行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

習近平が白居易『長恨歌』を引用したのは正しいか?

2016-01-23 21:32:49 | 日記
昨日、孫文と宋慶齢の純愛について書いた際、白居易(白楽天)の『長恨歌』が思い浮かんだ。唐代の玄宗皇帝と楊貴妃の愛と別れ、死してもなお雲上でかなわぬ魂の再会を求める悲哀を詠んだ。

在天願作比翼鳥(天にあっては常に離れない比翼の鳥となりますように)
在地願為連理枝(地にあっては木を結びつける連理の枝となりますように)

だが

天長地久有時盡(天地は永遠にあるとは言っても尽きるときがある)
此恨綿綿無盡期(この恨みは延々と続いて尽きることがない)

玄宗は愛する楊貴妃を安禄山の乱の中で自害に追い込んだ。それでも思いが尽きず、道士に頼って天上の楼閣に楊貴妃を訪ねさせた。楊貴妃もまた形見の品を永久の誓いのしるしとして渡した。だが現実はどうだろうか。2人の魂は救われぬまま、さまよい続けるしかない。純愛は多くのものを犠牲にした。だが水晶のような輝きは失われていない。輝きがあるからこそ恨みも深い。そう訴えているように思える。

孫文と玄宗。時代背景も身分も異なり、純愛の結末も全く違うが、女性を想う気持ちにおいては同じだったのではないか。少なくとも白居易には愛への共鳴が感じられる。皇帝の不行跡を責める責めるだけであれば、この情深き長編叙事詩は生まれなかった。

古典や古詩の引用を好む習近平も『長恨歌』の一節を引用している。

春宵苦短日高起(春の夜はとても短くて太陽が昇ってから起きた)
従此君王不早朝(楊貴妃を娶って以来、皇帝は早朝の謁見を取りやめてしまった)

宮中の堕落が安禄山の乱を招いた歴史の教訓から、習近平は禁欲や色欲に溺れて腐敗した官僚を戒めた。党中央規律検査委員会の会議での発言だ。だが、『長恨歌』のテーマは果たしてそこにあるのだろうか。白居易は詩を言葉の遊びではなく、政治を批判し、世論を喚起するものでなくてはならないと主張した。文芸と政治を不可分とする士大夫の発想は、「文芸は政治に奉仕すべき」とする毛沢東の延安文芸講話や「文芸戦線は党と人民の重要な戦線だ」とした習近平の文芸工作座談会講話に通ずる。だが、『長恨歌』について言えば、ただただ政治の腐敗を言わんがために七言120句を書いたとは思えない。毛沢東も『長恨歌』を書に残しているが、やはり指導者の戒めとしたとしたものであって、人の心の中にある純愛に触れたとは思えない。

古典や古詩の引用も「つまみ食い」だけでは十分、その精神が伝わらない。ましてや誤った引用は、伝統文化の価値や評価を損なうことにもなる。そしてもっと言えば、白居易のように、皇帝の囲む官僚集団の中にいて苦言を詩に託する責任感、使命感を負った士大夫が今の時代にいるのかどうかも、問われるべきである。習近平のスピーチを練っている幕僚たちも、人の情を知り、かつ指導者に耳の痛いことを直言する腹を持たねばならない。

これは日本の政治においても同様である。メディアも自省した方がよい。