漢字家族BLOG版(漢字の語源)

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尾籠とは?(烏滸蠻・烏滸の沙汰・夜郎自大)

2013年01月06日 13時25分59秒 | 故事成語

尾籠とは -- 烏滸蠻・烏滸の沙汰 --

 それは「三国志」の時代。『後漢書』の記述に「熹平七年(西暦178年)正月に交阯郡と合浦郡の烏滸蠻がそむいた」とあるそうだ。交阯郡とか合浦郡というのは「交州」に属し、今の地図では中国・ベトナム国境付近にあたるらしい。

 その「烏滸蠻」(オコバン)というのは、いわゆる「蛮夷戎狄」(バンイジュウテキ)のひとつ。漢民族からみて「未開」とされた地域の民族である。

 当時、漢民族は自分たちと同じ文化を持たない人々を「未開人」だといって差別していた。中原(チュウゲン)から遠く離れ、民俗・文化を異にする集団として、「東夷(トウイ)、西戎(セイジュウ)、南蛮(ナンバン)、北狄(ホクテキ)」があげられる。

 孔子は、「微管仲、吾其被髪左衽矣」(管仲微(な)かりせば、吾(われ)其れ被髪左衽(ヒハツサジン)せん)と言った。

 管仲は桓公を補佐して覇者とし、天下をまとめさせた。そのおかげで野蛮人に征服されることもなく、今の私たちも恩恵を受けているではないか。もし管仲がいなかったら、我々は「頭髪はザンバラ髪」、「衣は左前」という野蛮人の風習を受け入れさせられていたことだろう・・・というのだ。

 要するに野蛮人か文明人かを分けるのは、文化・風俗なのであった。ということは、漢民族と同じ服装をして、同じ言葉を使い、漢民族の礼儀作法を身につければ「野蛮人」ではなくなるのである。そこが、人種差別などとは大きく異るところ。

 とはいうものの、ことはそんなに簡単ではない。この「風俗を同じくする」ということが、どれだけ困難なことかという例は、中国戦国時代に武霊王「胡服騎射」を採用するのにどれだけ苦労したかをみるとわかる。

 戦国時代といえば当然「富国強兵」の時代。北方地方の遊牧民族のように軽快な服装で馬に直接乗り、馬上から弓を射る戦法で戦おうではないか。という武霊王の提案に対して、家来たちは猛反発した。「ズボンなどはけるか!そりゃ野蛮人の服装だ」ということ。当時の漢民族は「寛衣」というゆったりとして、袖や裾が長く、下部がスカート状の着物を着ていた。これが真の「チャイニーズルック」であり、今日の「チャイニーズルック」は「騎馬民族」の服装なのである。ついでにいうと、今のチャイニーズルックの裾が大きく裂けているのは馬に跨(またが)りやすいようにという工夫なのであり、女性の足を露出させるためのものではない。要するに、そんな格好ができるか!ということで猛反発されたのである。

 そもそも「寛衣」というものは、乱暴なことができないように、きわめて動きにくく作られている。この服装で喧嘩をするのは至難の業。もともと自然と優雅な挙措動作が生まれるような作りとなっているのである。しかも漢民族の戦法では、このような服装の者が三人(御者・弓矢を持つ指揮官・戈を持つ接近戦担当者)戦車に乗り込み戦闘に参加するというものであったので、きわめて機動力に欠ける。

 だから、武霊王は今のチャイニーズルックのようなスポーティーな服装で、機動力を生かした戦いをしようではないか、と言ったのである。が、反対された。

 が、しかし武霊王は粘り強く家臣たちを説き伏せ、ついに胡服騎射を取り入れることに成功した。

 他にも、時代はぐぐっと下って、女真族が清国を建国するや、漢民族にも「辮髪」(ベンパツ)が強要されたけど、あまりにも抵抗が激しいので、ついに清朝は「頭を残す者は、髪を残さず。髪を残す者は、頭を残さず」といって、この規則を破るものには死刑を宣告することとなった。

 このように、ただ単に風俗を改めるということがいかに困難なことであるかは歴史から読み解くことができる。

 ところで、中華思想では蛮夷の「文化」に対する差別はあったが、「人種」や「血統」については、あまり頓着していない。蛮夷とされている遊牧民族から王室にお嫁さんを迎えたりしているし、そのことについては「胡服騎射」にあれほど反対した人々も何も文句を言っていないのだ。

 もっというなら、唐の玄宗皇帝につかえた晁衡(チョウコウ)こと阿倍仲麻呂の例があげられる。唐の長安といえば、当時では世界第一級の国際都市。そこで国家公務員となった阿倍仲麻呂は、中原の人たちがいう「蛮夷戎狄」から、さらに遠く離れた、想像を絶する世界から来た人であった。それでも、中原の文化を身にまとい、公務員試験に合格しさえすれば、玄宗皇帝に抜擢され「左補闕」という官位にまでのぼった。李白・王維などと対等にお付き合いをしたし、詩の応酬もあり、尊敬されていた。

 同じ唐の詩人で漢人である杜甫は、国家公務員試験になかなか受からず、心がいじけてしまって「貧交行」という詩を詠んでいる。

 君不見管鮑貧時交  君見ずや 管鮑貧時の交
 此道今人棄如土    此の道 今人棄てて土の如し


 公務員試験に落第したら、昔の友人はみな知らぬ顔をして相手にしてくれなくなった。
 さきに登場した管仲鮑叔のような深い友情はどこへ行ってしまったのか?
 そんなものは、今時の人間はちりあくたのように捨ててしまっている、というのである。今時といっても奈良の大仏様ほどの古さの「いまどき」である。

 杜甫ですら、ノイローゼになるほどの「科挙」の試験にすんなりと及第するほどの天才であった阿倍仲麻呂は多くの人から愛された。けれどもその出身は現在の日本。日本は当時の人々の感覚からすると想像を絶する世界で、今の我々の感覚でいえば「火星から来た人」みたいなものではなかろうか。でも、その「火星」から来た人を誰も差別しなかった。漢人の文化にさえ馴染めばそれで対等におつきあいできたのである。

 いまだに外国人が公務員になれないどころか、参政権すら与えられない国とは大違いである。

 またまた、蛇足が長くなってしまった。

 肝心の「烏滸蠻」(オコバン)である。

 漢人の「中華思想」を取り入れた我が国でも、表面的にそれを真似して、たとえば都から遠く離れた関東以北の人々を(えびす)などといって差別した。ついでに「烏滸蠻」(オコバン)の人々まで侮蔑し、誰かがヘンなことをして「愚かな奴め!」と罵るとき、そのような所業は「烏滸の沙汰」おこのさた)だ!などというようになった、つまり、そんな馬鹿な行為は「烏滸蠻」(オコバン)の人がするようなことだ、というのである。そこから「おこがましい」などの言葉も生まれた。とにかくひどい差別語だ。

 さらに物好きな人がいて、この「おこ」ということばに当て字を作った。訓読みで熟語を作り「尾籠」(おこ)とした。

 もっともっと物好きな人がいて、この「尾籠」(おこ)を、さらに音読みして「尾籠」(ビロウ)。

 そこから、「尾籠」(ビロウ)ですが・・・などという言い回しが生まれた。

 全く複雑なことをしてくれたもので、衒学趣味というのは本当に困ったものだ。

 自分たちは「夷狄」とされる人々の、そのまた外側にいるというのに、中華思想を真似するなんて、なんと「夜郎自大」な話だろうか。

 ということで、次回は「夜郎自大」をやろう!

 → 盃中蛇影(盃中の蛇影)<故事成語>
 → 蛇足(画蛇添足)<故事成語>
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盃中蛇影(盃中の蛇影)<故事成語>

2012年12月27日 19時37分25秒 | 故事成語

盃中蛇影(盃中の蛇影・ハイチュウのダエイ)
 つまらないことで心身症が発症してしまうこと。
 ごくつまらないことでもストレスがたまり、体の病気となってあらわれることがある。
 「心身症」はストレス社会では、数多くの人に関係している。「神経性胃炎」などは、心身症の代表例。
 さて、「晋書」に出てくるお話だから、今から1,360年以上も前のこと。

盃中蛇影(盃中の蛇影・ハイチュウのダエイ)

 晋(シン)の楽広(ガクコウ)という人が河南の長官だった時、客を招いて宴会を催した。その時の客であった親しい友人が久しく見えないので、心配してたずねてみると、その客は病気であった。
 ところで、その病気のきっかけがおかしい。
 彼が前に楽広の官舎に招かれたとき、酒を飲もうとすると、盃の中に蛇の影が見える、どうも蛇は苦手だなあ。いやなものが見えるが、せっかく招かれたのであるから「ここは我慢」、と 無理をしてその酒を飲んだ。が、どうにも気持ちが悪い、それから帰宅後に病気になったのだという。
 「変なこともあるものだ」と楽広は、宴会の部屋を調査した。
部屋には、角(つの)でできた弓が壁に掛けてある。そして、その弓は漆(うるし)塗りで、一見蛇のようにも見える作りであった。
 そこで、楽広は、再び宴会を催し、客を前と同じ席に座らせた。
 「盃の中に、また蛇が見えますか」
 「わあっ!見える、前の時と、おんなじです」
楽広が種明かしをして、弓の影が映っているだけだと説明すると、「なあんだ」というわけで、客の気も静まり、病気もけろっと癒(なお)ってしまった。

line

  『列子』に出てくる、疑心生暗鬼(疑心暗鬼を生ず)という話に似ている。
  心因性の病気の中には、この話のように、原因が解明されてしまうと嘘のようにケロッと治癒してしまう場合もある。


 『晋書』には「漆畫作蛇」(漆画にて蛇を作れり)とある。弓の格好も模様も蛇そっくりだったらしい。
 疑心(こうではないかとためらい、思案して先へ進めない心)
 (思案にくれて進まないこと)騃(ガイ・馬がとまりがちで進まない)・礙(ガイ・とまって進まない)・凝(ギョウ・とまって進まないと同系。
 暗鬼(暗闇の中の幽霊)
 (漢文では、「オニ」ではなく、亡霊・幽霊のこと)
 鬼神(陽の魂が「神」(シン)、陰の魂が「鬼」(キ))
 
 → 蛇足(画蛇添足)<故事成語>
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蛇足(画蛇添足)<故事成語>

2012年12月24日 03時13分08秒 | 故事成語

 「蛇足ですが・・・」などと断りながら、本題とはそれた話をする場合がある。思えば、私のサイトは「蛇足」だらけだ。
 でも、世の中には「蛇足ですが・・・」などと言って、じつは「本音」を言う人もいるから安心できない。「蛇足」を装いながら、そこにこそ「本音」をしのばせるのである。

 それはともかく、よけいなことをして、せっかくできあがったものをダメにしてしまうのを「蛇足」という。

 中学や高校で習う故事成語だが、国語の時間の説明では肝心な部分が欠けている。何故この「蛇足」ということばが成語となったのか、というところがポイントなのだ。

蛇足(画蛇添足)

 戦国時代の楚の国で、ある人が酒を振舞った。ところが、どういうわけか亭主が振舞ったのは、たった一杯だけである。
 ケチな話だが、一杯しかないのだからしかたがない。そこで皆が相談する。
 「たった一杯の酒を、数人で分けて飲むには足らぬじゃろ。ちょうどひとり分じゃ。そこで、今から地面にの絵を描く競争をしよう。一番先に描ききった者がこの酒を飲むことにしよう」
 相談の結果、そのように話が決まり、皆が競争で絵を描き始めた。
 すると、間もなく一人の男が、の絵をまっさきに描きあげて、「完成!そら、一番じゃ。わしが飲むぞ」と、左手に杯を持ちながら、「どうじゃ!早いじゃろう。みんなが描けないうちに、わしは足まで描けるぞ」と、得意になって足を描きだした。
 そこに、もう一人の男が、の絵を描き終えて、杯を横取りした。
 「に足などあるものか。足を付けたらではない!」
 と言って、その酒を飲んでしまった。
 先に描いた男は、せっかく描き上げたのに、余計な蛇足を付けたばかりに、飲めるはずの酒を横取りされてしまった。

 為蛇足者、終亡其酒 戦国策・斉策)
  蛇足を為(つく)りし者、終(つい)に其の酒を亡(うしな)う。

line

 この話は、次のようないきさつでうまれた。
 楚の昭陽(ショウヨウ)という将軍が、魏の国を攻める命令を受けて進軍し、結果は大成功。得意になり、もっと強いところを見せようとして(セイ)の国まで攻めようとした。
 一方、には、陳軫(チンシン)という賢い人がいて、昭陽を説いた。
 「将軍は、魏を攻める命令を受けて、魏を降参させました。命令にないを攻めるのは蛇足です」と、この話をした。
 を攻めて少しでも失敗をしたら、魏を攻めた手柄が蛇足になるとさとった昭陽は、を攻めるのをやめた。



 「戦国策」には、このようなパターンのお話がいっぱいつまってます。

 たいていは、
    ・・・ 説得を依頼する人。
    ・・・ 説得を依頼される人(説得する人)。
    ・・・ 説得される人。
 の三者があり、説得が功を奏すれば、「三方一両損」どころか、「三者大満足」の結果となります。
 は、「ああ、よかった!」と胸をなでおろし、に感謝され謝礼をもらい、依頼者からはたんまりとご褒美がいただけるので、三人とも大満足。
 この場合は、(斉王)が、(陳軫)に依頼して、(昭陽)を説得させたという形。

 この典型的な例が、「漁父之利」ですが、他にも「先従隗始」(先づ隗より始めよ)など、有名な話がたくさんあります。
 
 → 「漁父之利」
 → 盃中蛇影(盃中の蛇影)<故事成語>
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牛・丑・うし・ウシ(5) 牛耳

2008年11月16日 00時42分13秒 | 故事成語

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牛耳

 「牛耳」(ギュウジ)。「牛耳を執る」(執牛耳)というが、これを略して「牛耳る」というのが一般的。

 所属するグループのリーダーとして事実上の支配者となることであり、仲間うちでハバをきかせることでもある。

 誰かにしきられてしまって、こっちがすっかり受け身になってしまったときに「○○はんに、牛耳られてしもうた」などという。

 『春秋左氏伝』、略して「左伝」ともいう古い歴史書の、定公八年の条に、この「牛耳」の話が出ているそうです。

 紀元前五世紀ごろ、春秋時代といって、中国が多くの諸候の国に分かれて、お互いにしのぎをけずっていた。戦争と平和の繰り返し。今の世界のように、同盟条約や平和会議が各国の間で、いろいろと結ばれた。

 今なら、条約の調印式という場面だが、昔は、諸候間の盟約には、牛の耳を割いて血を取り、その血をすすっての証拠とした。
 
・・・ 会意兼形声。は「あかりとりのまど+月」の会意文字。は「皿(さら)+音符明」で、皿に血を入れてすすり、神明(かみ)にあかしをたてること。

 「盟」という字には、「明」の下に「皿」がある。これは上の解説のとおり、を入れる器である。

 その同盟のセレモニーを司会する者が、牛の耳を持ち回った。そのことから「牛耳を執る」という言い方をするようになった。

 初期の頃は、位の下の者が牛耳を執り、位の上の者が監視するというセレモニーであったようだが、後には牛耳を執って司会する者が、同盟条約を左右する実力者(覇者)となった。牛耳を執る者が「盟主」となったのである。
 

十干十二支 -- 干支(えと・かんし)

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牛・丑・うし・ウシ(4) 庖丁解牛

2008年11月15日 23時41分20秒 | 故事成語

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庖丁(ホウテイ)

 刺身庖丁、出刃庖丁などという。今では「ホウチョウ」は「包丁」と書くが、もともとは「庖丁」と表記した。

 庖丁(ホウテイ)とは、料理人のこと。日本語となった「シェフ」の意。(chef とは、本来は料理長のことらしい)

 このシェフが使用するのが庖丁刀(ホウチョウがたな)であり、略して「庖丁」(ホウチョウ)

 「丁」を呉音読みすれば(チョウ)となる。

 もともとは普通名詞だった「庖丁」は、『荘子』養生主(ヨウセイシュ)篇では、料理の名人の固有名詞として登場する。

 「庖」は料理人、「丁」は名前とも(釈文)、仕事人のことともいわれる。

 その庖丁(ホウテイ)が、梁(リョウ)の恵王に頼まれて、牛を、一頭まるまる料理して見せた。

 彼の手の動かし方、肩に力を入れたり、足をふんばったり、膝をかがめたりする有様はみごとであった。

 牛刀が進むにつれ、肉と骨が、サクリサクリと離れ、肉がパサリと落ち、さらに牛刀を進めていくと、肉がザクリザクリと裂けていくのが、心地よいリズムに乗っている。

 その身ぶりは、「桑林の舞」(ソウリンのまい)といって、殷の湯王(トウオウ)が桑林という土地で雨乞いをした時の舞楽のようであり、その手ぶりは、「経首(ケイシュ)の会(しらべ)」といって堯(ギョウ)の時代の音楽である「咸池」(カンチ)というオーケストラ曲の一楽章のようであった。
 
 恵王は感嘆の声をあげる、

 「ああ、実に見事なものだ。技(わざ)も奥義を極めると、こんなにもなれるものか」

 すると、庖丁は牛刀を置いて、

 「これは技ではありません。私の願いとするところは、でありまして、以上のものでございます。

 私がはじめて牛を料理した時には、目にうつるのはただ牛そのもので、どこから手を付けていいか見当がつきませんでした。それが、三年目には、やっと牛の体の各部分が見えるようになりました。今ではもはや、目を使わずに、形を超えた心のはたらきで牛をとらえ、精神力によって、骨と肉との隙間(すきま)に刃を入れていき、けっして骨や「肯綮」(コウケイ) ─ 骨と肉の入りくんだところに刃が当たるようなことはありません。

 一級の料理人は毎年牛刀を取り替えますし、普通の料理人は毎月取り替えます。それはどうしても骨に打ち当てて牛刀を折ってしまうからです。

 私の牛刀は新調してから今日まで十九年使っていて、料理した牛は数千頭、しかも刃は新品同様です」

 と言った。

 この話を聞いた恵王は言った、

 「善(よ)いかな。吾(わ)れ庖丁(ホウテイ)の言を聞きて、生を養うを得たり」

 つまり、無理をしないのが人生をまっとうする方法であることを悟ったというのである。

 この話を「庖丁解牛」という。

 詳しくは、「荘子内篇の素読」 で読んでいく予定。

 荘子:養生主第三(2) 庖丁為文惠君解牛(庖丁、文恵君のために牛を解とけり)




十干十二支 -- 干支(えと・かんし)

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牛・丑・うし・ウシ(3) 鶏をさくになんぞ牛刀を用いんや

2008年11月15日 12時36分39秒 | 故事成語

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鶏をさくになんぞ牛刀を用いんや

 (類) 牛鼎烹鶏(ギュウテイ ケイ を にる)

 「牛刀」(ギュウトウ)、すなわち牛を切る大きな包丁(ホウチョウ)で鶏(にわとり)を料理する。小さい鶏をさばくために、わざわざ「牛刀」をもちだすなんて大げさだよ。つまり、「牛刀」にとっては役不足というわけだ。

 草野球の監督を、あの世界の王貞治最高顧問に依頼するようなものか。これはだいそれたことである。(こんなことを考える人はいないと思うが)

 割鶏焉用牛刀(鶏をさくになんぞ牛刀を用いんや)」とは孔子の言葉で、『論語』の陽貨篇に登場する。

 孔子が弟子たちを連れて、武城という小都市に来た。そこでは子游(シユウ)という、とてもまじめな弟子が長官を勤めていた。その子游先生、あまりにまじめすぎて、小さいエリアの代官をまかされているだけなのに、まるで天下を治めるような本格的な政治を行っているではないか。

 それを見た孔子が、ニッコリ笑いながら「鶏をさくに・・・・」と言ったのである。

 それを聞いた子游は、やはりあくまでもきまじめで、

 「昔者偃也、聞諸夫子、曰、君子学則愛人、小人学道則易使也

 私は先生に習ったとおりを、ベストをつくしてやっているのです・・・

 孔子:「これは、やられた! 諸君、子游のいうのが正しい。さっきの言葉は、あれは、じょうだんだよ」



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牛・丑・うし・ウシ(1) 鶏口牛後(その3)

2008年11月15日 08時15分51秒 | 故事成語

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 「口」という文字は、人間のクチの象形文字ですが、もとのことばは k'ug という発音であり、このことば自体は、「あな」を意味します。人間のクチだけとは限りません。

 そして、「人+口(あな)」⇒「后」という字があります。これは「人体のうしろの穴」すなわち「肛門」のことだといいます。字形は違いますが「後」と書いても同じ意味です。

(入口) ←→ (出口)  で対になっています。

 ということで、「鶏口牛」を、「鶏口牛」と表記すると、いっそう意味がきわだちますね。

 「寧為鶏口無為牛後」は、蘇秦自身の言葉ではなく、鄙諺を引用したものですが、それにしてもパンチが効いています。今の世の中でいえば、バラバラであったヨーロッパの諸国を一つにまとめてアメリカに対抗させようというようなものですから、諸国の王を説得するには、巧みな弁論術の他にさまざまなテクニックや知識を総動員してかからねばなりません。諸国の王は、よほどのことでなければ決心がつかないのです。

 そこで、蘇秦の口から「無為牛後!」という強烈な言葉が・・・。これはもう六国同盟に参加せずにはいられないのです。
鶏口牛後 「寧為鶏口無為牛後」

『漢字語源辞典』(藤堂明保・学燈社)より

 この字体については、加藤常賢博士が「后の字の上部は人の字の変形であり、その下に口(あな)がある。すなわち肛門のこと」<漢字の起源 巻15-43ページ>と説かれたのが正しい。肛門をといい、のちで代用する。


 「むしろ鶏口となるも、牛となるなかれ!」<戦国策の蘇秦のことば>とは、牛の肛門との意である。

 「はたして蛭(ひる)、王のより出ず」<新書>とは、王の肛門である。

  は、ちょうど左右が逆さになった字で、とは、尿道口(前穴)であり、は肛門(後穴)。

 肛門は人体の後に在るから、「うしろ」(あと)の意となり、後継ぎを生む人を后(きさき)と称するに至った。

 夜中からどういうわけかPCが不調で、ようやくさきほどから少し動くようになってきた、でもおそろしく遅い。超スローモーションの入力だ。どうなっているんだろう???


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牛・丑・うし・ウシ(1) 鶏口牛後(その2)

2008年11月14日 05時20分47秒 | 故事成語

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 韓王は、「牛後」と言われただけで、どうしてここまで怒りを露わにしたのでしょうか。

 じつは、この「牛後」、たんに「牛のしっぽ」とか「牛の尻」とかいうなまやさしい言葉ではなく、牛の「尻の穴」、すなわち肛門をさす言葉であったからです。

 そらそうですよね。「鶏口牛後」は対句であるはずなのに、

「鶏のクチ」 ─ 「牛のしっぽ」

 では、対句になりませんよねえ。

「上の口(穴・入口)」─ 「下の后(穴・出口)」

 で対応しているのです。

 蘇秦から、

 「合従の策」を受け入られないとすれば、その時は、あなたは、牛の尻の穴(肛門)になりさがったということですよ!」

 と言われた韓王は、「肛門」などといわれては面子(メンツ)まるつぶれ、「いいやそれでも秦と同盟する」などとは決して言えなくなったのです。

 「寧為鶏口無為牛後」、痛烈な決定打だったのですね。
鶏口牛後 「寧為鶏口無為牛後」

 (注)漢字語源辞典に引用されている資料 <漢字の起源、巻15-43ページ> とは別の資料。

『漢字の起源』(加藤常賢・角川書店 1970年12月刊)より



《呉リョウ雲》の説
 后字は反人に従い、口に従ふは尾下の竅なり。戦国韓策に「寧ろ鶏口となるも牛後となるなからん」と、史記蘇秦伝に同じ。リョウ雲謂へらく、この「後」字は当に「后」に作るべし、声の誤なり。張守節云ふ、「鶏口は小なれども乃ち食を進む、牛後は大なれども乃ち糞を出す」と
 ・・・ 后は尾下の竅たるや明らかなり(呉氏遺著 巻二)



后 = 「尻口(コウコウ)」
 *「后」は後口、即ち糞孔の意
 *「司」前竅、即ち生子竅の意
  ・・・「司」の「続」の意は、継続して子を生む意から来ている。

p.456 1174「司」・1173「后」


 次回は、藤堂明保博士の解説を紹介します。


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牛・丑・うし・ウシ(1) 鶏口牛後(その1)

2008年11月13日 03時23分32秒 | 故事成語

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  ウシ(・牛)にまつわるお話しとして、縦横家 ─ 漢字家族において、

「寧為鶏口、無為牛後(后)」 の解説は・・・(後ほどアップ 必読)

  などとしながら、何年が経過したことだろうか。あまりにも気の長い「後ほど」でした。

  さて、「鶏口牛後」のお話しは、「史記」や「十八史略」にも登場しますが、この「戦国策」の記述、気になりませんか?
  学生時代にこの一節を読んだときは、蘇秦から合従の策を説かれた時の韓王の反応があまりにも尋常ではないので、レトリックがすぎると思っていました。少し不自然にさえ思ったほどです。(なんでここまできばるのだろう???)
  ところが、卒業後、藤堂明保博士の『漢字語源辞典』に巡り逢い、その疑問が氷解したのです。
  そこには、加藤常賢博士の説が紹介されていましたが、これについては、次回の書き込みでご紹介しますので、まずは、「戦国策」の該当箇所をごらんください。
★鶏口牛後/鶏口牛后 『戦国策』卷二十六韓一より

 臣 聞 鄙 語 曰 : 『寧 為 雞 口 , 無 為 牛 後』 今 大 王 西 面 交 臂 而 臣 事 秦 , 何 以 異 於 牛 後 乎 ? 夫 以 大 王 之 賢 , 挾 強 韓 之 兵 ,而 有 牛 後 之 名 , 臣 竊 為 大 王 羞 之 。

 韓 王 忿 然 作 色 , 攘 臂 按 劍 , 仰 天 太 息 曰 : 「 寡 人 雖 死 , 必 不 能 事 秦 。 今 主 君 以 楚 (注:鮑本補曰:字誤,史正作「 趙 」) 王 之 教 詔 之 , 敬 奉 社 稷 以 從 。


  蘇秦は、趙のために合従をはかろうとして、韓の宣恵王に説いた。

 「・・・・・ そもそも、国力強大で賢明な大王をいただく国が、おめおめ秦の属国となりさがる。これ以上の国辱、これ以上のもの笑いはありません。ここは一番、熟考あってしかるべきでしょう。

 大王が秦に仕えるなら、秦は必ず宜陽(ぎよう)と成皐(せいこう)を要求します。今年それを与えれば、来年は、さらに多くの土地を要求してきましょう。毎年、土地を与えれば、ついには、与える土地がなくなってしまいます。与えなければ、それまで与えた土地まで無駄にし、かえって禍をこうむりましょう。大王の領土には限りがあるのに、秦の要求には果てしがありません。果てしのない要求に応ずるのは、怨みを売って禍を買うようなものです。戦わずして領土を削られましょう。

 『むしろ鶏口となるとも、牛後となるなかれ』といいますが、おめおめと秦に仕えれば、まったく牛後と異なりません。強力な兵を擁しながら牛後の汚名を着せられる。大王のために恥ずかしく思います」

 韓王は、さっと顔色を変え、ひじをはって刀の柄に手をかけ、天を仰いで嘆息した。 「死んでも秦には仕えまい。趙王からの教えをお伝えくださったが、国をあげて従いたい」


十干十二支 -- 干支(えと・かんし)

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