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【発見!】卑弥呼の墓(^_-)-☆

2024-04-15 08:58:15 | 古代史
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#2022-05-15 11:25:07に記事にしましたが、図のリンクが切れなど修理して若干改訂しました。よろしければお付き合いください(;^ω^)

#卑弥呼の墓に関する以下のいい動画をまた見つけました。コメントしましたので、お付き合いください(*^▽^*)


刮目天
普通に読めば「卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は奴婢、百余人である。」塚田敬章氏HPより)ですから、直径約150mの円墳です。ウップ主様は墓域が150mの墓を対象としているようですが、巨大円墳を候補に挙げておられないですね(´ω`*)

当方が見つけたのは宇佐市安心院町三柱山の直径約150mの巨大円墳です(拙ブログ「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。日本全国を見てもこの時代のこの規模の円墳はほとんど無いと思います(^_-)-☆

宇佐神宮の祭神比売大神=宗像三女神が卑弥呼だと突き止めました。三女神の主神イチキシマヒメが卑弥呼のことです。4世紀ごろから宇佐地方で半島出身の辛嶋氏によって祀られていた原八幡神でした。藤原不比等は権力を維持するために、三世紀の日本建国時代に活躍した祖先を持つ豪族を中央から排除するために日本神話を作って宮中の神祇祭祀を奪ったことが考古学や民俗学などの成果から分かってきました。残りの二女神は卑弥呼を隠すために後から付けたものですよ(;一_一)

多くの日本人は日本書紀の編纂を天武天皇が命じたということで、天皇の歴史書だと思い込んでいますが、崩御から30年以上経って完成しています。崩御後に不比等がどのようにして権力を握るようになったかを調べることにより日本書紀の正体が分かったのです(拙ブログ「神話が隠した不自然な史実(;一_一)」参照)。

朝廷は天変地異・疫病などが発生すると、三世紀の日本建国時代にヤマトを怨んで死んだ人物の祟りだと信じていました。特に畏れたのは大国主と卑弥呼、そして大国主の妃だった女王台与の三柱だということが分かりました。大国主と台与は卑弥呼の死後の内戦に勝利して、狗奴国を裏切り魏を後ろ盾として、列島の大半を支配しました。その後狗奴国が二人を討って日本を統一し、ヤマト王権が成立したことが考古学によって分かりました(拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデーター共有」参照)。

卑弥呼の死因ですが、倭国に狗奴国勢が押し寄せる情報が倭国王難升米の耳に入ったころに北部九州で日食が起こりました(拙ブログ「【検証22】難升米という人物は?(その1)」参照)。難升米は太陽神を祀る卑弥呼の霊力が衰えたために起こった不吉な予兆と考えて、卑弥呼を暗殺したと推理しました。

墓のある場所は「血野」と呼ばれており、地元では戦国時代の別の伝承で隠していますが、百余人の奴婢を殺したことを示唆する地名です。墓の遥拝所が南の河原にあり地名がヒカケとあり日食を示唆しています。しかし、遥拝所は土を盛り上げて直接目視できないように隠され、アマテラス女神の岩戸隠れを示唆する横穴群が作られています。

卑弥呼は4世紀ごろから6世紀ごろに有力だった和邇氏によって近江八幡市日牟禮八幡宮で祀られていました。社名が不比等によって日食を示唆する「日触社」から「日群社(ひむれのもり)と変えられました。応神天皇が多数の日輪を見たという由緒書きですが、その頃は八幡大神はまだ応神天皇ではありませんから、後に藤原氏によってつくられた話と分かります。天理市にある和邇坐赤坂比古神社の祭神がイチキシマヒメですから和邇氏が日食のために殺された卑弥呼を祀っていたと分かります。皇室の崇敬が篤い宇佐神宮も主に卑弥呼と大国主と台与(神功皇后のモデル)を隠すために創建されたものでした。詳しくは「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」をご参照ください。お邪魔しました( ^)o(^ )


#以下は前回(2022-05-14 17:20:37)の記事です。
いい動画がアップされましたので、色々とコメント入れさせてもらいました。お付き合いください( ^)o(^ )



刮目天
卑弥呼が247年3月24日日没前に北部九州で見られた日食が原因で殺された証拠をいくつか見つけました(北九州市付近は皆既日食ですが、伊都国や邪馬台国では深い部分食です。特に、伊都国では太陽が欠けながら海に沈む日没帯食でしたので、太陽が再び登らないかも知れないと伊都国の男王は相当衝撃だったでしょう)。径百余歩(直径約150m)の巨大円墳も宇佐市安心院町三柱山で発見しています。
卑弥呼は玄界灘を支配する縄文海人ムナカタ族の太陽神を祀る姫巫女(通称ヒメゴ)です。倭国大乱の時期に物騒な不弥国(ウミコク、新宮町から宗像市までの沿岸)から安全な邪馬国(ヤマコク、和妙抄の野麻郷は安心院町に比定されている)に疎開していました。卑弥呼は葦原中国の宇佐嶋に天降りした宗像三女神とされましたが、安心院町の三女神社が卑弥呼の宮室です。安心院というのは院(ヒメゴ)が安心したという卑弥呼の租界の故事から付けられた地名ですよ。丁度狗奴国(纏向遺跡)の軍勢が倭国に押し寄せてくるという情報があり、緊張した時期に日食が起こったので、倭国王は卑弥呼が不謹慎だから起こったと考え、不吉な予兆を回避するために刺客を送って暗殺したと考えています。持衰(じさい)と同じ考え方です。殺害現場も推理しています。詳しくは拙ブログ「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」をご参照ください!


以下は死因を考えた時の推理です。

狗奴国との戦いによる戦死説は成り立たないことは直ぐに分かりますよ。

まず、正始八年(247年)、帯方郡に新任の太守が着任したので、卑弥呼が載斯・烏越らを使者として送り、狗奴国との戦いの様を報告しています。

そこで魏使張政が倭に到着して難升米に詔書と黄幢を渡し、狗奴国との戦いを勝つよう告喩しています。その直後に「卑弥呼、以て死す」とありますから、張政によって殺されたわけでないのは明らかです。ですから、載斯らを帯方郡に遣った後、張政が来る前にすでに卑弥呼は死んでいたということです。

ですから、卑弥呼は戦死ではありません。

そうすると可能性があるのは自然死・病死ですが、これについては何も資料がありません。

最後に考えられるのは魏書少帝紀正始八年春二月朔(247年3月24日)に北部九州日没前に日食があったことが原因で倭国王難升米に暗殺された可能性が高いです。狗奴国の軍勢が倭国に押し寄せてくる情報が入り、決戦が迫っている倭国が緊張している時期に、太陽神を祀る巫女の霊力が衰えために不吉な前兆の日食が起こったと難升米が考え、不謹慎な持衰(じさい)と同様に殺すのは太陽神の意思であるとして、刺客を送って殺したと考えられます。

墓は、急づくりの巨大円墳です。ムナカタ族は円墳を用いています。その地名に血野とあるので殉葬のために殺された百名の奴婢の殺害現場でしょう。



卑弥呼を倭国王が殺したことの口封じもあったと思われます。でも、どこかでバレてしまい、卑弥呼の弟の赤坂比古(ムナカタ族の族長、鳥栖市愛宕神社古墳(直径約100mの巨大円墳)の被葬者)は狗奴国軍に投降したので、倭国王難升米はさっさと伊都国から帯方郡に逃亡したと推理しています。北部九州に到着した狗奴国軍の大将だった尾張王ヲトヨ(記紀の仲哀天皇、神話のカグツチ)が狗奴国王卑弥弓呼を裏切って倭国王に立とうとしたので、副将として参加していた山陰・丹波・越前のムナカタ族の王狗古智卑狗が尾張王ヲトヨを討って、魏使張政の進言を入れて13歳の台与を卑弥呼の宗女として女王に立て、魏を後ろ盾にして狗奴国と対立しました。狗古智卑狗は列島の大部分を手に入れたので記紀神話で大国主とされた人物です。

難升米は帯方郡に着いたか分かりませんが、魏にとっては用済みですので暗殺されたかもしれません。親魏倭王の金印を持って逃げたと思いますので、半島で見つかれば推理どおりでしょう(詳細は「【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)」参照)。

結局、新しい尾張王建稲種(たけいなだね、国譲りさせたタケミカズチ)に仇討ちされ狗奴国が日本を統一します。これが建国の真相だと推理しました(「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

【関連記事】
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎
卑弥呼の話をこちらにまとめてありますので、飽きるまでどうぞ(#^.^#)


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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