1941年(昭和16年)12月8日の朝の事は今でもはっきり覚えている。
・・・ 73年前の事だが、忘れられるものではない ・・・
私は16才で旧制中学の4年生だった。
早朝からラジオ放送があり、対米戦争が始まった事を知った。
覚悟していた時が遂に来た!(でも、口には出せぬが本心負けるので
はないか?と思う怖さがあった)。
1月生まれだから、あとひと月で17才。 当時中学4・5年生ともなれば
もう大人(一人前)に近い扱いを受けていた。
何時もの様に制服を着て、巻脚絆(ゲートル)を巻いて登校した。
1年生から5年生まで、全校生校庭集合。 校長の訓話「一億一心火の
玉・・・」のあと、配属将校、陸軍少尉日向教官の「皇国の為身を捧げる
時が来た ・・ お前たちこそ先陣を切って第一線に立って・・云々 ・・」
長い話のあと1・2年生は徒手、3年生は木銃(銃剣術用の木の鉄砲)
4・5年生は軍装(帯剣を付けて、三八式歩兵銃を担ぐ)で行軍に出た。
1~3年生は近距離だが、4・5年生は二時間以上(途中駆け足も
あって)、 長さ80cm 重さ4kgの銃は肩にくい込み重い! ・・・・・
もう ヘトヘトになって、やっと昼頃学校に帰って来た。
校門が見えると、「歩調取れ」の命令で四列の正規隊形に戻る、「軍歌
始め」の命令で ♪ 万朶の桜か 衿の色 ・・・ ♪ 「歩兵の本領」を歌い
ながら校門をくぐって帰校した。
軍装を解いて教室に入ると皆 ばったり。 あの日の行軍は応えた!
註) 各中学にはみな現役の将校が配属されていて、一般の先生は
勿論、校長も一目置く様な権威を持っていた。(ガチガチの職業軍人)
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― それからすぐ「真珠湾攻撃」の事を知った ―
※ もう遠い 遠い 昔の事となり、知る人も少なくなったから、
当時の旧制中学校」の軍事教練の事を少し書いて見よう
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(註) 旧制中学4・5年生の服装
教練は正課で、1年生は敬礼の仕方から始まり ~ 気を付ヶ 休メ
~ 行進とか、3年生位までは「各個教練」 や分列行進 etc ・・・
4年5年生になると、「部隊教練」 「射撃・空砲」 「指揮法」 「銃剣術」
「戦闘訓練」 「模擬戦闘」 ・・・・ 次第に高度?なものになって行く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/83/1e809169dbc432ab984219747297c07c.jpg)
帯剣を付けて三八式歩兵銃を担いで行進する姿(軍隊と同じ)
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三八式歩兵銃 (軍の払い下げ品だが) 実弾は打てる。
後年、戦況が悪くなっ来て、これらは又軍に回収(取り上げ)されたらしい
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「帯剣」通称ゴボ剣、ベルトに通して左腰に下げる。
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最後の突撃戦の時は、銃の先端に着剣(装着)して、 突っつ込む!
各中学には、歩兵銃の他、軽機関銃、擲弾筒、手榴弾、指揮刀、など
下賜され、兵器庫があって、厳しく収納されていた。 ただ実弾はない!
雨降りの日は、銃の手入れや「学科」で「歩兵躁典」「作戦要務令」等
の講義を受けた。
5年生になるともうほぼ軍隊の事は教わってしまった感がある。
5年生の時、連合演習があった。 筑後平野で福岡県の全中学校が
紅白に分かれ、一泊(野営)2日で野戦の模擬戦闘(空砲)をした。
また、2泊3日の「兵営宿泊」も体験した。
配属将校の(ひなた)少尉が久留米師団の現役将校だったから、
我が校は久留米歩兵連隊に宿泊、兵隊と一緒の体験をした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/00/3f12768f675b42fedcc50e9823b77ad6.jpg)
青〇は連隊長(大佐)赤〇は配属将校、黒〇は学校の担任の先生
この時、実弾射撃(5発)も体験した。
もう一つ忘れられないのが10里行軍。
真珠湾攻撃の時、「特殊潜航艇」で米艦に突っ込んだ、9人の海軍
兵学校出の青年将校。 皆戦死して、二階級特進「軍神」とされた。
その中の一人で東筑中学出の「古野少佐」の墓(芦屋)まで行軍して、
捧げ銃をして敬意を表した。
この時もきつかった ”足が棒の様になった”
このように、充分軍事教練を受けているから、入隊したら、幹部候補生
の試験を受ける資格があった。
甲種幹部候補生の試験に受かれば予備士官学校に行って、見習
士官になって帰り、暫くして「少尉」になった。
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私は、一年繰り上げ、19歳で「徴兵検査」を受け、甲種合格で即現役
入隊。 約一年間朝鮮瀧山(ソウル市)で過ごした。初年兵の三ヶ月が
丁度真冬だたから、寒さ、ひもじさ、と 演習は辛かった。
「歓呼の声に送られて、入隊する時は戦死は覚悟していた」・・が、
お陰で運良く死なずに帰って来れた。