行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア】孫文生誕150周年記念のキーワードは「仁愛」「兼愛」

2016-01-15 00:34:52 | 日記
今年は孫文(1866.11.12~1925.3.12)の生誕150周年である。今年後半には各種関連行事が予定されている。孫文に多額の経済支援をした日本人に梅屋庄吉(1868~1934)がいる。孫文の2歳年上だが、9年長生きした。香港で写真館を営んでいた1895年、孫文と知り合う。帰国後、日活の前身である「日本活動写真株式会社」を創設した実業家だ。1911年の辛亥革命では写真技師を派遣し記録映画を撮影し、海外にいて参加できなかった孫文のため浅草で上映会を開いたほど義侠心に富んだ人物である。
 
「中国革命ニ関シテ成セルハ 孫文トワレノ盟約ニテ成セルナリ。一切口外シテハナラズ」

梅屋が家族に残した言葉だ。この遺言のため孫文と梅屋との関係は長らく封印されてきた。遺族が、語り継ぐべき日中史が忘却されることを危惧し、自宅にあった資料を学者に提供し、徐々に知られるようになったのは1980年代以降である。2010年の上海万博では日本館の特設展示スペースで「孫文と梅屋庄吉」展が開かれ、1週間で2万人以上が来場した。私はそのイベントにボランティアとして、そして記者として参画した縁があり、梅屋のひ孫である小坂文乃さん(日比谷松本楼副社長)と親交が続いている。そして私が桜の咲くころまでに完遂しなければならない出版のミッションも「孫文と梅屋庄吉」に関するものだ。

2人の関係をいかに伝えれば今につながる価値を引き出すことができるのか。そんなことをずっと考えていて目についたのが、孫文の『三民主義』にあった次の言葉だ。

「仁愛も中国のよき道徳だ。かつて、愛という言葉について、墨子ほど多くを語った者はいない。墨子が語った兼愛は、キリストの説いた博愛と同じだ。(中略)仁愛というよき道徳において、今の中国ははるかに外国に及ばないようにみえる。中国が及ばないのは、中国人が仁愛について外国人のように行っていないだけだ。だが、仁愛はやはり中国の古い道徳であり、わが国が外国に学ぶべきは、かれらのそうした行動だけでよい。仁愛を取り戻し、さらにその輝きを増していくことがすなわち、中国が固有に持っている精神なのだ」

孫文はキリスト教を信仰したが、同時に、列強の侵略にさらされた危機に際し、中華民族をまとめるため中国の伝統文化を非常に重視した。習近平は、信仰不在と言われる現代の危機に直面し、孫文のスタイルを踏襲している。孫文は、中国の伝統文化とキリスト教の接点に「愛」を見つけた。一方、梅屋が生まれ育った長崎は、鎖国体制の中、唯一東西の文化を受け入れ、義侠心と公共心に富んだ商人気質も育った地である。二人は異郷で出会い、その時、国境を超える何かを感じた。それはアジアの解放であり、世界平和かもしれないが、その根底に相通ずる感情、「人類愛」が行き交ったのではないか。

そんな仮説を立て、ようやく原稿に着手した。机の上には孫文と梅屋に関する資料のほか、『墨子』や「人に忍びざるの心=惻隠の情」を説いた『孟子』もある。当時、孫文の周囲には様々な主義、主張、思想があり、それにつられて有象無象の人々が近寄って生きた。だが、国境を超えたのは主義や主張、思想といった理屈ではなく、手を伸ばさずにはおられない「忍びざるの心」だったのではないか。それが東西に共通する愛=人類愛なのではないか。梅屋は政治家ではない、経済人だ。政治の次元とはかけ離れた、より人間の根本的な本能の通い路で、2人はつながったとみるべきではないか。

日中関係を考えるうえで、新たな視座を得られるのではないか。そんな期待がある。

全く予想外だったが、習近平が昨年12月16日、浙江省烏鎮で開かれた世界インターネット大会で演説した際、墨子の兼愛を持ち出したので驚いた。ネット空間の秩序について、次のように述べた。

「開放的な協力を促すこと。『自分と他人とを区別なく愛せば(兼愛)、天下はうまく治まるが、お互いが憎みあえば乱れる(天下兼相爱则治,交相恶则乱)』。グローバルなネットワークの管理体制を整え、ネット空間の秩序を維持するためには、困難な状況でも助け合い(同舟共済)、相互信頼、互恵の理念を堅持し、ゼロサムゲームや独り勝ちの旧式な観念を捨てなければならない」

習近平は『論語』や『孟子』といった儒書への関心が高く、儒家と敵対した『墨子』の引用が少なかった。孫文を意識して取り上げたのではないかと勘ぐってしまいたくなる。もとより思想間の対立や論争は個々の思想だけでなく、思想全体の発展に欠かせない。対立したからといって片方を取り、片方を捨てるということはナンセンスだ。習近平も意味なく兼愛を説いたわけではないだろう。いずれにしても孫文150周年を迎える今年のキーワードであることは間違いなさそうだ。