また巡ってきた12月8日、開戦の日、日本海軍の真珠湾攻撃の日。
あの日の事は今でもはっきり覚えている。 私は16才で旧制中学の四年生
だった。 朝ラジオで知って “ ドキッ ” とした。学校に行ったら、異様な雰囲
気で,早々に全校生徒校庭に集合。五・四年生は軍装(帯剣を締めて、三八
式歩兵銃を持つ)三年生は木銃(銃剣術用の長い木銃)二・一年生は徒手。
壇上の配属将校(久留米の歩兵連隊から派遣された現役中尉)の時局講話
と滅私奉公の心構えの話のあと、四・五年生は銃を担いで軍歌「歩兵の本領」
を歌いながら校門を出て行軍に行った。 2時間位行軍・・途中駆け足もあり
ヘトヘトになって昼ごろ学校に帰ってきた。
みな口には出さなかったが、これからどうなるのか?アメリカ やイギリスと戦争
し果たしてて勝てるのか??不安があった。
当時の中学では一年~五年まで「軍事教練」は正課で、週2~3時間以上
あった。一年生の不動の姿勢(キオツケ)挙手の敬礼から始まって。各個
教練・2・3・4・と高度になり、五年生は戦闘教練。 久留米の歩兵連隊に
一週間の体験「兵営宿泊」をした。 その時実弾射撃体験「200m正照準
寝射ち5発」をした。
当時、全国中学・高専・大学にはその地の陸軍現役将校が「配属将校」とし
て派遣されていて、軍事教練を管理した(教練の先生は中年の予備役の
少尉が居たが)。威張っていて厳しくて、校長よりも怖かった。
まだある。 福岡県内の全中学五年生全部が、筑後平野で紅白二軍に分
れて、一泊(野営)2日の「連合戦闘演習」をした(この時も久留米の兵隊一
個小隊が参加した)。 私達は兵隊に始めて「重機関銃」に触らせてもらって
感激した。
教練だけではなく、学科「軍人勅諭・歩兵操典・作戦要務令」の時間もあった。
五年間これだけ軍事教練を体験しているから、現役で入隊すれば「幹部候
補生」の受験資格があった。甲種幹部候補生に合格すれば「陸軍予備士官
学校」に行って→見習士官→少尉になった。甲幹を落ちても、乙幹に通れば
下士官(伍長)になれた。
同学年の友人達に(終戦間際で速成もあってか)習士官・少尉は沢山いる。
卒業と同時に志願入隊したものは終戦時大尉になった者もいた。
総て六十八年前の事だけど、12月8日とはそんなことを思い起こさせる日
です。 では、おまえはどうした?・・私も一年繰り上げで19才で入隊・・その
事は又の機会にしょう。
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