかってしまったのだろうが、もしかするとこの小説の姉と同じような病理的な原因があるのかもしれない。残念なことをしたものだ。


    きまぐれに一列縦隊の兵となり上流目指す滑川の鮎 蝶人

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プルースト著・吉川一義訳「失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ」を読んで

2018-06-25 13:54:36 | Weblog


照る日曇る日 第1079回



冒頭でタイトル通りアルベルチーヌは消え去って逃げ去ってしまうので、主人公は多大の衝撃を受けて、例によって例の如く毒にも薬にもならぬ超主観的な脳内思弁を繰り返すので、こいつ女の気持ちも分からんな、なんちゅ阿呆かいな、と同情するより笑ってしまうのだが、さてこの逃げた女が主人公に内緒で同姓と戯れるのが大好きな女らしく、もしかすると主人公の周辺で根深く巣食っている「ソドムとゴモラ同盟」の一員だったかもしれないのだが、いったいどういう顔つき、体つき、どんな物好きで、要するにどういうタイプの女だったんかと脳裏に思い浮かべようとしても、さっぱり印象がないというか、てんでつかみどころがないということに気づき、落馬して樹木に激突して急死したと聞かされても、「その嘘ほんとかよ」と思うばかりで、その証拠に痛手を忘れようとベネチアで遊んでいた主人公のもとに「私生きてます」てふ発信人明記の電報が舞い込んでも、主人公ときたら「それはもう愛が冷めてしまったアルベルチーヌではなく、ジルベルトからの電報の間違いなんだ」などと勝手に無視してしまうのだが、どっこいホントは彼女は生きていて、この未完の大河小説の果ての果てで主人公と醒めた再会を遂げるのではないか、などとおらっちはひそかに考えるのだが、それにしても、アルベルチーヌの恋人であった我らが主人公自身、いったいどういう人物で、どういう顔をした男なのかと印象を訊ねても、これが完全にノッペラボウで、いっこうに明確な像を結ばないことに気づいて、一応のプルーストファンを自任していたおらっちとしたことが、泡を喰らってしまうのはなんでやろうな、と考え込んでいるうちに、そういえば最初の恋人だったジルベルトも、花咲く乙女たちの一人には違いないけれど、いまどきのタレントでいうなら、黒木メイサに似ていたのか、石原さとみ似なのか、広瀬すず似なのか、そおゆう基本的なところが曖昧模糊としていて、アルベルチーヌもジルベルトも違うのは名前だけで、物語の中の顔を凝視してみれば、ヒーロー&ヒロイン以外の登場人物、例えばゲルマント公爵や公爵夫人、サン=ルー、モレル、あるいはもう死んぢまったスワンやオデットなどなども、唯一の例外たるシャルリュス男爵と乳母のフランソワーズを除いて、宮崎駿のアニメに登場する人物から輪郭だけを残して眼鼻口を取り除いたのっぺらぼうなのであり、この人物の「のっぺらぼう性=非実在性」こそ、「失われた時を求めて」全編を貫く一大特性であって、そもそもこの観念的空想的な超大河小説のはじまりは、紅茶の中に誕生した茫漠とした一片の水中花であったことを思い出せば、これはその後のすべての登場人物によって水中で演じられる幻影の人形劇であることに思い当るのではないだろうか。

   失われし時を求めてプルーストは失われし人々に会う 蝶人
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鎌倉商工会議所で高橋源一郎選手の講演をきいて

2018-06-24 13:57:36 | Weblog


蝶人物見遊山記第286回&鎌倉ちょっと不思議な物語第402回



鎌倉文学館で開催されている「明治、BUNGAKUクリエーターズ展」(7月8日まで)に協賛して、我らがタカハシ源チャンが登壇する「明治150年の文学」講演会が開催されるというので、降りしきる雨を冒して御成まで出かけました。

競馬紙に25年以上も連載しているので、「小説も書くのですか?」と聞かれるというマクラから始まって、遠い親戚に大杉と伊藤を惨殺した甘粕大尉がいて、婆さんどもが甘粕礼賛のヘイトスピーチをしていたとか。書斎の左には岩波文庫などの古典、右には新書などの新刊本が並んでいるが、右側は読みながら物を問うても何も答えてくれないが、左は必ず色々な答えを送って寄越すとか。

シベリアとルソン島で夫々戦死した2人のおじさんの位牌が並ぶ豊中の実家で生まれて初めて金縛りに遭ったことや、ある日子どもの歯を磨いている時に、鏡に映った自分の顔が父親そっくりであると気づき、父が自分の歯をこうやって磨いてくれたことを思い出して号泣し、あれほど憎かった父と一瞬で和解できたが、それまで同盟を組んでいた母からは恨まれたこととか、その母親は、父と同じ墓に入ることを拒んでいるので今も書斎に骨壺があること。

「日本文学盛衰史」は、関川夏央作・谷口ジロー画の漫画「坊ちゃんの時代」にインスパイアーされて執筆しはじめたのだが、連載開始直後の二葉亭四迷の葬式のくだりを、「これでは漫画の真似になってしまうなあ」と焦りながら書き進めている時、漱石が、「森先生、「たまごっち」を手に入れることができませんか?」と尋ねると、鴎外が「娘のマリが確か「新たまごっちも」持っていたようだ。どこで手に入れたか訊ねてみましょう」と答える個所が奇跡のように書けた途端に、これなら何を書いてもオリジナルで行けるところまで行けると確信できたこと。

「日本文学盛衰史」の続編が8月に発売され、現在その続続編「ヒロヒト」を「新潮」に隔月連載しているが、その「ヒロヒト」の50個のエピソードのうちの1個の、そのまた1/3である!発売されたばかりの初の童話「ゆっくりおやすみ、樹の下で」は、彼と奥さんを思わせる登場人物たちが、その先祖と「出会う」話であること。

そしてフェリーニの「インテルビスタ」で彼らの黄金時代の「甘い生活」を部屋で映し出しながら、デブデブのマストロヤンニと老醜無残のアニタ・エグバーグが再会する涙涙のラストシーンを引き合いに出しながら、彼は「私たちは過去を変えることはできない。しかし失われた人は蘇り、過去の思い出や言葉は現在を支え、今を生きる私たちを変えることができるのです」と、2時間を超える大講演会を格調高く結んだのでした。

高橋ゲンチャンが、「自分のライフワークである「日本文学盛衰史」の完結はこの調子では76歳までかかるが、身内でその年齢まで生きた人物はいないので甚だ不安である」と語っていたので、不肖わたくしめが、講演会が終わって「日本文学盛衰史」にサインをしてもらいながら、「弱音を吐かずに全巻を書き終えるまでなんとか生き延びてくらさい」と励ますと、「はい、シリーズ4まで書いてみせますぜ」と急にガッツをみせた源チャンでした。

    高橋の源一郎の講演会サインをもらい握手し別れた 蝶人
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白井聡著「国体論 菊と星条旗」を読んで 

2018-06-23 09:43:34 | Weblog


照る日曇る日 第1087回


死語となりはてたはずの「国体」はどっこい戦後も今もしたたかに生きていた、という「思い付き」を、様々な知見と力動的な思考で実証しようとしているが、限られたスペースの中であまりにも多くのことを猛烈な勢いで詰め込もうとするために、当方の頭の悪いせいもあるのだろうが、あまり快く説得されなかったのが残念である。

冒頭、著者は16年8月の天皇発言による「闘争」に衝撃を受けたというのだが、私などは、それを単なる退位希望の言葉としか受け取らなかったから、そのすれちがいが、このような読後感を生んだのかもしれない。

しかし敗戦直後の「民主憲法」発布と昭和天皇の戦争責任の免責がバーターで強行され、そこに成立した「天皇制民主主義」が、戦後の「国体護持」そのものであること。
「反米愛国」のスローガンを共産党によって取られた新左翼が、共産党への反発故に「戦後の日本の帝国主義はすでに完全に自立した存在である」と誤認したこと。

天皇制は、偏在するがゆえに不可視のシステムとして、国民の大半にとって「第2の自然」と化しているように、この国の対米従属も表層的な個別の案件からは可視化されないこと。
80年代のレーガン政権の財政悪化を、一文の徳にもならない大量の米国債購入でいそいそと支え、不可解な「マネー敗戦」の痛手を負うたのは他ならぬ日本経済であったこと。

日米安保条約によって、日本は広大な軍事基地を米国のために提供し、その駐留経費約75%を負担(ドイツの倍以上!)している。この最大限の優遇条件が、今や米軍の全地域・全地球的な軍事展開を支えていること。

などは、著者が指摘する通りだと思う。

著者が主張するように、たとえ憲法が改定されようが護持されようが、日米安保条約と日米地位協定は、いわば憲法の上位に君臨して猛威を奮っている。

万歳、万歳、万歳!
敗戦以来73年、われら日本国民は、米国の属州の臣民として隷属する道をいまや「主体的に」選択しており、自らが米国の奴隷であることすら否認して現状に満足を覚えるという、文字通りの完璧な「家畜人ヤプー」になり下がったのである。



   専門に非ざる歴史の問題を脳科学者がぺちゃくちゃ喋る 蝶人
 
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大友克洋著「さよならにっぽん」を読んで

2018-06-22 11:13:17 | Weblog


照る日曇る日 第1086回

1981年に双葉社から出版されたあの有名な「AKIRA」以前の作品だが、最近つくづくニッポンが嫌になっている私には、こちらのほうが親しみが持てる。

「さよならにっぽん」は、なんらかの理由で離日してNYで徒手空拳で柔道&空手道場をはじめた超貧乏青年の悪戦苦闘を描くのだが、なんかこちらも、あの荒涼たる大都会で呻吟しているような錯覚を覚えてくるようなビターな佳作である。

「聖者が街にやって来る」と「East of The Sun,West of The Moon」は、音楽を扱っているが、非常に完成度の高い短編で、とりわけ巷の吞屋の冴えないおばはんが、実は往年の大ジャズシンガーで、一夜限りの宴のあと、何事もなかったようにまた陋巷に戻って商売をする結末は、なかなかに味わい深いものがある。

  「我が家だけ次の地震で潰れたら恥ずかしいわ」と妻が言うなり 蝶人


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杉浦日向子著「合葬」を読んで

2018-06-21 11:16:37 | Weblog


照る日曇る日 第1085回

1982年から翌年にかけて「ガロ」で連載された、ご一新前後の彰義隊をめぐる若者たちの物語で、もしかすると著者の最初の作品集ではないだろうか。

これは映画化されているようで、2回ほど見物しかけたが、どうにこもうにも見るに堪えずに2度ともやめてしまったのだが、こちらの原作のほうは、時代を襲う荒波に浮沈する青年像を淡々と描いて感動的だった。

著者の作品は江戸時代とその日だまりの中に生きた民草への愛惜に念に充ち溢れているし、史実と時代考証への情熱も半端ではない。

碌でもない映画なんぞ犬に食われろ、というような漫画ならではの芸術的感銘を堪能させてくれた。

それにしてもこの天才の、2005年46歳での早すぎた死が惜しまれる。


  きらきらと目を輝かせコロンビアに勝ちし喜び語る長友 蝶人
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岡崎京子著「UNTITLED 」を読んで

2018-06-20 11:47:48 | Weblog


照る日曇る日 第1084回



1996年5月、著者は自宅付近で大型四輪駆動車にひき逃げされ、一命は取り留めたものの、現在まで続く創作に従事できない長い長い療養生活に入るが、この作品は、その直前まで月刊「ヤングロゼ」の連載されていた「万事快調」「恋愛依存症」などを収めた「未定稿」である。

「万事快調」は、おそらくゴダールの映画の題名からとったのだろうが、3部に分かれた内容はそれとは関係がないいつもの岡崎調で、母が男と出て行った家に残された若い男女の、男女が出入りする日常を描いている。

変質的なストーカーに付きまとわれて、放火されたりもするが、例によって例のごとき陳腐な日常生活の展開の中で、屈託した作者が主人公を見開きから逸脱させたり、登場人物の顔が空白になったりするところがシュールである。

「恋愛依存症」では、自殺願望のヒロインが登場してニヒルな相貌を見せるが、生きるも地獄、死するも地獄という認識こそ作者がすでに体得していた冷徹な境地だったのであろう。

 スポーツで起こる奇跡があるならば他でも起こしてください神さま 蝶人
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リーサル・ウェポン大会ずら。

2018-06-19 09:39:00 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1357,58,59,60



1)リチャード・ドナー監督の「リーサル・ウェポン」
脚本の勝利。愛する妻を亡くして自棄自暴に陥っているメル・ギブソン刑事という設定が効果的なバックグラウンドになっていて、その上に黒人の相棒ダニー・クローヴァー刑事との絶妙のコンビネーションが展開されていくことになる。

2)リチャード・ドナー監督の「リーサル・ウェポン2」
お馴染みのコンビに、3枚目のジョー・ペシが絡んで一層面白くなった。拘束衣を関節を外して脱ぐ裏技がうまく物語の展開に生かされている。あっけなく殺されるパッツィ・ケンジットは可哀想。

3)リチャード・ドナー監督の「リーサル・ウェポン3」
いよいよ相棒のダニー・クローヴァーが引退するという間際の2人だが、ちょんぼで刑事から警官に左遷されているのが面白い。今度はヒロイン役にレネ・ルッソが登場し、メル・ギブソンと一緒になるというところで終わる。

4)リチャード・ドナー監督の「リーサル・ウェポン4」
謎の中国人が登場してまたしても繰り広げられる活劇ゲームだが、どうもあんまり迫力がない。最後の記念撮影などをみると、スタッフ一同これでシリーズは終わりというつもりでいたんだろうな。

   またしても心優しき青年が亡くなりてまたホトトギス泣く 蝶人


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岡崎京子著「I wanna be your dog」を読んで

2018-06-18 10:46:35 | Weblog


照る日曇る日 第1083回

これは1994年から45年にかけて祥伝社の「フィールヤング」誌に掲載された表題作の「私は貴兄のオモチャなの」をはじめ、「でっかい恋のメロディ」「虹の彼方に」「3つ数えろ」の4つの中編を収録したものである。

映画などに影響されてのノンシャランな枕詞のごときタイトルであるが、例によって突然のセックスや暴力などのエグさを、ためらうことなく全開して、半分本気、半分冗談、のように、少年少女のやるせなき日常を、軽やかに滑空している。

他の岡崎作品と同様、物語のえぐり具合に比べて、構成、絵から絵への推移、造型、TPOの設定、とりわけ作画デッサンの軽さ、下手くそさが気になる。

まあ、それも含めての彼女の魅力なのだろうが。

   東でも西でも地震相次いで平成日本の終焉近し 蝶人


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岡崎京子著「ハッピィ・ハウス」を読んで

2018-06-17 10:49:16 | Weblog


照る日曇る日 第1082回

昔から映画では小津安二郎、山田洋次、最近では是枝裕和、テレビドラマでは山田太一、坂元裕二などがこの国の「家族」のありよう、を見つめてきたが、岡崎京子のこの作品などは、その視線の鋭さと深さにおいては、先行者たちのそれを遥に突き抜けているのではないだろうか。

父親の家族離脱からはじまり、母、そして13歳のヒロイン鈴木るみ子に及んでくる家庭と家族崩壊のドミノゲームは、作者が述懐するように「愛していながら愛することができない。愛したいけど愛せない。でも永遠に続くアンビバレントな反復横とび」そのものだろう。

「家はあっても家はなく、親はいても親はない」というこの奇妙奇天烈な状況を、われらがヒロインは、「サイズに合わない靴を投げ捨て、熱砂の中を裸足で進んでいった無謀なデートリッヒ」のように突進していく。

物語の最後で、マツダと「ハッピィ・ハウス」のようなものを組みあげた鈴木るみ子は、本作発表後26年の今日、いったいどうなっているのだろうか?


      道端の発掘現場に佇めば鎌倉時代の井戸の底みゆ 蝶人
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ジャン・ジオノ著・原みち子訳「木を植えた人」を読んで

2018-06-16 13:16:16 | Weblog


照る日曇る日 第1081回



プロバンス地方の荒廃の山野に、毎年倦まずたゆまず3万個のドングリの実を植え続け、ついに豊穣なる緑の王国に変えてしまったつましい農夫の「奇跡」の物語です。

どうやら著者のジオノの父親がモデルになっているようですが、この物語の主人公のエルゼアール・ブフィエは実在しなかった。

しかし実在しなかったにもかかわらず、それは実在の人物以上の存在感で読む者の心に迫ってきて、1人のブフィエは実在しなくても、まったく同じようなことをする何百、何千、何万のブフィエの分身が、フランスのみならず全世界に存在し、いまも活躍し続けているような気がしてくる。

そしてどこかにたった一人のブフィエさんが存在しているのなら、この虚飾に満ちた世界も存在する意味がある、と思わせてくれる、そんな不可思議な感慨に襲われる小さな、小さな1冊の本です。

  最近はトンビをとんと見なくなったかの憎っくき台湾リスにやられたか 蝶人

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岩波文庫版「ロバート・キャパ写真集」をみて

2018-06-15 10:13:10 | Weblog


照る日曇る日 第1080回

「ちょっとピンボケ」で有名な、1913年生まれのユダヤ系ハンガリー人のカメラマン、エンドレ・フリードマンの写真集です。

これは夭折した恋人ゲルダ・タローとの共同ネーム「ロバート・キャパ」が遺した、およそ7万点のネガから厳選された236点で構成され、「スペイン内戦」、「日中戦争」「第2次世界大戦」「イスラエル独立と第1次中東戦争」「日本」「第1次インドシナ戦争」などのカテゴリー別・時代別に並んでいます。

彼のデビューを飾る記念碑的映像は、1932年11月27日にコペンハーゲンで撮影されたトロツキーの講演中のワンショットで、その目玉の松ちゃんのような近視の右目のギロリの凄さの中に、この不世出の革命家を全身全霊で受け止めたカメラマンの、歴史の今を丸ごと捉えようとする熱い志が見事に表現されています。

有名なスペイン内戦の「共和国派民兵の死」は、沢木耕太郎説では恋人タローの作品ですが、アラゴン戦線で電話線工事中に樹上で銃殺された共和軍兵士、スターリンとヒトラーの闇取引の結果解団に追い込まれた国際義勇軍兵士の驚きと怒りと無念の表情、日本軍と戦う蒋介石の戦略会議、独軍との戦闘で死んだ10代のナポリのパルチザンの葬儀、ノルマンディー上陸のDデイで上陸する米兵の殆ど神話的な1枚、シェルブールで米軍に投降する独兵、ドゴールも登場してパリ解放に沸く44年8月26日の当日に敵から狙撃され、市庁舎前広場で身を伏せる市民たち、廃墟と化したスターリングラード、そして54年5月25日、インドシナの野原で地雷を踏んで死亡する直前の最後の1枚まで、全編これ20世紀の戦争の文字通りの最前線の記録そのものであることにおどろかされます。

そしてそれらが単なる戦闘記録ではなくて、写真家の様々な思い入れ、すなわちファシズムへの怒り、憎悪、抵抗、弱者殊に子供と女性への連帯と共感などが映り込んでいる点が、凡百の戦争カメラマンの作品との違いではないでしょうか。

すべての写真を見終わって印象に残ったのは、彼が子供をこよなく愛したこと、悲惨な戦場の生き地獄にありながら、どの写真にも、(死の直前の写真にさえも)、なぜか絶望の向うにあるかもしれない、かすかな曙光を感知できることでした。


    焼け跡の更地に突如生えてくる赤青白の昼顔の花 蝶人
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