いつも、ありがとうございます。
よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
【海外の反応】「古代の日本人は文字すらも使えない」日本が文字を使えるのは中国のおかげだと主張する中国人が真実を知り大発狂!古代日本にあった漢字より古い文字の真実とは
JAPANの衝撃@YouTube
とても勉強になる話をありがとうございます。
中国という国名ですが、ほとんどの方は誤解しています。中共のことではないのです。「なかつくに」の意味なのです。世界の真ん中の国という意味でもありません。中はナーガ、つまり龍蛇神なのです。
日本の最初の王墓は紀元前4世紀初頭の福岡市吉武高木遺跡にありますが、三代の王と王族が葬られています。一つの王墓には三種の神器に対応する鏡・剣・玉が揃って副葬されています。
新唐書日本伝あるいは宋史日本国に記載された10世紀の東大寺の僧が献上した王年代紀に初代天御中主・二代目天村雲尊・三代目天八重雲尊から二十三代の王が筑紫日向宮にいて、最後の王の四男神武天皇が大和橿原宮に遷都したことが記されています。
ですからこの王墓がご皇室の祖先のものなのです。天(あめ)は海を意味し、天御中主は龍蛇神(奴=ナーガ)を信奉する海人族の王という意味なのです。ナーガに因む地名は那珂、那賀、長柄、中山などなど、列島各地に見られますが、弥生時代に入植した江南の倭人が拓いた土地なのです。
天御中主は記紀神話でも高天原に最初に降り立った神とされています。高天原は北部九州の倭国でした。倭国を支配したのが歴代の奴国王だったのです。王年代紀によってシナ人が「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と認めたので、正式に日本という国号がシナに正しく認知されたのです。
この奴国は西暦57年に後漢光武帝より「漢委奴国王」という金印を賜っていますが、鈕(印のツマミ)が蛇あるいは蛟(みずち)を象ったものですので、日本民族のシンボルなのです。
ということで、天御中主は春秋時代紀元前473年に越に滅ぼされた呉の王族だったのです。倭人に助けられて半島南部で王国を作っていたのですが、恐らく寒冷化の影響で福岡市早良平野に遷都したのです。さらにそこが手狭になったので4代王天爾聞尊(ににぎのみこと)に祖父の村雲尊が周囲の糸島平野・福岡平野を平定するようにレガリヤである三種の神器を持たせて命じた故事が、8世紀に作られた日本書紀の天孫降臨神話のもとになった史実なのです(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?(;´Д`)」参照)。
ついでに申し上げると、上の話でお分かりかと思いますが、日本書紀は天皇の歴史書ではなく完成当時の権力者藤原不比等によって創作された勝者の歴史書だったのです。古代史に謎が多いのは文献と事実、つまり考古学や民俗学などの成果との不整合が理由だったのです(詳細は「卑弥呼と天照大御神が同一人物?(@_@)?」参照)。
このことを理解すると謎の古代史、天皇の起源、邪馬台国の卑弥呼などなどほとんどの謎が解明できます。詳しくは「刮目天の古代史」をご参照ください。ちなみに中国神話も今のシナ人のものではなく、長江文明の担い手だった倭人たちのものなのです。今上天皇は人類の始祖神である天皇伏羲の末裔となります。詳細は「刮目天の古代史 中国神話は日本人の神話だった?」をご参照ください。お邪魔しました(^^;)
スイマセン。肝心なことを忘れていました。
日本書紀では4世紀の応神天皇の時代に百済から漢字が伝わったとあるので騙されています。弥生中期から、特に北部九州で出土した砥石だと思われていたものが硯の破片であることが最近知られるようになりました。弥生後期の福岡市雀居遺跡では木製の組み机が一式出土していますし、糸島市では竹簡などを入れる赤漆塗円筒の一部も発見されていました。
倭の奴国王が金印を賜っているのは、列島がシルクロードの東端として位置づけられて、倭の珍しい品々を求めてやって来る楽浪郡などからの華僑の取引を奴国王に保護してもらう目的なのです。ですから、倭国王や側近は当然漢字を使用していたのです。
さらに、107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升の正体は奴国の宮廷祭祀を司る司祭師升でした。最後の奴国王スサノヲを殺して倭国を奪ったのです。1950年代に室見川河口で発見された室見川銘板には師升が司祭王であることが分かる内容の金文が彫られています。詳しくは「【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆」の中の特集<倭王帥升の謎>をご参照ください。
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆
伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆
【驚き!】徐福が日本史を変えた!(@_@)
よろしければどうぞ(#^.^#)
【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
中国神話は日本人の神話だった?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)
紀元前3200年に興った長江文明のひとつ良渚文化(りょうしょぶんか)が紀元前2200年頃突然消えました。洪水伝承があり、生き残った伏羲と女媧の二人が人類を創ったという伝説です。その末裔の禹が黄河中流域で夏王朝を建て、その末裔の古公亶父(ここうたんぽ)が、周初代武王の曾祖父です。長男の太伯(たいはく)と次男の虞仲(ぐちゅう)が長江下流域で呉を興し、倭人の王となりました。紀元前473年に呉王夫差が越に敗れて自害しました。呉王族の一部が半島南部に逃れ、紀元前4世紀初頭に福岡市吉武高木遺跡に降り立った天御中主です。天皇陛下の先祖です(^_-)-☆
(左クリックで拡大)
最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
【海外の反応】「古代の日本人は文字すらも使えない」日本が文字を使えるのは中国のおかげだと主張する中国人が真実を知り大発狂!古代日本にあった漢字より古い文字の真実とは
JAPANの衝撃@YouTube
とても勉強になる話をありがとうございます。
中国という国名ですが、ほとんどの方は誤解しています。中共のことではないのです。「なかつくに」の意味なのです。世界の真ん中の国という意味でもありません。中はナーガ、つまり龍蛇神なのです。
日本の最初の王墓は紀元前4世紀初頭の福岡市吉武高木遺跡にありますが、三代の王と王族が葬られています。一つの王墓には三種の神器に対応する鏡・剣・玉が揃って副葬されています。
新唐書日本伝あるいは宋史日本国に記載された10世紀の東大寺の僧が献上した王年代紀に初代天御中主・二代目天村雲尊・三代目天八重雲尊から二十三代の王が筑紫日向宮にいて、最後の王の四男神武天皇が大和橿原宮に遷都したことが記されています。
ですからこの王墓がご皇室の祖先のものなのです。天(あめ)は海を意味し、天御中主は龍蛇神(奴=ナーガ)を信奉する海人族の王という意味なのです。ナーガに因む地名は那珂、那賀、長柄、中山などなど、列島各地に見られますが、弥生時代に入植した江南の倭人が拓いた土地なのです。
天御中主は記紀神話でも高天原に最初に降り立った神とされています。高天原は北部九州の倭国でした。倭国を支配したのが歴代の奴国王だったのです。王年代紀によってシナ人が「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と認めたので、正式に日本という国号がシナに正しく認知されたのです。
この奴国は西暦57年に後漢光武帝より「漢委奴国王」という金印を賜っていますが、鈕(印のツマミ)が蛇あるいは蛟(みずち)を象ったものですので、日本民族のシンボルなのです。
ということで、天御中主は春秋時代紀元前473年に越に滅ぼされた呉の王族だったのです。倭人に助けられて半島南部で王国を作っていたのですが、恐らく寒冷化の影響で福岡市早良平野に遷都したのです。さらにそこが手狭になったので4代王天爾聞尊(ににぎのみこと)に祖父の村雲尊が周囲の糸島平野・福岡平野を平定するようにレガリヤである三種の神器を持たせて命じた故事が、8世紀に作られた日本書紀の天孫降臨神話のもとになった史実なのです(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?(;´Д`)」参照)。
ついでに申し上げると、上の話でお分かりかと思いますが、日本書紀は天皇の歴史書ではなく完成当時の権力者藤原不比等によって創作された勝者の歴史書だったのです。古代史に謎が多いのは文献と事実、つまり考古学や民俗学などの成果との不整合が理由だったのです(詳細は「卑弥呼と天照大御神が同一人物?(@_@)?」参照)。
このことを理解すると謎の古代史、天皇の起源、邪馬台国の卑弥呼などなどほとんどの謎が解明できます。詳しくは「刮目天の古代史」をご参照ください。ちなみに中国神話も今のシナ人のものではなく、長江文明の担い手だった倭人たちのものなのです。今上天皇は人類の始祖神である天皇伏羲の末裔となります。詳細は「刮目天の古代史 中国神話は日本人の神話だった?」をご参照ください。お邪魔しました(^^;)
スイマセン。肝心なことを忘れていました。
日本書紀では4世紀の応神天皇の時代に百済から漢字が伝わったとあるので騙されています。弥生中期から、特に北部九州で出土した砥石だと思われていたものが硯の破片であることが最近知られるようになりました。弥生後期の福岡市雀居遺跡では木製の組み机が一式出土していますし、糸島市では竹簡などを入れる赤漆塗円筒の一部も発見されていました。
倭の奴国王が金印を賜っているのは、列島がシルクロードの東端として位置づけられて、倭の珍しい品々を求めてやって来る楽浪郡などからの華僑の取引を奴国王に保護してもらう目的なのです。ですから、倭国王や側近は当然漢字を使用していたのです。
さらに、107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升の正体は奴国の宮廷祭祀を司る司祭師升でした。最後の奴国王スサノヲを殺して倭国を奪ったのです。1950年代に室見川河口で発見された室見川銘板には師升が司祭王であることが分かる内容の金文が彫られています。詳しくは「【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆」の中の特集<倭王帥升の謎>をご参照ください。
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆
伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆
【驚き!】徐福が日本史を変えた!(@_@)
よろしければどうぞ(#^.^#)
【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
中国神話は日本人の神話だった?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)
紀元前3200年に興った長江文明のひとつ良渚文化(りょうしょぶんか)が紀元前2200年頃突然消えました。洪水伝承があり、生き残った伏羲と女媧の二人が人類を創ったという伝説です。その末裔の禹が黄河中流域で夏王朝を建て、その末裔の古公亶父(ここうたんぽ)が、周初代武王の曾祖父です。長男の太伯(たいはく)と次男の虞仲(ぐちゅう)が長江下流域で呉を興し、倭人の王となりました。紀元前473年に呉王夫差が越に敗れて自害しました。呉王族の一部が半島南部に逃れ、紀元前4世紀初頭に福岡市吉武高木遺跡に降り立った天御中主です。天皇陛下の先祖です(^_-)-☆
(左クリックで拡大)
最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング