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アマテラス大神はヘビだった?(;一_一)

2024-05-30 18:10:36 | 古代史
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#2021-02-25 14:47:24に記事にしましたが、その後分かったことも加えて再掲します。よろしければお付き合いください(#^.^#)

「国学の四大人(しうし)」の一人とされる本居宣長は、賀茂真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[5]。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。とあります(Wiki[本居宣長」より)。

宮廷で「日本書紀」を講義する学者の副読本とされたそうですが、「日本書紀」よりも先に完成したとされる「古事記」は、実はその序文にそうあるだけで、今の「古事記」がそのまま古くからあった証拠はないのです。序文は日本書紀を講義する九世紀の学者「多人長(おおのひとなが)」が書いたもので、偽書だと言われています。その根拠は明らかで、主なものを簡単にあげると以下のようです。

①天武天皇の勅命で書かれたことが全く記録されていない。
②古事記完成時の記録もない。
③突然、九世紀の学者がその存在を言い出した。
④姓(かばね)のない稗田阿礼や、歴史学者でもない太安万侶に天皇が命じることはあり得ない。

しかし、特に「日本書紀」にないオオクニヌシの神話などがあり、内容的にはすでに存在していたと思われる原古事記から引用した部分があるようです。また、多人長の目的は、低くされた自分の出自の主張と言われてますが(岡田英弘「倭国の時代」(ちくま文庫)2009,p.210)、日本書紀の歴史改ざんをささやかに正すためだったと考えています。

古事記がどうして日本人に人気があるのかは、いくつも異説をならべて大筋が読みにくい神話を提供した「日本書紀」に比べて割合筋の通った話になっているからでしょう。古代人の神道の考え方も理解しやすくなっていますから。

実は、記紀神話が今の形で日本人に親しまれるようになったのは、江戸時代末期、幕末に尊王攘夷の思想が起こり、明治時代になって政府が西洋列強に対抗するために国民教育が行われてからです。

ですから現代の日本国民が知っている記紀神話は、非常に新しいものなのです。(2024.5.30 青字追加)

それまでは古事記は人々にほとんど知られていませんし、720年に成立した「日本書紀」も平安時代までの宮廷貴族や僧侶などの間で知られていた程度です。721年(養老5年)に最初の日本紀講筵(にほんぎこうえん、講義・研究会)が行われて、965年(康保2年)までに計7回行われています。812年(弘仁3年)の講師が多人長でした。講筵に合わせて創作したものだと考えられます。

民間では日本書紀の神話に神仏習合や修験道・密教・道教などの影響を受けた中世日本紀と呼ばれる記紀神話とは全く異なる神話が主流でした。
(2024.5.30 青字追加)

ですからそれまでの庶民は「日本書紀」の詳しい内容はあまり知らなかったと思いますが、室町時代あたりまで日本建国時代の主役が誰であったのかは、神楽や民間伝承によってある程度知られていたと思います。正史「日本書紀」の神話を目にした貴族も史実ではない藤原氏の創った政治文書だとが分かっていたようです。しかし、真っ向から正史に反論することは権力者と敵対することになるので一族の運命を賭けることになるので、「長い物には巻かれろ」という話になっています。つまり、古事記と同様に、藤原氏に悟られないようにして、表向きは正史を踏襲し、真相に導く異伝を書き残したのです。古事記と同様に天地開闢から推古天皇までの歴史全十巻の物部氏に関わる事柄を多く載せた歴史書が先代旧事本紀です。著者は不明ですが、868年に編纂された『令集解』に引用されているとして、それ以前に成立していたとされているようです。(2024.5.30 青字追加)

大和に国譲りした出雲のオオクニヌシなどヤマトに恨みをもって亡くなった神々に対しては、朝廷も庶民も祟られないように拝んでいました。特に天変地異や疫病などが起こると朝廷は勅使を立ててゆかりの神社で、神階を上げ、食封などを捧げて丁重にお祀りしています。庶民は村の守り神などとして道祖神や庚申塔などを祀っていましたが、祭神はサルタヒコとそのペアであるアメノウズメです。その正体は大国主久々遅彦であり、その妃の台与(トヨ)であることはすでに述べましたが、「記紀神話」ではさらに武内宿禰・神功皇后として隠されました(*^。^*)

「記紀神話」の神々は仏教思想の導入によって人間を救済しようとする仏や菩薩がいろいろな姿であらわれた化身として捉えられるようになり(神仏習合),元々の神話から大きく変貌した説話が伝承として伝えられるようになっていきます。皇祖神である天照大御神についても、伊勢神宮の神官と密教の僧侶が関係して伊勢神道という中世独特の神話学が創られたと言われています(斎藤英喜「塗り替えられた日本神話」講談社現代新書 2006、pp.104-105)

例えば、古代から南北朝時代にかけて、未婚の皇女(内親王や女王)が巫女として伊勢神宮や賀茂神社に奉仕していました。皇祖神天照大御神を伊勢神宮に導いたヤマトヒメが伊勢斎宮の始祖となった経緯が「日本書紀」に書かれています。

しかし、斎宮のもとに、アマテラスが夜な夜な通ってきて、ウロコを寝所に残していくという、蛇体のアマテラスの奇妙な言い伝えがあることを十三世紀後半に伊勢神宮を訪れた僧侶通海が耳にしたと、その著書「大神宮参詣記」にあります(上掲書 pp.129-130)。

平安時代後期の女流日記「更級日記」に内侍所の老巫女から聞いた神鏡にまつわる蛇体のアマテラスの神話が残されています。これが平安貴族女性の魂を救済する神となり、その身に仏を宿していく中世神話の始まりを告げていたとあります(上掲書 pp.49-52)。



伊勢灌頂という蛇身のアマテラスという神格を実践的に体得する作法があり、「神体でありわれわれの心である吽(うん)字を観想する。吽(うん)字は理知一体両部不二の表示であるが、さらに「吽」字の父字である「訶(あ)」の屈曲した形態を蛇形として知覚し、それ故神の本体は蛇身であることを認識するのである。・・・そこに神の究極の姿を見出し、それと合一するという最高の神秘体験」と伊藤聡氏の「伊勢灌頂の世界」から上掲書(pp.132-133)に紹介されています。

古代では蛇神は水神で農耕神とされていますが、中世神話では神の蛇体は人々の苦しみを神が引き受けてくれているという、その正体である本地仏の垂迹(すいじゃく)した姿と考えたようです。

また、豊受大神が外宮に呼ばれたのも社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされている[1]。即ち、元々は丹波の神ということになる[2]。Wiki「トヨウケビメ」にあります。

『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として羽衣伝説があり、この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)とありますので丹波の神のことです。羽衣伝説はいくつか異説がありますが、共通するのは男または老人が水浴びしていた天女の羽衣を盗ったので、返してもらうために福を授ける話です。男とは子を儲けた話もあります。すでに老人の大国主久々遅彦と若い台与の伝承だと突き止めています。

本当は怖い七福神の謎(;一_一)

ですから、皇祖神アマテラスは蛇体の男神で大国主がその正体であるとずっと考えられていたということなのです。江戸時代の学者の多くも天照男神説です。天皇家の菩提寺泉涌寺 (せんにゅうじ、京都市東山区)でも皇祖神の霊と一体となって国家の安泰と国民の安寧を祈る天皇は皇統の男系男子であって、女性天皇は認知していなかったので江戸時代の歴代天皇の肖像画に二人の女性天皇のものは掲げなかったようです(Wiki「女性天皇」2021-02-25より)。

幕末になって平田篤胤の復古神道の考え方が尊王攘夷運動に結びつきます。当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教・仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義を捨て、神道的方面を発展させたと評されることが多い[5]。Wiki「平田篤胤」にあります。

これにより明治政府によって神仏判然令(神仏分離令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達[2]の総称)が全国的に公的に行われました。王政復古に際して皇国思想を唱道した国学者、特に長谷川昭道の皇道主義の思想と献策を受けて大教宣布運動が行われました(Wiki「神仏分離」より)。

神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。



神仏分離政策は、「文明化」への当時の国民の精神生活の再編の施策の一環として行われたものであり、修験道・陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗の禁止と連動するもので、仏教界のみならず、修験者・陰陽師・世襲神職等、伝統的宗教者が打撃を受けた[7]。

日本版の文化大革命だったと思います。戦前の記紀神話などの実証的学術研究を不敬罪としたことと共に古代史研究を百年以上遅らせる結果になった愚かな政策であったと思います。

明治革命新政権はさらに、明治四年廃藩置県後まもなく文部省を設置しました。そこで全国の教育を統轄することとなった文部省は、翌五年に「学制」を発布して近代学校制度が成立しました。その中で「記紀神話」に基づく国史が広く国民に教えられ、「教育勅語」が小学校から教えられることによりすべての日本国民の倫理観が確立されましたので、これについては大いに評価できます。

しかし大東亜戦争の敗戦後のGHQや日本の敗戦革命を陰謀した戦後利得者(真のA級戦犯)らによる日本弱体化計画によって(偽)日本国憲法の発布と共に「教育勅語」が廃止されてしまいました。その結果、日本破壊を狙う彼らの弟子の大手サヨク・マスメディアのまき散らす堕落した利己的風潮が国民にまん延しています。最近ではご皇室や各地の神社に対する崇敬も薄まり、日本の完全崩壊が危惧されます。

しかし明治政府によって日本国民に植え付けられた記紀神話に基づく皇国史観はまた、こういう時代になって日本の未来を失わせる弊害をもたらすことも古代史の研究によって明らかになってきました。(偽)日本国憲法と記紀神話を心に植え付けられた国民によって、皇位継承問題において女性天皇や女系天皇まで容認する風潮が大勢を占める状況になっています。インチキ・リベラルのサヨク勢力の狙いどおりの日本になってしまっています。YouTubeでも秋篠宮家を貶め愛子天皇を待望する風潮を作ろうとしてかなり成功していますが、彼らの目的は女系天皇の次は日本から天皇を追い出すことだと直ぐに分かります。日本国民は完全に分断されます。天皇陛下が居なくなった日本はもう日本ではありません。

皇祖神が女神アマテラスというのも史実ではありません。

藤原不比等が日本建国の歴史を隠蔽し、藤原氏に都合の良い歴史をねつ造し、

権力を維持するために創作したフェイク女神なのです!(;´Д`)


記紀は勝者藤原氏のための歴史書です。天皇の歴史書ではなかったのです!2024.5.30 赤字追加)

真の皇祖神は初代王天御中主(アメノミナカヌシ、日本の龍蛇神の始祖)から第17代王伊弉諾尊(イザナギ)とその子の第18代素戔嗚尊(スサノヲ)までの歴代奴国王です(注)。

また一度滅亡した奴国を吉備で再興し、ヤマト王権の基礎を築いた本当の天照大神尊(ニギハヤヒ、イザナギ・イザナミの子でスサノヲの弟)とスサノヲの子孫の大国主久々遅彦が皇祖神なのです。

天皇陛下にはこの皇祖神の男系男子しかなれません!

未婚の皇女は斎王(巫女)となり皇祖神に奉仕するのがその役割です。

女性も皇統の男系男子ではない者も天皇にはなれません!

この認識が日本を救う唯一つの道だと思います。

女系天皇は二千年以上長く続く伝統国家日本を破壊する易姓革命なのですから!

女性天皇や女性宮家創設は日本破壊の為の布石なのです。


GHQの命令によって1947年(昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族の中から皇位継承候可能な方々に皇族復帰していただくことが、若い悠仁親王殿下のご負担を軽減し、皇位継承を安定化させて伝統国家日本を存続させる最良の策だと思います。天皇陛下やご皇族の最も重要なお仕事は(偽)日本国憲法に規定されたもの以外の日本国と国民のための宮中祭祀だと思います。

すでに徳仁皇太子殿下がご即位されたので少し古いですが、この動画の説明から家系図のPDFファイルがダウンロードできますので、どうぞ( ^)o(^ )



(注)奴国はナコクと読みます。金印の紐が蛇(ナーガ)だから分かります。地名も那珂、那賀などがありますから間違いないのです。

委奴国を伊都国(イトコク)と読むのは不正解です。委は倭のにんべんを意図的に省略する当時の慣例から書かれています。このことは以下の大発見につながりました。難升米の難も儺(おにやらい)のにんべんを省略した字だと倭国王帥(師)升の話から推理できます。難升米は師升王の孫あたりで倭国王でした。伊都国は殷王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む王都の名前です。奴国を滅ぼした師升王との事績の類似から付けられたものだと、難が儺だということから分かりました。
伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆


【関連記事】
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平安時代後期の後三条天皇(第71代)からという説がありますが反論もあるようで、鎌倉時代の後深草天皇(第89代)から江戸時代後期まで、仏式の即位儀礼が行われています。


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-03-09 05:16:32
早うございます!
ご意見の提案有難うございます。
男系男子の天皇説、神話の域を出ないと思われます。遺伝子分析をすれば、理解できるのではないでしょうか。男性は、戦争、戦い、暴力によって支配しているようにしか感じられません。現代社会においては、徐々にではありますが、暴力より発言力が勝って来る時代となってきたように感じます。仕事は見て覚えろではないと思います。新しい時代の幕開け、女性天皇を歓迎しています。
ご投稿有難うございます。 K.M 
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