刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

卑弥呼は伊勢神宮に眠っているのか?(@_@)?

2022-05-31 00:00:18 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

前回の動画「卑弥呼の墓 日本古代史(桂川光和)@YouTube」の議論ががとても興味深いので、以下のようなのコメントをしました。お付き合いください(^◇^)

<その1>
M F
この事が事実だとしたら、なぜ日本書紀や続日本紀などの日本の歴史書に卑弥呼に関する記述がまったくないのだろう。たまたま抜け落ちたのだろうか。そういうことも含めてミステリー。実に興味深い。

日本古代史(桂川光和)
日本書紀が編纂された時代になると、天皇は神武に始まる男系の血筋を引くことが条件となる。私が卑弥呼とする宇那比姫も、天豊姫も男系の血筋を引かない。だがこの人たちの子だもは神武につながる。
その系図
 

刮目天
@日本古代史(桂川光和) さん 度々失礼します。神武天皇はいつ即位したとお考えですか?ヤマト王権成立は3世紀であることは考古学の成果から分かっています。その時代にヤマトに九州から土器が運ばれていません。神武東征神話は虚構です。日本建国の史実を隠す目的だったと推理しています(^_-)-☆

<その2>
jun Karino
卑弥呼は伊勢神宮に眠っていますよ

日本古代史(桂川光和)
ぜひ実証してください。そうしないとあなたの説は永久に仮説のまま。

無職独身子供部屋おじさん ねろ
眠っている(埋め墓)?祀られている(参り墓)?

刮目天
伊勢神宮内宮の祭神は男神です。江戸時代まで多くの人が知っていました(「アマテラス大神はヘビだった?」参照)。謡曲「三輪」にも登場します(「能楽が建国の真相を伝える?(^_-)-☆」参照)。

「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事今更なにと磐座や・・」

(the能.com   演目事典:三輪(みわ)より)


明治になって記紀に基づく国史教育をされたので、ほとんどの日本人は記紀神話は日本民族のアイデンティティと思わされています。

ところが、7世紀の人々は奴国と呼ばれた博多の地を儺県(なのあがた)と呼んでいました。儺の意味は鬼やらい・神やらいです。高天原神話のスサノヲ追放劇を意味しますから、高天原は奴国王が支配する倭国のことだったと知っていたのです(注1)。107年に後漢安帝に160人もの生口を献上した倭国王帥升(正しくは回土(うぃと)国王師升)の倭国乗っ取りの史実でした(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

大和と北部九州の奇妙な地名の一致も新唐書・宋史に書かれた「日本は古の倭の奴国」であったことを意味しています。前方後円墳の祭祀属性も北部九州・吉備・出雲のものだと分かっています。倭国大乱は奴国宮廷楽師だった師升らのクーデターが原因だと突き止めました。詳しくは拙ブログ「刮目天 【検証22】難升米という人物は?(その1)(その2)(その3)」「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」などをご参照ください!

(注1)wiki「追儺」によれば「追儺(ついな)とは、大晦日(旧暦12月30日)に行われる宮中における年中行事。鬼(疫鬼や疫神)を払う儀式[1]、または民間で節分などに行われる鬼を払う行事。儺(だ、な)[2]あるいは大儺(たいだ、たいな)、駆儺。鬼遣(おにやらい。鬼儺などとも表記)、儺祭(なのまつり)、儺遣(なやらい)とも呼ばれる。」とあり、鬼とは主に、疫神のことを指すようです。



また、日本神話で「神やらい」とは高天原を追放された乱暴者の神スサノヲの神話のことです。古事記では「神逐(かんやらい)」、日本書紀では「逐降(かんやらひ)」と書かれます。

疫病退治や無病息災のために「茅の輪くぐり」が行われますが、スサノオノミコトが旅の途中に宿を求めた、備後国の蘇民将来(そみんしょうらい)の逸話が起源です。つまり、日本における「儺」の意味「鬼やらい」は疫病神スサノヲの高天原追放の神話「神やらい」に由来すると考えられます。

儺県(なのあがた)は「日本書紀 仲哀紀」に登場するだけですが、7世紀末から8世紀初頭にかけて編纂作業が行われたわけですから、当時の編纂に携わった学者らは奴国が神やらいの舞台だと知っていたことを意味します。高天原神話は藤原不比等の命に従ったこの人たちの創作なのだと分かります。

一方、日本建国で活躍した祖先を持つ豪族たちは当然史実が伝承されて、歴史の真相を知っていたと考えられます。983年に東大寺の僧奝然(ちょうねん938?―1016 俗姓秦氏)が宋の太宗に献上した王年代紀に初代王天御中主から筑紫日向の宮に居た23代までの王の名前が記録されています。スサノヲは第18代王素戔嗚尊とされており、その先代の17代王が伊弉諾尊、次の19代王が天照大神尊となっています。女王とは書かれていません。神話のアマテラス女神はスサノヲの姉で先に高天原の支配者となっていますから、天照大神尊は女神とは別の男王です。初代神武天皇から64代円融天皇まで正史に書かれた天皇を列記して、女帝は分かるように記されています。

奝然上人が高天原神話を説明せずに、神武天皇の前の歴代王は後漢から金印を賜った奴国王の時代だと説明したので、その後新唐書宋史において倭国から日本国へ国号が正式に認められ、「日本は古の倭の奴国」と正しく記されたわけです。

(茅の輪くぐり神事 三つの輪 – 宮地嶽神社 より)


【おまけ】<その3>
刮目天
お邪魔します。

現存する最古の歴史書は天武天皇が編纂を命じたので、ほとんどの方が天皇家の歴史書だと考えておられますが、日本書紀が完成したのは崩御後30年以上経った720年です。時の権力者であった藤原不比等が、藤原氏が権力を握り続けるために史実を改ざんして完成させたものだと、不比等の事績を分析して判明しています(「神話が隠した不自然な史実」参照)。

江戸時代までは、例えば天照大御神は男神で、その正体はヘビだと文化人たちや庶民まで知られていました。しかし、明治になって記紀に基づく国史が教育されるようになり、戦後の多くの日本人も何となく日本の歴史だと思い込んでいるのです。

戦前、津田左右吉が日本書紀の虚構を指摘しても、多くの研究者らは天皇家の歴史書と信じているので、荒唐無稽な部分に対して好意的に解釈しています。それでも、いまだに謎だらけです。現在までの文献研究や考古学や民俗学の成果から、ほとんどデタラメな歴史書だったことが判明しました。

古事記も712年成立とされていますが、ご存知のとおり、その時代に編纂が命じられたり完成されたという記録が序文以外に一切ありません。また稗田阿礼という姓(かばね)を持たない人物が天皇の御側にいたとは考え難く、実在人物ではないようです。また編纂した太朝臣安万侶が実在人物であることは墓誌の発見で分かりましたが、実績のない人物に天皇が編纂を命じるなど考えられない話なのです。九世紀に朝廷で日本書紀を講義していた安万侶の子孫の多人長(おおのひとなが)が突然、古事記の存在を表に出したものなのです。序文は人長が書いたと考えられています。原古事記の存在も言われていますが、基本的に日本書紀の内容に沿って書かれていますので、ほとんどデタラメな内容です。ただ、日本書紀と少し違えた部分があるので、歴史の真相をそれとなく暴露するのもその目的の一つだと考えられます(岡田 英弘「倭国の時代」ちくま書房 参照)。

記紀はデタラメな歴史書ですが、当時の人々の考え方などを知る貴重な資料であることは間違いありません。また、記紀を全て排除したら歴史の真相を知ることができません。藤原氏によって史実が改ざんされたのであれば、不比等の目的を考察し、考古学などの成果から真相を解明することが可能です。このような考え方から、事実に基づく科学的な推論手法について、拙ブログ「刮目天 古代史の謎を推理する」で解説しましたのでよろしければご参照ください。

邪馬台国問題についても似たような構図で、西晋の史官陳寿が撰した魏志倭人伝のもとにした二人の魏使の報告書が、政治的な理由で一部改ざんされたことも、上の方法で日本の建国史を解明して分かりました。

邪馬台国大和説は考古学の成果と矛盾しますので、残念ながらご主張される墓は卑弥呼のものではありません。卑弥呼は記紀神話で宗像三女神とされ、宇佐神宮で比売大神として祀られているムナカタ海人族の姫巫女(通称ヒメゴ)だと分かりました。宇佐市安心院町三女神社を宮室とし、247年3月24日に北九州を中心として日没前に起こった日食のために殺害されて、宮ノ原遺跡西側の直径約150mの急造りの円墳に葬られたと推定しました。詳しくは拙ブログ「刮目天 【発見!】卑弥呼の墓」をご参照ください。是非、疑問点などお寄せ下さい。

突然、不躾な長文のコメント、どうも失礼しました。




最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング