漢字家族BLOG版(漢字の語源)

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荘子:養生主第三(5) 天也,非人也

2009年07月31日 01時41分04秒 | 漢籍
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荘子:養生主第三(5)

 公文軒見右師而驚曰:「是何人也?惡乎也?天與?其人與?」
 曰:「天也,也。天之生是使獨也,人之貌有與也。以是知其天也,也。」
 澤雉十歩一啄,百歩一飲,不畜乎中。神雖王,不善也。


 公文軒、右師(ウシ)を見て驚きて曰わく、「是(こ)れ何人(なんぴと)ぞや。悪(いずく)にか(カイ・あしきられ)せられたるや。天か、其(そ)れ人か」と。
  曰わく、「天なり、人に非(あら)ざるなり。天の是(こ)れを生ずるに独(ドク・かたあし)ならしめしなり。人の貌(かたち)は与(あた)うるものあり。是(こ)れを以て、其(そ)の天にして人に非ざることを知るなり」と。
  沢雉(タクチ・さわのきじ)は十歩に一啄(イッタク・ひとたびついばみ)し、百歩に一飲(イチイン・ひとたびみずのむ)するも、中(ハンチュウ)に畜(やしな)わるることを(もと)めず。神(シン・こころ)は王(さかん)なりと雖(いえど)も、善(たの)しからざればなり」と。


公文軒(コウブンケン)が(足切りの刑にあった)右師(ウシ)を見て、びっくりしていった。
 「まあ、なんという人間だ。どこで一体そのような一本足にされたのか。天のせいかね、それとも人のせいかね」

  すると右師は答えていう。

 「天命でこうなったのだよ。人のせいではない。天がわしを生むときに、一本足になるように運命づけたんだよ。だいたい人間の顔かたちというものは、すべて天から授かった(先天的な)ものだ。だから全く天のせいで、人のせいではないことがわかるではないか」

  沢べにすむ野生の雉(きじ)は、十歩あゆんでやっとわずかの餌(えさ)にありつき、百歩あゆんでやっとわずかの水を飲むというありさまだが、それでも樊(かご)のなかに飼われることは望まないだろう。樊(かご)のなかでは、たらふく餌を貰って気力は充ち溢れても、(山野を自由に遊び回る楽しみも味わえないから)いっこうに楽しくないからである。

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(カイ)
 ・【漢音】カイ、【呉音】ケ
 ・「兀」(ゴツ)に同じ。
   足(足首)を切断する刑罰。この場合は「独ならしむ」とあるから、片足を切ったということであろう。

 「自己の自由を絶対とする者には、王侯の尊位も千金の重利も、破れ草履にすぎないであろう。そして足切りの受刑者にもこの自由は与えられているのである。養生とは山海の珍味に飽くことでも、錦繍(キンシュウ)の衾(しとね)を重ねることでもなくて、この己れの内にある自由を生きることである。一切の不自由を不自由として逞しく受け容れる自由、そこにこそ生を養う真の秘訣がある、と荘子は右師の言葉に借りて明らかにするのである」(福永光司)


(ハン・かご)
 ・かご。細い枝をそらせ、からませてあんだ鳥かご。
 ・【解字】
   会意。上部は「林+交差のしるし」からなり、枝を×型にからみあわせることを示す。
□□は、それと左右の手をそらせたさまを合わせた字で、枝を(型や)型にそらせてからませること。


(もとめる)
 ・もとめる(もとむ)。祈りもとめる。
□□に当てた用法。
□□□「所以有道=有道をむるゆゑんなり」〔呂氏春秋・振乱〕




荘子:養生主第三(4) 吾聞庖丁之言,得養生焉

2009年07月25日 16時26分15秒 | 漢籍
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荘子:養生主第三(4)

 良庖?更刀,割也;族庖月更刀,折也。今臣之刀十九年矣,所解數千牛矣,而刀刃若新發於。彼節者有間,而刀刃者無厚;以無厚入有間,恢恢乎其於游刃必有餘地矣。是以十九年,而刀刃若新發於。雖然,?至於族,吾見其難為,?然為戒,視為止,行為遲。動刀甚微,?然已解,如土委地。提刀而立,為之四顧,為之躊躇滿志,善刀而藏之。」

 文惠君曰:「善哉!吾聞庖丁之言,得養生焉。」


 (リョウホウ)は?(とし)ごとに刀を更(か)う。割(さ)けばなり。「族庖」(ゾクホウ)は月ごとに刀を更(か)う。折ればなり。今臣の刀は十九年なり。解(と)くところは数千牛なり。而(しか)も刀刃(トウジン)は新たに(といし)より発せしが若(ごと)し。彼(か)の節(セツ・ほねのつぎめ)なる者には間(すきま)有りて、刀刃(トウジン)なる者には厚みなし。厚(あつ)み無きものを以て間(すきま)有るところに入るれば、恢恢乎(カイカイコ・ひろびろ)として其の刃(やいば)を遊ばす(つかいこなす)に必ず余地あり。是(こ)れを以て十九年にして、刀刃(トウジン)新たに(といし)より発せしが若(ごと)し。然(しか)りと雖(いえど)も、族(ゾク)に至る毎(ごと)に、吾(わ)れ其の為(な)し難(がた)きを見て、?然(ジュツゼン)として為(ため)に戒(いまし)め、視(み)ること為(ため)に止(とど)まり、行(や)ること為(ため)に遅く、刀を動かすこと甚(はなは)だ微(ビ)なり。?然(カクゼン)として已(すで)に解(と)くれば、土の地に(お)つるが如(ごと)くなれば、刀を提(ひっさ)げて立ち、之(これ)が為(ため)に四顧(シコ)し、之(これ)が為(ため)に躊躇(チュウチョ)して志(こころざし)を満たし、刀を善(ぬぐ)いて之(これ)を(おさ)む」と。

 文恵君曰わく、「善(よ)い哉(かな)。吾(わ)れ庖丁の言を聞きて、生を養うを得たり」と。


 「良」すなわち、腕のよい料理人は一年くらいで牛刀を取り替えますが、それでも刃こぼれがきます。「族庖」すなわち、月並みな料理人になりますと、一月(ひとつき)ごとに牛刀を取り替えますが、それは牛刀を骨に打ち当てて折ってしまうからです。ところで私の牛刀は、新調してから今まで十九年になり、料理した牛の数は数千頭になりますが、たった今砥石(といし)で研(と)いだように刃こぼれ一つありません。あの牛の骨節には間隙(すきま)がありますが、この牛刀の刃さきには厚みがありません。その厚みのない刃を間隙(すきま)のあるところに入れてゆくのですから、「恢恢乎」すなわち、ひろびろとして、刃を使いこなすのに必ず十分なゆとりがあります。十九年も使いつづけて、研(と)ぎたての牛刀のように刃こぼれ一つないのは、このためでございます。とは申しますものの、「族」すなわち、牛の体の筋や骨の族(むらが)り集まっているところにぶつかりますと、その仕事の難しさを見てとって、「?然」おっかなびっくり、しっかりと心をひきしめて緊張し、視線を一点に集中し、手のはこびを遅くし、牛刀の動かし方も極めて微妙になります。
 やがて「?然」(パサリ)と音がして、肉が離れてしまうと、土の塊(かたまり)が大地に落ちるように肉の山が地上に横たわります。私はほっとして牛刀を提(ひっさ)げたまま立ち上がり、ぐるりと四方を見回し、しばらくはその場を去りがたく、しばしためらった後、会心の笑みをうかべて牛刀をぬぐい、これを大事にしまうのでございます」

 文恵君は言った。「いかにも見事だ。わしは庖丁の話を聞いて、養生(ヨウセイ)の道、すなわち与えられた自己の人生を全うする根本原理を会得した。」

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族庖(ゾクホウ)
  ・ありふれた腕まえの料理人


(といし)
  ・【漢音】ケイ、【呉音】ギョウ
  ・といし。刃物をとぐ石。
  ・会意兼形声。「石+(音符)刑(=形。形をつける)」。刃物の形を整えるといし。


恢恢(カイカイ)
  ・ひろく大きいさま
  ・ゆったりして余裕があるさま


?然(ジュツゼン)
  ・気がかりでひやひやするさま


?(カク)
  ・ばらりと解けるさま
   一説に、骨から肉を切り離すときの音の形容


(イ)
  ・おちる(おつ)。ためておいてある。だらりとおちて、そのままである。
  ・会意。「禾(まがってたれたいね)+女」で、しなやかに力なくたれることを示す。
   単語家族
    (イ・だらりとしおれてたれる)・(イ・力が抜けてだらりとする)・(エンン・力をぬいてたおやかな)・(エン・たおやかな女性)と同系。


(おさむ)
  ・おさめる(をさむ)。しまいこむ。入りこんで出てこない。
  ・かくす。かくれる(かくる)。




荘子:養生主第三(3) 臣之所好者,道也,進乎技矣

2009年07月24日 23時39分50秒 | 漢籍
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荘子:養生主第三(3)

 文惠君曰:「譆,善哉!技蓋至此乎?」庖丁釋刀對曰:「臣之所好者,道也,進乎技矣。始臣之解牛之時,所見無非(全)牛者。三年之後,未嘗見全牛也。方今之時,臣以神遇,而不以目視,官知止而神欲行。依乎天理,批大郤,導大?,因其固然。技經肯綮之未嘗,而況大?乎!

 文惠君(ブンケイクン)曰わく、「譆(ああ)、善(よ)い哉(かな)。技(わざ)も(けだ)し、此(ここ)に至(いた)るか」と。
 庖丁は刀を(お)いて対(こた)えて曰わく、「臣の好むところのものは道なり。技(わざ)を進(こ)えたり。始め臣の牛を解(と)きし時、見るところ牛に非ざるものなかりき。三年の後にして未だ嘗つて全牛を見ざるなり。今の時に方(あた)っては、臣は神(こころ)を以て(あ)いて、目を以て視(み)ず。知(カンチ)止(や)みて「神欲」(シンヨク)行なわる。天に依りて、大(タイゲキ・おおいなるすきま)を批(う)ち、大?(タイカン・おおいなるあな)に導き、其の固(もと)より然(しか)るところに因(よ)る。技(わざ)の肯綮(コウケイ)を経(ふ)ること未だ嘗つてあらず。而(しか)るを況(いわ)んや大?(タイコ・おおいなるほね)をや。


 それを見た、文恵君
 「ああ、みごとなものだ。技も奥義を極めると、こんなにもなれるものか」
と感嘆の声をあげた。
 すると庖丁は牛刀を置いて文恵君に対(こた)える。
 「私の求めるところはでございまして、以上のものでございます。私が牛をはじめて料理した時分には、目にうつるものはただ牛の姿ばかり、(どこから手をつけてよいのか見当さえもつきませんでしたが)それが三年目にやっと、牛の全体像が目につかなくなり、牛の体のそれぞれの部分が目に見えるようになりました。
 そして現在ではもはや、形を超えた心のはたらきで牛をとらえ、目で視て(形に頼って)仕事をすることはなくなりました。
 「知」すなわち、あらゆる感覚器官にもとづく知覚は、その動きをひそめ、「神欲」すなわち、精神のはたらきだけが動いているのです。
 「天理」すなわち牛の体にある本来自然の(すじめ)に従って、「大(タイゲキ)」すなわち骨と肉の間にある大きな隙間(すきま)に刃(やいば)をふるい、骨節の大きな?(あな)に刃を導き入れて、牛の体の本来のしくみに従って処理するのです。
 だから私が技(うで)をふるえば、骨と肉の微妙にいりくんだ部分に刃をあてることはありませんし、まして「大?(タイコ)」すなわち、大きな骨に刃をあてることは決してありません。
 
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(けだし)
 ・けだし。文の初めにつき「おもうに」の意をあらわすことば。
  全体をおおって大まかに考えてみると。
 ・【解字】会意兼形声。
  (コウ)は「去+皿(さら)」の会意文字で、皿にふたをかぶせたさま、かぶせること。
  は「艸+音符盍」で、むしろや草ぶきの屋根をかぶせること。
 ・【単語家族】
  (かぶせる)・(コウ・ふさぐ)・(コウ・口をふさいでぶつぶついう)などと同系。
  (エン・かぶせておおう)・(エン・かぶせておおう)などとも縁が近い。


(おく)
  ・おく。すてる(すつ)。つかんだものを放しておく。
   「保釈」「釈箕子之囚=箕子の囚を釈く」〔史記・周〕


(グウ・あう)
  ・あう(あふ)。AとBとがひょっこりあう。転じて、思いがけずに出あう。
  ・グウす。相手と関係しあう。また、ある態度で相手にのぞむ。
   「待遇」「礼遇」「殊遇(特別のもてなし)」


(カン)
  ・人体のいろいろな役目をする部分。
   政府の官職になぞらえたことば。
    「器官」「五官(目・耳・鼻・口・皮膚の五器官)」「官能」


神欲(シンヨク)
  ・精神のはたらき


(すじめ)
  ・すじめ
  ・【解字】
   会意兼形声。
   は「田+土」からなり、すじめをつけた土地。
   は「玉+音符里」で、宝石の表面にすけて見えるすじめ
   動詞としては、すじめをつけること。


(【慣用音】ゲキ、【呉音】キャク、【漢音】ケキ)
  ・くぼみ。中央がくぼみ、両辺の間があいた所。すきま。
  ・漢方医学では、骨と肉とのあいだ。


大?(タイカン)
  ・骨節にある大きな穴


?(ほね)
  ・【漢音】コ、【呉音】ク
  ・大きな骨




荘子:内篇(養生主篇)もくじ

2009年07月24日 10時43分03秒 | もくじ
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荘子:内篇の素読(もくじ)

荘子集解:清 王先謙
養生主篇

  養生主篇第三(1)
 吾生也有涯,而知也無涯

  養生主篇第三(2)
 庖丁為文惠君解牛

  養生主篇第三(3)
 臣之所好者,道也,進乎技矣

  養生主篇第三(4)
 吾聞庖丁之言,得養生焉

  養生主篇第三(5)
 天也,也

  養生主篇第三(6)
 天也,也

  斉物論篇もくじ
  逍遥遊篇もくじ


荘子:養生主第三(2) 庖丁為文惠君解牛

2009年07月24日 10時13分31秒 | Weblog
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荘子:養生主第三(2)

 庖丁為文惠君解牛,手之所觸,肩之所倚,足之所履,膝之所踦,砉然響然,奏刀騞然,莫不中音,合於桑林之舞,乃中經首之會。


 庖丁(ホウテイ)、文恵君のために牛を解(と)けり。手の触るる所、肩の倚(よ)る所、足の履(ふ)む所、膝(ひざ)の踦(かが)まる所、砉然(カクゼン)たり、響然(キョウゼン)たり。刀(トウ)を奏(すす)むること騞然(カクゼン)として音に中(あた)らざること莫(な)く、桑林(ソウリン)の舞(まい)に合(かな)い、乃(すなわ)ち経首(ケイシュ)の会(カイ・しらべ)に中(あた)る。

 ある時、庖丁(ホウテイ)が文恵君のために牛を料理して見せたことがあった。
 庖丁の手がふれるところ、肩を寄せるところ、足をふんばるところ、膝(ひざ)をかがめるところなど、(その身のこなしは、なんともいえず見事である)
 彼が牛刀(ギュウトウ)を動かし進めるにつれて肉がザクリザクリ(騞然)と切り裂かれてゆく、その手さばきがみな音律(リズム)にかなって快く、身のこなしは「桑林の舞」という、昔、商(=殷)の湯王が桑林という土地で雨乞いをした時用いたという舞楽もかくやと思わせるほどであり、そのリズミカルな手さばきは、堯の時代の音楽「咸池」の一楽章である「経首」を演奏するときのオーケストラの旋律そのものであった。

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庖丁(ホウテイ)
  ・庖丁は、人(ホウジン)つまり料理人の(テイ)さん ということ。
  ・ くりや。台所。
    会意兼形声。包(ホウ)は、外から包む意を含む。
    庖は「广(いえ)+音符包」で、食物を包んで保存する場所の意。


文惠君(ブンケイクン)
  ・梁の恵王のこと。(逍遥遊篇)


砉然(カクゼン)
  ・かつかつ。刀で牛などを切りさく音の形容。(=騞然)
  ・砉 くわっと切りこみを入れる。
   「砉然(ケキゼン・カクゼン)」とは、骨と皮が離れるときに出る音の形容。
   会意兼形声。「石+(音符)丯(カイ=害・割。切りこみを入れる)」。
    指事。ぎざぎざの刻み目をつけることを示す。契(ケイ)の原字。


嚮然(キョウゼン)
  ・音の響くさま。(「響」に当てた用法)


桑林(ソウリン)
  ・商(殷 イン)の湯(トウ)王がひでりのとき、雨ごいをした場所。商の聖地で土地神のまつられた所。
  ・商の王の用いた音楽・歌舞の名。


經首(ケイシュ)
  ・帝尭(ギョウ)時代の音楽の名。




荘子:養生主第三(1) 吾生也有涯,而知也無涯

2009年07月23日 17時48分37秒 | 漢籍
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荘子:養生主第三(1)

 吾生也有涯,而知也無涯。以有涯隨無涯,殆已!已而為知者,殆而已矣!為善無近名,為惡無近刑,?督以為經,可以保身,可以全生,可以養親,可以盡年。

 吾(わ)が生や涯(ガイ・かぎり)あり、而(しか)も知や涯(ガイ・かぎり)なし。涯(ガイ・かぎり)あるを以て涯(ガイ・かぎり)なきに隨(したが)うは、殆(あやう)きのみ。已(のみ)にして知を為(な)す者は殆(あやう)きのみ。善を為すも名に近づくことなく、悪を為すも刑に近づくことなかれ。督(トク)に縁(よ)りて以て経(つね)と為さば、以て身(み)を保(たも)つべく、以て生を全うすべく、以て親を養うべく、以て年(よわい)を尽くすべし。

 われわれの人生は有限である。しかし、人間の知と欲とは、外へ外へと無限に広がってゆく。有限の身で無限のことを追い求めるのはあやういことだ。あやうきのみであるのに、なおかつ知の放埒(ホウラツ)に身を委ねる者は危険この上もないことだ。
 善を行うことがあっても、名(メイ)に近づくことがあってはならない。悪を行うことがあっても、刑罰に近づくことがあってはならない。(名を得て喜ぶ者は名を失う悲哀の前に立ち、今日の栄誉を歓ぶ者は明日の刑戮に戦慄しなければならない ・・・ 福永光司)善悪二つながらに忘れた無心の境地に立って、これを「経(つね)」つまり、生活の根本原理としてよりどころとしていくなら、一斎の世間的な桎梏(シッコク)から自己を安らかに保って自由な生を楽しむことができるばかりでなく、親にも十分な孝養がつくせ、本来の寿命を全うして、生涯を無事に過ごすことができるであろう。

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(タイ)
 あやうい。もう少しでよくないことがおこりそうで不安である。
 会意兼形声。
  台(タイ・イ)はすきを用いて働いたり、口でものをいったりして、人間が動作をすることを示す。(作為を加える)・(人工で水をおさめる)などと同系。
 は「歹(死ぬ)+音符台」で、これ以上作為すれば死に至ること、動けばあぶないさまをあらわす。


(トク)
 ・中心になるもの。「督脈」
 ・「督中」(「督」は「中」なり)『莊子集解』
 ・「督(トク)は中の意。善と悪の真中、すなわち善に偏らず悪に偏らず、善もなく悪もない無心の境地をいう」(福永光司)
 会意兼形声。
 は「棒に巻きついたつる+又(手)」の会意文字で、心棒を中心にして締まる、散在した物をとりまとめるの意を含む。菽(シュク・つる豆)の原字。
 は「目+音符叔」で、みはって引き締めること。