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魏志倭人伝の渡海ルートは間違い?(@_@)

2022-05-18 13:08:07 | 古代史
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魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆にWAJINみならい様から今回もよく整理されたいいコメントを再度頂きました。どうも、ありがとうございました。回答が長くなったので、ブログ記事にしました。ただし、ご質問は先のブログのコメント欄に全文載せていますので、詳しくお知りになりたい場合はご参照ください。長いですが、お付き合いください(*^▽^*)

それでは、ひとつひとつ見て行きましょう。
1.先に貴殿説の疑問点を述べます。
a. 1日漕げば千里進めると記録したのは、信憑性はあるのでしょうか。海と陸を並走して距離を測るなどは、実現不可と思うのですが。
  この場合の里程は、長里ですか、短里ですか。
  長里なら日に430kmにもなります。短里なら、一寸千里法で直に測れば良いでしょう。
1日漕ぐ測量方法は、海流や風の影響も強く誤差を生じ非現実的です。
  1日漕いだら1000里とする新規格なら、山岳を挟む陸地は測れないことになります。


海洋技術の専門家の遠澤先生が「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」(成山堂書店)の中で、渡海千里は1日(昼間一杯)の櫂走の距離としていると主張されている説に従っただけです。

長里か短里かとのご質問ですが、魏の時代にあった里制は1里約434mだけです。短里制はなかったということです。魏志倭人伝は出発地と到着地の間の里数はあっても、それらの具体的な場所まで明記されていません。ですから、考古学の知見から書かれた国の出発・到着場所を推定するほかないですが、考古学から分かっている国の各区間の1里当たりの実際の距離が一定ではありません。

例えば伊都国(三雲南小路遺跡)から奴国(比恵・那珂遺跡が中心都市)の距離はGoogleMapで徒歩ルート23.3kmですが、魏志倭人伝には百里と書かれていますから、1里あたり約233mとなります。短里制を主張される方は1里当たり約76mですから3倍くらいになります。短里で百里(約7.6km)は今宿五郎江遺跡くらいまでですので、まだ伊都国内です。奴国の中心都市には全く届きません。



ですから、魏志倭人伝で短里を用いたという主張は、正しく書かれているはずだからという単なる思い込みの妄説なのだと分かります。

これを認めないで、考古学の成果が間違っているという議論は科学的ではありませんよ(「魏志倭人伝をシナ人が読んで邪馬台国が分かるの?(@_@)」参照)。

では、なぜそんなデタラメな里程が書かれたのか考えると、魏志倭人伝の他の部分も考察し、西晋の基礎を築づいた司馬懿の功績を称えるための政治的な意図で行程を過大な里数にしていると結論できるのです。詳しくは拙ブログ「魏志倭人伝の真実」などに詳述しているので、是非ご理解ください。これが分からないと話は堂々巡りになるだけですから。

b. 帯方郡から狗邪韓国の7日渡航は無理かもです、地乗り航法で1日千里は無理でしょう。黄海には黄海暖流が左巻きに流込んでおり、郡からは逆流につき地乗り航法となる。日40kmと多めの潮流としても狗邪韓国へは14日はかかるでしょう。

遠澤先生は専門家ですから海流や潮流を考慮して帯方郡から狗邪韓国まで大雑把に7日、7千余里だと推定しています(前掲書p.120)。



c. 御説では狗邪韓国から不弥国まで3日とありますが、対馬と壱岐は直行できなかったので、無理でしょう。

狗邪韓国から不弥国までを3日とは言ってません。九州の上陸地点末盧国までが三度の渡海で三千余里ですから3日というのが遠澤先生の推理です。対馬と壱岐間が直行できないという貴説は採っていません。後でまた説明します。

不弥国が確定していないので諸説ありますが、奴国(比恵・那珂遺跡群)から不弥国(ウミコク、水行の出発点は新宮町と考えています)まで百里16.4kmですから、これも短里制ではないと分かります。

d. 末盧国からの、500里や100里などは、どのように測ったのでしょうか。1里のロープを使う手がありますが、短里76.6mのロープを作ること自体難しい上に、川や山・曲折道の直線距離は測れません。
不弥国が新宮か宗像としても、末盧国から、伊都國・奴国の距離は合わないようですが、伊都國と奴国の場所が分からないです。


陸行は歩きです。中国では右足を出して左足が着地するまでの長さを1歩として(時代によって規定された長さは多少違う)、300歩で1里と決めていましたから、歩数を数えるのが最も簡単です。

e. 不弥国(宗像として)から豊津までは関門海峡廻りですか、又は仮遠賀湾経由で直方辺りから遡上する曳舟ですか。いずれにしろ2日では無理でしょう。
10倍説はよく聞きますが、戦略上の理由とは言え無理筋、何か根拠があると嬉しいです。
  関門海峡が安全に通れるようになったのは明治からで、陸続きだったところが浸食によってできた海峡。大型船は無理、小型船も岩礁が見え隠れする穴門を通る危険航路だったのですが、それでも通過できたのでしょうか。


不弥国から投馬国(中心地は京都郡みやこ町節丸字在馬・豊津付近)まで水行2日と推理しました。長野正孝「古代史の謎は海路で解ける」を参考にして、福間ー赤間、遠賀川河口ー関門海峡は潮流を利用して可能だと思います。だから魏志倭人伝の水行20日は実際の日数を10倍した過大な日数だと推理しています。卑弥呼のいた場所が宇佐市安心院町三女神社とわかったので、そこから難升米がどういうトリックをしたのかを推理したのです。



ただし、魏の船ではなく、丸木舟です。魏使は伊都国の男王(卑弥呼の政治を輔佐する男弟とした)=倭国王難升米に面会するだけで仕事は果たせます。鬼道で人々を惑わし、ほとんど人に会わない卑弥呼が女王という設定は、難升米と帯方郡太守が談合して、魏の朝廷の人々の注目を集めるためのフェイクですが、太陽神のお告げを伝える役目の巫女ですからその通りだと考えています(注1)。

また、行程記事の末盧国からの方角は、実際は東ですが、呉(会稽郡東冶県)の東方海上に東夷の大国があるとするために南としています。倭女王を魏に朝貢させた功績は魏で第一等のものとして、すべて司馬懿の功績だと主張する為なのです。

f. 安心院が邪馬台国ですか、魏にとっては舟は命、舟から離れたくなかったので、安心院までの陸行は曳舟とするのも一案かもしれません。
ただ、倭国連合は出雲の交易圏で、宇佐は瀬戸内海の交易圏かと思うのですが。単に卑弥呼の里ということだったのでしょうか。


倭国王が倭国大乱を鎮めるために、敵対する玄界灘を支配するムナカタ海人族を懐柔した時の条件として、太陽神を祀る姫巫女(通称ヒメゴ)のお告げを聞いて政治判断をするという条件があったと考えています。倭国大乱期は卑弥呼が居た宗像の王宮は海に面しているので物騒ですから宇佐市安心院町に疎開してたと推理しました。記紀神話で葦原中つ国の宇佐嶋に降臨した宗像三女神としていますが、その主神イチキシマヒメのことで、宇佐神宮の比売大神です。

安心院町の卑弥呼の宮室まで駅館川を倭人が丸木舟で遡行するのですが、川幅が広い箇所は櫂走だと推理しています。支流の川幅の狭い浅瀬になると人力で曳行でしょう。二番目の魏使張政は倭人の舟に乗って行き、卑弥呼の墓を見た可能性があります(注2)。

g. 水行10日陸行1月を帯方郡から邪馬台国までの日数とは言っておらず、なにも示していません。

これは水行10日陸行1月は帯方郡から邪馬台国までの日数のことだとする説に対する意見を述べた次第です。

h.「呉の東の海上」ではなく、隋書には「会稽の東にあり儋耳と相近し」とあるので、紹興市の真東の種子島でしょう。一寸千里法で観測すると同緯度になります。

范曄「後漢書」では会稽東冶とあり、邪馬台国は台湾の東方向です。中国正史で倭人の文字の初出は「漢書」地理志です。「楽浪郡の(南の)海上に倭人有り」と紹介されていたので、風俗も似ていることから海南島に近いとしたかったからだと推理しています。范曄は邪馬台国と正確に書いていますので、これが正しいと思います。倭国の地名や人名などは漢字を読み書きし、シナ語も話せる教養人の難升米が劉夏と談合して、漢字で書いて教えたものだというのが、伊都国と書いてその意味を理解していることから分かるのです(「【検証22】難升米という人物は?(その1)」参照)。邪馬台国もヤマコクに住む台(女王)の国という意味なのです。だから、邪馬壱国は版本の元となった写本の段階で書き換えられたと推理できます。原本に忠実に読むべきと主張される方がいますが、版本は原本ではないので、今となっては残っていない原本の内容を推理する以外にないのですから、この考えも妄説なのです。

なお、野上道男「『周髀算経』の一寸千里法記述における論理的破綻」によれば、「結論として「栄方陳子問答」の一寸千里法は、太陽の大きさや日影長を観測せず、しかも『淮南子』の方法を改竄開陳するときに、いくつかの誤りを犯している、と判断される。」とあります。日影長から緯度差は知ることができますが、実際に使われた証拠はあるのですか?

2.女王国の世界観

女王国は邪馬台国のことと談合によってそうしたのです。実際は難升米が軍事を掌握している人物でした。魏は倭女王を差し置いて難升米に正規軍旗「黄幢」を直接授けていることからも倭国王であったと分かります。卑弥呼はムナカタの姫巫女であって、統治者でも女王でもなかったのです。すべて司馬懿の功績を持ち上げるための演出だったのです。多くの研究者はこのことを見抜けないから、魏志倭人伝は正しく書かれているはずだとして、苦しい解釈に終始して邪馬台国問題が解決しなかったのです。ですから、編纂者の意図を読んで、考古学などの成果によって文献の信ぴょう性を評価し、真相を科学的に推理してすべてが分かったのです。この手法を拙ブログ「古代史の謎を推理する」に詳しく述べていますので、どうかご理解ください。

魏志倭人伝の性格から島嶼などの周囲の長さもかなりいい加減なものだと分かります。

侏儒國、裸國、黒齒國などについては魏使が実際に行ったのではなく、下の図に示しましたが、倭人などからの伝聞や漢書地理誌などの書いたものからの記事のはずです。



3.倭国連合の交易について

縄文時代からムナカタ海人族が宗像から半島南部、山陰・北陸、そして瀬戸内、太平洋沿岸、沖縄などで黒曜石や貝輪などの取引で活発に活動していました。紀元前10世紀ごろから江南出身の倭人が半島南部(韓国辺り)に水田稲作技術を持ち込み、半島の縄文人と交流していました。混血が始まっていたかもしれません。半島の北部は前12世紀殷(商)王朝末期に王族の箕子の一族が入って青銅器文化を持ち込みました。箕子朝鮮は前三世紀まで続きます。縄文人も倭人も箕子朝鮮と交流していたと考えられます。

「倭国大乱の後の、卑弥呼の時代には、狗邪韓国の西の勒島から壱岐に直行する、つまり対馬をパスする新ルートもあった。」とありますが、もしもその痕跡があるならば、恐らく海流によって漂着したのだと思います。当時の航海技術では、できるだけ島影を見ながら航海するのが基本ですから。魏志倭人伝に瀚海と書かれた対馬海峡についても同様です。できるだけ島影が目視できる季節や天候を選んで渡航するはずです。

4.私の自説(と言っても、皆さんの説を纏めただけですが)
(9)比定地区のルート案(3点)

①九州説1(投馬國と邪馬壹國には行かなかった説)
 往路 郡→勒島→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國 (奴国・不弥国も訪問無し)
 復路 伊都國→五島→対馬→狗邪韓國→郡
 この場合、日程はなく単に里程での説明、投馬國と邪馬壹國の日程は倭からの伝聞であろう。

②九州説2(投馬國Uターン説)
 (水行20日) 郡→狗邪韓國→対馬→投馬國(出雲)
 (水行10日陸行1月) 投馬國→(Uターン)→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國→(御笠川?遠賀川?曳舟)→邪馬壹國(甘木田川吉野ヶ里?)

  日程は倭からの伝聞の可能性があるので、数日は異なると見た方がいいかもです。

③近畿説(奈良)
 (水行20日) 郡→勒島→壱岐→末盧国(呼子)→伊都國→投馬國(出雲)
 (水行10日陸行1月) 投馬國→宮津→(曳舟)→須磨→摂津→邪馬壹國(奈良?) (復路に五島→対馬→狗邪韓國に立寄り)


貴説ではいろいろと新しいルートの存在を主張していますが、室町ー江戸時代の朝鮮通信使も釜山ー対馬ー壱岐から九州に上陸して帰路も同じなのです(wiki「朝鮮通信使」によれば、一部対馬から直接に赤間関を目指すルートもあったとありますが)。航海技術は少しは進歩しているのかも知れませんが、魏志倭人伝の三世紀でも、季節と潮流などを見て航海しますので、貴説のようなそんな迂回するようなルートは採らないと考えています。

あなたは皆さんの意見でと言ってますが、貴説の根拠となる文献・資料を知りたかったのです。papaチャンネルにあるのでしたら時間を教えてください。でも、タイトル画面を見ただけで判断したら悪いかも知れませんが、その面白い説は、科学的な考察になっているのか疑問ですよ(*´Д`)

すでに最初のあなたのコメントへ回答したとおりですが(Re:魏志倭人伝)、あなたへの以下の質問を最後にしました。これについてご見解が得られていないので、分からないというご回答でよろしいのでしょうか?

Q.もしもあなたの説が正しいならば、そのようなコースを示唆する行程記事に何故しなかったのですか?誰の意図ですか?

魏志倭人伝が政治的に作られた文書だと言えますので、行程記事などはフェイクですが、実際はどうだったのかをいろいろと検討されることは必要だと思います。あなたの主張するような新たな発見ができるかもしれませんから。でも、従来の妄説を鵜呑みにしては間違いますよ。

参考資料 (気が向いたら参考して下さい)については上で述べた部分は、これ以上言及しませんが、参考にさせていただきます。どうも有難うございました( ^)o(^ )


(注1)唐古・鍵遺跡の土器に描かれた縄文系の巫女は下半身を露出していますから、トランス状態になるためだと考えられます。神が巫女に憑依するためですから、巫女は神の妻だと考えています(「卑弥呼の正体?(@_@)」参照)。伊勢神宮と賀茂神社に独身の皇女が斎王となる制度が奈良時代から南北朝時代までありましたから、女性天皇というのは藤原不比等のフェイクだと考えています。京都にある天皇家の菩提寺でも女性天皇は祀っていないと分かりました。女性は巫女ですから天皇の役割はできません。これは男女差別ではないのです。

(注2)玄界灘を支配するムナカタ族の族長は4世紀から6世紀まで有力氏族とされる和邇氏の祖の先代の赤坂比古であることが和邇坐赤坂比古神社から分かりました(「女王を共立した赤坂比古は?」参照)。卑弥呼の父親で、最初は安心院町宮ノ原遺跡で卑弥呼と暮らしていましたが、先に他界して直径約120mの卑弥呼の墓よりも少し小さめの円墳「奥城古墳」の被葬者だと推理しています。鳥栖市愛宕山神社を王宮として周辺を支配していたと考えています。

卑弥呼の死後ヤマト政権から三女神を祀るように命じられた水沼氏は赤坂比古の支族だと考えられます。宮ノ原遺跡の大平古墳から三角縁神獣鏡の破片が出土していますので、水沼氏がその被葬者だと推理しています(「本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)」参照)。



最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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不比等が創った日本神話?(@_@)

2022-05-12 10:18:33 | 古代史
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2022-05-10 17:43:40に掲載した記事のYOさんから返事がきましたので、また回答しました。末尾に追加しましたので、お付き合いください( ^)o(^ )

ゆっくり歴史考察・調査チャンネル@YouTubeさんのいい動画で色々と面白い議論ができましたのでご紹介します。ウップ主様には心から感謝いたします。お付き合いください。(*^▽^*)


Y O
なるほど、魏志倭人伝以外から考察するのですね。その場合、日本書紀と古事記があるのですが、
どうやら紀記を書いた人たちは邪馬台国を知らなくて、魏志倭人伝を読んでから知った感じに見えるんですよね。
日本書紀に「じ、実は神功皇后ってのが、卑弥呼なんだよ。。」とあわてて挿入したエピソードなのではないでしょうか。
ということは、実は大和朝廷と邪馬台国は無関係だけど、先に中国の文献にあるから、神功皇后≒卑弥呼というようには書いたのが真相かな?
そうすると、我々が「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」と考えるのは、記紀の製作者の意図とは違うものであるように思えます。
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命であるならば、日本書紀にそう書けば良いのですから。わざわざ神功皇后の伝に書くことは無いでしょう。
更に更に、箸墓古墳は卑弥呼の墓でなくなります。箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命の墓ならば、卑弥呼の墓では無いはずです。
ですが、、、神功皇后が卑弥呼であるならば、場所は畿内で確定でしょうね。日本書紀が正しければね。


ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!日本書紀を見る限り卑弥呼と神功皇后を無理矢理同一人物として繋げようとしている節はありますね。

刮目天
YOさん、ども( ^)o(^ )
神功皇后紀も神話の延長ですよ。そこに割り注を入れたのは史実を知っている人間ですね。最初から編纂者が入れたというのが正解だと思います。神話が何のために創作されたのかを考えると分かりますから(^_-)-☆
倭迹迹日百襲姫命は三輪山の大物主大神の妻ですから女王台与のことだと暗示してくれていますよ。編纂に携わった人間の遊び心だと思います。コノハナサクヤヒメと同じですよ。結構、だ洒落が登場しますからウフってつい微笑んでしまいます( ^)o(^ )
編纂に携わった学者も、日本書紀を読んだ当時の宮廷の人々も内容がデタラメだと分かっていますから、最初はバカにしたかもしれませんが、藤原不比等の子孫たちはデタラメな歴史を利用して権力を握り続けていることが分かって、何とか真相を伝えようと涙ぐましい努力をしていることが分かりました。関裕二さんの「古代史 不都合な真実」にまとめられていますので、まだでしたら是非どうぞ(^_-)-☆


もう一つ、同じ方のいい動画を見つけましたので、さっそくコメントさせてもらいました。これもおつきあいください( ^)o(^ )

【ゆっくり解説】神々の聖地!出雲大社について解説・行ってみた!Izumo Taisha shrine 【出雲大社】
2021/11/27 ゆっくり歴史考察・調査チャンネル

刮目天
大国主ほどたくさんの名前を持つ神は居ませんよ。ヤマト朝廷が最も畏れた神です。国譲り神話は権力者藤原氏の不都合な建国の史実を隠す目的で創作されたものですよ。天変地異・災害・疫病などがあると勅使を立ててゆかりの神社で神階を上げて食封などをささげて鎮魂していましたから分かります(^_-)-☆。普通の神様は最高で正一位ですが、大和朝廷にとって最も大切な4柱だけが特別の神階を持っていました。そのうち二柱は皇祖神です。伊弉諾尊と吉備津彦命、その正体は天照大神尊ニギハヤヒ大王。あとの二柱が宇佐神宮の八幡大神と八幡比売神です。大国主と卑弥呼のことですよ。八幡大菩薩応神天皇は後に作られた話です。大国主は、サルタヒコ大神、オオヤマクイ、毘沙門天などなど分身まで入れると数えきれないほどあります。建国の歴史を隠すために大国主を別名で祀っているのです。七福神の六柱の男神もすべて大国主で、弁財天がムナカタ女神イチキシマヒメ卑弥呼ですよ。考古学や民俗学の成果から隠された神々の正体が分かりましたよ(^_-)-☆

本当は怖い七福神の謎(;一_一)


そういう目で見ると皆おんなじ顔に見えませんか(^_-)-☆

#以下は追加した部分です

Y Oさん
明らかに、日本書紀を書いた人は、神功皇后≒卑弥呼と考えています。
しかしこれはあり得ないと思っております。直感です。

新唐書に、
『仲哀死以開化曾孫女神功為王次應神次仁德次履中次反正次允恭次安康次雄略次清寧次顯宗次仁賢次武烈次繼體次安閑次宣化次欽明』
と歴代天皇の名前があるのは、日本書紀の記述の通りです。 が、少し違うのは、

『仲哀死以開化曾孫女神功為王』
であり、神功皇后を「神功天皇」にしてることです。
唐に日本書紀を持って行ったときに、唐で魏志倭人伝を見て、あわてて付け加えたのかと存じます。

しかししかし、その後の「倭国大乱」とか「台与の即位」とか、なんなんだと。
唐で魏志倭人伝を読んだ後、唐に日本書紀を提出するまでの間に、整合性を合わせられなかったかと存じます。
日本書紀は日本の歴史書ですが、それ以前の邪馬台国の記述との整合性は合っていません。合わせようとしていません。
つまり、邪馬台国と大和朝廷とは別なのだと大和朝廷の人は考えているように見えるのです。
もし、「邪馬台国の後継者」であるならば、無理にでも整合性のある記述をしているはずです。歴代天皇のように。
そう考えると、他の魏志倭人伝のキーワードの一つ「狗奴国」とか「卑弥弓呼」とかありますが、
いったい敵対してる狗奴国ってどこですかね? 菊池彦って誰ですかね?
敵対してる狗奴国こそ大和朝廷なんじゃないですかね? だから整合性を合わせられないんじゃないですかね?(直感)


刮目天
@Y O さん 日本書紀は天武天皇が編纂を命じましたが、崩御後30年以上経過して完成しています。天皇の歴史書というのは明治期から国史教育を受けた日本人の思い込みです(拙ブログ「古代史サイコパス・ランキング?( ゚Д゚)」参照)。

完成するまでの間、藤原不比等が建国時代に活躍した先祖を持つ豪族たちを抑えて、どういう風に権力を握ったのかを調べると見えてきます。不比等の出自は他の豪族と比べて全く見劣りするものですから、不都合な建国の史実を抹消するために、デタラメな神話を創作し、デタラメな建国史もでっち上げたのです。考古学と民俗学の成果から分かりました(拙ブログ「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。

不比等は大宝律令を702年に制定し、神祇祭祀を身内の中臣意美麻呂を使って握らせて、各地の豪族の神社の祭神名や社名や由緒書きまで変えさせています。文武天皇の外戚となって豪族たちを強権で中央から排除し、その集大成として日本書紀を完成させ、藤原氏の行く末を安堵してその年に他界しています(拙ブログ「神話が隠した不自然な史実(;一_一)」参照)。

例えば、奈良時代の人々は2世紀初頭に福岡市周辺にあった奴国を儺縣(なのあがた)と呼んでいます。儺(な)の意味は鬼やらい、神やらいです。暴れん坊の神スサノヲが高天原を追放されたことを示唆する地名なのです。つまり神話で高天原とした奴国が滅亡した史実を知っていて、高天原神話を創作したのです。10世紀に南宋に遣使した際に、日本の「王年代紀」を提出して、日本が古の倭の奴国だったことを告白して、遣唐使時代には認めてもらえなかった国号を日本に改めさせたのです(拙ブログ「「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)」参照)。ですから当時の豪族たちや編纂に携わった学者らは当然、倭国大乱の構図、卑弥呼共立、狗奴国の官狗古智卑狗の正体など当時の史実をすべて知っていたと考えられますよ。

多くの方は、文献にあることが正しいとして、色々と解釈して考古学などとの整合性を取ろうとしますが、全く間違った発想なのです。考古学や民俗学などの成果から文献の内容の信ぴょう性を評価するというのが正しい姿勢なのです。科学的に古代史を解明する方法はアブダクションによる仮説構築と検証作業しかないですよ(拙ブログ「古代史の謎を推理する」参照)(^_-)-☆



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魏志倭人伝をシナ人が読んで邪馬台国が分かるの?(@_@)

2022-05-09 00:28:37 | 古代史
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前々回から二度にわたってゆっくり歴史考察・調査チャンネル@YouTubeさんのいい動画で中々面白い議論ができましたのでご紹介します。お付き合いください。

taro yamada
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分(宇佐神宮)になりますが?

理由は下記です。
道案内の基本は、距離と方角を言い、そこまでの行程でかかる時間(車で何分とか)を言います。
よって不彌國到着で終わりであり、何日かかるは帯方郡からの行程です。
また、魏志は中国の書物であり、国名を日本語漢字読みではなく中国語発音で読むはずです。
末盧國をマツラなどと絶対読みません。ムリュに近い音になります。

ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!宇佐神宮周辺は大規模の遺跡が発見されたり、円墳が発見されたりと九州ならとても可能性が高い気がしますね。

刮目天
taro yamadaさん、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分(宇佐神宮)になるというのは凄いですね(^_-)-☆
大分だということを詳しく教えていただけないでしょうか?

taro yamada
@刮目天 様
コメントありがとうございます。

詳細なホームページ作ってありますが、youtubeのコメントにアドレスを表記できなくなりました。
このため、5ちゃんねるの「大分に邪馬台国があったらしいけど」の7番目に記載してます。

末盧國は門司、伊都國は宇佐市糸口、奴國は宇佐市中心部となります。
他の九州説のとの違いは末盧國を松浦ではなく門司にしているところです。
こうすると魏志倭人伝はいっさい誤記はありません。



taro yamadaさんのページより引用


刮目天
@taro yamada さん 「大分に邪馬台国があったらしいけど」を見つけてざっと拝見しました。感想を述べさせていただきますが、学術的な意見として異論があったらおっしゃってください。結論はわたしと近いものですが、残念ながらほとんど納得できる内容ではありません。
(1)従来考古学の観点から比定されている奴国までの場所と違うというのが大きいです。例えば奴国の中心都市の比恵・那珂遺跡群は吉野ヶ里遺跡の約4倍の大都市です。そこで約二万戸なのです。あなたのおっしゃられている奴国=宇佐、にそれほど大規模な遺跡は発掘されていません。投馬国=薩摩が5万余戸もあり得ません。
文献は人間が書くものですから、ウソもあります。現在までの考古学の成果によってウソを見分けるのが実証主義です。つまり考古学の成果を無視する議論は成り立たないというのがわたしの意見です。

(2)最近の話題にもなっていますが、弥生時代に文字が使われていた証拠が幾つも出てきました(硯石、木製組机など)。伊都国にはシナ人が出入りしている証拠として楽浪土器が集中して出土しています。つまり、漢字を読み書きできる倭人が居たと考えられます。伊都国に居た男王や高官らはシナ人と交流していたと考えられます。ですから、残念ながら魏志倭人伝に書かれた倭国の地名をシナ人の発音で推理するのは誤りだということです。詳細は拙ブログ「邪馬台国の謎を解く糸口は?(^_-)-☆」などを参照してください。

taro yamada
@刮目天 様
私の意見を記載します。
(1)については、私の意見は魏志からのもので。考古学的資料は考えていません。
ただ、いえることは、大分県中を掘り返していません。考古学的資料が無いからダメはかなり難しいです。
考古学は、文献でここだと言うのを掘り返して証明するのはいいですが?宇佐神宮すら掘り返してないと思います。
人口についても、一般的に日本は昔から人口が徐々に増えたと考えていますが、飢饉があれば減少します。
アイルランドなどは、ジャガイモ飢饉前の人口に今だに戻っていません。
また、邪馬台国の主食は米です。つまり石高から人口が推定できます。1600年前後の豊の国の
石高は50万石程度(1石/人)。当時、しかも倭国連合の中心(現在の東京一極集中といっしょです)
ですから2万戸程度はあったとしてもおかしくないと思います(西暦1世紀では福岡当たりが人口の中心で、
西暦3世紀では宇佐に移動してもおかしくありません)。
(2)私も文字は邪馬台国でも使用されていたと思います。ただ、日本特有の読みはまだ発生してないはずです。
当然、明治時代の日本人がアメリカを米国と呼んだように似た漢字の発音をあてる行為を中国人もするはずです。
邪馬台国の謎を解く糸口は?について
まず、魏志倭人伝が妄想であれば、邪馬台国自体無いと言われても言い訳できません。だから正確に解釈するようにしています。
特に、行程は魏の軍事面から見ておかしな記述をすれば魏の国が滅びますから、正確に記述するはずです。
さらに、男女の人口比ですが、戦前でも田舎では小学校レベル2:1で女子が多かったです。
男児は一般的に虚弱です(一姫二太郎の理由)。ただ、成人してからは、女性は出産があるため、死亡率が高まります。


刮目天
@taro yamada さん せっかくですが、わたしの見解に対する学術的な意見としての異論になっていません。
(1)掘ったら分かるかも知れないのならば、すくなくとも掘る前に、多くの人を説得できる科学的な根拠がないと掘れません。残念ながら、比恵・那珂遺跡に匹敵する規模の遺跡が宇佐市にあるという可能性は現在までの成果から見て、ほとんどないと思います。ということは、あるかも知れないという根拠で仮説を組み立ててもいいですが、検証しないと単なる想像でしかないということです。
ついでに言うと、わたしは安心院町三柱山宮ノ原遺跡周辺が卑弥呼が居た邪馬台国であることを見つけていますので、宇佐市はその一部であったとされたものと考えてはいます(拙ブログ参照)。もしも拙論に反論があれば教えてください。でも、七万戸もあるはずはありませんから、政治的な理由で大げさに書かれたと主張しています。拙ブログ「魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆」をご参照ください。

(2)「日本特有の読みはまだ発生してないはずです。」は全く理解できません。倭人には倭人のことばがあります。縄文人にも旧石器人にもあったはずです。人間には脳みそと口と耳があります。安本美典「倭人語の解読」勉誠出版をご覧ください。
倭国にある地名や人名はもともと倭人が付けたものです。当たり前ですが、漢字が伝来する時期に初めて名前が付けられたわけではありません。漢字を読み書きできる倭人が倭国の地名や人名などを書いて魏側に教えたものだということです。ですから、シナ人の発音は全く関係ありません。倭人から聞いたことばを魏の役人が漢字にしたものでもないということですよ。

たとえば、山田太郎さんという日本人が米国人に自分の名前を教えるのに、アイ アム マウンテン・ライス・フィールド!とは言いません。アイ アム タロー ヤマダと言うはずです。常識的にこの米国人はヤマダさんをマウンテン・ライス・フィールドだと翻訳して記録しないと思いますよ(^_-)-☆

それから魏志倭人伝が妄想と言っている先生が盛んに著書をYouTubeで宣伝していますね。でも間違いですよ。邪馬台国は存在していることを突き止めましたから( ^)o(^ )

邪馬台国への行程は倭人が魏に教えたものですが、政治的な理由で、あるべき位置に置くためのつじつま合わせのデタラメになっているのです。後世の日本人に見つけてもらうために行程記事は書かれたのではなく、倭国が帯方郡の東南方向の海上にあり、ライバルの呉を挟み撃ちにできる戦略上重要な位置にある大国だと魏の朝廷の人々が理解できるように水行1月・陸行1月とデタラメを書いたのです。
ですから魏志倭人伝に倭国のことが正確に書いてあるはずというのはあなたの思い込みなのですよ( ^)o(^ )

taro yamada
@刮目天 様
(1)もちろん、考古学根拠は薄いです。しかし、掘り返すトリガーは何かあるからではないでしょうか?
三内丸山遺跡、吉野ケ里遺跡のようになにかあるから掘ってみたらとんでもないものが出たケースです。
初めから、そう思わなければ掘ったりしません。
私の説は基本仮設です。しかし、可能性の高いものを取るのが自然です。
魏志倭人伝と言う文書しかないのですから、これに基づき、邪馬台国を場所を推定するのが一番自然なやり方ではありませんか?
考古学的資料は金印とか碑文でも出れば別ですが、あくまで補助資料です。考古学的補助資料は宇佐神宮、安心院町三柱山宮ノ原遺跡がありますね。
安心院町三柱山宮ノ原遺跡で卑弥呼の墓がらしきものが見つかったとのこと。可能性は高く、私も支持しますが、他の論者に言わせれば決定的証拠にはなりません。

人口が大げさに書かれた可能性はあります。人口調査してる訳はありませんから、この部分はどうしても伝聞だし大げさにもなります。
しかし、これを一概に否定する根拠も考古学からというかもしれませんが薄いです。

(2)和人の言葉はありました。しかし、それを漢字に置き換える必要があります。つまり、日本語発音の地名を漢字で中国発音通りの表記する必要があります。
たとえ日本人が漢字にしたとしても、同じです。
「倭人語の解読」でも当時の中国音に基づきとAmazonの内容説明に記載されてます。ちなみに万葉かなは500年もたってからの話です。
まさか、漢字を知ってる日本人が日本の地名の意味をくみ取り、その意味の漢字に直したということですか?
となると、邪馬台国の周辺に出てくる国々の国名に差別的意味が多いので、日本人が中国人に我々はこんな野蛮な国だと言ってるようなものですが?

魏志倭人伝、あるいは、それを元にした写本以外で、邪馬台国の存在を確認できる証拠はなんですか
(卑弥呼は新羅本紀には登場しますが、その国は北九州あたりにいたと言う以外の記載ありません)?
考古学的なものであれば、邪馬台国はどこにあったという論争は決着しています。

魏志倭人伝に倭国のことが正確に書いてあるはずというのはなぜ思い込みですか?魏志以外の中国の正史でデタラメの記載がありますか(特に地名、方位、距離)?
さらに、魏志の作者の陳寿は、魏の後の晋の人間であり、魏志の執筆時、すでに呉の国は滅ぼされているので、邪馬台国をオーバーに書く必要はありません。
魏志の元資料を作成した役人の文書のコピーだとしても、現在のウクライナ戦争でも、部下が大本営発表して、プーチンに粛清されていますよね。
役人が和人の言うことをうのみにして自分の首(本当に殺される)をかけてここまでしますか?
また、面積が小さいから小国と意識はないはずです。かつてのスペインやイギリスを見ればわかります。


刮目天
@taro yamada さん
>初めから、そう思わなければ掘ったりしません。
まではいいですが、
>私の説は基本仮設です。しかし、可能性の高いものを取るのが自然です。
申し訳ないですが、その可能性は現段階でゼロだと思います。

それはあなたの仮説「倭国の地名は北京語の読みで場所を特定できる」について否定する意見を上で述べていますからご理解ください。つまり、倭人が倭国の地名などの倭人の読みを漢字で書いて教えたと分かるからです。

伊都国という字は漢字を読み書きして、孟子も読む教養人が書いて教えた国名なのですよ。これが大発見なのですよ!ウィクショナリ「伊」によると『「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。』(2022.5.19 赤字追加)

その他の国名や人名なども、漢字を読み書きし、漢字の意味を知っている倭人が、感情を交えて特定の漢字、いわゆる卑字を選んで書いて教えたのですよ。行程記事は政治的な理由で、事実と異なるものにしているのです。これが魏志倭人伝の真相なのです。この動画の鈴木信行様にその内容をコメントしていますのでどうぞ(^_-)-☆(注1)。

そこまで分かると、後はヤマト王権の成立過程を考古学や民俗学の成果を使って推理して、邪馬台国の位置も卑弥呼の正体も判明したということです。

少しだけ述べます。
弥生時代中期初頭(紀元前4世紀)に奴国の初代王天御中主が吉武・高木遺跡に居を構えたことから日本の歴史が始まります。龍蛇神(ナーガ)を信奉する江南系倭人の王です。地名も福岡市に那珂川がありますし、日本全国に那賀、長柄などなどの地名が見られます。顔に入れ墨した江南出身の倭人アズミ族が開発した土地です。

天御中主は記紀神話では高天原に最初に現れた神となっていますが、10世紀の大和朝廷が東大寺の僧奝然(ちょうねん)に持たせて南宋の太宗に献上した日本の「王年代紀」に二十三代の奴国王の名前が書かれ、筑紫の日向宮に居たとし、最後の王の4男が初代神武天皇で大和の橿原宮に都を遷したとあります。

ただし、第18代王素戔嗚尊が奴国宮廷楽師だった師升らのクーデターで殺された奴国王だと記紀神話からも分かります。志賀島で発見された金印はこの時にスサノヲの部下のアズミ族が隠したものだと分かります。

そしてクーデターを逃れた王子イタケルやその直系の子孫狗古智卑狗(豊岡市久々比神社の祭神久々遅命、イタケルと同じ木の霊ですので上棟式の祭神、代々王の襲名)がムナカタ海人族の王となり、スサノヲのコネで半島南部の鉄を旧奴国(狗奴国)勢力に供給し、隆盛になります。狗古智卑狗とのコネによって各地の部族長は鉄製品を入手でき、首長の権力が強くなって首長霊信仰がはじまり、古墳時代の幕開けです。

イタケルと同時に逃亡したスサノヲの弟がイタケルらの支援で吉備を平定し、奴国を再興します。王年代紀第19代王天照大神尊です。記紀では饒速日尊、先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日命です。楯築王墓の被葬者です。楯築神社の御神体亀石と言う弧帯文石が人面蛇体なのですから、中国神話に登場する人類の始祖神の天皇伏羲と同じなのです。ヤマトの大王が8世紀に天皇と呼ばれる理由は奴国大王の男系の子孫だからですよ(^_-)-☆



ちなみに、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺で、明治になるまで女性天皇を誰一人祀っていませんでしたから、女性天皇は全て藤原不比等のフェイクだったと分かりました。これは日本国民全員に知ってもらいたい大発見ですよ!詳しくは拙ブログ「日本書紀だけでなく続日本紀までもが?(*´Д`)」をご参照ください。

ということですので、お付き合い有難うございました。勝手ながらこれで打ち切りにしてください。拙論への疑問ならば議論に応じますので、ブログの方へ遠慮なくどうぞ。よろしくお願い致します。


(注1)刮目天のコメント
鈴木信行さん あなたの感想は当たっているかも知れませんね。でも、弥生時代に文字が使われていたことが前から分かっていましたが、最近続々と硯石が見つかった話題が新聞記事などにも出ています。そして伊都国の三雲遺跡番上地区から楽浪土器が集中して出ていますので、そこにシナ人たちが居住していたと考えられています。伊都国に王宮を置く倭国王らがシナ人と交流して漢字を読み書きできるようになっていたと考えられます。

そうすると、従来、魏志倭人伝に紹介される倭国の地名や人名などは、漢字を読み書きできない倭人から魏の役人が聞いて漢字を当てたという通説が成り立たなくなります。ですから、魏に漢字で書いて教えた倭人は、倭人間で通じる地名や人名などの発音に漢字を当てたということです。その際に敵対する、あるいは敵対していたが今は仲間になっている国や人名などを、漢字を読み書きできない人々に対して好い字を使わなかったのだと分かります。

例えば狗奴国は狗コロの奴国という意味です(ただし、奴国はナーガ=龍蛇神を信奉する国という意味で後漢光武帝に与えられた金印のつまみが蛇であることや、地名に那賀などとあることから分かります)。卑弥呼も卑しい巫女、あるいはヒメゴです(玄界灘を支配する、その子孫が和邇氏の縄文海人ムナカタ族の姫巫女と突き止めました)。狗奴国の官狗古智卑狗はこれほど蔑んだ名前にも呆れます(狗古智卑狗は兵庫県豊岡市の久々比神社の祭神久々遅命、スサノヲの王子イタケルと同じ木の霊ですから、棟上式の祭神でイタケルの子孫です。日本海沿岸と玄界灘などを活動域とするムナカタ族の王とされ、代々襲名しています)。

それに対して伊都国は殷(商)王朝初頭の有名な政治家伊尹(いいん)に因む国名です。孟子に登場し、放蕩な主君を追放したことで評価が議論される人物です。伊都国は107年に安帝に160人の生口(戦争捕虜を奴隷とした)を献上した帥升(倭面土国王師升、正しくは回土(ウィト)国王)の事績と一致します。奴国を滅ぼして倭国王に立った人物だという証拠があります。239年6月に帯方郡に出かけた大夫難升米は師升王の子孫で、魏から正規軍の軍旗「黄幢」が授けられていますから、軍事を掌握する人物、ほんとうの倭国王なのです。難升米が帯方郡太守劉夏と会談して伊都国と書いて教えた人物です(邪馬台国へのデタラメな行程記事も政治的な理由で書かれたものです)。難升米は固有名詞ではなく師升の一族の頭目(かしら)という意味でした。

奈良時代に奴国が儺県と書かれたことは知られていますが、儺は鬼やらい、神やらいの意味です。奴国王を追放した史実がこれらによって証明されました。また、当時の人は奴国滅亡の史実を知っていたのです。それを神話にしたのですから、日本書紀はデタラメな歴史書だったのですよ。詳細は拙ブログ「古代史を推理する」を参照ください



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まぼろしの邪馬壱国だった?(^_-)-☆

2022-05-08 08:31:30 | 古代史
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前回の記事「邪馬台国九州説の中で?(^_-)-☆」でご紹介したゆっくり歴史考察・調査チャンネル@YouTubeさんのいい動画へのコメントの続きです。お付き合いください( ^)o(^ )

蝉丸山茶花亭
そもそも魏志倭人伝には邪馬台国という国は出てこないので、「魏志倭人伝以外から邪馬台国所在地を徹底考察!!」というタイトルがおかしいかと思いました。
単に「邪馬台国所在地を徹底考察!!」で良いのではないでしょうか。
魏志倭人伝以外の史書には邪馬台国が出てきますし。


ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!他の邪馬台国考察動画ではよく魏志倭人伝を主軸で考察しているので敢えて、差別化も狙いこのタイトルにしました。

刮目天
蝉丸山茶花亭さん なるほど、おっしゃるとおりです。
現在わたしたちが読んでいる12世紀の魏志倭人伝の版本では邪馬壹国とあり、邪馬臺国は出てきません。原本にあった「臺」から、版本の基になった写本の段階で「壹」に変えられているのか、原本から「壹」だったのかも原本が見つからないと正確には分かりません。

しかし、魏志倭人伝に「南至邪馬壹國、女王之所都」と最初に1度だけ登場し、残りはすべて女王国を邪馬壹国の代わりに使っていますから、邪馬臺國はヤマコクに住む臺(女王)、つまり「卑弥呼が都とする国」と言う意味にとれます(注1)。范曄後漢書にも邪馬台国と明記され、魏志倭人伝の原本から「臺」であるようです。意味としても女王国で間違いないと思います。邪馬壹国はその意味が良く分かりませんし、邪馬壹国に比定される場所も見当たりません。

なお、倭人の発音を魏の役人が聞いて漢字を当てたという説は、弥生時代に漢字が使われていた証拠が多数見つかっていますので、成り立たないことが分かっています(注2)。

ですから、写本の段階で、東夷の女王に皇帝に用いる「臺」という字を当てるのは不敬だと判断して(三国志で「魏臺」は明帝曹叡のこと)、似た文字「壹」に置き換えた可能性が高いと思います。

魏志倭人伝に登場する「壹與」も同様の理由で「臺與(台与)」から書き換えられたと考えられます。九州に卑弥呼の宗女台与(トヨ)に因む地名などが数多く存在しますが(例えば、豊国、豊比売などなど)、イヨに因むものは四国の伊予くらいですから、邪馬台国説を支持しています。 

つまり邪馬台国というのが定説ですからタイトルで良いのではないかと思います( ^)o(^ )

蝉丸山茶花亭
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル わかります。まあ、そうですよね。

【関連記事】
【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)
考古学や民俗学の成果から卑弥呼の宮室のあった宇佐市安心院町三女神社付近が邪馬台国ですが、人口がもっと多いと考えるのならば、宇佐平野・大分平野から阿蘇山に向かう大野川流域や日田盆地まで含めた広い領域を邪馬台国と考えても良いと思っています。


邪馬台国・投馬国は佐賀平野・筑紫平野にあったか?など( ^)o(^ )

(注1)宇佐市史によれば、安心院町は平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)に紹介された野麻郷(ヤマゴウ)の地名は安心院町に比定されています。ですから、あのあたり一帯がヤマコクと呼ばれていた模様です。邪馬台国というのは倭国王難升米が帯方郡太守と談合して、魏の朝廷の注目を集めるために倭国が女王が統治する東夷のエキゾチックな大国とすることで作られた地名です。その時代の倭の人々に邪馬台国と言ってもポカン!だと思いますよ(^_-)-☆
耶馬渓というのもあります。安心院町では仙の岩がありますよ!

(注2)弥生時代に文字が使われていた証拠が出てきています。漢字を使っていた倭人も一部居たと思われます。漢などの外交使節や楽浪郡などから華僑が伊都国には来ていましたから伊都国に王宮を作っていた倭国王らは読み書きはできたし、シナ語で会話もできた可能性もあります。
変わる弥生時代観!(^_-)-☆
弥生最大の交易都市比恵・那珂遺跡では交易に10進法が使われて取引税を取っていたようです。


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邪馬台国九州説の中で?(^_-)-☆

2022-05-07 10:51:03 | 古代史
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とてもいい動画があったので、コメントをしました。沢山やり取りさせてもらったので、何回かに分けた方がいいかと思います。とりあえず、この部分をご紹介させてください。是非、お付き合いください( ^)o(^ )n



刮目天
いつもいい動画をありがとうございます。九州説を三つに絞ってくださったのは正解です。
まず、山門説ですが、邪馬台と発音が微妙に違います。前者は山地への入り口をあらわす普通名詞ですが、邪馬台はヤマ国に住む台(女王)つまり卑弥呼という意味なのです。ですから、魏志倭人伝でも一度しか使われず、あとはすべて同じ意味の女王国と記されているのです。写本を元にした版本に邪馬壱国とあるので探しておられる方がいますが、意味を考えると写本がある理由で壱に変えられたのだと分かります。それから、魏志倭人伝に「東に千余里海を渡ると又倭種の国がある」という記述が適合しませんので、どういう理由でこの文章を無視したか、合理的な理由を示さずに、山門説を主張するのは説得力がありません。魏志倭人伝が政治文書だということに気づいていないから、いつまでも邪馬台国論争があるのですよ(*´Д`)。

日向説ですが、初代神武天皇が三世紀にヤマトを征服した考古学的証拠がありません。日本書紀は天皇家の歴史書だと思われていますが、編纂を命じた天武天皇が崩御して30年以上後の権力者藤原不比等によって完成させられている事実を皆さん見落としています。不比等は藤原氏が権力を握り続けたいために、日本建国時代で活躍した祖先をもつ豪族らを抑えて、没落させる目的で、不都合な史実を神話に閉じ込め、都合の良い話を創作したことが分かってきました。日本建国は旧奴国(狗奴国)が倭国を滅ぼして統一したという事実が鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。

ついでですが、畿内説もこの時期に九州の土器が纏向遺跡で出土していないことから、北部九州とは敵対関係にあった狗奴国だと容易にわかりますよ(^_-)-☆

そして宇佐説ですが、これが正解です。本質家さんへのコメントにハートマクいただき感激です(#^.^#)
宇佐市安心院町三女神社に卑弥呼の宮室があったと突き止めました。そして卑弥呼の墓はその北西部にある直径約150mの円墳だと発見しました。その横の地名が百余人の奴婢を殺したことを示唆する「血野」という地名になっていました(地元では別の伝承にしていますが、卑弥呼の墓であることを隠すためだと推理しています)。また、同じ三女神社という社名の遥拝所があり、日食が原因でその場所で卑弥呼が殺されたことを示唆する「ヒカケ」という地名まで残っており、三女神の石塔やおどろおどろしい摂社もありますから間違いないと思っています(「卑弥呼の墓は見つかってるよ」参照)。
本質家さんにコメントしたとおり、卑弥呼は日蝕が原因で殺されたムナカタ族の姫巫女、通称ヒメゴで間違いないですよ(^_-)-☆
詳しいことは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。失礼しました( ^)o(^ )

ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!このゴールデンウィークで刮目天さんのブログの記事を殆ど閲覧させて頂きました。とても面白く勉強になりました。地名はとても大事なヒントな気がします。ヒカケという地名があるのは知りませんでした。日食と関係がありそうでとても意味深ですね。

刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん 早速ありがとうございます。通説と違うので、いろいろと疑問がわくと思います。研究が進みますので、遠慮なくいってください( ^)o(^ )

刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん わたしも遺跡ウォーカーでヒカケ横穴群の存在を知って椅子から転げ落ちました。横穴が掘ってあるのです。岩戸隠れを示唆しているのですが、それによって卑弥呼の墓を隠しているのですから驚きました。その摂社や三女神社との間には仁聞上人が作ったといわれる乳不動があって、その辺りに温泉が湧いているのですっぽんを養殖しています。卑弥呼は毎晩この露天風呂に入ってすっぽん料理を味わって濁り酒を飲んでいたのだと思います。ですから、卑弥呼が入浴しているところを襲われて、摂社の場所まで連れていかれて殺されたと推理しています。詳しくは拙ブログ「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」にありますのでどうぞ( ^)o(^ )

ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!こちらこそこれからもよろしくお願いします。

本質家
確かに宇佐神宮は比売大神と応神天皇・神功皇后を祀っているので、大和王権の勢力があったと言うのは合理的ですね。
俺も邪馬台国は吉野ケ里遺跡かその周辺にあったと思うので、みやま市周辺はかなり有力な候補で福岡には円墳もありますね。
後は朝鮮半島南部の前方後円墳を調べて、年代や大和王権と邪馬台国のどちらに近いかを、副葬品などで調べれば詳しく解析できそうですね。
俺は纏向遺跡と箸墓古墳が大和王権で、出雲勢力を取り込んで支配地域を拡大した、今の日本に繋がる勢力だと思います。


刮目天
本質家さん いいセンスです!宇佐神宮は八幡大神を第一殿、比売大神第二殿、神功皇后第三殿となってますが、第二殿を一番立派な中央として左右に八幡大神、神功皇后が祀られているので、主祭神は明らかです。比売大神はもともと宇佐地方で祀られていた宗像三女神です。これで分かると思いますが、三女神はひとりなのです。
なぜ、三女神がヤマト政権の崇敬を得ているのか考えると沖ノ島祭祀が4世紀から世紀まで行われていることから、沖ノ島が半島との交通路にあったからとすぐにわかります。半島南部に鉄の産地があります。なぜ魏志倭人伝に描かれた渡りやすい、末蘆国・壱岐のルートを使わないのかに注目すると、このルートしか使えなかったのではないかと分かります。つまり伊都国・奴国の倭国側が抑えていたからです。(2022.5.7 赤字訂正

ですから倭国大乱の時代から三世紀のヤマト政権は北部九州の倭国と対立していた狗奴国で、最終的に半島南部の鉄を入手して倭国を滅ぼして日本を統一したのだと分かります。その経緯は少しややこしいのですが、倭国大乱は半島の韓人・ワイ人が暴れて混乱していた時期ですから倭国は楽浪郡との交易もできなくなっていた、一方狗奴国は沖ノ島・対馬経由で狗邪韓国の鉄を入手して強勢になったということですので、ヤマト政権が誕生したのは沖ノ島ルートを支配していたムナカタ海人族が重要な役割を果たしていたからということになります。ムナカタ族が祀る太陽神信仰の姫巫女が卑弥呼だったと分かります。卑弥呼の一族が後に近江から大和に根拠地を移した和邇氏だということも分かりました。東大寺山古墳のある和邇坐赤坂比古神社の祭神がイチキシマヒメとアタカタスミです。後者がムナカタ族の祖神、イチキシマヒメは三女神の主神で、厳島神社や弁財天として日本全国で祀られていますから、卑弥呼ですよ!近江八幡市の比牟礼八幡神社でも祀られていますが、もとは日蝕社(ひはえのもり)だったと思われる神社名が藤原不比等によって日群杜(ひむれのもり)と強権で変えられています。ですから地元では日触山として似た名前を残したのだと思います。詳しくは拙ブログ「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」をご参照ください。宇佐八幡でなぜ卑弥呼が祀られているのかもすべてわかりましたよ(「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」参照)。
ということで宇佐説が正解ですよ(#^.^#)

ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!宇佐神宮の比売大神が卑弥呼かもしれないなと妄想したりします。吉野ヶ里遺跡も新たに発掘調査が進んでおり、今後の発見に期待出来そうですね。

刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん 早速ありがとうございます。これだけ状況証拠がそろうと、これは妄想ではなく事実だと思いますよ(*^。^*)
邪馬台国論争は終了したと考えています。あとはこの事実を使って、藤原不比等によって隠された次の時代の歴史の真相を科学的に探究していきたいと思っています( ^)o(^ )

刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん 今発掘が始まっていますが、佐賀平野はシナの影響を強く受けていますよ。弥生中期に奴(ナーガ=龍蛇神)国王の要請で徐福が来日して吉野ヶ里遺跡一帯の王にしてもらったと推理していますので、証拠が見つかればいいなと期待しています。

本質家
@刮目天
大和王権と別の北九州勢力があったので、佐賀平野で大陸の影響があるのは当然で、邪馬台国は30余国を統一したと言う話なので、魏志和人伝の記述がおかしいと思います。


刮目天
@本質家 さん それは三世紀ごろの話です。徐福はBC.219に来日していますよ(^_-)-☆奴国はそのころ須玖タカウタ遺跡で官営工場を作っていますし、須玖岡本の王宮に宮廷楽師が登場したと考えています。
吉野ヶ里の墳丘墓の南側にある祭祀遺跡と西南の方向から入る墓道が前漢の武帝が、泰山の麓で行った明堂の祀りと一致していることが分かっていますし、その他にも高島先生が指摘していましたよ(^_-)-☆

【関連記事】
弥生時代に神代文字あったのか?(*^。^*)



最後までお付き合い、ありがとうございます。
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