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【検証22】難升米という人物は?(その3)

2021-08-08 00:00:12 | 古代史
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倭国への追討軍が大和を出たとの情報が難升米王の耳に入った時期だと思いますが、247年3月24日に北部九州で日食が起こりました。北九州市は皆既日食が見られました。難升米王の伊都国では部分食ですので、完全に暗くはなりませんが、日没前でしたので、太陽が相当欠けながら海に沈んで行ったのを目撃したと思われます(伊都国では最大食分99%)。昼間の皆既日食であれば、真っ暗になっても時間と共に明るさが戻りますが、日没帯食では翌朝に再び太陽が昇るのか不安になるはずです。難升米王は不吉なことが起こる前兆と捉え、太陽が欠けるのは卑弥呼が不謹慎で霊力が衰えたためだと考えたようです。不吉なことを避けるためにムナカタ族に気付かれずに、すぐに卑弥呼を暗殺するよう指令したと推理しました。当時の倭人は、貴人が不慮の死を遂げると怖ろしい崇りがあると信じていたのでしょう。殺した後に径百余歩(約150m)の円墳を作り、百余名の奴婢を殺して殉葬しました。口封じのためもあったのかも知れませんが、ムナカタ族の耳にも入った模様です。



その後、帯方郡から二人目の使者張政(ちょうせい)が到着し、難升米王に詔書と黄幢を届けましたが、すでに卑弥呼は亡くなっていたとあります。

そしてその直後でしょうか、倭国追討軍が北部九州に到着しましたが、卑弥呼が難升米王に殺されたことを知ったムナカタ族は、抵抗せずに狗奴国側に降参したと推理しました。(注5)そのため難升米王は恐らく、勝ち目はないと見て、親魏倭王の金印を持って素早く帯方郡に逃亡したと思われます。

倭国王が逃亡したので、追討軍の主将であった尾張王(タラシナカツヒコ)が狗奴国の卑弥弓呼大王を裏切り、自ら倭王に立ったと推理しました。副将として参加していた山陰・丹波・北陸の久々遅彦王や大王に近い河内物部勢などが反発したと推理しました。男王が立つと千人ほどが死ぬ内戦になったと「魏志倭人伝」が伝えています。タラシナカツヒコは殺されて、鳥栖市の九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと考えています。

そして十三歳の台与が女王になって収まったとあります。台与は卑弥呼の宗女です。つまり卑弥呼と同じムナカタ族の姫巫女ですから、勝者は久々遅彦だと分かります。そして女王に立てたということは、今度は久々遅彦らが卑弥弓呼大王を裏切って魏を後ろ盾にしたということです。久々遅彦は大王の親族の有力者尾張王を殺害してしまったので、尾張勢から恨まれることになるだけでなく大王がどのように判断するか不安であったので、魏使張政の進言に従ったものと推理できます。

これによって、山陰・丹波・北陸の久々遅彦王は倭国の版図であった九州・四国・中国西部を手に入れ、後には遠州・駿河から信州や関東までも、列島のほとんどを支配したと思われます。ですから、久々遅彦王は後世、大国主命と呼ばれ、現代の日本の至る所で祀られています。仲哀天皇(タラシナカツヒコ)を殺したのが住吉大神であり武内宿禰ですので大国主久々遅彦ということです。(注6)そして十三歳の女王台与が神功皇后のモデルです。後で妃にします。神功皇后の子応神天皇の本当の父親は大国主ですが、「日本書紀」は仲哀天皇の子としてそれを隠しました。

ということで、張政は倭国が大国主久々遅彦の手に落ち、魏を後ろ盾とするように工作したと帯方郡に報告したので、司馬懿(179年 - 251年9月7日)にとって最早用済みとなった難升米王は司馬懿の命令で帯方郡太守によってひそかに殺されたと推理しました。年齢は六十五歳くらいでした。波乱万丈の人生で、哀しい最期だったと思います。

日本の正史「日本書紀」が隠してしまいましたが、難升米王の祟りで長い間日本建国の真相が隠されてしまったのかも知れませんね。建国時代の忘れてはならない重要人物のひとりでした。親魏倭王の金印が帯方郡址付近で見つかれば、この推理は大当たりでしょう。歴史的な価値のある金印なのでまさか鋳潰されることはないかと思いますが、どうでしょうか?見つかっていればとっくに世に知られるようになるでしょうから、まだ見つかってはいないのでしょう。247年に亡くなったと思われる難升米王も、その死から1,774年も経ちましたので、もうそろそろ出してくれるかもしれませんね(^_-)-☆

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(注5)「魏志倭人伝」に正始四年に倭国から派遣された大夫伊聲耆(いとぎ)、掖邪拘(やざく)等八人も率善中郎将と印綬を与えられたとあります。しかしここで、けったいなことがあります。率善中郎将と印綬が掖邪拘等八人に与えたと書かれていて、正使であるはずの大夫伊聲耆を飛び越えています。

狗奴国の官を王よりも先に書いたのは、狗古智卑狗(久々遅彦)が魏にとって重要人物の倭国王大国主だからと思われます。同じ考えで、掖邪拘は、後に「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」とあり、台与が正使として送った人物ですから、伊聲耆よりも重要な人物だからだと推理できます。正始四年は難升米王の時代でした。倭国王が大国主に代わっても要職に就いていますので、掖邪拘はムナカタの族長で和邇氏の祖の赤坂比古と推理しています。伊聲耆はムナカタ海人の族長先代赤坂比古のことで、卑弥呼の父と推理しています。詳しくは「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」をご参照ください。(2023.2.28 赤字追加)

しかし、台与の遣使のこの記事は、台与が女王に立てられて直ぐなのか、いつのものか明記されていません。張政はまだできたばかりの親魏倭王の大国主・台与政権の舵取りのために、直ぐには帯方郡に帰還できないはずです。この後の話は長くなりそうなので、またの機会でお願いします(^_-)-☆

(注6)大国主久々遅彦は、いくつあるか分からない程数多くの別名や分身を持つ神として祀られていることを突き止めました。台与も同様です。道祖神などで夫婦の神として登場するのも大国主と台与のことですよ。日本建国の主役だったのをヤマト政権が隠したからなのです。

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まだ倭国を手なづけた功績が司馬政権に認められて太守に出世した張政の墓の話があるのですが、またの機会にしましょう。
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