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荘子:斉物論第二(12) 已而不知其然謂之道

2008年10月30日 00時13分26秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(12)

 故 為 是 舉 ? 與 楹。  與 西 施。 恢 詭 譎 怪。 道 通 為 一 。 其 分 也。 成 也。 其 成 也。 毀 也 。 凡 物 無 成 與 毀。 復 通 為 一 。唯 達 者 知 通 為 一。 為 是 不 用 而 寓 諸 庸 。 庸 也 者。 用 也。 用 也 者。 通 也。通 也 者。 得 也。 適 得 而 幾 矣 。 因 是 已。 已 而 不 知 其 然 謂 之 道 。


 故に是(こ)れが為(ため)に、?(テイ・うつばり)と楹(エイ・はしら)、(ライ・かったい)と西施(セイシ)とを挙ぐれば、恢詭譎怪(カイキキッカイ)なるも、道は通じて一たり。其の分かるるは成るなり。其の成るは毀(そこな)わるるなり。凡(およ)そ物は、成ると毀(そこな)わるると無く、復(ま)た通じて一たり。唯(た)だ達者(タッシャ)のみ通じて一たることを知り、是れが為に用いずして諸(これ)を庸(ヨウ)に寓(グウ)す。庸なる者は用なり、通なる者は得なり。適(たま)たま得て、幾(ちか)し。是(ゼ)に因(よ)る已(のみ)。已(のみ)にして其の然るを知らず、これを道と謂(い)う。

 一切存在は、物として然らざるはなく、物として可ならざるはない。その例として、横にわたす梁(はり)と縦に立つ「柱」、癩病患者と絶世の美女「西施」とを対照して示すと、とても奇怪ないぶかしい対照ではあるが、真実の道(一切の差別と対立がそのまま一つである実在の世界)においては、縦もまた横であり、美もまた醜と斉しく一つのものである。
 この道の立場からみれば、分散し消滅することは、そのまま生成することであり、生成することは、そのまま死滅することでもある。すべてのものは、生成と死滅との差別なく、すべて一つである。ただ道に達した者だけが、すべてが通じて一であることを知る。だから達人は分別の知恵を用いないで、すべてを自然のはたらきのままにまかせるのである。庸(ヨウ)とは用の意味であり、自然の作用ということである。自然の作用とは、すべてを通じて一である道のはたらきである。すべてに通じて一であるものを知るとは、道を体得(自得)することにほかならない。この道を体得した瞬間に、たちまち究極の境地に近づくことができるのである。
 究極の境地とは何か。是非の対立を越えた是(ゼ)に、いいかえれば自然のままの道に、ひたすら因(よ)り従うことである。ひたすら因り従うだけで、その因り従っているという意識さえもなくなること、この境地をこそ道というのである。

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 ■音
  【ピンイン】[ting2]
  【漢音】テイ 【呉音】ジョウ
 ■解字
  会意兼形声。「艸+(音符)廷(テイ・まっすぐのびる)」。
 ■意味
  (1)くき。草の茎。
  (2)まっすぐな梁(はり)。うつばり。 ←横にわたすもの。



 ■音
  【ピンイン】[ying2]
  【漢音】エイ 【呉音】ヨウ
  【訓読み】はしら
 ■解字
  会意兼形声。「木+音符盈(エイ・いっぱいになる)」で、屋根と床の間にいっぱいに張ったはしら。
 ■意味
  (1)はしら。天井と床の間にはった太いはしら。 ←縦に立てるもの。
  (2)家屋を数えるのに用いることば。家屋一列を「一楹(イチエイ)」という。



 ■音
  【ピンイン】[lai4]
  【呉音・漢音】ライ
 ■解字
  会意。萬(=万)は、二つの毒刺をもったさそりを描いた象形文字。
  は「厂(いし)+萬(さそり、強い毒)」で、さそりの毒のようにきびしい摩擦を加える石、つまり、といしを示す。
  また、猛毒を持つ意から、毒気や毒のひどい病気の意。ひどい、きついなどの意を含む。
 ■意味
  らい病。えやみ。



荘子:斉物論第二(11) 無物不然 ,無物不可

2008年10月29日 06時10分18秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(11)

 可 乎 可 。 不 可 乎 不 可。 道 行 之 而 成 , 物 謂 之 而 然 。 惡 乎 然 ? 然 於 然 。惡 乎 不 然 ? 不 然 於 不 然 。物 固 有 所 然 , 物 固 有 所 可 。無 物 不 然 , 無 物 不 可 。


 可を可とし、不可を不可とす。道は之(これ)を行きて成り、物は之を謂いて然りとす。悪(いず)くにか然りとするや、然るを然りとす。悪くにか然らずとするや、然らざるを然らずとす。物は固(もと)より然りとする所あり。物は固より可とする所あり。物として然らざるは無く、物として可ならざるは無し。

 世俗の人間は、本来一つである万物を可と不可に分かち、その可を可とし、その不可を不可として固執するが、(一体、このような可と不可の区別は何によって生ずるのであろうか) それは人間の習慣的な思考と価値的な偏見にもとづくのであって、恰も道路が本来何もない野原に人の往来(ゆきき)とともにでき上がり、また、本来何の名前も持たない事物が、人間生活の便宜のために、これこれだと名づけられるのと同じであろう。(世間の人びとがそういっているからという理由で、習慣的にそのやり方を認めているにすぎないのだ)

 しかし彼らはいったい何を根拠に、あるものを「然り」とし、また「然らず」と断定するのか。彼らはただ世間の常識と習慣に従って、世間の人間が然りとするものを自己もまた然りとし、世間の人間が然らずとすることを自己もまた然らずとしているにすぎない。彼らの断定は決して絶対的なものではないのである。ところで、絶対的な立場、すなわち万物が一馬であり、天地が一指である究竟的一の世界では、可もなく不可もなく、然もなく不然もないから、一切は可でもあり不可でもあり、然でもあり不然でもある。そこでは、すべての「然り」が「然り」として肯定されるだけでなく、「然り」を否定する「然らず」もまた今一たび否定されて、「然らざるはなし」と肯定されるのである。この大いなる一切肯定の世界が、道樞(ドウスウ)すなわち実在の世界にほかならない。
 
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荘子:斉物論第二(10) 天地一指也,萬物一馬也

2008年10月28日 00時00分14秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(10)

 以 指 ? 指 之 非 指 , 不 若 以 非 指 ? 指 之 非 指 也 ; 以 馬 ? 馬 之 非 馬 , 不 若 以 非 馬 ? 馬 之 非 馬 也 。天 地 一 指 也 , 萬 物 一 馬 也 。


 指を以て指の指に非ざるを喩(さと)すは、指に非ざるを以て指の指に非ざるを喩すに若(し)かざるなり、馬を以て馬の馬に非ざるを喩すは、馬に非ざるを以て馬の馬に非ざるを喩すに若かざるなり。天地は一指なり、萬物は一馬なり。

 詭弁学派のうちには、まず指という個物の存在を認めたあとで、指が指でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から指という個物を越えた一般者から出発して、そのあとで指が指でないことを論証するのには及ばない。

 また、まず馬という個物の存在を認めたあとで、馬が馬でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から馬という個物を越えた一般者から出発して、そのあとで馬が馬でないことを論証するのには及ばない。

 無差別の道枢の立場からみれば、天地は一本の指であるともいえるし、万物は一頭の馬であるともいえるのである。

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 ■音
  【ピンイン】[yu4]
  【呉音・漢音】
  【訓読み】さとす、さとる、たとえる、たとえ
 ■解字
  会意兼形声。兪(ユ)は中身をくりぬいてつくった丸木舟。じゃまな部分を抜きとる意を含む。
  喩は「口+音符兪」で、疑問やしこりを抜き去ること。
 ■意味
   さとす。さとる。疑問を解いてはっきりとわからせる。はっきりとわかる。《同義語》⇒諭。
   「君子喩於義=君子は義に喩る」〔論語・里仁〕

 「指を以て指の指に非ざるを(あき)らかにするは、指に非ざるを以て指の指に非ざるを(あき)らかにするに若(し)かざるなり」(福永光司)




荘子:斉物論第二(9) 謂之道樞

2008年10月27日 02時20分54秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(9)

 物 無 非 彼 , 物 無 非 是 。 自 彼 則 不 見 , 自 知 則 知 之 。 故 曰 : 彼 出 於 是 , 是 亦 因 彼 。 彼 是 方 生 之 ? 也 。 雖 然 , 方 生 方 死 , 方 死 方 生 ; 方 可 方 不 可 , 方 不 可 方 可 ; 因 是 因 非, 因 非 因 是 。 是 以 聖 人 不 由 , 而 照 之 于 天 , 亦 因 是 也 。 是 亦 彼 也 , 彼 亦 是 也 。 彼 亦 一 是 非 , 此 亦 一 是 非 , 果 且 有 彼 是 乎 哉 ? 果 且 無 彼 是 乎 哉 ? 彼 是 莫 得 其 偶 , 謂 之 道 樞 。 樞 始 得 其 環 中 , 以 應 無 窮 。 是 亦 一 無 窮 , 非 亦 一 無 窮 也 。 故 曰 莫 若 以 明 。


 物は彼れに非らざるは無く、物は是(こ)れに非ざるはなし。彼よりすれば則ち見えざるも、自(み)ずから知れば則ち之を知る。故に曰く、「彼は是より出で、是れも亦た彼に因る」と。彼と是れと方(なら)び生ずるの説なり。然りと雖(いえど)も、方(なら)び生じ方(なら)び死し、方(なら)び死し方(なら)び生ず。方(なら)び可にして方(なら)び不可、方(なら)び不可にして方(なら)び可なり。是(ゼ)に因(よ)り非(ヒ)に因(よ)り、非に因り是に因る。是(ここ)を以て聖人は、由らずして之を天に照(て)らす。亦是(ゼ)に因るなり。是(こ)れもまた彼なり、彼もまた是れなり、彼もまた一是非(いちゼヒ)、此れもまた一是非なり。果して且(そ)も彼是ありや、、果して且(そ)も彼是なきや。彼と是と其の偶を得る莫(な)き、之を道樞(ドウスウ)と謂ふ。(スウ・とぼそ)にして始めて其の環中を得て、以て無窮に應ず。是(ゼ)もまた一無窮、非(ヒ)もまた一無窮なり。故に曰く明を以てするに若(し)くは莫し」と。


 物は彼(かれ)でないものはないし、また物は此(これ)でないものもない。己れを「これ」とよび、他を「かれ」とよぶ時、他を「かれ」とよぶその己れもまた、他者の立場からみれば一つの「かれ」であるから、一切存在は皆「これ」であるとも「かれ」であるともいえる。人間の判断はとかく一方的なもので、「彼れ」の立場からは蔽(おお)われて見えない道理も、「是れ」の立場からは明らかに知り得るものであるから、「彼れ」という概念は己れを「是れ」とするところから生じたものであり、「是れ」という概念は、「彼れ」という対立者をもととして生じたものである。つまり「彼れ」と「是れ」というものは、相並んで生ずるということであり、たがいに依存しあっているのである。論理学者、恵施(ケイシ)の主張がこれである。

 しかしながら、この「あれ」と「これ」の相対性は、天地間のあらゆる価値判断についてもいえるのであって、生と死、可と不可、是(ゼ)と非(ヒ)の対立も、じつは互いに相い因(よ)り、相俟(ま)って成立する相即的な概念であり、一切の矛盾と対立の姿こそ、そのまま存在の世界の実相なのである。万物は生じては滅び、滅びては生ずるこの方生方死(ホウセイホウシ)、方死方生(ホウシホウセイ)の変化の流れのみが絶対であって、これを「生」とよび「死」とわかつのは、人間の偏見的分別にすぎない、同様にまた、すべての存在は、それを可(カ)とみる立場からすれば可でないものはなく、それを不可(フカ)とみる立場からすれば不可でないものはないが、この方可不可、方不可方可の実在の世界を、あるいは可としあるいは不可とするのは、全く人間の心知の妄執にほかならないのである。

 だから、実在の真相を看破する聖人は、このような万物の差別と対立の諸相に心知の分別を加えることなく、あるがままの万物の姿をそのまま自然として観照し、これを絶対的な一の世界に止揚するのである。聖人もまた是(ゼ)による。しかし、其の是はもはや因非因是の是、すなわち非と対立する相対の是ではなくして、一切の対立と矛盾をそのまま包み越える絶対の是なのである。そこでは、是(こ)れもまた同時に彼れであり、彼れもまた同時に是れである。そこでは、彼のなかにも是と非が一つになって含まれ、此れのなかにも是と非が一つになって含まれる。このような一切の差別と対立を超えた絶対の世界においては、もはや彼是の対立などどこにもあり得ない。そして、このような彼れと是れとが互いに自己と対立するものを失い尽くした境地を、道枢(ドウスウ)─ 実在の真相というのである。(とぼそ)とは扉(とびら)の回転軸のことであるが、この(とぼそ)がそれを受けとめるまるい環(わ)の中心にぴったり嵌(は)まって、扉が自由に開閉するように、道の枢もまた一切の対立と矛盾を超えた絶対の一に立脚して、千変万化する現象の世界に自由自在に応ずるのである。そしてこのような道枢(ドウスウ)の境地においては、是もまた一つの窮まりなき真理を含み、非もまた一つの窮まりなき真理を含む、そこではもはや、「此」と「彼」、「是」と「非」など一切の対立は、その相対性の根源において一つとなるのである。「明(メイ)を以てする」とは、このような環中(カンチュウ)の道枢(ドウスウ)、すなわち万物斉同の実在の真相を観照する叡智を自己のものとすることにほかならないのである。

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この一節も、全面的に福永光司先生の解釈に依って読ませていただきました。
  参照:「荘子 ─ 中国古典選:朝日選書・朝日文庫」

樞(枢)
 ■音
  【ピンイン】[shu1]
  【慣用音】スウ 【呉音】ス 【漢音】シュ
  【訓読み】とぼそ
 ■解字
  会意兼形声。區(=区)は、まがった囲いとそれに入りくんだ三つのものからなる会意文字。こまごまと入りくんださまをあらわす。
  樞は「木+音符區」で、細かく細工をして穴にはめこんだとびらの回転軸をあらわす。
  區(=区)と同系。
 ■意味
  (1)とぼそ。穴にはめこむ、とびらの回転軸。くるる。
  (2)中心となる重要なもの。かなめ。「枢要」




荘子:斉物論第二(8) 道惡乎隱而有眞僞, 言惡乎隱而有是非

2008年10月09日 08時46分06秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(8)

 夫 言 非 吹 也 , 言 者 有 言 。 其 所 言 者 特 未 定 也 。 果 有 言 邪 ? 其 未 嘗 有 言 邪 ? 其 以 為 異 於 ? 音 , 亦 有 辯 乎 ? 其 無 辯 乎 ?

 道 惡 乎 隱 而 有 眞 僞 ? 言 惡 乎 隱 而 有 是 非 ? 道 惡 乎 往 而 不 存 ? 言 惡 乎 存 而 不 可 ? 道 隱 於 小 成 , 言 隱 於 榮 華 。

 故 有 儒 墨 之 是 非 , 以 是 其 所 非 而 非 其 所 是 。 欲 是 其 所 非 而 非 其 所 是 , 則 莫 若 以 明 。



 夫(そ)れ言(ゲン)は吹(スイ)には非(あら)ざるなり。言う者には言(ことば)あり。其(そ)の言う所の者、独(ひと)り未(いま)だ定まらざれば、果たして言ありや、其れ未だ嘗(かつ)て言あらざるか。其れ以(もっ)て?(コウ)の音(ね)に異なれりと為(な)すも、亦(また)弁(ベン・けじめ)ありや、其れ弁無きや。

 道は悪(なに)に隠(よ)りて真偽あるか、言は悪(なに)に隠(よ)りて是非有るか。道は悪くにか往(ゆ)きて存せざる、言は悪くにか存して不可なる。道は小成に隠(よ)り、言は栄華に隠(よ)る。

 故(ゆえ)に儒墨(ジュボク)の是非有り。以て其の非とする所を是として、其の是とする所を非とす。其の非とする所を是として、其の是とする所を非とせんと欲するは、則(すなわ)ち明(メイ)を以てするに若(し)くは莫(な)し。


 さて、ことばというものは、口から吹き出す単なる音ではない。ものを言った場合には言葉の意味がある。その言った言葉の意味がまだあいまいでさだかでないなら、はたしてものを言ったことになるのか、それとも何も言わなかったことになるのか。たとえ単なる雛鳥(ひなどり)のさえずりとは違うといったところで、はたして区別がつくかつかないか。

 (本来、真でも偽でもない)道に、何故真と偽との区別が生ずるのか。(本来是も非もない)言語に、何故是と非の対立が生ずるのか。道はあらゆる場所に存在するし、ことばはどんな場合でもそのすべてが「可」である。道は小さな成功を求める心によって真偽の対立を生み、ことばは虚栄とはなやかな修飾によって是非の対立を生んだ。

 だからこそ、そこに儒家と墨家の是非の対立が生まれる。こうして相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非とするようになる。相手の非とするところを是とし、相手の是とするところを非とすることを望むのは、真の明智(明明白白の理)に立脚する立場には及びもつかないのである。

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言者有言
 言葉にはすべて説明しようとする内容、すなわち意味がある。


果有言邪, 其未嘗有言邪
 二つの命題を疑問系で並べて後者を肯定する句法。
 「未だ嘗て言なし」の意味。
 次の「亦有辯乎, 其無辯乎」も同様。


?
 ■音
  【ピンイン】[kou4]
  【漢音】コウ 【呉音】
 ■単語家族
  句(まるく小さい)─ 狗(まるく小さい小犬)と同系。
 ■意味
  まるく小さいひな鳥。

 燕・雀などの子のように、親から口うつしに養われるひなを?、鶏・雉(きじ)などの子のように、自分でついばんで食するひなを(スウ)という。



 「道惡乎而有眞僞」の「隠」は、あとの3つの「隠」とともに、「几(つくえ)に隠(よ)る」の隠と同じで、「よる・もたれる」と訓(よ)む。


小成(ショウセイ)
 「小成、謂各執所成以為道。不知道之大也」(荘子集解)
 それぞれの立場を完全と考えて異見を立てることによって、真偽が生まれてくる。(金谷治)
 「小(かたよ)れる成(こころ)に隠(よ)り・・・」(福永光司)


儒墨之是非
 「儒墨二学派の論争は、いずれも偏見にとらわれ、自己を誇示するところに生じたもので、彼らの議論の喧(かまびす)しさ、その見かけの華々しさにもかかわらず、その主張はなんら明確な内容と根拠を持たず、雛の鳴き声の無意味さと全く同じだというのである」(福永光司)

 儒墨の論争については・・・
  『中国思想史』(森三樹三郎・レグルス文庫)を参照。




荘子:斉物論第二(7) 夫隨其成心而師之,誰獨且無師乎

2008年10月07日 23時48分24秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(7)

 夫 隨 其 成 心 而 師 之 , 誰 獨 且 無 師 乎 ? 奚 必 知 代 而 心 自 取 者 有 之 ? 愚 者 與 有 焉 ! 未 成 乎 心 而 有 是 非 , 是 今 日 適 越 而 昔 至 也 。 是 以 無 有 為 有 。 無 有 為 有 , 雖 有 神 禹 且 不 能 知, 吾 獨 且 奈 何 哉 !

 夫(そ)れ其の成心(セイシン)に随(したが)いて之を師とすれば、誰か独り且(は)た師無からんや。奚(なん)ぞ必ずしも代(か)わるを知りて、心に自ら取る者のみこれ有らんや。愚者も与(とも)にこれ有り。未(いま)だ心に成らずして是非を有するは、是(こ)れ今日越に適(ゆ)きて、昔(きのう)至れりとするなり。是れ無有(ムユウ)を以て有と為(な)すなり。無有を有と為さば、神禹(シンウ)有りと雖(いえど)も、且(まさ)に知ること能(あた)わず。吾れ独り且(は)た奈何(いかん)せんや。

 もし、自分に自然にそなわている心に従い、これをわが師とするならば、だれもがそれぞれに師を持つことになるだろう。何も、天地宇宙の生成変化の理法を悟って、自(み)ずから正しい判断を為し得る賢者だけが所有しているのではなく、この心の師は、愚者にもおのずから具わっているのである。
 ところが、すべての人間が自己の内に本来もつところの心に従わず、いたずらに(己れを是とし、他を非とする)是非の論議によって問題を解決しようとする限り、その本末を顛倒した愚かさは、たとえば数千里隔たった南の越の国に、「今日旅立って、昨日に到着した」という詭弁をもてあそぶことになる。このような有り得べからざることを有り得ると主張する愚かさに対しては、あの神の如き知恵を持つという古(いにしえ)の帝王、禹(ウ)の聡明さをもってしても、施すすべがないのである。ましてこの私にそれをどうすることができようか。

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成心(セイシン)
 (1)天から受けた曇りのない心。本来の自己の内に持っている心。
  「随其成心而師之=其の成心に随ひてこれを師とす」
 (2)あらかじめ心に思い定めている考え。先入観。(←金谷治)


奚必知代而心自取者有之?
 成心は天成の心であり、自然にあたえられたものであるから、いろいろあるうちから選択して得たものではない。選択という人為を越えた、自然のものである。(森三樹三郎)


今日適越而昔至
 「天下篇」にみえる恵施の詭弁。
 恵施は無限大の時間を考えるのであるが、無限の時間に比べれば、昨日と今日との時間の隔たりは無にひとしい、というのである。

[天下篇](抄)
 恵施の学問は多方面にわたり、その蔵書は五台の車に積むほどあったが、その説く道は矛盾に満ちて統一が無く、その議論は道理にあわない。物のもつ意味を列挙して、次のように述べている・・・・

 (前略)─
 ・天と地は同じ高さにあり、山と沢とは同じ高さにある。
 ・太陽は中天にあると同時に、東西のいずれかに傾いている。
 ・万物は生まれると同時に死んでいる。
 ・南方にははてがないと同時に、はてがある。
 ・今日(きょう)越の国に向かって出発することは、昔(きのう)越の国に到着したということである。
 ・鎖(くさり)のようにつながった知恵の輪は、解くことができるものである。
 ・私は世界の中央にあたる場所を知っている。それは、北国の燕(エン)の北、南国の越(エツ)の南にある。
  ─(後略)

 恵施は、この論法をすぐれたものとして自負し、ひろく天下に示し、弁者たちに教えた。天下の弁者たちは、たがいにこれを論じあって楽しんだ。


(ウ)
 夏(カ)の開祖とされる伝説上の聖王。黄河の洪水をおさめたといわれる。
 夏后氏禹、または有虞(ユウグ)氏禹ともいう。
 帝舜(シュン)に推されて王となった。その子は啓。
 「巍巍乎、舜禹之有天下也=巍巍乎たり、舜禹の天下を有つや」〔論語・泰伯〕
  
禹(字形)
■解字
  象形。後足をふまえて尾をたらした、頭の大きい大とかげを描いたもので、もと大とかげの姿をした黄河の水の精。からだをくねらせた竜神のこと。
  のち、それが儒家によって人間の聖王に転化された。




♪図南の心誰か知る~♪

2008年10月06日 03時01分35秒 | Weblog

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「トナンノココロタレカシルーーー。 ・・・ セキアンワラウサカシサヨー。」


 こんな歌声が聞こえてきたのはずいぶん古い話である。私の学生時代か、卒業して間もない頃だからなあ。う~ん。

 この男声合唱団の歌声は、高校野球の勝利校を讃える「校歌斉唱」の声であることがわかった。どこかのラジオから聞こえてきたものらしい。

 歌詞の詳細は忘れてしまったが、記憶に残っているのが、「トナンノココロタレカシル」、「セキアンワラウサカシサヨ」である。これは、明らかに「図南の心、誰か知る」、「斥鴳笑う賢しさよ」であり、まさしく「荘子」逍遥遊篇「大鵬図南」のお話である。

 校歌の一節に漢籍を引用する場合、通常は儒家系統の文献から引いてくることが多いと思われるが、この学校の校歌はめずらしく、「道家」を典拠としている。感銘深い。最後まで聴いた。

 校歌とか校訓といえば、即物的な修身道徳の項目を提示するのが常であるが、この学校の校歌はきわめて哲学的であり深淵である。その上、その歌詞は、荘子:逍遥遊篇、冒頭の一番魅力的で味わい深い一節を祖述している。

 折に触れて、この校歌を歌う高校生たちは、将来、何かの折に、この歌詞の意味を「じわーっ」と感じるときがあるに違いない。

 このような魅力的な校歌をもつ学校は、どこの学校だったのだろうか。高校野球の出場校を検索してもわからないだろう。

 この校歌をかみしめながら育った学生たちは、おおらかに大きくはばたいていったことだろう。

 ところで「荘子」を「そうし」とよんだり、「そうじ」とよんだりする。
ある人は、人物名を呼ぶときは「そうし」とよみ、著書としての『荘子』を呼ぶときは「そうじ」とよむという。「荘子」といっても、そのさすところが人物のことなのか書物のことなのかが瞬時にわからないので、このような区別をするという。
 また、ある人は、人物名も書名も、ともに「そうじ」とよむという。その理由は、孔子の弟子である「曾子(曾参)」との混同をさけるためであるという。なぜ「荘子」の方が儒家に遠慮しなければならないのか、釈然としないが、とにかく、「荘子」の呼び方一つにもいろいろと流儀があるようだ。(福永光司先生は、前記の人物名と書名を呼び分ける方式をとっている)
 私は、大学時代のある先生が人物名・書名とも「そうじ」と言っていたので、両方ともそうよんでいる。
 まあ、こんなに細かいことをいっていたら、小さな魚の卵が巨鳥に変身したり、節くれ立って曲がりくねった大木が最高の木になるような「荘子」の世界には入り込めないであろう。あの校歌で育った人たちに笑われてしまう。

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荘子:斉物論第二(6) 一受其成形,不亡以待盡

2008年10月06日 01時24分10秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(6)

 一 受 其 成 形 , 不 亡 以 待 盡 。 與 物 相 刃 相 靡 , 其 行 盡 如 馳 , 而 莫 之 能 止 , 不 亦 悲 乎 ! 終 身 役 役 而 不 見 其 成 功 , ? 然 疲 役 而 不 知 其 所 歸 , 可 不 哀 邪 ! 人 謂 之 不 死 , 奚  !其 形 化 , 其 心 與 之 然 , 可 不 謂 大 哀 乎 ? 人 之 生 也 , 固 若 是 芒 乎 ? 其 我 獨 芒 , 而 人 亦 有 不 芒 者 乎 ?

 一たび其の成形(セイケイ)を受くれば、亡(ほろ)ぼさずして以て尽くるを待たん。物と相い刃(さから)い相い靡(そこな)い、其の行き尽くすこと馳(は)するが如(ごと)にくして、これを能(よ)く止(とど)むるなし。亦(また)悲しからずや。修身役役(エキエキ)として其の成功を見ず。?然(デツゼン)として疲役(ヒエキ)して、其の帰(キ)するところを知らず。哀(かな)しまざるべけんや。
 人は之を死せずと謂うも、奚(なん)の益かあらん。其の形(かたち)化して其の心も之と然り。大哀(タイアイ)と謂わざるべけんや。人の生くるや、固(もと)より是(か)くの若(ごと)く芒(くら)きか。其れ我れ独(ひと)り芒(くら)くして、人も亦(また)芒(くら)からざる者あるか。


 人は一たび自然としての生をこの世に受けて人間となった以上、この自然としての生を、自然としてそのまま受け取り、これを亡(うしな)うことなく、命の果てる日を待つほかないであろう。しかるに世俗の人間は、徒らに外界の事物に引きずられ、他と争い傷つけあって、自己を耗(す)りへらして、その人生を早馬のように走りぬけ、これをとどめるすべを知らないのは、なんと悲しいことか。
 その生涯をあくせくと労苦のうちにすごしながら、しかもその成功を見ることもなく、ぐったりと疲労しきって、落ち着く所を知らない有様である。哀(あわ)れというほかないではないか。
 人はそれでもなお、「俺は生きている」というかもしれないが、これほど無意味な人生がまたとあろうか。その肉体がうつろい衰えて、心もそれと同時に萎(しぼ)んでしまったのである。これを大きな哀(かな)しみといわずにいられるであろうか。
 人の生涯というものは、もともとこのように愚かなものなのか。それとも自分だけが愚かで、世人のうちには愚かではない者もいるのだろうか。

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成形
 人間としての形
 「一受其成形」ひとたび人間としての形を受けた以上は



 ■音
  【ピンイン】[mi2 / mi3]
  【漢音】ビ 【呉音】
  【訓読み】なびく、ない
 ■解字
  形声。「麻(しなやかなあさ)+音符非」
 ■意味
  (1)なびく。外から加わる力に従う。
   「燕従風而靡=燕は風に従つて靡かん」〔史記・淮陰侯〕
  (2)こする。すりへらす。
   「喜則交頸相靡=喜べば則ち頸を交へて相ひ靡す」〔馬蹄篇〕


?
 ■音
  【ピンイン】[nie2]
  【漢音】デツ 【呉音】ネチ
 ■解字
  会意兼形声。「艸+柔らかく小さい、げんなりしたの意の音符」。
 ■意味
  「?然(デツゼン)」とは、ぐったりと疲れるさま。
  「?然疲役而不知其所帰=?然として疲役して其の帰する所を知らず」
  一説に忘れるさま。
  世徳堂本では「?然」



 ■音
  【ピンイン】[wang2]
  【漢音】ボウ 【呉音】モウ
  【訓読み】のぎ、ほさき、ひかり、くらい、すすき
 ■解字
  会意兼形声。「艸+音符亡(ボウ)(みえにくい)」
  茫(みえにくい)と同系。
 ■意味
  (1)のぎ (2)ほさき (3)ひかり。光線の先端。「光芒(コウボウ)」
  (3)くらい(くらし)。ぼんやりくらいさま。おろかなさま。
   「人之生也、固若是芒乎=人の生まるるや、固より是くのごとく芒きか」




荘子:斉物論第二(5) 其有真君存焉

2008年10月02日 03時42分13秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(5)

 喜 怒 哀 樂 ,慮 嘆 變 ? , 姚 佚 ? 態 , 樂 出 ? , 蒸 成 菌 。 日 夜 相 代 乎 前 , 而 莫 知 其 所 萌 。 已 乎 , 已 乎 ! 旦 暮 得 此 , 其 所 由 以 生 乎 ! 非 彼 無 我 , 非 我 無 所 取 。 是 亦 近 矣 , 而 不 知 其 所 為 使 。 若 有 真 宰 , 而 特 不 得 其 ? 。 可 行 已 信 , 而 不 見 其 形 , 有 情 而 無 形 。 百 骸 、 九 竅 、 六 藏 、 ? 而 存 焉 , 吾 誰 與 為 親 ? 汝 皆 ? 之 乎 ? 其 有 私 焉 ? 如 是 皆 有 為 臣 妾 乎 ? 其 臣 妾 不 足 以 相 治 乎 ? 其 遞 相 為 君 臣 乎 , 其 有 真 君 存 焉 ! 如 求 得 其 情 與 不 得 , 無 益 損 乎 其 真 。

 喜怒哀楽(キドアイラク)あり、慮嘆変?(リョタンヘンシュウ)あり、姚佚啓態(ヨウイツケイタイ)あり。楽(ガク)は虚(キョ)より出(い)で、蒸(ジョウ)は菌を成すがごとく、日夜前に相代わりて、其の萌(きざ)す所を知る莫(な)し。已みなん、已みなん、旦暮(たんぼ)に此れを得るは、其の由(よ)りて以て生ずる所か。彼に非ざれば我なく、我に非ざれば取る所なし。是れ亦近し。而(しか)も其の使(せし)めらるる所を知らず。真宰(シンサイ)有るが若(ごと)くにして、而(しか)も特(ひと)り其の朕(あと)を得ず。行なう可(べ)きは已(はなは)だ信(まこと)なれども、而(しか)も其の形を見ず。情(まこと)は有れども形なし。百骸(ガイ)・九竅(キョウ)・六藏、 ?(そなわ)りて存す。吾れ誰と与(とも)にか親(しん)を為さんや。汝(なんじ)皆これを説(よろこ)ばんか、其れ私すること有るか、是(か)くの如(ごと)くんば、皆臣妾(シンショウ)と為すことあるか。其臣妾は以て相治むるに足らざるか。其れ遞(たが)いに君臣と相為るか。其れ真君(シンクン)の存する有るか。求めて其の情を得ると得ざるとの如きは、其の真に益損(エキソン)することなし。

 或いは喜び或いは怒り、或いは哀しみ或いは楽しみ、或いはまだ訪れぬ未来を取り越し苦労し、或いは返らぬ過去に愚痴にをこぼす。移り気と執念(シュウネン)深さ、浮き浮きしたりだらけたり、あけすけにしたり、わざとらしく取りつくろったり。その巨木の万竅(バンキョウ)にも似た人間心理の種々相は、あたかも笛の音が虚(うつ)ろな管(くだ)から鳴り響き、菌(きのこ)が蒸せた湿気から生まれるように、昼となく夜となくわが眼前に入れかわり立ちかわり生滅するが、しかもそれが何にもとづいて生起するのか、その原因は知る由もない。さてさて、もどかしいかぎりよ。人間の旦(あ)け暮(く)れの生活は、このような心の万籟を内容として営まれるものにほかならず、人間が生きるとは、じつは喜び怒り哀しみ楽しむことにほかならないのである。人間の心の万籟を万籟として成り立たせるものがあるだろうか。
 この喜怒哀楽、慮嘆変?(リョタンヘンシュウ)等の心的現象を除いては具体的な自己はどこにも存在しないのであり、自己が存在しなければ、喜びも怒りも哀しみも楽しみも、現れようがないのである。このような自己の本質と自己の現象形態の相関性に刮目する時、初めて人間存在の実相に近づくことができるであろう。しかし、喜怒哀楽はそれ自体が生の具体的内容であり、人間存在の現実であるとしても、人間の心を、その外もしくは上から支配する絶対者=真宰(シンサイ)が存在するといえるだろうか。それれが「はたらき」そのものとして存在し得ても、人間の感覚や知覚では、その実体を捉えることはできない。真宰(シンサイ)とは、自然すなわち天ということにほかならない。
 このことは人間の体(からだ)について考えてみても同じであろう。人間の体には百の骨節と、九つの竅(あな)と、六つの臓腑とが備わっているが、そのどの部分を特に親しみ愛して全体の支配者とすることができようか。お前はそれらのすべてを愛するというのであろうか、それともそのうちのどれか一つを特に愛するというのであろうか。身体の有機的な全体は一つの自然であるから、そこには人間の愛憎親疎の情を挿(さしはさ)む余地は全くないであろう。ところで身体の一部分が全体の支配者であり得ぬとすれば、身体の一切の構成部分は、支配者なしの臣妾、すなわち被支配者だけということになるのであろうか。しかし臣妾だけで統率者がなければ、互いにうまく治めてゆくことができぬというのであろうか。身体の各部分が交互に君となり臣となって治めてゆくというのであろうか。それともどこかに真君すなわち真の支配者ともいうべきものが存在しているというのであろうか。そんなことはどうでもいい問題であろう。我々がその相互関係、因果関係の実相を把握し得なくとも、別に何の不都合も起こらない。一切は結構うまく治まってゆくのである。
 人間の精神と肉体の営みの背景には、その営みを支配する絶対者が存在するかのごとくであるが、しかしその絶対者は、「はたらき」そのもの、変化それ自体であり、その真宰とは、自然(天)ということにほかならないのである。人はこの「自然」を自然として受け取る時にのみ真の自己となることができる。自然の世界の万籟をそのまま天籟として聞くように、人間の生の営みの一切を、ただ天(自然)として受け取る時に、人はその人間的な一切のものから超越することができるのである。
 
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この一節は、全面的に福永光司先生の解釈に依って読ませていただいた。

慮嘆変?
 (おそ)れまた(なげ)き、(うつ)りぎなるかとみれば、?(ひとえ)にとらわれ


姚佚啓態
 (しなつ)くるかとみれば(きまま)にふるまい、(あけすけ)なるものあり、(もったい)ぶるものあり

(ヨウ)
 細く身軽であるさま。また、スマートで美しい。

 (解字)
  会意兼形声。「女+音符兆(さっとはねる)」。
  佻(チョウ・身軽な)・跳(軽々ととぶ)と同系。

[漢]イツ・[呉]イチ)
 しまりがないさま。のんびりしているさま。
 わくをゆるめて気を抜かすことから、ゆるやかでしまりのない意となる。

 (解字)
  会意兼形声。は、「手+抜け出る印」の会意文字。
  は「人+音符失」で、俗世から抜け出た民(世捨て人)をあらわす。
  (ト・うさぎ)と?とをあわせて、うさぎがするりと抜け去ることを示すとまったく同じ。


 ひらく。開放する。 


 うわべを取りつくろう。


已(や)んぬるかな、已(や)んぬるかな
 その究極の原因の知り難きことに対する嘆息の言葉(福永光司)
    ↓
 「さてさて、もどかしいかぎりよ」(森三樹三郎)


逓(遞)
 ■音
  【ピンイン】[di4]
  【漢音】テイ 【呉音】ダイ
  【訓読み】つたえる、たがいに、かわって
 ■解字
  会意兼形声。遞の右側の字(音テイ)は、はいつくばって、ひと足ずつ横に歩くという委虎(イコ)という動物をあらわす。
  遞はそれを音符とし、?を加えた字で、横へ横へとのび進むこと。
  は、宋(ソウ)・元(ゲン)代以来の略字。
 ■意味
  (1)つたえる(つたふ)。次々と横に渡していく。リレーする。「逓信」
  (2)たがいに(たがひに)。かわって(かはりて)。リレー式に。かわるがわる。次々と。
  (3)次々につたえていく宿駅の制度。また、駅馬。