刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証22】 難升米という人物は?(その2)

2021-08-06 22:51:58 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

玄界灘を支配するムナカタ族を懐柔する前までは、日に日に強大化する狗奴国に圧迫された倭国はいつ滅亡してもおかしくない、かなり危機的な状況でした。これは倭国大乱の痕跡を鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。旧奴国勢力は半島南部の鉄を大量に入手して、阿蘇山東部の大分県竹田市・豊後大野市から熊本県側の阿蘇山麓などに武器を製造する多数の冶金工房を作り、菊池川流域の集落(方保田東原遺跡など)を最前線の軍事基地としていました。ここから倭国の領域である佐賀平野・筑紫平野の集落のみならず王宮のある三雲遺跡に近い福岡市西区の集落群まで襲撃して、倭国王をかなり苦しめた模様です。三雲遺跡の王宮も襲われたので難升米王の先代も討ち死にしたのかも知れません。


(左クリックで拡大)

(左クリックで拡大)

狗奴国側の中心人物が、「魏志倭人伝」に王よりも先に登場させた狗奴国の官「狗古智卑狗」です。久久能智神(ククノチ)として兵庫県豊岡市久々比神社で祀られており、広く行われている棟上式の祭神屋船久久遅命(ヤフネククノチノミコト)のことだと突き止めました。奴国のクーデターを逃れたスサノヲの子五十猛命(イタケル)と同じ木霊ですので、狗古智卑狗(久々遅彦)はイタケルの子孫が代々襲名する王名だったと推理しました。玄界灘や山陰・北陸の日本海側を支配圏とする縄文海人ムナカタ族の王とされたと考えています。熊本県の菊池という地名はこの(第一次)倭国大乱で活躍した久々遅彦に因む地名でしょう。

二〇四年に公孫氏が帯方郡を置き、半島の混乱がようやく収まりましたので、まだ二十歳代の難升米王は早速公孫氏に支援を求め、公孫氏の援助によって倭国は勢いを取り戻したようです。(注2)恐らく、先代倭国王の時代に公孫氏の支配する楽浪郡に使いを送っていたと思われますが半島が相当乱れたので、交流が途絶えていたと考えられます。(注3)倭国には鉄の供給が無くなり、北部九州の集落で青銅器を溶かして矢尻「銅鏃」を作っていたことからも分かります。難升米王は菊池川添いの狗奴国の軍事拠点を襲撃し、そこで久々遅彦を討ち取ったのではないかと推理しました。久々遅彦の配下の玄界灘を支配するムナカタ族(後の和邇氏の祖)は大活躍していた王を突然失い、跡継ぎである後世大国主と呼ばれた久々遅彦はまだ幼かったので、途方に暮れていたところを、難升米王が和解の手を差し伸べて懐柔したものと推理しました。

難升米王は倭国の伝統ある祭祀に、前回述べたムナカタ族の卑弥呼(姫巫女)による太陽神の神託を取り込む方式を導入する決断をしたようです。これによって玄界灘を支配するムナカタ族(和邇氏の祖)は、ムナカタ族の山陰・北陸を支配する部族が狗奴国との関係を断てないので(注4)、ムナカタ族は分裂することになりました。これにより難升米王の支配する倭国は、一気に九州全域、中国西部(山口県)と四国西部(愛媛県・高知県)を版図にしました。後には四国東部(香川県・徳島県)と和歌山県の沿岸部までも倭国側についたようです。ですから、今度は狗(旧)奴国側が鉄の供給が断たれてしまったので、卑弥弓呼大王は新たに建設した纏向に旧奴国とつながりのある東国勢を呼び寄せました。倭国追討の祈祷を連日行って、計画を練ったようです。纏向で発見された大量の桃のタネはその頃の祈祷に使ったものではないでしょうか。

景初二年(238年)八月に魏の太尉司馬懿によって公孫氏が滅亡し、楽浪郡と帯方郡も魏が統治するようになったので、次に倭国が魏に追討されることを難升米王は怖れていました。司馬懿は降伏してきた公孫淵と従臣三千名の首を刎ね、さらに15歳以上の男子を全て殺して、遺骸をうず高く盛り上げて京観を作ったとされていますので、その情報が難升米王の耳にも入っていたはずです。そこに、倭国懐柔を司馬懿から命ぜられた帯方郡太守劉夏によって朝貢するように促されたので、渡りに舟ということで自ら決死の覚悟で、六月に帯方郡に出かけました。倭国の状況を劉夏に伝え、魏を後ろ盾にして狗奴国を抑えようと考えたはずです。劉夏は、東夷の朝貢を曹魏第一の功績として司馬懿のものにするために、朝廷への報告書の内容を二人で相談したのだと推理できます。情勢を的確に読んで交渉を成功させた難升米王は、とても度胸のある優れた人物です。十二月には帯方郡から洛陽に呼ばれて、少帝に拝謁し、司馬懿とも酒を酌み交わしたと思います。(2021.8.7  赤字修正)

さて、苦境にあった狗奴国側も、倭国が魏に朝貢したことを知り、焦ったはずです。ようやく倭国に追討軍を送る決断をしました。纏向遺跡の外来土器のほぼ半数を占めるのが東海ですので、ニギハヤヒ大王の血を引く尾張王(物部氏と同族)が追討軍の主将になったと推理しました。「日本書紀」では仲哀天皇の九州遠征に対応する話だという関裕二説を採りました。香椎宮に到着した仲哀天皇(タラシナカツヒコ)は住吉大神の神託を信じないために突然崩御されます。住吉大神は常に神功皇后を守護する神です。傍らに寄り添い皇后を助けた三百歳の老人武内宿禰と重なります。「日本書紀 神功皇后紀」に「魏志倭人伝」の景初三年の卑弥呼の朝貢記事の他、西晋への台与の朝貢記事も注記され、神功皇后が卑弥呼なのか台与なのかあいまいにしています。しかし、卑弥呼には夫もなく、子もいないと思われますが、神功皇后は応神天皇を産み、九州から東征して即位させますので、台与を神功皇后のモデルとしたと考えています。



【関連記事】
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆


(注2)204年帯方郡設置の直後に、卑弥呼が女王に共立された時点で政治を輔佐する人物が男弟とあります。その時卑弥呼は年長大だったとありますから、三十才くらいだとすると、男弟とした難升米王はそれ以下の年齢ですから、難升米は二十代の若者だと思います。

(注3)Wiki「公孫氏(遼東)」によれば「189年、公孫度は後漢により遼東太守に任命されたが、そのまま後漢から自立する。そして朝鮮半島の北端である楽浪郡や、一時は山東半島まで勢力を伸張した。」とあります。奈良県東大寺山古墳で発見された中平紀年銘鉄刀は、189年か190年に公孫氏から難升米王の先代が賜ったものだと思われます(後漢の年号「中平」は紀元後 184 ~ 190 年)。238年公孫氏が滅んだので、難升米王が和邇氏の祖阿田賀田須命(アタカタスミ)に与えたのではないかと考えられます。天理市和邇町の和邇坐赤坂彦神社の祭神で、市杵嶋比賣命(イチキシマヒメ)と共に祀られています。イチキシマヒメが宗像三女神の主神で卑弥呼だと考えています。残りの二人の女神が台与のことだと考えています。卑弥呼の宮室の在ったと考えている宇佐市安心院町の「三女神社」の二の鳥居の神額に「二女神社」とあります。「三は妙だ」ということで「さんみょう」神社と地元では呼ばれているのではないかと思います(^_-)-☆。

(注4)スサノヲの母イザナミの墓が比婆山に在ると伝えられています。いくつか説がありますが、米子の宗形神社辺りがイザナミの出身地だと思われますので、島根県安来市伯太町の比婆山久米神社ではないかと思います。


ここまでお付き合い、ありがとうございます。つづきもよろしくお願いします。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。