行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア・中南海ウオッチ】周恩来の訃報に号泣した習近平の父・習仲勲

2016-01-09 12:07:31 | 日記
1976年1月8日、習近平の父・習仲勲は政治的迫害を受け、労働者として暮らしていた河南省洛陽の耐火材料工場で聞いた。知らせを聞いて、部屋の外に聞こえるぐらい大きな声を上げて泣いた。葬儀委員長の小平に「自分が追悼に参加できないのは、生涯の痛恨事だ」と弔電を送ろうとして、周囲が制止した。だが習仲勲は「たとえ捕まっても、首相を追悼しなければ気持ちが済まない」と押し切った。工場内で自発的な追悼式が開かれたが、その場でも彼の涙は止まらなかった。

習仲勲は副首相として周恩来を助けた。ダムの工事現場で一緒に車を引いたこともある。1959年の建国10周年を記念して人民大会堂など大規模な建設プロジェクトが決まり、国務院ビルの計画も持ち上がった際、周恩来首相から意見を求められた習仲勲は「多くの庶民の家を立ち退かせることになるし、(軍閥の)袁世凱や段稘瑞も中南海に住んできたではないか」と反対意見を述べた。習仲勲は名誉回復後、共産主義青年団機関誌『中国青年』に「永遠に忘れがたい旧情」と題する周恩来への追悼文を書き、『人民日報』(1979年4月8日)に1ページを使ってほぼ全文が掲載された。そこにはこう書いている。

「彼(周恩来)は、『総理の意見は正しい。私は完全に擁護する』といった言葉を聞くのを特にいやがった。こういう時、彼は『話し合いや会議の場はすなわち、異なる意見を研究し、正確な意見を集めなければならない。みんなは異なる見方を述べてほしい。いつも賛成に回り、擁護の話ばかりしてはいけない』と話した」

参列できなかった無念を埋め合わせるような気持ちだったのだろう。習仲勲が復権後、異なる意見を保護する法案の構想を抱いたのは、周恩来と胡耀邦の影響が大きい。

周恩来への感謝は、政治的迫害を受けている中、家族との面会を実現させるなど終始、支援をしてくれたことにもある。周恩来は、北京で審査を受けている習仲勲を見舞い、手を握りながら「誤ったら改めればよい。我々はいい友達だ。決して思い違いをしないで欲しい」と語り掛けた。習仲勲は涙が流れるのを禁じ得なかった。

家族が離散して7年後の1972年冬、妻の斉心が周恩来に手紙を書き、夫との再会を願い出ると、しばらくして北京でその場がセットされた。離散から再会まで、長男の習近平は12歳から19歳、次男の習遠平は9歳から16歳に成長していた。白髪の目立ち始めた習仲勲はやせ衰え、長男と次男の区別もつかなかった。次男の習遠平に対し「お前は近平か?遠平か?」と尋ねると、家族みんなの目に涙があふれた。すると父親は「俺はうれしい! これはうれし涙だぞ」と涙をぬぐった。

習近平はそれから25年後、農村下放中だった当時の様子について、次のように語っている。

「父は私たちを見るとすぐ涙を流した。私は急いで父にたばこを勧め、自分でもたばこに火を付けた。すると父は『お前も吸うのか?』と尋ねたので、私は、 『私もずっと、困難や苦しみの中を駆け抜けてきましたから』と答えた。すると父はしばらく黙って、『お前の喫煙は私が許可(批准)しよう』と話した」

小平は、「彼は多くの人を守ったのだ」の周恩来を評したが、その一端がうかがえる。

周恩来は日中国交正常化を果たした中国側の最大の功労者と言ってもよい。日本人としても新たな追悼を通じ、将来の糧にしたい。

【日中独創メディア・中南海ウオッチ】周恩来没後40年・・・なぜ骨は空から撒かれたか

2016-01-09 11:21:51 | 日記
昨日の1月8日は中国の周恩来元首相(1898~1976)の没後40年記念日だった。出身地の江蘇省淮安などで追悼行事が行われた。近親者は毎年のごとく北京・天安門の毛主席紀念堂2階にある周恩来革命業績紀念室に集った。周恩来には遺言によって遺骨は空から撒かれたため墓がない。当時は四人組が権勢を強め、周恩来を「現代の孔子だ」として批判を始めていた。『人民日報』を使い追悼行事をも批判したが、人民は自発的に集まった。遺体を運ぶ霊柩車を見送るため長安街の沿道は人で埋め尽くされた。

1月15日、人民大会堂での追悼式典では小平が弔辞を読んだ。散骨までの経緯はドラマチックなエピソードが伝わる。

遺骨を手にした妻の頴超は側近に付き添われ、人目につかないよう人民大会堂の地下から外に出た。車は周恩来が使っていた幹部用の「紅旗」ではなく、スターリンが周恩来に贈った旧ソ連製の灰色のジープだった。夜道を東に進み、北京郊外にある通県飛行場に着いた。そこには旧ソ連製の小型機「7225号」が待機していた。かつては農薬散布用に使われていた機体だった。

遺骨は空から計4か所に撒かれた。最初は長年過ごした北京市街、次は郊外にある密雲ダムの上空だった。周恩来は水利に力を注ぎ、自らダム建設の現場に立ったこともあった。その中でも43億立方平方メートルの密雲ダムは、20万人以上の兵士を2年間投入して完成させた一大プロジェクトだった。3カ所目は天津の河口。現地の南開大学に学び、1919年の五四運動では革命運動に参加し、半年間、投獄された経験もあった。最後は山東省山浜州の黄河河口だ。黄河は中国人にとっての母なる川とされる。12歳で故郷を離れ、革命運動に参加。日本やフランスで学び、帰郷する時間もなかった周恩来にとっては、母なる川に戻ることが孝の道だったのだろう。

周恩来は生前、こう話していたという。

「人生は人民に奉仕するものだ。生きている間の仕事、労働は人民に奉仕するためだ。死んで焼かれれば骨になるが、水に撒けば魚の餌になり、地上に撒けば直物の肥料になって、最後まで人民に奉仕できる。こうすることによって、人類は不滅となる」

毛沢東が独裁を敷き、政治闘争の中でほとんどの仲間が失脚する中、周恩来だけは建国後、一貫して首相の座にあった。不倒翁(起き上りこぼし)とも呼ばれた。だがその分、本人の意思とはかかわりなく、人を打倒する側にも立つことになった。小平は1980年8月、国際報道で名の知られたイタリア人女性記者、オリアナ・ファラーチのインタビューを受け入れ、周恩来評を語っている。

「文化大革命で我々はみな失脚したが、彼は幸いにも守られた。文革時、彼の地位は非常に難しかった。多くの心にないことを語り、多くの意に反したことを行った。だが人民は彼を許した。なぜなら、もし彼がこれらのことをせず、これらのことを言わなかったら、自分を守ることはできず、その渦中にあって事態を緩和させ(中和作用)、損失を減らす役割を果たすことができなかったからだ。彼は多くの人を守ったのだ」

「清濁併せ呑む」という言葉があるように、政治、広くは人生を単純な善悪で一刀両断にすることはできない。100パーセント正しい評価もあり得ない。少なくとも多くの人が彼の死を悼み、悲しんだことは間違いない。「人民に奉仕する」を貫いて彼は墓を残さなかった。当時の政治情勢がそれを許さなかったのか、もっと長い時代の知恵がそうさせたのか。不倒翁は最後の最後まで、「中和作用」を果たしたように思う。「中庸」を体現した稀有な政治家だったのではないだろうか。