漢字家族BLOG版(漢字の語源)

漢字に関する話題など。漢字の語源・ワードファミリー。 現在、荘子「内篇」を素読しています。

劉邦と項羽(中国ドラマ/1997年CCTV制作/全35話)

2009年01月10日 12時36分02秒 | Weblog

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★劉邦と項羽

 絶対権力を誇った秦の始皇帝亡き後、2人の英雄が自らの覇権を目指して対峙する-紀元前3世紀の群雄たちの攻防を描き、日本でも多くの人に愛されている「劉邦」と「項羽」の物語がドラマとなって蘇る!! 秦王朝の滅亡から高祖が漢王朝の礎を築きあげるまでを、迫力のスケールで描いた歴史巨編。(中国ドラマ/1997年CCTV制作/全35話)

 紀元前221年。秦王が六国を滅ぼし、中国の歴史上初めて全国を統一。やがて彼は始皇帝と名乗り、その支配を強化するため、民衆に対して過酷な搾取を強いるように。その頃、泗水の亭長でありながらも酒と女に溺れる生活を送っていた劉邦は、都で始皇帝の行列を目撃。「男たるもの、ああならなければいかん」と決意するが…。

 キャスト:劉邦(劉文治)/呂雉(于小慧)/韓信(李宏偉)/項羽(張林)/張良(王剛)/虞姫(周露)/范増(劉仲元)


 中国史のハイライト。

 偶然、Gyaoで見つけた。すでに無料配信を終了している部分があるけど、見られるものはいっきに視てしまいました。

 読み物として本当に面白いのは、『三国志』ではなく、春秋戦国時代から「漢」成立まで。

 もちろん、この時代に生きていたら「面白い」などとは口が裂けても言えません。命がいくらあっても足りませんよねえ。あくまで歴史物語として、後世の我々が無責任にも歴史ドラマとして楽しんでいるのです。

 なかでも始皇帝崩御から楚・漢の攻防は圧巻で、「鴻門の会」において緊迫感は頂点に達する。

 この題材は、すでに頻繁にドラマ化・映画化されているが、これまでのものは、あまりにも脚色が激しすぎて、「史記」の名場面を無残にもズタズタにしているので不満が多かった。

 ところが、表記の作品は、史記の記述に忠実で、しかも脚本がよく、配役も絶妙で、キャストの演技力も抜群と、稀に見る名作である。

 脚色は必要最小限に抑えられており、原作に忠実なところが、かえって私たちの心をうつ理由かもしれない。そう考えると、司馬遷の「史記」の偉大さがわかる。

 Gyao の 動画では、韓信将軍の「背水之陣」などがすっとんでしまっているが、カットされているのだろうか?

 DVDが販売されていれば、必購入である。

 私は、「張良」と「韓信」のファンなのだが、この二人に限らず、配役は絶妙である。(本当は、このドラマの張良を見た時、「張良はもう少し優男(やさおとこ)で、とびきり男前だといいのになあ」などと思ってしまったが、見続けていくうちに、この配役がピタリとはまっていることを実感する。また、范増・酈食其など、あまりにはまりすぎて演技とはおもえないくらい。胸にしみいります)

 韓信将軍の「背水之陣」については、別の観点からこのブログに投稿する予定にしているのですが、のびのびになっています。「荘子内篇の素読」のコーヒーブレイクに投稿しようと思っています。

 それはそうと、「軍師」といえば、諸葛亮ではなく、「張子房」ですよね。



 

荘子:斉物論第二(36) 昔者莊周夢為胡蝶

2009年01月05日 01時36分44秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(36)

 昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也。自?適志與!不知周也。俄然覺,則??然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與。周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化

 昔者(むかし)、荘周(ソウシュウ)、夢(ゆめ)に胡蝶(コチョウ)と為れり。栩栩然(ククゼン)として胡蝶なり。自(みずか)ら?(たの)しみて志(こころ)に適(かな)えるかな。周たるを知らざるなり。俄然(ガゼン)として覚(さ)むれば、則(すなわ)ち??然(キョキョゼン)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為(な)れるか、胡蝶の夢に周と為(な)れるか。周と胡蝶とは、則ち必ず分(ブン・けじめ)有らん。此れを之れ物化(ブッカ)と謂(い)う。

 いつのことだったか、荘周(ソウシュウ)は夢のなかで一匹の胡蝶(コチョウ)となっていた。ひらひらと飛びまわる蝶になりきって、楽しく心ゆくままに空を舞っていた。そして自分が荘周であることに気づかなかった。

 ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく自分は荘周である。いったい、この荘周が胡蝶となった夢を見ていたのか、それとも、今までひらひらと舞っていた胡蝶が夢のなかで今、荘周となっているのであろうか。自分にはさっぱりわからない。

 けれども、世間の常識では、荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるだろう。それにもかかわらず、その区別がつかないのはなぜだろうか。

 ほかでもない、これが万物の変化というものだからである。



 彼には結局、今までの胡蝶であった夢が本当の現実なのか、今人間である現実が実は夢なのか、さっぱり分からない。しかしそれがいったい自己にとってどうだというのであろう。
 ・・・(中略)・・・
 実在の世界では、夢もまた現実であり、現実もまた夢であろう。荘周もまた胡蝶であり、胡蝶もまた荘周であろう。一切存在が常識的な分別のしがらみを突きぬけて、自由自在に変化しあう世界、いわゆる物化の世界こそ実在の真相なのである。
 人間はただその万物の極まりない流転のなかで、与えられた現在を与えられた現在として、楽しく逍遥すればよい。
 目ざむれば荘周として生き、夢みれば胡蝶としてひらひら舞い、馬となれば高く嘶(いなな)き、魚となれば深くもぐり、死者となれば静かに墓場に横たわればいいではないか。あらゆる境遇を自己に与えられた境遇として逞しく肯定してゆくところに、真に自由な人間の生活がある。絶対者とは、この一切肯定を自己の生活とする人間にほかならないのだ。(福永光司)

 荘子にとっては、夢も現実も、それを「分有り」とみるのは人間の分別であって、実在の世界では、いわゆる夢も、いわゆる現実も、道 ─ 真実在 ─ の一持続にすぎない。自己と胡蝶とは確かに同じ物ではないが、そうかといって一を夢とし、一を現実とする必要はどこにもないのである。
 ・・・(中略)・・・
 荘子はこの生きたる渾沌のなかで、与えられた自己の現在を自己の現在として逍遙する。美もまたよく、醜もまたよく、生もまたよく、死もまたよく、夢もまたよく、現実もまたよく、人間であることもまたよく、胡蝶であることもまたよい。一切の境遇をよしとして肯定する荘子は、この篇の冒頭の南郭子?(ナンカクシキ)とともに、万籟のひびきを天籟として聞いているのである。(福永光司)

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栩栩然(ククゼン)
 飛ぶ羽のように自由で愉快なさま。嬉しげに楽しむありさま。
 「栩」・・・ 「木+音符羽」で、羽のように葉の飛び散る落葉樹。
 

??然(キョキョゼン)
 はっと我にかえるさま。
 「?」・・・ 会意兼形声。「艸+(音符)遽(キョ・はっとする、不安定に動く)」。
 「??」・・・ ぎょっとして悟るさま。
 「?然」・・・ はっとするさま。


物化
 万物が変化すること。

 [養生主第三(1)]・[荘子:内篇の素読]



荘子:斉物論第二(35) 惡識所以然!惡識所以不然!

2009年01月05日 00時09分33秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(35)

 罔兩問景曰:「曩子行,今子止;曩子坐,今子起。何其無特操與?」景曰:「吾有待而然者邪?吾所待,又有待而然者邪?吾待蛇?蜩翼邪?惡識所以然!惡識所以不然!」

 罔両(モウリョウ)、景に問いて曰わく、
 「曩(さき)には子(シ)行き、今は子(シ)止(とど)まれり。曩(さき)には子(シ)坐(ザ)し、今は子(シ)起(た)てり。何ぞ其れ特操(トクソウ・さだまれるみさお)無きや」と。
 景(かげ)の曰わく、「吾れは待(ま)つ有りて然(しか)る者か。吾が待つ所も、又(また)待(ま)つ有りて然(しか)る者か。吾れは蛇?(ダフ・へびのうろこ)・蜩翼(チョウヨク・ひぐらしのはね)を待(ま)つか。悪(いず)くんぞ然(しか)る所以(ゆえん)を識(し)らん。悪(いず)くんぞ然(しか)らざる所以(ゆえん)を識(し)らん」と。


 ある時、影をふちどる 罔両(モウリョウ・うすかげ)が影に質問した。

 「君は、さっきまで行(ある)いていたのに今は立ち止まり、さっきまで坐っていたのに今は起ち上がっている。どうしてそんなに主体性のない動き方をするのだ。あんまり節操がなさすぎるではないか(もっとしっかりしてくれないと、僕まで迷惑するじゃないか)」と。

 すると影が答えた。

 「なるほど、わしは頼るところ、つまり形(人間の肉体)につき従い、それが動くままに動いているのかもしれない。だが、わしがつき従っている形そのものも、また別に頼るところがあり、その何ものかに従って動いている動いているのではあるまいか。わしは、蛇(へび)の腹のうろこや蝉(せみ)の羽のようなはかないものを頼りにしていることになるのだろうか。
 自然の変化のままに従っているわしにとっては、なぜそうなるのかも分からないし、なぜそうならないのかも分からない」と。



 一切存在が自生自化する実在の世界では、形も影も罔両も、ただ自然として存在し、ただ自然として変化するのであって、そこには何らの因果関係もなく、互に他に依存することもないのである。荘子はこの万象の自生自化を、常識が最も密接な相対関係に在ると考える影と形と罔両との問答に借りて説明する。(福永光司)

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罔兩(モウリョウ)
 うすかげ。影のまわりに生ずる薄いかげ。影をふちどる淡いかげ。(それは影に従って動く)


?
 ■音
  【ピンイン】[fu4]
  【漢音】フ 【呉音】ブ
  【訓読み】うろこ
 ■解字
  会意兼形声。「虫+(音符)付(ぴったりとくっつく)」。
 ■意味
  うろこ。へびの下腹部のうろこ。「蛇?(ダフ)」




荘子:斉物論第二(34) 忘年忘義,振於無竟,故寓諸無竟

2009年01月04日 12時31分17秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(34)

 「何謂和之以天倪? 曰。是不是,然不然。是若果是也,則是之異乎不是也亦無辯;然若果然也,則然之異乎不然也亦無辯。化聲之相待,若其不相待。和之以天倪,因之以曼衍,所以窮年也。忘年忘義,振於無竟,故寓諸無竟」

 「何をか之を和するに天倪(テンゲイ)を以てすと謂うや。曰わく、是(ゼ)と不是(フゼ)とあり、然(ゼン)と不然(フゼン)とあり。是(ゼ)、若(も)し果たして是(ゼ)ならば、則ち是(ゼ)の不是(フゼ)に異(こと)なること、亦(また)弁(ベン・あげつらうまでも)無からん。然(ゼン)、若(も)し果たして然(ゼン)ならば、則ち然(ゼン)の不然(フゼン)に異なること、亦(また)弁(ベン・あげつらうまでも)無からん。化声(カセイ・よしあし、あげつらい)の相(あ)い待(ま)つことは、其の相い待たざるが若(ごと)し。之を和するに天倪(テンゲイ)を以てし、之に因(よ)るに曼衍(マンエン・かぎることなき)を以てするは、年(よわい)を窮(きわ)むる所以(ゆえん)なり。年(よわい)を忘れ、義(ギ・よしあし)を忘れて、無竟(ムキョウ・かぎりなきせかい)に振(ふ)るう(振=はばたく)。故に諸(これ)を無竟(ムキョウ・かぎりなき)に寓(グウ・いこう)す」と。

 是非の対立は、その解決が言論心知の立場で求められる限り、当事者にも第三者にも不可能であって、そこでは対立はさらに対立を生み、ただ無限の喧噪が精神の果てしない消耗を強要するだけである。だからもし、人間がこのような精神の果てしない消耗を本来の安らぎに全うしようと思えば、言論心知による解決の立場を捨てて、是非の対立を天倪(テンゲイ)によって和解させるほかない。(福永光司)

 「天倪(テンゲイ)とは既に述べた天鈞(テンキン)と同じ意味であるが、この天倪(テンゲイ)すなわち絶対の一によって是非の対立を和解させるとはいかなる意味か。

 常識の立場では是は不是と対立し、不是は是と対立する。しかし彼らの是とするものがもし絶対の是であるならば、それは不是とは相容れないものであるから、不是とする議論は起こるはずがない。にもかかわらず、一方に是を否定する不是の立場が存在し得るということは、その是が絶対でないことを示すものではないか。また世俗の立場では「然り」はこれを否定する「然らず」と対立させられるが、彼らの「然り」とするものが絶対に「然る」のであれば、その絶対の「然り」は、「然らず」と否定する立場とは相容れないものであるから、「然らず」とする議論は起こるはずがないのである。そして「然らず」と否定される「然り」は絶対の「然り」であるとはいえなくなる。

 このように、是と不是、然と不然は、その相互否定のなかで、限りない循環を空(から)回りする。(福永光司)

  ”化声”すなわち、この限りない循環(変化)を繰り返す是非の議論は、全く相対的なものであり、それが相対的なものである限り、その対立は”相い待たざるが若(ごと)し”、つまり初めから存在しないのと同じであるといわなければならない。

 こうして歳月を忘れ(死生にとらわれず)、是非の対立を忘れ、無限の世界に逍遥することができる。これゆえにこそ、いっさいを限界のない世界、対立のない境地におくのである」と。

 絶対者とは、この限りなき世界を自己の住みかとする存在 ─ 「無竟(ムキョウ)に身を寓(お)く者」 ─ にほかならない。(福永光司)

 長梧子はこういって彼の長い説明を結んだ。

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化聲之相待 ・・・ 所以窮年也
 この二十五文字は、「荘子集解」ではこの節の冒頭に置く。金谷治注にも、「この二十五文字は、もと下文の「忘年忘義」の句の上にあるが、文意の連続がよくない。いま呂恵卿の節によった宣穎『南華真経解』本によって移しかえた」とある。
 しかし、ここでは原文に従う。


天倪(テンゲイ)
 万物斉同の理。すべての対立が平衡を得て、あるがままに存在できるような自然の道理。


曼衍(マンエン)
 無限のひろがり。無限の変化。ずるずるとのびて広がるさま。
 「境界秩序の確定されていないこと。すなわち”未だ始めより封(ホウ)あらざる”境地であるが、是非の対立を天倪すなわち絶対の一によって調和し、心知の分別を曼衍すなわち判断以前の未始有封の境地に渾沌化するところに、真に安らかな人間精神の解放があるのである。”年を窮むる”─ 与えられた自己の天寿を全うする ─ ゆえんなのである」(福永光司)




荘子:斉物論第二(33) 然則我與若與人俱不能相知也

2009年01月04日 00時34分27秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(33)

 「既使我與若辯矣,若勝我,我不若勝,若果是也?我果非也邪?我勝若,若不吾勝,我果是也?而果非也邪?其或是也?其或非也邪?其?是也?其?非也邪?我與若不能相知也。則人固受其?闇,吾誰使正之?使同乎若者正之?既與若同矣,惡能正之!使同乎我者正之?既同乎我矣,惡能正之!使異乎我與若者正之?既異乎我與若矣,惡能正之!使同乎我與若者正之?既同乎我與若矣,惡能正之!然則我與若與人?不能相知也,而待彼也邪?

 「既に我れと若(なんじ)とをして弁ぜしめんに、若(なんじ)の我れに勝ち、我れの若(なんじ)に勝たざれば、若(なんじ)は果たして是(ゼ)にして、我れは果たして非(ヒ)なるか。我れの若(なんじ)に勝ち、若(なんじ)の吾(わ)れに勝たざれば、我れは果たして是(ゼ)にして、而(なんじ)は果たして非(ヒ)なるか。

 其れ或いは是(ゼ)にして其れ或いは非(ヒ)なるか。其れ?(とも)に是(ゼ)にして、其れ?(とも)に非(ヒ)なるか。我れと若(なんじ)とは相い知ること能わざるなり。

 則(すなわ)ち人固(もと)より其の?闇(タンアン・くらやみ)を受けん。

 吾れ誰にか之を正さしめん。若(なんじ)に同じき者をして之を正さしめんか。既に若(なんじ)と同じければ、悪(いず)くんぞ能く之を正さん。我れに同じき者をして之を正さしめんか。既に我れと同じければ、悪(いず)くんぞ能く之を正さん。

 我れと若(なんじ)とに異なる者をして之を正さしめんか。既に我れと若(なんじ)とに異なれば、悪(いず)くんぞ能く之を正さん。我れと若(なんじ)とに同じき者をして之を正さしめんか。既に我れと若(なんじ)とに同じければ、悪(いず)くんぞ能く之を正さん。

 然らば則ち我れと若(なんじ)と人と、?(とも)に相い知る能わざるなり。而(しか)るに彼れを待たんや


 長梧子(チョウゴシ)はさらに語をついだ。

 「(もう少し、この判断の相対性について分析してみよう)

 もし私とお前とが、あるテーマについて、その是非を議論をしたとする。その場合に、もしお前が私に勝ち、私がお前に負けたとすれば、お前が是であり私が非であるということになるのであろうか。もし私がお前に勝ち、お前が私に負けたとすれば、私が正しくてお前が間違っているということになるのであろうか。

 お前と私とのどちらか一方が正しくて、どちらか一方が間違っているということになるのであろうか。あるいは両方とも正しいか、もしくは両方とも間違っているということになるのであろうか。しかし、これは議論の当事者であるお前と私には決定をくだすことができない問題である。

 ところで、当事者であるお前と私とに決定できないとすれば、第三者の判定を待つということになるが、第三者の立場にある人間も、真っ暗闇のわけのわからぬ事態を引き受けることになるだろう。

 それでは、どのような人間に正しい判断を頼めばよいのであろうか。お前と私との是非を誰か第三者に判定させようとしても、それは不可能で、もし判定させようとする第三者が、お前と同じ意見であれば、お前と同じ意見の人間なのだから、公正な判定ができるはずがない。私と同じ意見であれば、私と同じ意見の人間なのだから、公正な判断ができるはずがない。

 かといってまた、私とお前とのどちらとも意見を異にする人間に判定させれば、どちらとも意見を異にするから、やはり公正な判定ができるはずがない。逆にまた、私とお前とのどちらとも意見を同じくする人間に判定させるとしても、これは私ともお前とも同じなのだから、やはり公正な判定ができるはずがない。

 とするならば、私にも、お前にも、第三者にも、是非を判定することはできないのだ。これ以上誰に判定を期待することができようか

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?闇(タンアン)
 まっくらやみ。 ここでは、解明しがたい難問題。
 「?」 ・・・ 「黒+(音符)甚(ふかい、ひどい)」
 「舊邦の?闇を望む」(楚辞・九歎)




荘子:斉物論第二(32) 且有大覺而後知此其大夢也

2009年01月03日 16時14分52秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(32)

 「夢飲酒者,旦而哭泣;夢哭泣者,旦而田獵。方其夢也,不知其夢也。夢之中又占其夢焉,覺而後知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也,而愚者自以為覺,竊竊然知之。君乎,牧乎,固哉!丘也與女,皆夢也;予謂女夢,亦夢也。是其言也,其名為弔詭。萬世之後而一遇大聖,知其解者,是旦暮遇之也」

 「夢に酒を飲む者は、旦(あした)にして哭泣(コッキュウ)し、夢に哭泣(コッキュウ)する者は、旦(あした)にして田猟(デンリョウ)す。其の夢みるに方(あた)りては、其の夢なるを知らざるなり。夢の中に又(ま)た其の夢を占い、覚(めざ)めて後に其の夢なるを知る。且(か)つ大覺(ダイカク)有りて、而(しか)る後に、此れ其の大夢(タイム)なるを知るなり。而(しか)るに愚者は自ずから以て覚(めざ)めたりと為し、竊竊然(セツセツゼン)として之を知れりとし、君(きみ)とし、牧(ボク)とす。固(コ・かたくな)なるかな。丘と女(なんじ)と皆夢なり。予(わ)れの女(なんじ)を夢と謂うも亦夢なり。是(こ)れ其の言や、其の名を弔詭(チョウキ)と為す。万世の後にして、一(ひと)たび大聖の、其の解(カイ)を知れる者に遇(あ)うも、是(こ)れ旦暮(タンボ)に之に遇うなり」と。

 長梧子(チョウゴシ)の言葉は、なおつづく。

 「夢の中で酒を飲み歓楽を尽くした者は、一夜あくれば、悲しい現実に声をあげて泣き、逆にまた悲しい夢を見て哭(な)き声を立てた者も、朝になればけろりとして楽しい狩猟にでかけてゆくこともある。夢みている最中には、夢が夢であることも分からず、夢の中でさらに夢占いをする場合さえあるが、目がさめて始めて、それが夢であったことに気がつくのだ。

 (多くの人間はとらわれた人生を夢のごとく生き、夢のごとき人生のなかで、なお見果てぬ夢を追っている。しかしそれが夢であることに気づいている人間が果たして幾人あるであろうか ─ 福永光司

 夢が夢であることに気づくためには、大いなる覚醒がなければならない。大いなる覚醒、すなわち絶対の真理に刮目(カツモク)した者のみが、大いなる夢から解放されるのである。しかるに、愚かなる世俗の惑溺者たちは、自己の夢を覚めたりとし、こざかしげに知者をもって自ら任じ、己れの好む者を君として尊び、己れの憎む者を奴隷のごとく賤しむ愛憎好悪の偏見に得々としている。彼らの救いがたい頑迷さよ。孔子もお前も、みんな夢を見ているのだ。そして、「お前は夢を見ている」といっているこの私も、ともに夢を見ているのだ。

  ところで、このように一切を夢なりと説く私の言葉を”弔詭”(チョウキ)すなわち、この上なく世俗と詭(ことな)った奇妙きわまる話というのである。しかし、この話の意味が分かる絶対者は、恐らく何十万年に一人出会えるか出会えないかぐらいであろう。何十万年に一人出会えたとしても、その遭遇は日常明け暮れに遭遇しているといってもいいほど、極めて稀なのだ」と。

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田獵(田猟)
 「獵」は「猟」の旧字。
 畋猟。田狩(デンシュウ)、かり。狩猟。  「畋」・・・ 狩をする。「畋漁(デンギョ)」


竊竊然(セツセツゼン)
 小賢(こざか)しげに振る舞うありさま。


君乎牧乎
 郭象によれば、「君」=「貴」、「牧」=「賤」(牧圉・牛飼い)で、自己の愛憎好悪によって本来一つである万物を、是と非に区別し、貴と賤に差別すること。


弔詭(チョウキ)
 「弔」は「至」と同じで、この上ないの意。「詭」は、ふつうのものとちがうさま。特異であるさま。グロテスクなものをいいう。「詭形(キケイ)」


萬世之後
 「世」は三十年。万世に一度出会っても、それは日常的に頻繁に出会っているといってもよいほど珍しいという意味。
  「堯舜は千世にして一たび出ずるも、是れ方を比(なら)べ、踵(くびす)を随(つ)いで生まるるなり」(韓非子)




荘子:斉物論第二(31) 予惡乎知説生之非惑邪!

2009年01月02日 11時27分24秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(31)

 「予惡乎知?生之非邪!予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪!麗之?,艾封人之子也。晉國之始得之也,涕泣沾襟;及其至於王所,與王同筐牀,食芻豢,而後悔其泣也。予惡乎知夫死者不悔其始之?生乎?」

 「予(わ)れ惡(いず)くんぞ生を(よろこ)ぶことの(まど)いに非ざるを知らんや。予(わ)れ惡(いず)くんぞ死を悪(にく)むことの、弱喪(ジャクソウ)して帰るを知らざる者に非ざるを知らんや。麗(リ)の?(キ)は、艾(ガイ)の封人(ホウジン)の子なり。晋国の始めて之(これ)を得るや、涕泣(テイキュウ)して襟(えり)を沾(うるお)せり。其の王の所に至り、王と筐牀(キョウショウ)を同(とも)にし、芻豢(スウカン・スウケン)を食(くら)うに及びて、而(しか)る後に其の泣きしを悔いたり。予(わ)れ悪(いず)くんぞ、夫(か)の死者も、其の始めに生を?(もと)めしを悔くざることを知らんや」と。

 生をぶことが”とらわれの心”ではないと、どうしていうことができようか。私には、世俗の人間の生をび死を憎む気持ちが理解できないのだよ。生を悦ぶというのは、人間の悲しい溺ではないのか。死とは人間が本来の自然に帰ることではないのか。幼少のころ郷里を離れた人間は、永い流浪の生活をするうちに故郷を忘れるが、彼らの死への憎悪こそ、この故郷喪失者の悲劇ではないのか。

 麗姫(リキ)という美人は、艾(ガイ)という土地の防人(さきもり)の娘であったが、晋の国で始めて彼女を手に入れた時、麗姫は他国へ連れ去られる自己の悲しい運命を、さめざめと、襟もしとどに泣き濡れた。ところが、いよいよ晉の宮殿のなかに連れ込まれ、王と立派なベッドをともにし、甘(うま)いご馳走を食べるようになってからは、その幸福に随喜して、昔流した涙を後悔したということだ。

 生と死の変化も、これと同じでないと誰が保障できよう。死者だって、死んだ当初に、もっと生きたいと泣き喚(わめ)いたおのれを後悔するかもしれないのだ。

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(よろこぶ)
  「脱・悦・説・奪」・・・(抜けでる、ほぐす)の家族
  
 「学而時習之、不亦説乎=学びて時にこれを習ふ、亦た説ばしからずや〔論語・学而〕



 ■音
  【ピンイン】[huo4]
  【呉音】ワク 【漢音】コク
  【訓読み】まどう、まどわす、まどい
 ■解字
  会意兼形声。
  或は、「囗印の上下に一線を引いたかたち(狭いわくで囲んだ区域)+戈」の会意文字で、一定の区域を武器で守ることを示す。
  惑は「心+音符或」で、心が狭いわくに囲まれること。⇒或
 ■意味
  心が狭いわくにとらわれ、自由な判断ができないでいる。
  一定の対象や先入観にとらわれる
 「まどう」という訓にまどわされてはいけない。「まどう」という訓にとらわれるのも「惑」である。

 「四十而不惑=四十にして惑(とらわれ)ず」というのも、「あれこれとまよわなくなった」ということではない。心が狭いワクとらわれないようになって、しだいに自由な境地へと進むこと。
 「卑弥呼、事鬼道、能惑衆」を「能く衆を惑(まどわ)す」などと読むと誤解を生ずる。卑弥呼はみんなの心を「とらえた」。民衆は、卑弥呼の魅力にひきつけられ、そのとりこになった、すなわち心服した。

 「惑溺」 ・・・ よくない方面にはまりこんで、正常な判断力がなくなる。


弱喪(ジャクソウ)
 「弱」は「若」(ジャク)と同じ。幼いこと。
 「喪」は失うの意。故郷を離れ、他国に行くこと。
 人間は生のないところから生まれてきたのであるから、死は故郷である。
 郭注に「若くしてその故居(もとのすみか)を失うものをいう」とある。


?
 ■音
  【ピンイン】[qi2]
  【漢音】キ 【呉音】ゴ,、ギ
  【訓読み】もとめる
 ■解字
  会意兼形声。
  「艸+單+(音符)斤(きる、刈る)」。
 ■意味
  (1)刃物で刈るやまぜり。《同義語》⇒芹。
  (2)もとめる(もとむ)。祈りもとめる。
   祈に当てた用法。
    「所以?有道=有道を?むるゆゑんなり」〔呂氏春秋・振乱〕