いつも応援ありがとうございます。
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古代史ランキング
とてもいい動画があったので、コメントをしました。沢山やり取りさせてもらったので、何回かに分けた方がいいかと思います。とりあえず、この部分をご紹介させてください。是非、お付き合いください( ^)o(^ )n
刮目天
いつもいい動画をありがとうございます。九州説を三つに絞ってくださったのは正解です。
まず、山門説ですが、邪馬台と発音が微妙に違います。前者は山地への入り口をあらわす普通名詞ですが、邪馬台はヤマ国に住む台(女王)つまり卑弥呼という意味なのです。ですから、魏志倭人伝でも一度しか使われず、あとはすべて同じ意味の女王国と記されているのです。写本を元にした版本に邪馬壱国とあるので探しておられる方がいますが、意味を考えると写本がある理由で壱に変えられたのだと分かります。それから、魏志倭人伝に「東に千余里海を渡ると又倭種の国がある」という記述が適合しませんので、どういう理由でこの文章を無視したか、合理的な理由を示さずに、山門説を主張するのは説得力がありません。魏志倭人伝が政治文書だということに気づいていないから、いつまでも邪馬台国論争があるのですよ(*´Д`)。
日向説ですが、初代神武天皇が三世紀にヤマトを征服した考古学的証拠がありません。日本書紀は天皇家の歴史書だと思われていますが、編纂を命じた天武天皇が崩御して30年以上後の権力者藤原不比等によって完成させられている事実を皆さん見落としています。不比等は藤原氏が権力を握り続けたいために、日本建国時代で活躍した祖先をもつ豪族らを抑えて、没落させる目的で、不都合な史実を神話に閉じ込め、都合の良い話を創作したことが分かってきました。日本建国は旧奴国(狗奴国)が倭国を滅ぼして統一したという事実が鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。
ついでですが、畿内説もこの時期に九州の土器が纏向遺跡で出土していないことから、北部九州とは敵対関係にあった狗奴国だと容易にわかりますよ(^_-)-☆
そして宇佐説ですが、これが正解です。本質家さんへのコメントにハートマクいただき感激です(#^.^#)
宇佐市安心院町三女神社に卑弥呼の宮室があったと突き止めました。そして卑弥呼の墓はその北西部にある直径約150mの円墳だと発見しました。その横の地名が百余人の奴婢を殺したことを示唆する「血野」という地名になっていました(地元では別の伝承にしていますが、卑弥呼の墓であることを隠すためだと推理しています)。また、同じ三女神社という社名の遥拝所があり、日食が原因でその場所で卑弥呼が殺されたことを示唆する「ヒカケ」という地名まで残っており、三女神の石塔やおどろおどろしい摂社もありますから間違いないと思っています(「卑弥呼の墓は見つかってるよ」参照)。
本質家さんにコメントしたとおり、卑弥呼は日蝕が原因で殺されたムナカタ族の姫巫女、通称ヒメゴで間違いないですよ(^_-)-☆
詳しいことは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。失礼しました( ^)o(^ )
ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!このゴールデンウィークで刮目天さんのブログの記事を殆ど閲覧させて頂きました。とても面白く勉強になりました。地名はとても大事なヒントな気がします。ヒカケという地名があるのは知りませんでした。日食と関係がありそうでとても意味深ですね。
刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん 早速ありがとうございます。通説と違うので、いろいろと疑問がわくと思います。研究が進みますので、遠慮なくいってください( ^)o(^ )
刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん わたしも遺跡ウォーカーでヒカケ横穴群の存在を知って椅子から転げ落ちました。横穴が掘ってあるのです。岩戸隠れを示唆しているのですが、それによって卑弥呼の墓を隠しているのですから驚きました。その摂社や三女神社との間には仁聞上人が作ったといわれる乳不動があって、その辺りに温泉が湧いているのですっぽんを養殖しています。卑弥呼は毎晩この露天風呂に入ってすっぽん料理を味わって濁り酒を飲んでいたのだと思います。ですから、卑弥呼が入浴しているところを襲われて、摂社の場所まで連れていかれて殺されたと推理しています。詳しくは拙ブログ「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」にありますのでどうぞ( ^)o(^ )
ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!こちらこそこれからもよろしくお願いします。
本質家
確かに宇佐神宮は比売大神と応神天皇・神功皇后を祀っているので、大和王権の勢力があったと言うのは合理的ですね。
俺も邪馬台国は吉野ケ里遺跡かその周辺にあったと思うので、みやま市周辺はかなり有力な候補で福岡には円墳もありますね。
後は朝鮮半島南部の前方後円墳を調べて、年代や大和王権と邪馬台国のどちらに近いかを、副葬品などで調べれば詳しく解析できそうですね。
俺は纏向遺跡と箸墓古墳が大和王権で、出雲勢力を取り込んで支配地域を拡大した、今の日本に繋がる勢力だと思います。
刮目天
本質家さん いいセンスです!宇佐神宮は八幡大神を第一殿、比売大神第二殿、神功皇后第三殿となってますが、第二殿を一番立派な中央として左右に八幡大神、神功皇后が祀られているので、主祭神は明らかです。比売大神はもともと宇佐地方で祀られていた宗像三女神です。これで分かると思いますが、三女神はひとりなのです。
なぜ、三女神がヤマト政権の崇敬を得ているのか考えると沖ノ島祭祀が4世紀から9世紀まで行われていることから、沖ノ島が半島との交通路にあったからとすぐにわかります。半島南部に鉄の産地があります。なぜ魏志倭人伝に描かれた渡りやすい、末蘆国・壱岐のルートを使わないのかに注目すると、このルートしか使えなかったのではないかと分かります。つまり伊都国・奴国の倭国側が抑えていたからです。(2022.5.7 赤字訂正)
ですから倭国大乱の時代から三世紀のヤマト政権は北部九州の倭国と対立していた狗奴国で、最終的に半島南部の鉄を入手して倭国を滅ぼして日本を統一したのだと分かります。その経緯は少しややこしいのですが、倭国大乱は半島の韓人・ワイ人が暴れて混乱していた時期ですから倭国は楽浪郡との交易もできなくなっていた、一方狗奴国は沖ノ島・対馬経由で狗邪韓国の鉄を入手して強勢になったということですので、ヤマト政権が誕生したのは沖ノ島ルートを支配していたムナカタ海人族が重要な役割を果たしていたからということになります。ムナカタ族が祀る太陽神信仰の姫巫女が卑弥呼だったと分かります。卑弥呼の一族が後に近江から大和に根拠地を移した和邇氏だということも分かりました。東大寺山古墳のある和邇坐赤坂比古神社の祭神がイチキシマヒメとアタカタスミです。後者がムナカタ族の祖神、イチキシマヒメは三女神の主神で、厳島神社や弁財天として日本全国で祀られていますから、卑弥呼ですよ!近江八幡市の比牟礼八幡神社でも祀られていますが、もとは日蝕社(ひはえのもり)だったと思われる神社名が藤原不比等によって日群杜(ひむれのもり)と強権で変えられています。ですから地元では日触山として似た名前を残したのだと思います。詳しくは拙ブログ「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」をご参照ください。宇佐八幡でなぜ卑弥呼が祀られているのかもすべてわかりましたよ(「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」参照)。
ということで宇佐説が正解ですよ(#^.^#)
ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!宇佐神宮の比売大神が卑弥呼かもしれないなと妄想したりします。吉野ヶ里遺跡も新たに発掘調査が進んでおり、今後の発見に期待出来そうですね。
刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん 早速ありがとうございます。これだけ状況証拠がそろうと、これは妄想ではなく事実だと思いますよ(*^。^*)
邪馬台国論争は終了したと考えています。あとはこの事実を使って、藤原不比等によって隠された次の時代の歴史の真相を科学的に探究していきたいと思っています( ^)o(^ )
刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん 今発掘が始まっていますが、佐賀平野はシナの影響を強く受けていますよ。弥生中期に奴(ナーガ=龍蛇神)国王の要請で徐福が来日して吉野ヶ里遺跡一帯の王にしてもらったと推理していますので、証拠が見つかればいいなと期待しています。
本質家
@刮目天
大和王権と別の北九州勢力があったので、佐賀平野で大陸の影響があるのは当然で、邪馬台国は30余国を統一したと言う話なので、魏志和人伝の記述がおかしいと思います。
刮目天
@本質家 さん それは三世紀ごろの話です。徐福はBC.219に来日していますよ(^_-)-☆奴国はそのころ須玖タカウタ遺跡で官営工場を作っていますし、須玖岡本の王宮に宮廷楽師が登場したと考えています。
吉野ヶ里の墳丘墓の南側にある祭祀遺跡と西南の方向から入る墓道が前漢の武帝が、泰山の麓で行った明堂の祀りと一致していることが分かっていますし、その他にも高島先生が指摘していましたよ(^_-)-☆
【関連記事】
弥生時代に神代文字あったのか?(*^。^*)
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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刮目天
いつもいい動画をありがとうございます。九州説を三つに絞ってくださったのは正解です。
まず、山門説ですが、邪馬台と発音が微妙に違います。前者は山地への入り口をあらわす普通名詞ですが、邪馬台はヤマ国に住む台(女王)つまり卑弥呼という意味なのです。ですから、魏志倭人伝でも一度しか使われず、あとはすべて同じ意味の女王国と記されているのです。写本を元にした版本に邪馬壱国とあるので探しておられる方がいますが、意味を考えると写本がある理由で壱に変えられたのだと分かります。それから、魏志倭人伝に「東に千余里海を渡ると又倭種の国がある」という記述が適合しませんので、どういう理由でこの文章を無視したか、合理的な理由を示さずに、山門説を主張するのは説得力がありません。魏志倭人伝が政治文書だということに気づいていないから、いつまでも邪馬台国論争があるのですよ(*´Д`)。
日向説ですが、初代神武天皇が三世紀にヤマトを征服した考古学的証拠がありません。日本書紀は天皇家の歴史書だと思われていますが、編纂を命じた天武天皇が崩御して30年以上後の権力者藤原不比等によって完成させられている事実を皆さん見落としています。不比等は藤原氏が権力を握り続けたいために、日本建国時代で活躍した祖先をもつ豪族らを抑えて、没落させる目的で、不都合な史実を神話に閉じ込め、都合の良い話を創作したことが分かってきました。日本建国は旧奴国(狗奴国)が倭国を滅ぼして統一したという事実が鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。
ついでですが、畿内説もこの時期に九州の土器が纏向遺跡で出土していないことから、北部九州とは敵対関係にあった狗奴国だと容易にわかりますよ(^_-)-☆
そして宇佐説ですが、これが正解です。本質家さんへのコメントにハートマクいただき感激です(#^.^#)
宇佐市安心院町三女神社に卑弥呼の宮室があったと突き止めました。そして卑弥呼の墓はその北西部にある直径約150mの円墳だと発見しました。その横の地名が百余人の奴婢を殺したことを示唆する「血野」という地名になっていました(地元では別の伝承にしていますが、卑弥呼の墓であることを隠すためだと推理しています)。また、同じ三女神社という社名の遥拝所があり、日食が原因でその場所で卑弥呼が殺されたことを示唆する「ヒカケ」という地名まで残っており、三女神の石塔やおどろおどろしい摂社もありますから間違いないと思っています(「卑弥呼の墓は見つかってるよ」参照)。
本質家さんにコメントしたとおり、卑弥呼は日蝕が原因で殺されたムナカタ族の姫巫女、通称ヒメゴで間違いないですよ(^_-)-☆
詳しいことは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。失礼しました( ^)o(^ )
ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!このゴールデンウィークで刮目天さんのブログの記事を殆ど閲覧させて頂きました。とても面白く勉強になりました。地名はとても大事なヒントな気がします。ヒカケという地名があるのは知りませんでした。日食と関係がありそうでとても意味深ですね。
刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん 早速ありがとうございます。通説と違うので、いろいろと疑問がわくと思います。研究が進みますので、遠慮なくいってください( ^)o(^ )
刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん わたしも遺跡ウォーカーでヒカケ横穴群の存在を知って椅子から転げ落ちました。横穴が掘ってあるのです。岩戸隠れを示唆しているのですが、それによって卑弥呼の墓を隠しているのですから驚きました。その摂社や三女神社との間には仁聞上人が作ったといわれる乳不動があって、その辺りに温泉が湧いているのですっぽんを養殖しています。卑弥呼は毎晩この露天風呂に入ってすっぽん料理を味わって濁り酒を飲んでいたのだと思います。ですから、卑弥呼が入浴しているところを襲われて、摂社の場所まで連れていかれて殺されたと推理しています。詳しくは拙ブログ「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」にありますのでどうぞ( ^)o(^ )
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確かに宇佐神宮は比売大神と応神天皇・神功皇后を祀っているので、大和王権の勢力があったと言うのは合理的ですね。
俺も邪馬台国は吉野ケ里遺跡かその周辺にあったと思うので、みやま市周辺はかなり有力な候補で福岡には円墳もありますね。
後は朝鮮半島南部の前方後円墳を調べて、年代や大和王権と邪馬台国のどちらに近いかを、副葬品などで調べれば詳しく解析できそうですね。
俺は纏向遺跡と箸墓古墳が大和王権で、出雲勢力を取り込んで支配地域を拡大した、今の日本に繋がる勢力だと思います。
刮目天
本質家さん いいセンスです!宇佐神宮は八幡大神を第一殿、比売大神第二殿、神功皇后第三殿となってますが、第二殿を一番立派な中央として左右に八幡大神、神功皇后が祀られているので、主祭神は明らかです。比売大神はもともと宇佐地方で祀られていた宗像三女神です。これで分かると思いますが、三女神はひとりなのです。
なぜ、三女神がヤマト政権の崇敬を得ているのか考えると沖ノ島祭祀が4世紀から9世紀まで行われていることから、沖ノ島が半島との交通路にあったからとすぐにわかります。半島南部に鉄の産地があります。なぜ魏志倭人伝に描かれた渡りやすい、末蘆国・壱岐のルートを使わないのかに注目すると、このルートしか使えなかったのではないかと分かります。つまり伊都国・奴国の倭国側が抑えていたからです。(2022.5.7 赤字訂正)
ですから倭国大乱の時代から三世紀のヤマト政権は北部九州の倭国と対立していた狗奴国で、最終的に半島南部の鉄を入手して倭国を滅ぼして日本を統一したのだと分かります。その経緯は少しややこしいのですが、倭国大乱は半島の韓人・ワイ人が暴れて混乱していた時期ですから倭国は楽浪郡との交易もできなくなっていた、一方狗奴国は沖ノ島・対馬経由で狗邪韓国の鉄を入手して強勢になったということですので、ヤマト政権が誕生したのは沖ノ島ルートを支配していたムナカタ海人族が重要な役割を果たしていたからということになります。ムナカタ族が祀る太陽神信仰の姫巫女が卑弥呼だったと分かります。卑弥呼の一族が後に近江から大和に根拠地を移した和邇氏だということも分かりました。東大寺山古墳のある和邇坐赤坂比古神社の祭神がイチキシマヒメとアタカタスミです。後者がムナカタ族の祖神、イチキシマヒメは三女神の主神で、厳島神社や弁財天として日本全国で祀られていますから、卑弥呼ですよ!近江八幡市の比牟礼八幡神社でも祀られていますが、もとは日蝕社(ひはえのもり)だったと思われる神社名が藤原不比等によって日群杜(ひむれのもり)と強権で変えられています。ですから地元では日触山として似た名前を残したのだと思います。詳しくは拙ブログ「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」をご参照ください。宇佐八幡でなぜ卑弥呼が祀られているのかもすべてわかりましたよ(「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」参照)。
ということで宇佐説が正解ですよ(#^.^#)
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邪馬台国論争は終了したと考えています。あとはこの事実を使って、藤原不比等によって隠された次の時代の歴史の真相を科学的に探究していきたいと思っています( ^)o(^ )
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大和王権と別の北九州勢力があったので、佐賀平野で大陸の影響があるのは当然で、邪馬台国は30余国を統一したと言う話なので、魏志和人伝の記述がおかしいと思います。
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@本質家 さん それは三世紀ごろの話です。徐福はBC.219に来日していますよ(^_-)-☆奴国はそのころ須玖タカウタ遺跡で官営工場を作っていますし、須玖岡本の王宮に宮廷楽師が登場したと考えています。
吉野ヶ里の墳丘墓の南側にある祭祀遺跡と西南の方向から入る墓道が前漢の武帝が、泰山の麓で行った明堂の祀りと一致していることが分かっていますし、その他にも高島先生が指摘していましたよ(^_-)-☆
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弥生時代に神代文字あったのか?(*^。^*)
最後までお付き合い、ありがとうございます。
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