梅雨があがり夏休みが近づくと、近くの高円寺の広場で祇園
太鼓の練習が始まる。
私は九歳(昭和九年)。 小学校四年生、弾んだ太鼓の音を聞
くと、もう気はそぞろ 頭は山のことで一杯!
母が少しだけ小さくなった、糊のきいた「波模様に小若と書いて
ある」 はっぴ に 帯 はちまき、じきたび類を箪笥から出して、
お守りを貰って来て、はっぴに縫い付けてくれる。
八幡市黒崎町の 黒崎祇園山笠の甘酸っぱい、霞の彼方の
思い出である。 井上陽水の「少年時代」を思いだす
当時、八幡市は官営(国営)八幡製鉄所のある、 日本一の
鉄鋼生産量を誇る煙都八幡と言われた、誇り高き町で、景気
も良かった。
山(山鉾)が始まると、まず青年達が担ぐ(動かす)、が思うよ
うに動かせない。 そこで各町内のかしら(頭)達が、学校に
子供達を帰してくれとお願いに来る。 校長も チョットだけ困っ
た顔はするが、OK。 (これは阿吽の呼吸のきまりごと)
授業途中の子供達は ワーッと一斉に家に帰り、はっぴ姿に
支度を整えて山引きに走る。 ー なんといい時代!か ー
小学校三年までは先走り、 四年生~六年生が担ぎ棒の先の
長い綱を引く。 青年が3本の棒を担ぐ(はて? 何歳から青年
だっけ? 多分18か19か)。その頃の私には棒を担ぐ青年は
皆大人にみえた。
山は確か五本(五町内)位立った。 その山がみな 我が家の
前を通る時は速度を落とし、大きく太鼓をならし大声で(当時
の冷やかし)で燥いで過ぎた。 それは、九歳上の姉が高等
女学校を卒業したばかりの評判の美人だったから(子供心に
それは確り記憶にある)
だが、そんな楽しい思い出ばかりではなく、あるとし、とんでも
ない事が起こった。
多分五年生の時か?私は皆と並んで山の綱を引いていた。
突然山の綱を引くな!と言う大声にびっくりして! 何があった
と振り返ると、走って行く大人の手に血だらけの子供が差し上
げられていた。 それは偶然占部病院の前だった。
彼は山に轢かれて即死だった! 組は違ったが学年は同じ
あまり親しくはなかったがM君だった。駆けつけたお母さんが
顔を覆って病院から出てくる姿も覚えている。
穢れた山は全部焼却され、翌年は船町は山は立てなかった。
その後、山は復活したが既に戦時体制に入り、前のような飾
り山ではなく、ささ{笹)山ばかりになった。