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荘子:斉物論第二(17) 雖然 ,請嘗言之

2008年11月20日 23時33分07秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(17)

 今 且 有 言 於 此。 不 知 其 與 是 類 乎 ? 其 與 是 不 類 乎 ? 類 與 不 類 , 相 與 爲 類 , 則 與 彼 無 以 異 矣 。 雖 然 , 請 嘗 言 之。

 今且(しば)らく此(ここ)に言えること有り。其の是(こ)れと類(たぐい)するや、其の是(こ)れと類(たぐい)せざるやを知らず。類すると類せざると、相(あ)い与(とも)に類を為せば、則ち彼れと以て異なること無し。然りと雖も、請(こ)う、嘗(こころ)みに之を言わん。

 絶対の一としての道には是もなく非もないと言った。しかしこの言(主張)は、いったい「是れ」すなわち世間の是非の議論と同じ種類のものであろうか、それとも異なった種類のものであろうか。
 「道に是非なし」という主張は、確かに「是非あり」とする世俗の議論とは異なっている。しかし、また「道に是非なし」という主張も一つの議論である限り、それが一つの議論であるという点では、「是非あり」とする世俗の議論と異ならないのである。

 結局、この主張が世俗の議論と同類のものであるにせよ、異類のものであるにせよ、問題を言論心知の世界で解決しようとする限り、同じ穴のむじなとならざるを得ないのであって、彼すなわち世俗の議論と何の変わりもないことになる。道とは本来言論心知などでは捉えることのできないもの、体験するよりほか仕様のないものであるから、絶対者はただ体験のみを至上として、生きたる渾沌と遊ぶほかないのである。けれども、我々が何かを説明する場合、言語を媒介とすることなしには不可能であるから、この言語の限界性を十分念頭におきながら、今少しく道と言 ─ 実在と認識の関係について考えてみよう。

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例によって、この一節も、全面的に福永光司先生の解釈に依って読ませていただきました。
 是非とも、福永光司先生のご著書をご覧ください!
  参照:「荘子 ─ 中国古典選:朝日選書・朝日文庫」


是と類する・彼れと異なるなし
 「彼」「是」はともに世俗の議論をさす。


請う嘗(こころ)みに之を言わん
 「試」と同義。言語概念による道の説明が全く一つの方便であることを断っている。「月を指(さ)す指」のようなものであって、月そのものではないということ。