1976年1月8日、習近平の父・習仲勲は政治的迫害を受け、労働者として暮らしていた河南省洛陽の耐火材料工場で聞いた。知らせを聞いて、部屋の外に聞こえるぐらい大きな声を上げて泣いた。葬儀委員長の小平に「自分が追悼に参加できないのは、生涯の痛恨事だ」と弔電を送ろうとして、周囲が制止した。だが習仲勲は「たとえ捕まっても、首相を追悼しなければ気持ちが済まない」と押し切った。工場内で自発的な追悼式が開かれたが、その場でも彼の涙は止まらなかった。
習仲勲は副首相として周恩来を助けた。ダムの工事現場で一緒に車を引いたこともある。1959年の建国10周年を記念して人民大会堂など大規模な建設プロジェクトが決まり、国務院ビルの計画も持ち上がった際、周恩来首相から意見を求められた習仲勲は「多くの庶民の家を立ち退かせることになるし、(軍閥の)袁世凱や段稘瑞も中南海に住んできたではないか」と反対意見を述べた。習仲勲は名誉回復後、共産主義青年団機関誌『中国青年』に「永遠に忘れがたい旧情」と題する周恩来への追悼文を書き、『人民日報』(1979年4月8日)に1ページを使ってほぼ全文が掲載された。そこにはこう書いている。
「彼(周恩来)は、『総理の意見は正しい。私は完全に擁護する』といった言葉を聞くのを特にいやがった。こういう時、彼は『話し合いや会議の場はすなわち、異なる意見を研究し、正確な意見を集めなければならない。みんなは異なる見方を述べてほしい。いつも賛成に回り、擁護の話ばかりしてはいけない』と話した」
参列できなかった無念を埋め合わせるような気持ちだったのだろう。習仲勲が復権後、異なる意見を保護する法案の構想を抱いたのは、周恩来と胡耀邦の影響が大きい。
周恩来への感謝は、政治的迫害を受けている中、家族との面会を実現させるなど終始、支援をしてくれたことにもある。周恩来は、北京で審査を受けている習仲勲を見舞い、手を握りながら「誤ったら改めればよい。我々はいい友達だ。決して思い違いをしないで欲しい」と語り掛けた。習仲勲は涙が流れるのを禁じ得なかった。
家族が離散して7年後の1972年冬、妻の斉心が周恩来に手紙を書き、夫との再会を願い出ると、しばらくして北京でその場がセットされた。離散から再会まで、長男の習近平は12歳から19歳、次男の習遠平は9歳から16歳に成長していた。白髪の目立ち始めた習仲勲はやせ衰え、長男と次男の区別もつかなかった。次男の習遠平に対し「お前は近平か?遠平か?」と尋ねると、家族みんなの目に涙があふれた。すると父親は「俺はうれしい! これはうれし涙だぞ」と涙をぬぐった。
習近平はそれから25年後、農村下放中だった当時の様子について、次のように語っている。
「父は私たちを見るとすぐ涙を流した。私は急いで父にたばこを勧め、自分でもたばこに火を付けた。すると父は『お前も吸うのか?』と尋ねたので、私は、 『私もずっと、困難や苦しみの中を駆け抜けてきましたから』と答えた。すると父はしばらく黙って、『お前の喫煙は私が許可(批准)しよう』と話した」
小平は、「彼は多くの人を守ったのだ」の周恩来を評したが、その一端がうかがえる。
周恩来は日中国交正常化を果たした中国側の最大の功労者と言ってもよい。日本人としても新たな追悼を通じ、将来の糧にしたい。
習仲勲は副首相として周恩来を助けた。ダムの工事現場で一緒に車を引いたこともある。1959年の建国10周年を記念して人民大会堂など大規模な建設プロジェクトが決まり、国務院ビルの計画も持ち上がった際、周恩来首相から意見を求められた習仲勲は「多くの庶民の家を立ち退かせることになるし、(軍閥の)袁世凱や段稘瑞も中南海に住んできたではないか」と反対意見を述べた。習仲勲は名誉回復後、共産主義青年団機関誌『中国青年』に「永遠に忘れがたい旧情」と題する周恩来への追悼文を書き、『人民日報』(1979年4月8日)に1ページを使ってほぼ全文が掲載された。そこにはこう書いている。
「彼(周恩来)は、『総理の意見は正しい。私は完全に擁護する』といった言葉を聞くのを特にいやがった。こういう時、彼は『話し合いや会議の場はすなわち、異なる意見を研究し、正確な意見を集めなければならない。みんなは異なる見方を述べてほしい。いつも賛成に回り、擁護の話ばかりしてはいけない』と話した」
参列できなかった無念を埋め合わせるような気持ちだったのだろう。習仲勲が復権後、異なる意見を保護する法案の構想を抱いたのは、周恩来と胡耀邦の影響が大きい。
周恩来への感謝は、政治的迫害を受けている中、家族との面会を実現させるなど終始、支援をしてくれたことにもある。周恩来は、北京で審査を受けている習仲勲を見舞い、手を握りながら「誤ったら改めればよい。我々はいい友達だ。決して思い違いをしないで欲しい」と語り掛けた。習仲勲は涙が流れるのを禁じ得なかった。
家族が離散して7年後の1972年冬、妻の斉心が周恩来に手紙を書き、夫との再会を願い出ると、しばらくして北京でその場がセットされた。離散から再会まで、長男の習近平は12歳から19歳、次男の習遠平は9歳から16歳に成長していた。白髪の目立ち始めた習仲勲はやせ衰え、長男と次男の区別もつかなかった。次男の習遠平に対し「お前は近平か?遠平か?」と尋ねると、家族みんなの目に涙があふれた。すると父親は「俺はうれしい! これはうれし涙だぞ」と涙をぬぐった。
習近平はそれから25年後、農村下放中だった当時の様子について、次のように語っている。
「父は私たちを見るとすぐ涙を流した。私は急いで父にたばこを勧め、自分でもたばこに火を付けた。すると父は『お前も吸うのか?』と尋ねたので、私は、 『私もずっと、困難や苦しみの中を駆け抜けてきましたから』と答えた。すると父はしばらく黙って、『お前の喫煙は私が許可(批准)しよう』と話した」
小平は、「彼は多くの人を守ったのだ」の周恩来を評したが、その一端がうかがえる。
周恩来は日中国交正常化を果たした中国側の最大の功労者と言ってもよい。日本人としても新たな追悼を通じ、将来の糧にしたい。