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荘子:斉物論第二(11) 無物不然 ,無物不可

2008年10月29日 06時10分18秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(11)

 可 乎 可 。 不 可 乎 不 可。 道 行 之 而 成 , 物 謂 之 而 然 。 惡 乎 然 ? 然 於 然 。惡 乎 不 然 ? 不 然 於 不 然 。物 固 有 所 然 , 物 固 有 所 可 。無 物 不 然 , 無 物 不 可 。


 可を可とし、不可を不可とす。道は之(これ)を行きて成り、物は之を謂いて然りとす。悪(いず)くにか然りとするや、然るを然りとす。悪くにか然らずとするや、然らざるを然らずとす。物は固(もと)より然りとする所あり。物は固より可とする所あり。物として然らざるは無く、物として可ならざるは無し。

 世俗の人間は、本来一つである万物を可と不可に分かち、その可を可とし、その不可を不可として固執するが、(一体、このような可と不可の区別は何によって生ずるのであろうか) それは人間の習慣的な思考と価値的な偏見にもとづくのであって、恰も道路が本来何もない野原に人の往来(ゆきき)とともにでき上がり、また、本来何の名前も持たない事物が、人間生活の便宜のために、これこれだと名づけられるのと同じであろう。(世間の人びとがそういっているからという理由で、習慣的にそのやり方を認めているにすぎないのだ)

 しかし彼らはいったい何を根拠に、あるものを「然り」とし、また「然らず」と断定するのか。彼らはただ世間の常識と習慣に従って、世間の人間が然りとするものを自己もまた然りとし、世間の人間が然らずとすることを自己もまた然らずとしているにすぎない。彼らの断定は決して絶対的なものではないのである。ところで、絶対的な立場、すなわち万物が一馬であり、天地が一指である究竟的一の世界では、可もなく不可もなく、然もなく不然もないから、一切は可でもあり不可でもあり、然でもあり不然でもある。そこでは、すべての「然り」が「然り」として肯定されるだけでなく、「然り」を否定する「然らず」もまた今一たび否定されて、「然らざるはなし」と肯定されるのである。この大いなる一切肯定の世界が、道樞(ドウスウ)すなわち実在の世界にほかならない。
 
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