あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

ある丹波の老人の話(48)

2007-08-31 19:46:59 | Weblog


第8話 思い出話3

それから昭和15年に上海に行ったときのことです。

私はホテルから外出しての帰り道、街の見物をしようと思い、地図を買い、それを頼りに電車が走っている大通りから外れてとある横道に入っていきました。

ちょうど夕刻で中国人たちはみんな軒下に集まってにぎやかに食事しているのをものめずらしく眺めながら歩いているうちに、どんどん日が暮れかけました。

そのうちに雨が降りはじめたものですから、元の電車道に引き返そうとしたんでしたが、どこをどう迷ったものか見たこともない河にぶつかってしまいました。

地図を見ても皆目見当がつかず、雨はますます激しくなります。中国人が食事をしている軒下は通れないし、ずぶぬれで街をあちこち歩きまわりました。

しゃあけんどどこをどう歩いても大通りにはでまへん。どの道を行っても川に行き当たるばかりです。道を尋ねようにも言葉の通じない中国人ばかりでどうにもなりまへん。私はますますいちらだち、ますますあわてました。

ふと通り合わせた人力車夫に指を輪にして「お金はいくらでも出すから乗せてくれ」というつもりを身振り手まねで示して乗せてもらいました。幌があるから濡れないだけでも助かります。
話(48)
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ある丹波の老人の話(47)

2007-08-30 12:27:12 | Weblog


第8話 思い出話2

米国からの帰路、私はシアトルから加賀丸という大きな船で北回りで帰る途中、猛烈な防風に遭いました。

どの船室にも水が浸入して乗客一同生きた心地もなく、食事どころの騒ぎではありまへん。

けれども私はこのときひたすらに神に祈って動じなかったせいか、丹波の山奥に生まれて船に慣れず体もあまり丈夫ではないのに、ただ一人平気で食事も常と同じように摂ることができたんでした。

はしなくも私は、ガリラヤの海の難船でただ一人安らかに眠るキリストに対して多くの弟子たちが救いを求めたときに、「ああ、信仰薄きものよ」と哀れみ、たちどころに波風を鎮め給いし事跡を思い起こしました。

それとこれとを比べることも大それた話ではありますが、やはり私が神を信じたから、あれだけ祈ったからこそ、弱い私があれほどのしたたかさを示すことができたんだ。と、思わずにはおれませんでした。

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ある丹波の老人の話(46)

2007-08-27 10:21:21 | Weblog


第8話 思い出話

1928年(昭和三年)、世界日曜学校大会に出席した私は、当時のアメリカ各地を漫遊していろいろ珍しいものを見物しました。

バークレー市のカリフォルニア大学では電子顕微鏡を見せてもらい、さらにはトーキーも実際に見ることができました。

その頃の日本にはまだトーキーはなく、動く写真、つまり活動写真しかなかったんです。これをつぶさに見物した私は、世の中にはまだ人間の智恵では計り知れない不思議があることを知りました。

そうして今まで聖書にある奇跡というものを信じることができなんだ私ですが、この電子の不可思議を目にしてマリアの懐胎も、5つのパンと2匹の魚とが5千人の空腹を満たしたこと、さらには水上を歩み給いしイエス、波風をしずめたもうたイエスなど数々の奇跡も必ずしもありえないことではないと信ずるようになったんでした。

それからウイルソン山上の天文台で世界最大の直径100インチの大望遠鏡で夜の木星を見せてもらった私は、今更ながら宇宙の大なることを知り、この宇宙を創造し給いし神の力に驚き、いっそう敬虔の念を深くしたことでした。

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「夏の歌」

2007-08-26 11:12:39 | Weblog

♪音楽千夜一夜第25回&遥かな昔、遠い所で第19回

毎日ロンドンのロイヤルアルバートホールから生中継されるプロムスを聴いている。

今年7月13日にビエロフラービック指揮BBC響のエルガーとウオルトンに始まった「プロムス07」の終焉は来月の8日。すでに会期の半ばを過ぎ、ようやく秋は近い。

これまで印象に残った演奏は、もラヌクルズの鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータ、かつての手兵アムステルダム・コンセルトヘボウを見事にドライヴしたベルナルド・ハイテインクのブルックナーの8番、コーリンデービスとヨーロッパユースシンフォニーの演奏、アバド&ルツエルン祝祭管のマーラー、さらに現在世界でもっとも大きな話題を集めているギュスターボ・デュダメル指揮ベネズエラ・ユース・シンフォニーのショスタコ10番&バーンスタイン曲集などであった。

デュダメルはバレンボイムやムーティやアバドやマゼール、それに我が尊敬する吉田秀和氏などがこぞって褒め称えている新進気鋭の第三世界の音楽家である。その鬼神も避ける疾風怒涛の演奏はまことにエネルギッシュで、全身に爽快さがみなぎる体のものであるが、これは往年の小澤の音楽と同じスタイルであり、当初は斬新かつ革命的に耳朶を聾して先物買いが殺到するだろうが、遠からずして逼塞することでしょう。

先般FMで彼らのベートーヴェンやドボ9などを聴いたが、快速楽章の運転は得意とするものの、緩徐楽章の処理をもてあましていて、それが全体的な演奏効果を大きく妨げているように思われた。

むしろ私には職人肌オペラ指揮者ラニクルズが振ったワグナーの「ラインの黄金」のほうが楽しめた。これからまだゲルギエフなど数多くの実力者が登壇するので総合ランキング評価はまだ早すぎるが、これまでのプロムス全公演でベストの快演であった。

プロムスで思い出すのは英国人のときおり熱狂に傾く自然な愛国心の発露であるが、これがわが国や米国のそれとはひとあじ違った独特の風情があり、BBC響による英国国歌の奏楽と斉唱が終った後、満堂の聴衆が手をつなぎ、肩を組んで、自然発生的に例の「蛍の光」をアカペラで合唱するときのしみじみとした感興、そしてその音程の正しさと見事なアンサンブルにはいつも深い感銘を受ける。日本帝国の「君が代」ではこうはいかないだろう。

ところで、夏のイギリス音楽といえばいつも思い出す1本のテレビ映画がある。

ある夏の終わりにNHKが英国の作曲家フレデリック・ディーリアスの伝記ドラマ「夏の歌」を放映したことがあった。晩年梅毒が元で失明したディーリアスを、彼の妻と弟子のエリック・フェンビーがかいがいしく看護するが、その甲斐もなく孤独で我侭な作曲家は亡くなり、彼の死を悼むBBCの追悼番組が放送されるシーンで、このドラマも終る。

BBCのアナウンサーが、「わが国の20世紀を代表する最大の音楽家の死を悼み、彼の代表作をお届けします」と重々しく告げると、あの懐かしい「夏の歌」の管弦楽の序奏が低く奏され、2人は白いレースのカーテンに閉ざされたリビングルームでよよと泣きくづれるのである。

往時茫茫四十年。この夏のドラマを見た夏の日から長い歳月が徒に流れたが、私が死ぬまでにもう一度観たい唯一の番組が、名匠ケン・ラッセル演出のこの音楽ドラマである。


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ある丹波の老人の話(45)

2007-08-25 10:28:17 | Weblog


第七話 ネクタイ製造最終回

ネクタイの生命は柄にあります。これで他店にヒケを取ってはならん、と私は京都高等工芸出の意匠図案係三人に欧米の流行を参考にするようにと指示して研究させました。

この頃、私は郡是でスンプという機械が発明されたという耳よりな情報に接しました。これは顕微鏡のプレパラートと同じようなものをきわめて簡単に、しかも即座に作れるというのです。

早速動植物の色々な部分を拡大して眺めてみますと、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠をそこから得ることができ、ネクタイの柄、模様、デザインの世界に一大新機軸を開くことができたんでした。

東洋ネクタイ製織所の活動は、戦前のわが国の産業飛躍に小粒ながらも貴重な役割を担ったと自負しておりますが、やがて日支事変となり、それが太平洋戦争に突入する頃には、洋服も廃れて国民服に変わり、ネクタイはぜいたく品としてさっぱり売れなくなってしまいました。

昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしもうたんで、東洋ネクタイ製織所はとうとう解散のやむなきにいたりました。

やがて敗戦となり、私は今度は趣を変えて、家内工業の小工場一〇余個所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、起業当初の原点に還り兄弟二人だけの会社にしました。そして前に述べたように弟の死後は長男がその後を継いで今日におよび、戦前ほどの華やかさはありまへんが、まずもって堅実な経営を続けております。



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ある丹波の老人の話(44)

2007-08-24 09:12:49 | Weblog


第七話 ネクタイ製造その5

まことに小林さんらしい、パリッとしたご挨拶でありました。

それから私の会社と阪急との間にお互い誠意を尽くした取引が始まりました。それは好いのですが、私は小林さんに首を切られた仕入れ係が気の毒でたまらん。その3人を私の店の売込み係に採用したいからとゆうて、また小林さんに頼むと、就職難時代ではあるし3人とも大喜びで来てくれました。
2人は慶応、もう1人は神戸商大の出身の優秀な青年で、とてもよく働いてくれました。

まもなく阪急のネクタイは安くて品質がいい、という評判が立つようになり、私の会社の製品は他社の製品を圧倒して飛ぶように売れるようになりますと、早くも大丸が2度目の注文を寄越しました。

それから島屋、三越、そごう、丸物に納品し、東京では綾部出身の元三越重役松田正臣氏の斡旋で三越に入れ、松坂屋、伊勢丹、白木屋(後の東急)その他岡山、広島の大きな百貨店とも取引し、多くはその店の株も持たされて相互の親善関係を結びました。

製品はドンドン売れ、店は繁盛しました。そこで私は一歩を進めて輸出を計画し、横浜、神戸で外商目当ての見本市を開き、上海の西田操商会を支店同様にして売り込みましたが、これは実際は上海で米国製品に化けて売られたもので、あまり名誉なことではありまへんでした。

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網野善彦著作集第15巻「列島社会の多様性」を読む

2007-08-23 09:20:15 | Weblog


降っても照っても第45回

本巻収録の論文「境界領域と国家」において、著者は公=パブリックなものを、境界的な場、人、物=「公界」的なものと公家、公方、公儀など国家の公的権力につながるものとに峻別しようとしている。
 
欧州でも、神仏あるいは聖なる世界(大宇宙)と人間あるいは俗界(小宇宙)との狭間で重要な役割を果たしていた“境界的な人々”が存在していたが、キリスト教の浸透がそのアジールを奪い去った。同様に日本の社会でも室町時代以降、「公界」は「公儀」によって暴力的に吸収されていったわけだが、この2分法は21世紀のいまも有効であると、私には思われる。

本巻の目玉は少し執筆年代は古くなるが、当初予定されていた宮本常一に代わって著者によって書かれた「東と西の語る日本の歴史」であろう。
著者はこの規模雄大で雄渾な論文のなかで旧石器、縄文時代から現代におよぶ長い時間にわたって列島に鋭い亀裂を生じさせてきた列島東西の諸民族と国家(東国と西国政権、アイヌ、琉球、蝦夷、隼人などを含む)の社会的、考古学的、歴史的、地勢的、政治的、経済的断層を個別具体的に検討していく。

考古学的にはすでに3万年前の旧石器時代から東西石器の形状は異なり、民俗学的には宮本常一などが明らかにしたように、東は“家父長的なイエ中心の縦型父性社会”であり、西は個々のイエの婚姻によって結ばれた“ムラ中心の母性系横型社会”である。
また縄文時代の列島の東西は植生が異なり、ブナを中心とする冷温帯落葉広葉樹林の広がる豊穣な東日本とシイ・カシを軸とする照葉樹林が広がる貧を代表する通商的・軍事的特性であったことも歴史的な事実である。 

このような東西格差と地域の特殊性は、古代から現代まで数多くの政治的対決の淵源となってきた。
蝦夷の跳梁をはじめ9世紀から東西の抗争は激化し、10世紀の中頃には大和政権に反逆する平将門や藤原純友の乱が起こり、これを嚆矢とする「あずまみちのく」の自立を目指す安倍、清原、奥州藤原一族の叛乱へと続き、“西国国家”平家を打倒した源氏は、わが国最初の東国武家政権を鎌倉に確立した。

その後幾多の東西対決を繰り返しながら、最終的に関が原の合戦に勝利した徳川家康が東国政権による全国統一を果たしたが、いまなお列島深奥部には双方の対立要素が潜在し、それは欧州ならば優に複数の民族国家を構成するに足る亀裂であると著者は断言する。

すなわち、旧石器時代から平成の御世まで、“単一民族による単一国家”大日本帝国などほんの一瞬間も存在しなかったのである。

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ある丹波の老人の話(43)

2007-08-22 08:30:55 | Weblog


第七話 ネクタイ製造その4

小林社長は、商品を担当者にも見せ、一応は商品の優秀性を認めてはくれたんですが、値段があまるにも安いのを不思議がり、しきりに小首を傾けるのです。

そこで私は、それは私の店では他店の如く仕入れ係への高い運動料を含まない分だけ安いのである、ということを社主クリストの精神から説いて大いに小林氏を煙に巻いたんでした。

小林さんは「よく研究して返事する」ということでしたが、私は確かな手ごたえを感じておりました。

果たしてそれから数日経つと小林さんがただひとり、私の豆のような店を探すのに一時間もかかったといいながら自動車で来訪され、

「いかにもあなたの言われるとおり開店間もない私の店の仕入れ係もワイロを取っておった。そこで今後のみせしめのため、その3人の仕入れ係をかわいそうだが解雇しました。それからこれから私の店ではあなたの会社のネクタイを主として販売することにしたから、せいぜい勉強して納入してください」

とおっしゃいました。

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ある丹波の老人の話(42)

2007-08-21 09:37:42 | Weblog


第七話 ネクタイ製造その3


私が設立した東洋ネクタイ製織所は、波多野鶴吉翁が郡是を経営した精神に学び、次のような願いを定めました。

吾等の念願
1イエスキリストを当社の社主と奉戴して日々その聖旨に従い、之を忠実に行はんことを期す。
2キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以って凡ての事を為さんことを期す。
3善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙遜を以って修養し自己品性の向上を計る為最善の努力を為さんことを期す。
4常に考え、常に学び、常に励み而して常に何物かを創造せんと勉むることを期す。
5目的達成の為信仰を養い終りまで耐え忍ぶ者は救わるべしとの信念を以って前進せんことを期す。
                    株式会社 東洋ネクタイ製織所

  そうして私は、ひとえに神の御旨に叶う工場であることを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けながら、我々のささやかな営みが主の栄光を顕す一端になることを祈りつつ前進したんでした。           
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ある丹波の老人の話(41)

2007-08-20 11:17:16 | Weblog


第七話 ネクタイ製造その2

さて米国から帰国して早速熱心に郡是に靴下製造を勧めてみたんですが、遠藤社長、片山専務はあくまでも製糸一本槍を主張し、私のいうことなどにはてんで耳を貸しまへん。

ただしかし、たった一人取締役の平野吉左衛門氏だけは、あの温厚な人柄の氏には珍しく非常な熱意を示して私の主張に耳を傾け、その後も私にたびたび意見を求められました。

そして昭和四年、ついに平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として塚口に設立されたんでした。この会社は一時期試練の苦悩を経験しましたが、現在では親会社の製糸を抜いて全郡是を背負って立とうとする勢いを見せております。

一方ネクタイの方ですが、これは前にお話したように私が米国から帰ると間もなく父が亡くなり、このとき都会の生活に敗れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同でネクタイ製造に取り組むことにしました。

その頃、アメリカでも日本でも編みネクタイが流行しておりました。これはしごく簡単な設備で生産できますから、少額の自己資本だけで大阪都島に小さな工場を設けて創業し、その後2,3の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡大し、しばらくするとだいぶ業容が安定してきたので、昭和10年に資本金20万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を設立しました。

本社は大阪におき、京都西陣にネクタイ織物工場を新築し、加工工場を東京、大阪に設け、原糸の提供を郡是に仰ぎ、染織を京都の一流工場に委託して厳密なる製品検査を行うことにしました。ネクタイ工場は織から縫製までを一貫する当時の最新システムを備えた他社に遜色のない超一流クラスで、鋭意優良製品の生産に努めたもんでした。

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ある丹波の老人の話(40)

2007-08-19 11:16:38 | Weblog


第七話 ネクタイ製造

昭和3年、世界日曜学校大会が米国ロスアンゼルスで開かれたとき、私は高倉平兵衛氏と共に、日本代表メンバーの中に選ばれて渡米しました。

そのとき私は、日本の主要輸出品である生糸の消費状況に特に注意を払うて視察を行いました。

米国滞在中はしばしば信者の家庭に泊めてもろうたのですが、どこの家庭にも男子の部屋にはネクタイ掛があって、2,30本のネクタイが掛かっておる。また、婦人の部屋には靴下掛があって10数足の靴下が掛かっているのを知りました。

この米国で需要の多いネクタイと靴下はもちろん米国でも盛んに作られておるが、まだまだ輸入の余地がありそうである。さらにわが国の洋服着用者は年々増加しておりますから、今後自国の需要も増えてくるでしょう。

いま日本は大量の生糸のほとんど全部を生糸のまま輸出しているが、せめてその一部をネクタイ、靴下の製造に振り向け、内外の需要に応じたらどうだろう、

と私は考えたのでした。ネクタイなら小資本でもやれるから、これをひとつ自分でやってみよう。そして靴下は大資本を要するから、これは原料生糸を生産する郡是に勧めてみよう、と思ったんでした。
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弟の死

2007-08-18 07:20:56 | Weblog


ある丹波の老人の話(39)

その時弟は、死んだ妻の事を

「実に良い姉さんやった」

と褒め、

「私が酒を止めたあと、この兄さんの家へ来て泊まるとき、姉さんはいつも土瓶の中へお茶とみせかけて酒を入れ、私の枕元に置いて飲ませてくださったもんでした」

と白状しました。

それから弟は、

「私はほんとはキリスト教に入れてもらいたかったんやけど、私のような者はとても入れてもらえんと思って今まで黙っておりました。兄さんはきっと長生きされると思うが、私は血圧は高いし、とても長生きはできん。死んだらせめて葬式だけでもキリスト教でしてもらえんやろか」

と言いましたので、私は、

「そのお前の心がすでに神に通じておるんやから、葬式など訳もないことや」

と答えたんでしたが、昭和28年の5月7日に脳溢血で亡くなり、葬式は遺志の通りに京都紫野教会で山崎亨牧師の施式によって執り行われたんでした。

 遺児は男二人、女一人でいずれも同志社大学に学び、長男、長女はすでに卒業し、長男は早くも父の業を継いでおりました。そうして私の弟は、後顧の憂いなく安らかに眠ったんでした。

神の御恩寵は私の上のみでなく、父の上にも、弟の上にも豊かでした。感謝の至りであります。                    (第6話弟の更正 終)

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ある丹波の老人の話(38)

2007-08-17 07:22:34 | Weblog


第6話弟の更正 第6回

お互いに心の奥底まで打ち明けて兄弟の溝はすっかり取れました。

私たちは、弟が京都へ奉公に行ったときのことなどを思い出して、神の前に幼子となり、兄弟力を合わせて一仕事やろうと誓い合ったんでした。

そして弟は、私の希望を容れて酒も煙草も断って更生することを誓ったんでした。

薄志弱行、放蕩無頼の弟も永久にこの誓いを破らず、深く私徳とし、私を尊敬して私との共同事業に粉骨砕身し、持ち前の商売上手と過去の経験を生かしてよく私を助け、守りたててくれました。

 昭和27年の12月、私の家に弟がやって来たとき、私は鯛尽くめのご馳走をつくり、絶対買ったことのない上等の酒を買い求め、私が手ずから温めて、

「よく辛抱してくれた。今日はひとつゆっくり飲んでいってくれ」

と弟に勧めると、弟は、

「兄さん、私はこんなにうまい酒を飲んだことはない」

といって喜びましたが、血圧が高いからといって皆までは飲みませんでした。


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ある丹波の老人の話(37)

2007-08-16 06:48:05 | Weblog


第6話弟の更正 第5回

さて色々と周りに迷惑を掛けてきた私のこの弟でしたが、私はこの際、父の形見という意味で3,4千円の金をやって、好きなところへ行って好きな仕事をさせようと思いました。

本音をいいますと、この道楽者とは後難のないようきっぱり縁を切りたかったんです。ほんでもってこのことを「今日は言おう、明日は言おう」と機会を狙っておった訳でした。

しゃあけんど、基督教入信以来すでに十余年、自分の弟に対してこんな仕打ちをすることは全然肉親の愛情に欠けた神の御旨に背くことでありました。

私はかつて本間俊平氏から聞いた話を卒然として思い出しました。
氏は凶悪な強盗犯で釈放された男を自分が経営する大理石工場の金庫番にして更生させたのです。

私はこの話を思い出し、ただおのれの安きを求めて弟を疎んずることをせず、「すくわるるもほろぶるもいっさい弟とともに」の決心を固め、まずこれを心に誓い、神に祈り、それから改めて弟に
「まことにお前には申し訳ないことだった」
と手を突いて謝りました。

すると弟はオイオイと泣き出して、
「兄さん、なにをいうや。兄さんに詫びられるわけがどこにある。どうかその手を上げてください。みな私が悪かったんです…」
と気狂いのようになって言うのでした。

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♪バガテルop26

2007-08-15 13:45:15 | Weblog


戦後62年。色々な問題が山積しているにもかかわらず、我々が他国との戦争に巻き込まれずにすみ、こうして表面は平和な日常を享受していることは、それ自体が奇跡的であり素晴らしいことである。

それにしても今日は終戦記念日ではなく、敗戦記念日である。
戦争は天変地異や台風ではない。わが臣民は過ぐる大戦に無関心をよそおったのではなく、一億火の玉となって積極的にアンガージュしたのだ。

物事の順序からいえば、中国や欧米諸国がまずわが帝国の領土を侵略したのではなく、われわれ日本人が天皇も官民も一体となって主体的・意図的に自己責任で他国を侵略して大きな惨禍を与えたのである。
わが国が勝手に他国に殴り込みをかけ、植民地をつくり、自国民を送り込み、その安全が危殆に瀕すると、自衛という口実のもとで軍隊を送り込み、さらに戦争を拡大していったのだ。その責任はわが臣民自身がきちんと取るべきであった。

国家の本質は市民の幻想であり、国家よりも大切なのは市民の自由意志なので、国家は市民のコンビニエンスのために奉仕しなければならない。美しい國などは無用の長物で、大論・巨論・虚論を販売しない安直近な小さなコンビニ国家こそが、われら臣民の理想なのである。

天下国家商品を販売することは国家の勝手であるが、それ自体が論理矛盾なので、これは憲法ブランドといえども例外ではない。現に私たちは憲法なぞ読んだこともなく、毎日平気で破っているではないか。
国家が唱える「公」は常に形骸化されている。むしろ今を生きる私たちにとっての「公」の実存(在り様)が大事であろう。

それにしてもわれわれは身の程も知らずに世界を相手に大戦争を戦い、2000万人の存在を与え、300万人の損害を受けた。その畏れ多さを反省するためには62年はまだまだ短すぎる。このまま謙虚な姿勢でなお100年河清を待つべし。
そのうちに世界も、頼みの人間界も滅びるだろう。
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