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荘子:内篇の素読(もくじ) ■ 斉物論篇 ▼ 斉物論第二(1) 女聞地籟而未聞天籟夫 ▼ 斉物論第二(2) 而獨不見之調調 ,之刁刁乎 ▼ 斉物論第二(3) 敢問天籟 ▼ 斉物論第二(4) 大知閑閑,小知 ▼ 斉物論第二(5) 其有真君存焉 ▼ 斉物論第二(6) 受其成形,不亡以待盡 ▼ 斉物論第二(7) 夫隨其成心而師之,誰獨且無師乎 ▼ 斉物論第二(8) 道惡乎隱而有眞僞, 言惡乎隱而有是非 ▼ 斉物論第二(9) 謂之道樞 ▼ 斉物論第二(10) 天地一指也,萬物一馬也 ▼ 斉物論第二(11) 無物不然 ,無物不可 ▼ 斉物論第二(12) 已而不知其然謂之道 ▼ 斉物論第二(13) 是之謂兩行 ▼ 斉物論第二(14) 古之人,其知有所至矣 ▼ 斉物論第二(15) 唯其好之也 ,以異於彼 ▼ 斉物論第二(16) 為是不用而寓諸庸 ▼ 斉物論第二(17) 雖然 ,請嘗言之 ▼ 斉物論第二(18) 其果有謂乎、其果無謂乎 ▼ 斉物論第二(19) 萬物與我為一(万物も我れと一たり) ▼ 斉物論第二(20) 無適焉 ,因是已! ▼ 斉物論第二(21) 夫道未始有封 ▼ 斉物論第二(22) 辯也者、有不見也 ▼ 斉物論第二(23) 五者园而幾向方矣 ▼ 斉物論第二(24) 此之謂葆光 ▼ 斉物論第二(25) 而況之進乎日者乎! ▼ 斉物論第二(26) 子知物之所同是乎? ▼ 斉物論第二(27) 吾惡能知其辯! ▼ 斉物論第二(28) 死生無變於己,而況利害之端乎! ▼ 斉物論第二(30) 萬物盡然,而以是相蘊 ▼ 斉物論第二(31) 予惡乎知説生之非惑邪! ▼ 斉物論第二(32) 且有大覺而後知此其大夢也 ▼ 斉物論第二(33) 然則我與若與人倶不能相知也 ▼ 斉物論第二(34) 忘年忘義,振於無竟,故寓諸無竟 ▼ 斉物論第二(35) 惡識所以然!惡識所以不然! ▼ 斉物論第二(36) 昔者莊周夢為胡蝶 ⇒ 逍遥遊篇もくじ ⇒ 養生主篇もくじ |
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荘子:斉物論第二(15) 有 成 與 虧 , 故 昭 氏 之 鼓 琴 也 ; 無 成 與 虧 , 故 昭 氏 之 不 鼓 琴 也 。 昭 文 之 鼓 琴 也 , 師 曠 之 枝 策 也 , 惠 子 之 據 梧 也 , 三 子 之 知 幾 乎。 皆 其 盛 者 也 , 故 載 之 末 年 。 唯 其 好 之 也 ,以 異 於 彼 , 其 好 之 也 , 欲 以 明 之 。 彼 非 所 明 而 明 之 , 故 以 堅 白 之 昧 終 。而 其 子 又 以 文 之 綸 終 , 終 身 無 成 。 若 是 而 可 謂 成 乎 , 雖 我 亦 成 也 , 若 是 而 不 可 謂 成 乎 , 物 與 我 無 成 也 。 |
成ると虧(か)くると無きは、故(もと)より昭氏(ショウシ)の琴(こと)を鼓せざるなり。昭文(ショウブン)の琴を鼓するや、師曠(シコウ)の策(サク・ことじ)を枝(ほどこ)すや、恵子の梧(ゴ・つくえ)に拠(よ)るや、三子の知は幾(つく)せり。皆、其の盛んなる者なり。故(ゆえ)に之(これ)を末年に載す。唯(た)だ其の之を好むや、以て彼れに異なる。其の之を好むや、以て之を明らかにせんと欲す。彼れ明らかにする所に非ざるに、而(しか)も之を明らかにせんとす。故に堅白(ケンパク)の昧(マイ・くらき)を以て終わりる。而して其の子また文の綸(論・あげつらい)を以て終わり、身を終うるまで成ること無し。是(か)くの若(ごと)くにして成ると謂うべきか、我と雖(いえど)も亦た成るなり。是(か)くの若(ごと)くにして成ると謂うべからざるか、物と我と(与・ともに)成る無きなり。
昔の琴の名手である昭文が琴をかきならせば、そこには確かに妙なるメロディーが成立する。しかし彼の手に成立するメロディーの背後には、彼の手に成立しない無限のメロディーが存在し、彼のメロディーはその無限なるメロディーの一つにすぎないのである。彼がいかに努力しようとも、彼の手には常にかきならし切れない無限のメロディーが残されている。彼の手は一つのメロディーを「成す」ことによって無限のメロディーを「虧(うしな)」っているのであり、この意味において、彼の「成」は同時に「虧」であるともいえる。だから、すべてのメロディーをすべてのメロディーとして成り立たしめるためには、メロディーなきメロディー(無声の声)を聴くほかはない。メロディーなきメロディーとは、琴をかきならさぬということである。─ 「成(セイ)と虧(キ)と無きは故(もと)より昭氏の琴を鼓(コ)せざればなり」
このことは同じく昔の音楽家である師曠(シコウ)、論理学者である恵施(ケイシ)についてもいえよう。昭文が琴をかきならし、師曠が瑟(シツ・琴の一種)の調べをととのえ、恵施が几にもたれて詭弁をふるうさまは、いずれも人知の極至であって、これらは確かに人間の作為の偉大さを示すものであり、さればこそまた、物の本にも書き記されて後の世まで伝えられるのである。─ 「故に之を末(のち)の年(よ)に載(しる)す」
しかし、なるほど彼らは道を好み芸を愛する者ではあるが、「彼」すなわち真に道を好む絶対者とは同じくない。というのは、彼らは道を好みながら、その道を人間の作為(知と巧)で究め明らかにしようとするが、道とは本来人間の知巧を超えたものであり、人間の作為では明らかにすることのできないものであるから、彼らは、不可能を可能とする誤謬の上に立っているのである。─ 「明らかにする所に非ずして之を明らかにする」ここに、彼らの倒錯がある。
だから、恵子のように「堅白同異(ケンパクドウイ)」の弁などという愚にもつかない議論を、倦(あ)きもせず死ぬまで繰り返すのであって、たんに彼のみか、その論理学を受け継いだ彼の子もまたついに道を悟ることなく、その生涯を空しく終っているのである。要するに彼らのいとなみは、その偉大さにも拘わらず、至高至大の道の前では殆んど無にもひとしい。だから、若(も)し、この無にもひとしい昭文と師曠と恵子の三人のいとなみが「成」─ 道を究めたもの ─ といえるなら、我々凡俗と雖もまた「成」といえるであろうし、逆にまた、もしこの三人の偉大ないとなみでさえ「成」といえないとすれば、いかなる物、いかなる人間にも「成」ということはあり得ないのである。
※枝策(シサク)
▼「師曠之施瑟柱」『淮南子』氾論訓)
「枝」─ ささえる
「策」─ 瑟の絃を支える竹の柱
枝策=瑟柱(ことじ)を施す、琴の調弦をする
※據梧(キョゴ・つくえによる)
机にもたれること
「據槁梧」(徳充符篇)
「倚於槁梧」(天運篇)
※幾
尽と同じ。つくすと読む。(宋の林希逸の説)
※其子又以文之綸終
「綸」は「論」の借字。(馬叙倫の説)
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荘子:斉物論第二(14) 古 之 人 , 其 知 有 所 至 矣 。 惡 乎 至 ? 有 以 為 未 始 有 物 者 , 至 矣 , 盡 矣 , 不 可 以 加 矣 ! 其 次 , 以 為 有 物 矣 , 而 未 始 有 封 也 。 其 次 , 以 為 有 封 焉 , 而 未 始 有 是 非 也 。 是 非 之 彰 也 , 道 之 所 以 虧 也 , 道 之 所 以 虧 , 愛 之 所 以 成 。 果 且 有 成 與 虧 乎 哉 ? 果 且 無 成 與 虧 乎 哉 ? |
古(いにしえ)の人は、其の知に至(きわ)まれる所有り。悪(いずく)にか到(きわ)まれる。以て未(いま)だ始めより物有らずと為す者有り。至れり尽くせり。以て加(くわ)うべからず。其の次は以て物有りと為す、しかも未だ始めより封(ホウ・かぎること)有らざるなり。其の次は以て封(ホウ・かぎること)有りと為す、しかも始めより是非(ゼヒ)有らざるなり。是非の影(あら)わるるや、道の虧(か)くる所以(ゆえん)なり。道の虧(か)くる所以(ゆえん)は愛の成(な)る所以(ゆえん)なり。果たして且(そ)も成ると虧(か)くると有りや、果たして且(そ)も成ると虧(か)くると無きや。
昔の絶対者は、最上の知恵を所有していた(到達した境地があった)。最上の知恵(到達した境地)とは何か。「はじめからいっさいの物は存在しない」とする「無」の立場であって、彼は「天鈞」としての道、「両行」としての実在とそのまま一つになって、これが道だと意識し判別することさえもなかった。この渾沌と一体になった境地、知を忘れた境地こそ、至高最上の境地なのであり、もはやつけ加えるべき何ものもない。
これに次ぐ境地は、物は存在すると考えるが、その物には、他と区別される境界がないとするものである。最上の境地、すなわち体験そのものの世界が、一歩人間の認識の世界に引き寄せられると、そこに「物有り」という判断が成立し、道の実在性が意識されるに至る。しかしこの段階ではまだ道の実在性は意識されながらも、その意識された道は、なお雑然たる異質的連続、すなわち渾沌であって、そこにはまだなんらの「封」すなわち、境界ないしは秩序も発見されない。いわゆる道と一つである自己が意識されている境地であって、これは最上の境地ではないが、それに次ぐ境地といえよう。
さらに第三の境地は、境界があるとは考えるが、是と非との区別、価値の区別はまったくないとするものである。「封有りと為す」、渾沌は次第にその境界秩序を認識の世界の中に明らかにし、道は本来自ずからの中に渾沌と包んでいた万物の形として現れる。すなわち、一が多となり、絶対が相対の諸相として展開する境地である。ここでは、道の「一」は万象の「多」に分たれ、心知を絶した実在の世界は、人間の認識世界の埒(ラチ)内に位置づけられるが、「しかも未だ是非あらず」、何(いず)れを是、何(いず)れを非とする価値判断はまだ施されていないのである。そして、この境地は、第一の「未だ始めより物有らざる」境地、第二の「未だ始めより封(ホウ)有らざる」境地には及ばないが、それでもなお、道の純粋性は僅かに保たれているということができる。
ところが、「是非の影(あら)わるるや道の虧(そこな)わるる所以」、是非の価値判断が確立されると、道の完全さがそこなわれることになる。「道の虧(そこな)わるる所以は、愛の成る所以」、道の完全さがそこなわれるところには、人間の愛憎好悪(コウオ)の妄執が簇(むらが)り生ずる。
ところで、いま道の完全さがそこなわれるといったが、はたして道には完全と毀損(キソン)ということがあるのだろうか。それとも道には完全も毀損もないのであろうか。
このように考えてみる時、真実在としての道は、本来「成」もなく「毀」もない絶対の一なのである。
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荘子:斉物論第二(13) 勞 神 明 為 一 , 而 不 知 其 同 也 , 謂 之 「 朝 三 」 。 何 謂 「 朝 三 」 ? 曰 : 狙 公 賦 ? 曰,「 朝 三 而 莫 四 。 」 衆 狙 皆 怒 。 曰 : 「 然 則 朝 四 而 莫 三 。 」 衆 狙 皆 。 名 實 未 虧 而 喜 怒 為 用 , 亦 因 是 也 。 是 以 聖 人 和 之 以 是 非 而 休 乎 天 鈞 , 是 之 謂 兩 行 。 |
神明(シンメイ)を労して一(いつ)にせんと為(つとめ)めて、而(しか)も其(そ)の同じきことを知らざるなり。之(これ)を朝三(チョウサン)と謂(い)う。何をか朝三と謂う。曰(い)わく、狙公(ソコウ)、?(とちのみ)を賦(わか)ちあたえて、「朝は三にして、莫(くれ=暮)には四にせん」と曰(い)いしに、衆狙(シュウソ・あまたのさる)は皆怒(いか)れり。「然らば則ち、朝は四にして莫(くれ)には三にせん」と曰(い)いしに、衆狙は皆悦(よろこ)べり。名実未(いま)だ虧(か)けざるに、而も喜怒は用を為す。亦(また)是(ゼ)に因(よ)らんのみ。
是(ここ)を以て聖人は、之を和するに是非を以てして天鈞(テンキン)に休(いこ)う。是(こ)れを両行(リョウコウ)と謂う。
世俗の人間は徒らに精神を苦しめて是非の論争に憂き身をやつし、万物の差別と対立が言論心知によって統一されるかのごとく錯覚して、本来一つである実在の真相を悟らないが、彼らのこのような愚かさこそ、「朝三(チョウサン)」と呼ぶのである。それでは「朝三」とは何か。
昔ある所に狙公(ソコウ)、すなわち猿回(まわ)しの親方がいて、多くの猿を飼っていたが、ある朝、彼は猿どもに餌(えさ)として?(とち)の実(み)を分けてやりながら、こういった。
「朝は三つずつ、夕方には四つずつやろう」
すると猿どもは歯をむいていきり立った。そこで猿回しの親方がさらに、
「それならば、朝は四つずつ、夕方には三つずつにしよう」
といったところ、多くの猿どもはキャッキャッと喜んだ。
結局同じ内容の、異なった表現にすぎず、いくら名(ことば)を変えてみたところで実質には何の変化もないのであるが、猿どもは勝手に喜怒の情を用いて騒ぎ立てている。世俗の学者先生たちの愚かさが、この浅はかな猿どもとどれほど違うというのであろう。
彼らの狂態も、是非の相対を超えた絶対の是(ゼ)、すなわち万物斉同の実在の真相に大悟すれば、静かなる正気にその精神を安らげることができるのだ。
だから聖人は、是非の価値的偏見を是(ゼ)もなく非(ヒ)もない実在の一に調和し、心知の分別を放下して「天鈞(テンキン)」すなわち絶対的一の世界に安住する。そこでは、一切万物の矛盾と対立の相(すがた)は、矛盾と対立のまま、「両(ふた)つながら行(おこ)なわる」、同時に存在し得るから、この境地をまた「両行」ともよぶのである。
※例によって、この一節も、全面的に福永光司先生の解釈に依って読ませていただきました。
是非とも、福永光司先生のご著書をご覧ください!
⇒ 参照:「荘子 ─ 中国古典選:朝日選書・朝日文庫」
※莫
■音
【ピンイン】[mo4]
[1]
【漢音】ボ 【呉音】モ
[2]
【漢音】バク 【呉音】マク
【訓読み】くれる, くれ, おそい, ない, なかれ
■解字
会意。草原のくさむらに日が隠れるさまを示す。暮の原字。
隠れて見えない、ないの意。
■意味
[1]
くれる(くる)。くれ。おそい(おそし)。日・年がくれる。日・年のくれ。時刻・時候がおそい。《同義語》⇒暮。
[2]
(1)ない(なし)。否定をあらわす。まるでない。見あたらない。
(2)なかれ。禁止をあらわす。…してはいけない。
「酔臥沙場君莫笑=酔うて沙場に臥すとも君笑ふこと莫かれ」〔王翰・涼州詞〕
(3)ことわる。さからう。うけつけないこと。
「君子之於天下也、無適也、無莫也=君子の天下におけるや、適も無く、莫も無し」〔論語・里仁〕
(4)むなしい。はてしなく広い。《類義語》⇒茫(ボウ)。
「寂莫(ジャクマク)・(セキバク)」「広莫之野(コウバクのや)」〔荘子・逍遥遊〕
(5)「莫莫(バクバク)」とは、こんもり茂っておおいかくすさま。
「維葉莫莫=維れ葉莫莫たり」〔詩経・周南・葛覃〕
■単語家族
幕(見えなくする布)・墓・無・亡と同系。
※狙
■音
【ピンイン】[ju1]
【呉音】ソ 【漢音】ショ
【訓読み】さる, ねらう
■解字
形声。「犬+音符且(ショ)」
■意味
(1)さる。手長ざる。
(2)ねらう(ねらふ)。かくれていて人のすきをうかがう。「狙撃(ソゲキ)」
「慎勿出口他人狙=慎みて口より出だす勿かれ他人に狙はれん」〔杜甫・哀王孫〕
※虧
■音
【ピンイン】[kui1]
【呉音・漢音】キ(クヰ)
【訓読み】かける, かく
■解字
会意兼形声。「まがる、くぼむしるし+音符雇(コ・うつぶせてかかえこむ)の変形」。
まるくかこんだ形の物の一部がかけてくぼむこと。
■意味
(1)かける(かく)。かく。少なくなる。へらす。また、月などがかけおちる。こわれる。くぼんで穴があく。こわす。《類義語》⇒欠・空。
(2)かけめ。欠損。
※天鈞(テンキン)
自然の平等の原理。
※鈞
■音
【ピンイン】[jun1]
【呉音・漢音】キン
【訓読み】ひとしい
■解字
会意兼形声。「金+音符均(キン)の略体」。
■単語家族
均・尹(イン・平均をとる)と同系。
■意味
(1)陶器をつくるときに使うろくろ。平均のとれた回転盤。転じて、天下の平均を保つ政治力。「国鈞(コクキン)」
(2)ひとしい(ひとし)。まんべんなくいきわたる。《同義語》⇒均。
「鈞是人也=鈞しく是れ人也」〔孟子・告上〕
(3)均斉がとれて、重々しい。▽尊敬の意をあらわすことば。「鈞令(キンレイ)」「鈞啓(キンケイ)」
(4)重量の単位。一鈞は、三十斤。周代では七・六八キログラム。