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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

まぼろしの邪馬壱国だった?(^_-)-☆

2022-05-08 08:31:30 | 古代史
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前回の記事「邪馬台国九州説の中で?(^_-)-☆」でご紹介したゆっくり歴史考察・調査チャンネル@YouTubeさんのいい動画へのコメントの続きです。お付き合いください( ^)o(^ )

蝉丸山茶花亭
そもそも魏志倭人伝には邪馬台国という国は出てこないので、「魏志倭人伝以外から邪馬台国所在地を徹底考察!!」というタイトルがおかしいかと思いました。
単に「邪馬台国所在地を徹底考察!!」で良いのではないでしょうか。
魏志倭人伝以外の史書には邪馬台国が出てきますし。


ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!他の邪馬台国考察動画ではよく魏志倭人伝を主軸で考察しているので敢えて、差別化も狙いこのタイトルにしました。

刮目天
蝉丸山茶花亭さん なるほど、おっしゃるとおりです。
現在わたしたちが読んでいる12世紀の魏志倭人伝の版本では邪馬壹国とあり、邪馬臺国は出てきません。原本にあった「臺」から、版本の基になった写本の段階で「壹」に変えられているのか、原本から「壹」だったのかも原本が見つからないと正確には分かりません。

しかし、魏志倭人伝に「南至邪馬壹國、女王之所都」と最初に1度だけ登場し、残りはすべて女王国を邪馬壹国の代わりに使っていますから、邪馬臺國はヤマコクに住む臺(女王)、つまり「卑弥呼が都とする国」と言う意味にとれます(注1)。范曄後漢書にも邪馬台国と明記され、魏志倭人伝の原本から「臺」であるようです。意味としても女王国で間違いないと思います。邪馬壹国はその意味が良く分かりませんし、邪馬壹国に比定される場所も見当たりません。

なお、倭人の発音を魏の役人が聞いて漢字を当てたという説は、弥生時代に漢字が使われていた証拠が多数見つかっていますので、成り立たないことが分かっています(注2)。

ですから、写本の段階で、東夷の女王に皇帝に用いる「臺」という字を当てるのは不敬だと判断して(三国志で「魏臺」は明帝曹叡のこと)、似た文字「壹」に置き換えた可能性が高いと思います。

魏志倭人伝に登場する「壹與」も同様の理由で「臺與(台与)」から書き換えられたと考えられます。九州に卑弥呼の宗女台与(トヨ)に因む地名などが数多く存在しますが(例えば、豊国、豊比売などなど)、イヨに因むものは四国の伊予くらいですから、邪馬台国説を支持しています。 

つまり邪馬台国というのが定説ですからタイトルで良いのではないかと思います( ^)o(^ )

蝉丸山茶花亭
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル わかります。まあ、そうですよね。

【関連記事】
【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)
考古学や民俗学の成果から卑弥呼の宮室のあった宇佐市安心院町三女神社付近が邪馬台国ですが、人口がもっと多いと考えるのならば、宇佐平野・大分平野から阿蘇山に向かう大野川流域や日田盆地まで含めた広い領域を邪馬台国と考えても良いと思っています。


邪馬台国・投馬国は佐賀平野・筑紫平野にあったか?など( ^)o(^ )

(注1)宇佐市史によれば、安心院町は平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)に紹介された野麻郷(ヤマゴウ)の地名は安心院町に比定されています。ですから、あのあたり一帯がヤマコクと呼ばれていた模様です。邪馬台国というのは倭国王難升米が帯方郡太守と談合して、魏の朝廷の注目を集めるために倭国が女王が統治する東夷のエキゾチックな大国とすることで作られた地名です。その時代の倭の人々に邪馬台国と言ってもポカン!だと思いますよ(^_-)-☆
耶馬渓というのもあります。安心院町では仙の岩がありますよ!

(注2)弥生時代に文字が使われていた証拠が出てきています。漢字を使っていた倭人も一部居たと思われます。漢などの外交使節や楽浪郡などから華僑が伊都国には来ていましたから伊都国に王宮を作っていた倭国王らは読み書きはできたし、シナ語で会話もできた可能性もあります。
変わる弥生時代観!(^_-)-☆
弥生最大の交易都市比恵・那珂遺跡では交易に10進法が使われて取引税を取っていたようです。


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