あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2010年長月茫洋花鳥風月人情紙風船

2010-09-30 08:20:07 | Weblog


♪ある晴れた日に 第80回



歌ひとつ詠まずに旅から帰りけり

油蝉リュリュリュ晩夏流る

家守棲む家に寝そべる楽しさよ

居待月太鼓叩いて笛吹いて

一夜明け一億沈思の秋となる

イチローが一日一本打つように生きること

魔法使いの棒一閃オオウナギぐるりぐるり

この臭い汗は絶対に私の所産ではないぞ

これでもかこれでもかと君は己の臓物を投げつける

次男去りし翌日仙人草の白く小さな花咲きにけり

求めよさらば与えられんといいしはさだめし若きひとならむ

伊豆の夜真夏の銀河のさんざめきグールドの哄笑谷間を揺るがす

どうしようもなくつまらないのにつまるようにもてはやす世間の痴れ者たちよ

小利口な優等生の脳内にひそと咲きたる黒百合の花

1か月1滴の水もなく堪える草白く小さき花をつけたり

君と共に熊野神社を歩きおれば特許許可局と杜鵑鳴く

楽天的な革命家と革命的な楽天家いずれも困ったものなり

熊のような大猿が名指揮者の猿真似をしていたよ

ウエブによって結ばれし新しき友情ここにあり 

ああグルダのフィガロこの演奏を耳にせず泉下の人となるなかれ

どうしてああも自分勝手な男なのだらうと思っているのであろう

まぐわいて産みつけて一週間で死んでいく見事な生き方

一粒の麦死なば多くの実を結ぶのだろうかと一粒の麦は迷う

いずれが最小不幸宰相ならむ阿呆馬鹿絶叫大演説を消す

幾時代かがありまして、茶色い人たち騒いでおりました

私の好きな女子アナなど大海に漂うアブクのようなものなんだなあNHK

ペルリでもやって来たのかフジテレビお台場お台場と毎日騒ぐな

一本の腐りかけたる大根の葉っぱに咲きたる白き花かな



塩酸のたぎる湯の川に投げ入れてみちのくきりしたんを責め殺したり 茫洋

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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第30回

2010-09-29 11:50:59 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1


そうして、それから夜になりました。

ひとはるちゃんは、だいぶ発作が治まりましたが、いぜんとして熱が高く、あれからずっと洋子と文枝が看病しています。でもまだ意識は戻りません。

僕は一人で外へ出ました。おそろしいほど先端がとがった鎌のような月が銀河の無数の星星と一緒に西南の空を明るく輝かせています。冷たい大気が全身を包み、僕は思わずおちんちんがぎゅっと縮んでいくのが分かりました。

すると、昼間ススキの穂が動いていたあたりで、なにやら物音がしました。銀の波が大きく2つにぱかっと分かれ、高く茂ったススキの群れを踏みながら、黒い影がどさりと倒れました。

その黒い影のあたりから、なにやら奇妙なうめき声がしています。
僕は急いで小川を渡り、原っぱを走りに走ってススキの根元に駆けつけました。

公平でした。公平君は体中のあちこちが傷だらけでしたが、血まみれの左手にピストルをしっかり握りしめていて、僕がその銃身に触ると熱がほのかに伝わってきました。


ペルリでもやって来たのかフジテレビお台場お台場と毎日騒ぐな 茫洋

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今井彰著「ガラスの巨塔」を読んで

2010-09-28 13:26:55 | Weblog


照る日曇る日 第376回

かつてNHKの辣腕ディレクター&プロヂューサーとして「プロジェクトⅩ」などの人気番組を企画制作した人物による実録風小説です。

「プロジェクトⅩ」はその音楽の変態的誤用や仰々しいナレーション、出演者の異様な興奮と突然の涙が気色悪く、一度もラストまで観賞したことはないのですが、著者によれば「НHKの看板番組」として一世を風靡したようです。

私にとっての看板番組は「サラリーマンNEO」「世界街歩き」「アグリーベティ」「なげやりな妻たち」「刑事コロンボ」「ダメージ3」「クラシック音楽番組とCMが入らない映画」「ブラタモリ」などですから、お互いの嗜好には相当の違いがありそうです。

それはともかく、多くの国民の疲弊した精神を鼓舞し、驚異的な視聴率を稼いだだけでなく、あらゆるテレビ賞を総なめし、当時「天皇」と称された権力者会長の庇護を受けて得意の絶頂に立った著者は、一時は次期役員最有力候補と嘱望されたようです。(でも、それがいったいどうしたというんじゃ?)

しかし折悪しく露見したプロヂューサーの製作費横領事件に端を発した聴取料不払い事件が起爆剤になって、天皇会長が辞任を余儀なくされると、それまで順風満帆だった著者の人生は一瞬にして暗転します。局内の反会長派の陰湿ないじめと弾圧に遭遇し、手塩に掛けた「プロジェクトⅩ」も終了となって心身ともにボロボロになった著者はとうとう退社し、根深い私怨のこもったこの本を書くことになるのです。

けれども視点を変えれば、著者のようなケースは私の身近にもざらにある話で、リーマンの栄枯盛衰は世の習い。あなたよりもっとひどい目にあったひとなぞ世間にはいっぱいいます。ただあなたが「天下のNHK」の有名人だったという素材の面白さだけで、「顰蹙を買うのが大好きな出版社の社長」があなたに眼をつけたのでしょう。

それよりも問題は「プロジェクトⅩ」終了の直接の原因となった室井ヶ丘工業高校の
放送内容です。あなたは先方の教師や学校側にだまされたと文句を言っていますが、客観的に見て致命的な誤謬を犯したのはあなたたち制作者側です。
事前のリサーチがいい加減だからこんないかがわしい人物を登場させたのですから、この番組に泥を塗ったのは隗自身なのに、それを棚に上げて学校や校長のせいにし、あまつさえ局内の上司や敵をうだうだあげつらうのは、ジャーナリストにあるまじき醜い振る舞いといえましょう。

本書を一読して驚くのは「みなさまのNHK」内部の魑魅魍魎の跋扈振りです。
1万人を超す社員のうち記者やディレクターなどの報道現場関係者は3千人なのに、事務管理部門が七千人を超えているそうですが、これはちょっと多すぎます。国民からの大切な拠出金を預かりながら、彼らは一体どういう仕事をしているのかとても気になりました。

著者の言い分を信じるにしろしないにしろ、「みなさまのNHK」は、この際一度解体して再出発する必要があるのではないでしょうか。



私の好きな女子アナなど大海に漂うアブクのようなものなんだなあNHK 茫洋
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光明皇后1250年御遠忌記念「小泉淳作展」を見る

2010-09-27 20:39:58 | Weblog


茫洋物見遊山記第38回


日本橋高島屋で開催されていたご近所の絵描きさんの展覧会へ行ってきました。今年86歳になられた小泉画伯が平成遷都1300年、光明皇后1250年御遠忌を記念して東大寺の本坊に奉納された40面の襖絵が中心となった個展です。

会場に入るといきなり眼に飛び込むのがあざやかに咲き誇る蓮池のハス。深々とした緑の葉のあちこちに顔をのぞかせる紅白の花々は、大小の花弁だけでなくガクとシベの1本1本の色や形に画然とした個性が感じられ、全体の構図のみならず細部の近代的な表現力が際だっています。東大寺の蓮池とこの日本画の蓮池が対峙する初夏にいちど現地を訪れてみたいものです。


次には画伯がはじめて挑戦した3つの桜の襖絵です。浅緑の草原をバックに絢爛と咲き誇る桜の花弁は画伯が「賽の河原に小石を積むように」1枚1枚丹精込めて描きあげられたもので、その老いての苦労がしのばれます。「吉野の桜」の6本の桜の構図はじつに巧みに構成され、樹から樹へ、枝から枝へ、花から花へと画家が灯もした生命のみなぎりが伝えられていくようで、ある種の感慨を誘います。というのも画伯が2階のアトリエで電気を煌々とつけたまま制作に励んでいられる姿が自宅から時々見えたからですが。

画家にとって初めての題材を扱い、珍しくや全面的に可憐なまでに洗練された多色遣いで至純の新境地に挑まれた今回の作品は、氏の晩年を美しく彩る記念碑的なマイルストーンになったとはいえ、私は依然として彼の真骨頂は往年の精神性豊かな墨絵にあると確信しています。

今回会場の出口にさりげなく並べられた墨一色の「大根」の絵や、まるで1匹のうごめく動物のように躍動する全山の生動を静寂の1幅に閉じ込めた「岩木山」の力技こそは、平山郁夫のインスピレーションのかけらもない画業を大きく凌駕し、横山大観の幽玄の世界に肉薄する日本画界の最高峰のひとつといえましょう。

*なお本展は来月の横浜など全国の高島屋主要店にて巡回展示されるそうです。



  一本の腐りかけたる大根の葉っぱに咲きたる白き花かな 茫洋

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「車谷長吉全集第2巻」を読んで

2010-09-26 17:41:18 | Weblog


照る日曇る日 第375回


車谷長吉は偏見と断定の人である。「女性の存在理由は男に向かって股を開くことにしかない」と言いきってはばからない。

車谷長吉はど阿呆の人である。大概の作家や評論家は自分がそうとうの叡智の人であるとうぬぼれているから、それがおのずと文章や人となりに出てきて嫌みであるが、この人には珍しくそれがないから、あれほど突き抜けた文になるのである。

車谷長吉は厭世の人である。生まれながらの蓄膿症の苦しみに耐えながらこの歳まで生き続けるよりも「死んだ方がはるかにまし」であった違いない。しかし「私は自殺しないで生きてきた」。

車谷長吉は捨て身の人である。学歴を捨て、立身出世を捨て、極貧に甘んじて地べたを這いずり、出刃包丁を投げつけられ、渡世人や世間の鼻つまみ者に愛されながら生き延びてきた。

車谷長吉は恥知らずな文学の鬼である。他人のプライバシーを無遠慮に侵害してその所業を社会にぶちまけただけでなく、喰うためにおのれの性的嗜好や腐れ金玉の所業を恥を忍んで書きまくってきた。

車谷長吉は生まれながらの詩人である。これと眼をつけた美女にはストーカーになることも辞さずに万難を排して酬いられない愛を求め、誰にも描けない珠玉のような「恋文絵」(絵入り葉書)を送りつける。

本巻に収められた長編小説のうちで圧倒的な感銘を与えるのは彼の代表作「赤目四十八瀧心中未遂」であるが、彼の自伝的小説である「贋世捨人」の最後の行で涙しない読者はいないだろう。

車谷長吉は、魂の料理人である。されば今日もおのれの臓物を原稿用紙になすりつけながら、世界も凍る恐るべき秘め事を書き続けているのだろう。


これでもかこれでもかと君は己の臓物を投げつける 茫洋
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ソニー超廉価盤「ヴァン・クライバーン集7枚組CD」を聴く

2010-09-25 15:17:16 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第165夜

まあなんというか全国の学友諸君、こうやって毎日3回もごはんが食べられて戦争にも駆り出されず、さしたる病気もせず、日々是好日とばかりに生きながらえていられるのはうれしいことであり、こうして画面に向かえば誰も読んでいなくともひとつくらいは書いてみたくなるような些細なことがあるというのもまことによろこばしい限りであり、そうしてそういうちょっとおめでたい気分にふさわしいピアニストといえばこのクライバーンということになるのであろう。

いまの日中と違って米ソ相食む2極体制化にあって、メードインUSAの音楽家の輝かしい大勝利を告げたのが1958年に開催された第1回チャイコフスキー国際コンクールであった。なんでもかのリヒテルが彼に満票を投じたために1位になったという話もあるようだが、キリル・コンドラシン指揮RCA交響楽団の伴奏で聴くチャイコフスキーの第一番協奏曲は胸がすくような晴朗かつ豪快な演奏で、若き日のリヒテル、ギレリス、ルービンシュタインに似たところもあるようだ。

チャイコフスキーのみならず彼の演奏は、郷里ルイジアナの牧場に咲き誇るひまわりのようにあっけらかんとした開放感にあふれ、青空にぽっかり浮かんだ白い入道雲のように爽快で、前へ前へと進んでいく。その技巧は完璧であり、書かれた音符をひたすら音化していくのだが、その音色からはいかなる狐疑も憂愁も幻影も不安も感じられない点でホロビッツやポリーニとはまったく異なる健康的な音楽世界の住人であることがわかる。

しかしたかが音楽であり、たかがピアノではないか。しょせんこの世はサーカス小屋の猿回し。自分もお客も楽しめる明るく楽しい演奏をする能天気な芸人の一人や二人がおっても構わないのではなかろうか。

さなきだに嫌な事件が相次ぐ当節ゆえに、世界苦をひとりで抱え込んだような神経衰弱患者の演奏が流行るのも無理からぬことだが、私はそんな曇りのち雨の午後には好んでクライバーンに耳を傾け、いっときの清涼を得るのである。


居待月太鼓叩いて笛吹いて 茫洋
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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第29回

2010-09-24 16:53:57 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1

それから3時間以上もたって、午後の2時半くらいだったでしょうか。ひとはるちゃんが血だらけになって、服もズタズタに破れて、はあはあ肩で息をしながら、ワアワア泣きながら帰ってきました。

「やられた、やられた、のぶいちがつかまっちゃった。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、こんちくしょう! あいつらぶっ殺してやるぞお!」

と一息にしゃべって白眼をむいてぶっ倒れました。公平君は、

「洋子、文枝、ひとはるちゃんをかいほうしてやれ」

と言うと、ピストルをぎゅっと握りしめてたった一人でのぶいっちゃんとひとはるちゃんが出かけた方角へすたすたと歩み去りました。

それからおよそ1時間くらいたったでしょうか。ズドーンと音がして、それからアッという叫び声、ウワワワアーという悲鳴が遠くの方から空を切り裂くようにしてきこえてきて、またそれっきりあたりは静かになりました。


一夜明け一億沈思の秋となる 茫洋

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福田和也著「現代人は救われ得るか」を読んで

2010-09-23 17:02:21 | Weblog


照る日曇る日 第373回

著者は私のように粗放な脳味噌の持ち主と違って、おそらく非常に頭が切れる人なのでしょう。華麗なレトリックを凝らした超絶的美文?と該博な知識と教養を、これでもか、これでもか、とみせびらかすように駆使して、ただでさえ分かりにくい論旨をもっともっと難解にして、さあどうだ。これでも食らえ、とばかりに投げてよこされるのには、はなはだ迷惑です。

―江藤淳と江國香織を対置した時、江國の方がはるかに森鴎外に近い。それは、意識された「ごっこ」が、欺瞞が、「現実」を作り出す、社会を、国家を、家族を仮構する事を知っているからに他ならない。(396p)

これだけではどなたも何のことやら分からないでしょうが、その前後を繰り返し読んでも理解できないのは、きっと私が極度のアホ馬鹿人間だからでしょう。しかし才子才に溺れるの諺ではないけれど、著者の筆が、自分でもよく分かっていない内容についてどんどん滑っているように直観されます。文中で普通に「決して」と書けばいいのに、変に恰好をつけて「けして」「けして」と連発するのも、あまり良い趣味とは言えないでしょうね。

ところでこの本の最後は、村上春樹の「1Q84」を巡る考察になっています。

いとけない娘をレイプしている教団の大幹部を葬るために青豆を駆使する謎の老婦人は、はたして正義の味方か、それとも悪事が生んだ新たな悪事の張本人なのか? 

「眼には眼を、歯には歯を」。国家権力による法と秩序を無視して、あるいは自覚的に逸脱して、私憤を疑似的な公憤に擦り変えた彼女は、共同体からの処罰と自裁を覚悟の上で個人テロルの「暴挙」に訴えます。

しかしテロルはテロルを生み、復讐は復讐、殺戮は殺戮の果てしない連鎖を生みだすことでしょう。「眼には眼を、歯には歯を」の論理をうべなう限り、この連鎖のひと組には
「主観的な合法性」があるので、それらの鎖を任意の1点で切断することはおそらく当事者同士には不可能です。

それでもこの連関を断ち切るためには、双方がそれぞれの正義をテーブルの上に並べて、それぞれの正義の正しさの内容を、第3者の公正で客観的な視点でこまかく吟味しなければならないでしょう。しかし一口に正義というても、大義もあれば小義もあるし、中には正義という名の虚義もあるであろう。そしてもし天から見下ろせば、世に絶対的な正義なぞついにないのかもしれぬ。

血眼になっている正義の復讐者を争闘の現場から、広大無辺の裁判所に拉致して次元の異なる認識に目覚めてもらわなければなりませんが、さてそうするためにはどうしたらいいのか。

ああ、またしてもひとつの悪がひとつの復讐を生み、その復讐がまた別の悪を呼んでいる。己が信じる正義を貫徹しようとしたはずなのに、その貫徹の最後の瞬間に、正義が不正に、善が悪に転化する。
おそらく人はこの究極のパラドクスに突き当たった時に、はじめて自己滅却を願い、己を一挙に無化して、かの人知を超えた大いなる悟りを得ようとするのではないでしょうか。



太郎病んで尖閣諸島に月が出る 茫洋


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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第28回

2010-09-22 14:28:20 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1



11月4日 曇

朝起きるとなんだか様子が変です。虫が1匹も鳴いていないし、カラスもスズメも一羽もいません。いつもは家の周りをカアカア、チュンチュンと飛び回っているのに……。

向こうのススキの銀入りの穂先が風もないのにやたらとそよぎます。

「どうやら怪しい奴がいるようだ。いったい誰だろう?」

と、公平君が独り言を言いながら手を額にかざしてあたりを見やりました。

「なんだ、なんだ、誰かやって来たのかよお」

と、大声でのぶいっちゃんとひとはるちゃんが言って、

「よおし、俺たち兄弟2人でちょっくら偵察に行ってくるわ」

と言って、2人は連れだって小川の方へ降りてゆきました。

しかし、2人とも1時間たっても2時間たっても戻って来ません。




まぐわいて産みつけて一週間で死んでいく見事な生き方 茫洋

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今夜もウナギはダンス、ダンス、ダンス――滑川夜話最終回

2010-09-21 15:16:50 | Weblog


バガテルop132&鎌倉ちょっと不思議な物語第228回

この生命力みなぎる生物についての雑文を書いてからちょうど1か月が経ちましたので、後日譚の後日譚を書いておきましょう。

たしか前回は近所の植木屋のKさんが、カーバイドを入手したらそれを駆使して可愛いウナギ犬を逮捕する計画をたてたところ、までだったと思いますが、さいわいなことに今のところカーバイド爆発計画は不発に終わり、私の愛するウナギたちは、夜な夜な愛の交歓を続けています。

この節は日が落ちるのが早くなったので、夕方6時半に黄昏迫る滑川まで行ってみましたら、あれから一段と大きく長くなった2匹の大ウナギが、追いつ追われつ全身をぐるりぐるりと回転させながら、ウサギならぬウナギのダンスを見せてくれました。

楢の木のほの暗い木陰でひとところにかたまって背びれだけをひらひらさせているハヤたちも、息をひそめて彼らの舞踏を見つめています。

そこで私は、音痴であるのをものともせず、ア・カペラで高らかに歌いあげました。


♪ソソラソラソラウナギノダンス ソソラソラソラナメリカワダンス


6小節を歌い終わってまた道端の滑川を見下ろしていると、そこへちょうど近所のTさんが通りかかりました。Tさんは昔学校の教師をしていましたが、いまは悠々自適のご身分です。私が

「この世紀の見世物をご覧なさいな」

と勧めると、しばらく夢中になって見物しておられましたが、突然携帯を取り出しましたので、このオオウナギの饗宴をデジカメに記録しておこうとするのかと思ったら、

「そういえば最近私の家の庭にカルガモの親子が団体でまぎれこんできたんですよ」

と言って、可愛いいカルガモちゃんたちの写真を見せてくださいました。
けれどどうやらこの方は、ウナギよりもカルガモちゃんが可愛いいらしいので、私はちょっとがっかりしました。

Tさんが去ってしばらくすると、今度は有名な日本画家の小泉淳作先生が腰をくの字に折り曲げながら、ゆっくりこちらにやって来ました。
ちなみに先生は今月27日まで日本橋高島屋で東大寺本坊襖絵完成を記念した一大展覧会を開催されています。そこで私は、

「先生、先生、ウナギですよ。ウナギがダンスしておりますよ」

と申し上げようとしたのですが、折悪しくそこへ鎌倉駅行のバスが滑り込んできたので、白髪の魔法使いのような先生の姿は、疾走する京急バスのドアの奥に飲み込まれてしまったのでした。

魔法使いの棒一閃オオウナギぐるりぐるり 茫洋
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グルダの「モーツアルト・コンプリート・テープ」全6枚組を聴いて

2010-09-20 14:07:11 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第164夜

テープといってもCDです。フリードリッヒさんがひそかに自宅とかで1956年から97年にかけてこっそりテープレコーダーに録音しておいたやつを、彼の死後息子のパウル君が発見して、それを独グラモフォンから売り出すようにしてくれたお陰で、私たちはこの素晴らしいモーツアルトに接することができたのです。

それだけではありません。パウル君は偉大なお父さんが未完のままで放り出していたK.457の第3楽章をできるだけグルダ風に追加演奏して、親子合奏完結盤を新たに制作してくれました。

私は父グルダには会ったことなどないのですが、1961年生まれの息子のパウル君には、かつて渋谷のタワーレコードでひょっこりはちあわせしたことがあります。
私が6階のクラシック売り場でCDを物色していると、すぐそばにひとりの外国人がやってきて、やはりウロウロしています。その顔がどうもどこかで見た顔で、よく見ると「パウル・グルダが渋谷タワーにやって来る!」というポスターの写真の顔なのでした。

あちらの国の人たちは、こちらの国の人たちと違ってべつだん知り合いでなくとも挨拶代りに笑顔を差し向けますが、このときもパウル君が私に頬笑んだので、急いで慣れない「頬笑み返し」をしながら私が、「もしかして貴君はパウルさん?」と尋ねると、その青年はなぜかはにかみながら、小声で「イエス」と答えたので、私は特に理由はないのですが、それ以来おのずとパウル君の熱烈なファンになったのでした。

そんなパウル君が、亡き父君のために編んだ、私の大好きなモーツアルトのピアノ曲集は、これからも生涯の愛聴盤となっていくのでしょうが、どのソナタに耳を傾けても、聴衆をまったく意識しないインティメートな表情と赤裸の心に打たれます。
どうやらグルダは、モーツアルトその人に聴いてもらうために、深夜そっとベーゼンドルファーの鍵盤に触れているように思われてなりません。

そしてその白眉は、ボーナスCDに付された「フィガロの結婚」の自由なパラフレーズ集。たった1台のピアノが、スザンナの、モーツアルトの、そしてグルダの生きる喜びと悲しみをあますところなく表現しています。


ああグルダのフィガロ この演奏を耳にせず泉下の人となるなかれ 茫洋



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ワーナー盤「バッハ大全集」を聴いて

2010-09-19 14:50:02 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第163夜

ワーナーミュージックといっても実際はテルデックとエラートレーベルによる全50枚CDによるコンンピレーションです。またしても1枚243円というロウプライスに目がくらんで買ってしまいましたが、さすがは音楽の王者J・S・バッハ。誰がどのように演奏しても頭を深く垂れて傾聴するにふさわしい演奏揃いなのはさすがです。

しかしてその内容は、アーノンクールが22枚のほか、コープマンが5枚、そのほかレオンハルト、リヒター、シュタイアー、スコット・ロスなど、定評ある演奏が数多く揃っています。

バッハの宗教音楽は誰がなんといおうがカールリヒターとミュンヘンバッハ菅の演奏に尽きるので、アーノンクールふぜいが懸命にやってくれてもそれほどの感銘は受けませんが、同じナンバーを謹厳生真面目なリヒター盤と比べてみると、ずいぶんあまくて緩くて自由な態度で演奏していることが分かります。
まあこういう立場のバッハがあってもよろしいのではないでしょうか。カンタータだけでなく仲間一党と組んだヴァイオリンソナタも思いがけない喜悦をもたらしてくれましたし。

そこへいくとトン・コープマン選手はさっぱりです。このセットでは心地よいハープシコード協奏曲の調べを聞かせてくれましたが、最近FMで聴いたばかりのベルリンフィルを指揮してのカンタータはアンサンブルもめちゃめちゃで、「これでもバッハ?」というけったいな演奏でした。超一流オケを前にしてあがってしまったのでしょうが、自分の手兵とでないと音楽ができない指揮者は困りものです。


ところでこのコンピレーションを企画したのは韓国のワーナーミュージックです。
しばらく前に鶴首されていたリリー・クラウスの第1回のモノラル録音のモーツアルトのソナタ全集を発売したのもおなじ韓国のEMIでした。
私がいま毎日のように聴いているRCAリビングステレオ全集全60枚セットもやはり韓国盤ですが、現在ウオンが安いというだけではなく、この国のクラシック業界のほうがマーケティングのセンスが優れているのではないかという気がしてなりません。



どうしてああも自分勝手な奴なのだらうと思っているのであろう 茫洋

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ソニー盤「ロベルト・シューマン全集」を聴いて

2010-09-18 15:58:21 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第162夜

この頃狂ったように廉価版の大安売りを全世界で展開しているソニーグループのシューマン全集25枚組。一枚当たり258円ということなので、やはり買わずにはいられませんでした。

交響曲はレヴァイン&フィラデルフィア菅という珍しい組み合わせであるが別にどうということなし。声楽の大曲でいま録音が相次いでいる「楽園とペリ」はアーノンクールとバイエルン放響、「ファウストからの情景」はアバド・ベルリンフィルの名演ですこぶる聴きごたえあり。

ちなみにアバドは昨夜のFM放送でブラームスのカンタータ「リナルド」という珍しい曲をやっていた。声とオケの合わせでは当代随一と思っていたが、その前日のマリク・ヤンソンスとベルリンフィルによるヴェルディの「レクイエム」には震撼させられた。

カラヤンやムーテイやらバレンボイムで聴いてだいたいあんなもんと思っていたこの曲の恐るべき真価を突き付けられました。脱帽。今世界中の指揮者で聴くに値する随一の存在ではなかろうか。随二はもちろんハイティンク。期待していたダニエレ・ガティのウィーンフィルとのヴェトーヴェンもクラーバーの下手くそな真似っ子でがっかりだったし。

結局この全集でも歌曲がいちばん楽しめました。フィッシャーデイスカウ、ホロビッツの「詩人の恋」、ヴァルトラウト・マイヤーの『女の愛と生涯』、プレガルディエンの『リーダークライス』Op.24、クヴァストホフの『リーダークライス』Op.39、シュトゥッツマンの『愛の春』など名曲の名唱が存分に享楽でけまっせ。



この臭い汗は絶対に私の所産ではないぞ 茫洋

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鎌倉国宝館で「国宝鶴岡八幡宮古神宝展」を見物する

2010-09-17 17:16:45 | Weblog


茫洋物見遊山記第37回&鎌倉ちょっと不思議な物語第227回



秋です。ようやく萩の花が咲きほころびはじめた国宝館を訪ねてみました。

鶴岡八幡宮の古いコレクションが並べてありましたが、ほとんどこれまでに見たものばかりで掘り出し物はありませんでした。

ただ面白かったのは例の強風で倒れた大銀杏にまつわる展示です。この巨大な植物は樹齢数百年といわれ、承久元年(1219年)の旧暦1月27日の朝、三代将軍の実朝が甥の公暁に暗殺された瞬間をただひとり(1本)目撃していたという噂もありますが、さて本当のところはどうだったのでしょう。

残念ながら当日の惨劇を記録した「吾妻鏡」には、この銀杏についての報告はなされていませんし、鎌倉・室町・南北朝時代をつうじていかなる文書や記録にもこの種の情報はまったく残されていないようです。

はじめてこの植物を歴史に登場させたのは、あの天下の副将軍徳川光圀が貞享2年(1685年)に編纂出版した「新編鎌倉志」という歴史書で、そこには「銀杏の木に隠れていた女装した公暁が実朝を切り殺した」と書かれており、この説が万治年間(1658年から60年)に出版された中川喜雲という人の「鎌倉物語」に転載されて江戸の人々にしっかり定着したのだそうですが、彼氏が女装していたとは私も初耳でした。

もし本当なら、隠されていた驚くべき真相が466年振りに明らかになったということになりますが、真偽のほどはさあどうでしょう?
ともかく大銀杏と将軍暗殺がワンセットになったのは事件発生からおよそ半世紀が経過した江戸時代からであり、ここから急速にくだんの銀杏の存在がフューチャーされてきたようです。

本会場にある江戸時代に製作された「相州鎌倉之図」という絵地図では、たしかに鶴岡八幡宮のランドマークがこの銀杏であることが明示されていますし、明治時代になって月岡芳年が描いた「美談武者八景-鶴岡暮雪」という武者絵ではくだんの大銀杏を挟んでおじさんと甥っ子が大立ち回りを演じています。

そういえば八幡様には数多くの名刀(国宝)が保存されていますから、かつて別当を務めた公暁が実朝の首を斬った刀が現存しているのかもしれませんね。
以上、鎌倉国宝館の説明文の引用でお茶を濁してみました。


イチローが一日一本打つように生きること 茫洋

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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第27回

2010-09-16 16:21:39 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1

公平君と洋子と文枝と僕も、のぶいっちゃんを助けようと手に手に近くに転がっていた石ころや棒ぎれを持って、おまわりの頭や顔や手や足をてんでにぶん殴りました。

思いがけない逆襲に驚いたおまわりは、びっくり仰天、慌てふためいて逃げ出しました。あんまりあわてたからでしょう、峠のそま道の真ん中には、なにやらものものしい物体が残されていました。それは警官が持っていたピストルと銃弾ベルトでした。

「へええ、ピストルじゃないか。本物のピストルだ! すごいじゃん」

「へええ、これが赤塚不二夫の漫画に出てきたピストルかあ。前から一度こいつにさわってみたかったんだ」

と、のぶいっちゃんとひとはるちゃんは狂ったように喜びました。

「おいおい、ちょっと僕にも触らせてくれよ」

と公平君が頼んでも、のぶいっちゃんとひとはるちゃんは、ピストルとガンベルトを握りしめ、まるでカーク・ダグラスとバート・ランカスターになったように飛び跳ねています。

それから僕たちは、かわりばんこにずしりと重い拳銃をベルトに差したり、楢の木のてっぺに止まっていたフクロウに狙いを定めたりしながら、3時間もかけてようやく懐かしのわが家に辿りついたのでした。

今日はほんとうにくたびれました。


油蝉リュリュリュ晩夏流る 茫洋

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