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荘子:斉物論第二(15) 唯其好之也 ,以異於彼

2008年11月09日 08時32分02秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(15)

 有 成 與 虧 , 故 昭 氏 之 鼓 琴 也 ; 無 成 與 虧 , 故 昭 氏 之 不 鼓 琴 也 。 昭 文 之 鼓 琴 也 , 師 曠 之 枝 策 也 , 惠 子 之 據 梧 也 , 三 子 之 知 幾 乎。 皆 其 盛 者 也 , 故 載 之 末 年 。 唯 其 好 之 也 ,以 異 於 彼 , 其 好 之 也 , 欲 以 明 之 。 彼 非 所 明 而 明 之 , 故 以 堅 白 之 昧 終 。而 其 子 又 以 文 之 綸 終 , 終 身 無 成 。 若 是 而 可 謂 成 乎 , 雖 我 亦 成 也 , 若 是 而 不 可 謂 成 乎 , 物 與 我 無 成 也 。


 成ると虧(か)くると無きは、故(もと)より昭氏(ショウシ)の琴(こと)を鼓せざるなり。昭文(ショウブン)の琴を鼓するや、師曠(シコウ)の策(サク・ことじ)を枝(ほどこ)すや、恵子の梧(ゴ・つくえ)に拠(よ)るや、三子の知は幾(つく)せり。皆、其の盛んなる者なり。故(ゆえ)に之(これ)を末年に載す。唯(た)だ其の之を好むや、以て彼れに異なる。其の之を好むや、以て之を明らかにせんと欲す。彼れ明らかにする所に非ざるに、而(しか)も之を明らかにせんとす。故に堅白(ケンパク)の昧(マイ・くらき)を以て終わりる。而して其の子また文の綸(論・あげつらい)を以て終わり、身を終うるまで成ること無し。是(か)くの若(ごと)くにして成ると謂うべきか、我と雖(いえど)も亦た成るなり。是(か)くの若(ごと)くにして成ると謂うべからざるか、物と我と(与・ともに)成る無きなり。

 昔の琴の名手である昭文が琴をかきならせば、そこには確かに妙なるメロディーが成立する。しかし彼の手に成立するメロディーの背後には、彼の手に成立しない無限のメロディーが存在し、彼のメロディーはその無限なるメロディーの一つにすぎないのである。彼がいかに努力しようとも、彼の手には常にかきならし切れない無限のメロディーが残されている。彼の手は一つのメロディーを「成す」ことによって無限のメロディーを「虧(うしな)」っているのであり、この意味において、彼の「成」は同時に「虧」であるともいえる。だから、すべてのメロディーをすべてのメロディーとして成り立たしめるためには、メロディーなきメロディー(無声の声)を聴くほかはない。メロディーなきメロディーとは、琴をかきならさぬということである。─ 「成(セイ)と虧(キ)と無きは故(もと)より昭氏の琴を鼓(コ)せざればなり」
 このことは同じく昔の音楽家である師曠(シコウ)、論理学者である恵施(ケイシ)についてもいえよう。昭文が琴をかきならし、師曠が瑟(シツ・琴の一種)の調べをととのえ、恵施が几にもたれて詭弁をふるうさまは、いずれも人知の極至であって、これらは確かに人間の作為の偉大さを示すものであり、さればこそまた、物の本にも書き記されて後の世まで伝えられるのである。─ 「故に之を末(のち)の年(よ)に載(しる)す」
 しかし、なるほど彼らは道を好み芸を愛する者ではあるが、「彼」すなわち真に道を好む絶対者とは同じくない。というのは、彼らは道を好みながら、その道を人間の作為(知と巧)で究め明らかにしようとするが、道とは本来人間の知巧を超えたものであり、人間の作為では明らかにすることのできないものであるから、彼らは、不可能を可能とする誤謬の上に立っているのである。─ 「明らかにする所に非ずして之を明らかにする」ここに、彼らの倒錯がある。
 だから、恵子のように「堅白同異(ケンパクドウイ)」の弁などという愚にもつかない議論を、倦(あ)きもせず死ぬまで繰り返すのであって、たんに彼のみか、その論理学を受け継いだ彼の子もまたついに道を悟ることなく、その生涯を空しく終っているのである。要するに彼らのいとなみは、その偉大さにも拘わらず、至高至大の道の前では殆んど無にもひとしい。だから、若(も)し、この無にもひとしい昭文と師曠と恵子の三人のいとなみが「成」─ 道を究めたもの ─ といえるなら、我々凡俗と雖もまた「成」といえるであろうし、逆にまた、もしこの三人の偉大ないとなみでさえ「成」といえないとすれば、いかなる物、いかなる人間にも「成」ということはあり得ないのである。

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枝策(シサク)
 「師曠之施瑟柱」『淮南子』氾論訓)
 「枝」─ ささえる
 「策」─ 瑟の絃を支える竹の柱
 枝策=瑟柱(ことじ)を施す、琴の調弦をする


據梧(キョゴ・つくえによる)
 机にもたれること
 「據槁梧」(徳充符篇)
 「倚於槁梧」(天運篇)



 尽と同じ。つくすと読む。(宋の林希逸の説)


其子又以文之綸終
 「綸」は「論」の借字。(馬叙倫の説)



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