新勝庵

元サラリーマン、映画・読書・芸術好き。
おんとし 92歳 です。

12月8日

2014-12-14 14:13:02 | うんちく・小ネタ

1941年(昭和16年)12月8日の朝の事は今でもはっきり覚えている。

・・・ 73年前の事だが、忘れられるものではない ・・・

私は16才で旧制中学の4年生だった。

早朝からラジオ放送があり、対米戦争が始まった事を知った。

覚悟していた時が遂に来た!(でも、口には出せぬが本心負けるので

はないか?と思う怖さがあった)。

1月生まれだから、あとひと月で17才。 当時中学4・5年生ともなれば

もう大人(一人前)に近い扱いを受けていた。

 何時もの様に制服を着て、巻脚絆(ゲートル)を巻いて登校した。

1年生から5年生まで、全校生校庭集合。 校長の訓話「一億一心火の

玉・・・」のあと、配属将校、陸軍少尉日向教官の「皇国の為身を捧げる

時が来た ・・ お前たちこそ先陣を切って第一線に立って・・云々 ・・」

長い話のあと1・2年生は徒手、3年生は木銃(銃剣術用の木の鉄砲)

4・5年生は軍装(帯剣を付けて、三八式歩兵銃を担ぐ)で行軍に出た。

 1~3年生は近距離だが、4・5年生は二時間以上(途中駆け足も

あって)、 長さ80cm 重さ4kgの銃は肩にくい込み重い! ・・・・・

もう ヘトヘトになって、やっと昼頃学校に帰って来た。

校門が見えると、「歩調取れ」の命令で四列の正規隊形に戻る、「軍歌

始め」の命令で ♪ 万朶の桜か 衿の色 ・・・ ♪ 「歩兵の本領」を歌い

 ながら校門をくぐって帰校した。

 軍装を解いて教室に入ると皆 ばったり。 あの日の行軍は応えた!

註) 各中学にはみな現役の将校が配属されていて、一般の先生は

勿論、校長も一目置く様な権威を持っていた。(ガチガチの職業軍人)

  ― それからすぐ「真珠湾攻撃」の事を知った ―

※ もう遠い 遠い 昔の事となり、知る人も少なくなったから、

   当時の旧制中学校」の軍事教練の事を少し書いて見よう

 

      (註) 旧制中学4・5年生の服装

教練は正課で、1年生は敬礼の仕方から始まり ~ 気を付ヶ 休メ

~ 行進とか、3年生位までは「各個教練」 や分列行進 etc ・・・

4年5年生になると、「部隊教練」 「射撃・空砲」 「指揮法」 「銃剣術」

「戦闘訓練」 「模擬戦闘」 ・・・・ 次第に高度?なものになって行く。

 帯剣を付けて三八式歩兵銃を担いで行進する姿(軍隊と同じ)

三八式歩兵銃 (軍の払い下げ品だが) 実弾は打てる。 

後年、戦況が悪くなっ来て、これらは又軍に回収(取り上げ)されたらしい 

「帯剣」通称ゴボ剣、ベルトに通して左腰に下げる。

最後の突撃戦の時は、銃の先端に着剣(装着)して、 突っつ込む!

各中学には、歩兵銃の他、軽機関銃、擲弾筒、手榴弾、指揮刀、など

下賜され、兵器庫があって、厳しく収納されていた。 ただ実弾はない!

 雨降りの日は、銃の手入れや「学科」で「歩兵躁典」「作戦要務令」等

の講義を受けた。

 5年生になるともうほぼ軍隊の事は教わってしまった感がある。

5年生の時、連合演習があった。 筑後平野で福岡県の全中学校が

紅白に分かれ、一泊(野営)2日で野戦の模擬戦闘(空砲)をした。

 また、2泊3日の「兵営宿泊」も体験した。

配属将校の(ひなた)少尉が久留米師団の現役将校だったから、

我が校は久留米歩兵連隊に宿泊、兵隊と一緒の体験をした。

青〇は連隊長(大佐)赤〇は配属将校、黒〇は学校の担任の先生

 この時、実弾射撃(5発)も体験した

 もう一つ忘れられないのが10里行軍。

真珠湾攻撃の時、「特殊潜航艇」で米艦に突っ込んだ、9人の海軍

兵学校出の青年将校。 皆戦死して、二階級特進「軍神」とされた。

その中の一人で東筑中学出の「古野少佐」の墓(芦屋)まで行軍して、

捧げ銃をして敬意を表した。 

  この時もきつかった ”足が棒の様になった”

このように、充分軍事教練を受けているから、入隊したら、幹部候補生

の試験を受ける資格があった。

 甲種幹部候補生の試験に受かれば予備士官学校に行って、見習

士官になって帰り、暫くして「少尉」になった。

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私は、一年繰り上げ、19歳で「徴兵検査」を受け、甲種合格で即現役

入隊。 約一年間朝鮮瀧山(ソウル市)で過ごした。初年兵の三ヶ月が

丁度真冬だたから、寒さ、ひもじさ、と 演習は辛かった。

「歓呼の声に送られて、入隊する時は戦死は覚悟していた」・・が、

お陰で運良く死なずに帰って来れた。