漢字家族BLOG版(漢字の語源)

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荘子:内篇(斉物論篇)もくじ

2008年11月09日 08時39分36秒 | もくじ
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荘子:内篇の素読(もくじ)

荘子集解:清 王先謙
斉物論篇

  斉物論第二(1)
 女聞地籟而未聞天籟夫

  斉物論第二(2)
 而獨不見之調調 ,之刁刁乎

  斉物論第二(3)
 敢問天籟

  斉物論第二(4)
 大知閑閑,小知

  斉物論第二(5)
 其有真君存焉

  斉物論第二(6)
 受其成形,不亡以待盡

  斉物論第二(7)
 夫隨其成心而師之,誰獨且無師乎

  斉物論第二(8)
 道惡乎隱而有眞僞, 言惡乎隱而有是非

  斉物論第二(9)
 謂之道樞

  斉物論第二(10)
 天地一指也,萬物一馬也

  斉物論第二(11)
 無物不然 ,無物不可

  斉物論第二(12)
 已而不知其然謂之道

  斉物論第二(13)
 是之謂兩行

  斉物論第二(14)
 古之人,其知有所至矣

  斉物論第二(15)
 唯其好之也 ,以異於彼

  斉物論第二(16)
 為是不用而寓諸庸

  斉物論第二(17)
 雖然 ,請嘗言之

  斉物論第二(18)
 其果有謂乎、其果無謂乎

  斉物論第二(19)
 萬物與我為一(万物も我れと一たり)

  斉物論第二(20)
 無適焉 ,因是已!

  斉物論第二(21)
 夫道未始有封

  斉物論第二(22)
 辯也者、有不見也

  斉物論第二(23)
 五者园而幾向方矣

  斉物論第二(24)
 此之謂葆光

  斉物論第二(25)
 而況之進乎日者乎!

  斉物論第二(26)
 子知物之所同是乎?

  斉物論第二(27)
 吾惡能知其辯!

  斉物論第二(28)
 死生無變於己,而況利害之端乎!

  斉物論第二(30)
 萬物盡然,而以是相蘊

  斉物論第二(31)
 予惡乎知説生之非惑邪!

  斉物論第二(32)
 且有大覺而後知此其大夢也

  斉物論第二(33)
 然則我與若與人倶不能相知也

  斉物論第二(34)
 忘年忘義,振於無竟,故寓諸無竟

  斉物論第二(35)
 惡識所以然!惡識所以不然!

  斉物論第二(36)
 昔者莊周夢為胡蝶


  逍遥遊篇もくじ
  養生主篇もくじ


荘子:斉物論第二(15) 唯其好之也 ,以異於彼

2008年11月09日 08時32分02秒 | 漢籍
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荘子:斉物論第二(15)

 有 成 與 虧 , 故 昭 氏 之 鼓 琴 也 ; 無 成 與 虧 , 故 昭 氏 之 不 鼓 琴 也 。 昭 文 之 鼓 琴 也 , 師 曠 之 枝 策 也 , 惠 子 之 據 梧 也 , 三 子 之 知 幾 乎。 皆 其 盛 者 也 , 故 載 之 末 年 。 唯 其 好 之 也 ,以 異 於 彼 , 其 好 之 也 , 欲 以 明 之 。 彼 非 所 明 而 明 之 , 故 以 堅 白 之 昧 終 。而 其 子 又 以 文 之 綸 終 , 終 身 無 成 。 若 是 而 可 謂 成 乎 , 雖 我 亦 成 也 , 若 是 而 不 可 謂 成 乎 , 物 與 我 無 成 也 。


 成ると虧(か)くると無きは、故(もと)より昭氏(ショウシ)の琴(こと)を鼓せざるなり。昭文(ショウブン)の琴を鼓するや、師曠(シコウ)の策(サク・ことじ)を枝(ほどこ)すや、恵子の梧(ゴ・つくえ)に拠(よ)るや、三子の知は幾(つく)せり。皆、其の盛んなる者なり。故(ゆえ)に之(これ)を末年に載す。唯(た)だ其の之を好むや、以て彼れに異なる。其の之を好むや、以て之を明らかにせんと欲す。彼れ明らかにする所に非ざるに、而(しか)も之を明らかにせんとす。故に堅白(ケンパク)の昧(マイ・くらき)を以て終わりる。而して其の子また文の綸(論・あげつらい)を以て終わり、身を終うるまで成ること無し。是(か)くの若(ごと)くにして成ると謂うべきか、我と雖(いえど)も亦た成るなり。是(か)くの若(ごと)くにして成ると謂うべからざるか、物と我と(与・ともに)成る無きなり。

 昔の琴の名手である昭文が琴をかきならせば、そこには確かに妙なるメロディーが成立する。しかし彼の手に成立するメロディーの背後には、彼の手に成立しない無限のメロディーが存在し、彼のメロディーはその無限なるメロディーの一つにすぎないのである。彼がいかに努力しようとも、彼の手には常にかきならし切れない無限のメロディーが残されている。彼の手は一つのメロディーを「成す」ことによって無限のメロディーを「虧(うしな)」っているのであり、この意味において、彼の「成」は同時に「虧」であるともいえる。だから、すべてのメロディーをすべてのメロディーとして成り立たしめるためには、メロディーなきメロディー(無声の声)を聴くほかはない。メロディーなきメロディーとは、琴をかきならさぬということである。─ 「成(セイ)と虧(キ)と無きは故(もと)より昭氏の琴を鼓(コ)せざればなり」
 このことは同じく昔の音楽家である師曠(シコウ)、論理学者である恵施(ケイシ)についてもいえよう。昭文が琴をかきならし、師曠が瑟(シツ・琴の一種)の調べをととのえ、恵施が几にもたれて詭弁をふるうさまは、いずれも人知の極至であって、これらは確かに人間の作為の偉大さを示すものであり、さればこそまた、物の本にも書き記されて後の世まで伝えられるのである。─ 「故に之を末(のち)の年(よ)に載(しる)す」
 しかし、なるほど彼らは道を好み芸を愛する者ではあるが、「彼」すなわち真に道を好む絶対者とは同じくない。というのは、彼らは道を好みながら、その道を人間の作為(知と巧)で究め明らかにしようとするが、道とは本来人間の知巧を超えたものであり、人間の作為では明らかにすることのできないものであるから、彼らは、不可能を可能とする誤謬の上に立っているのである。─ 「明らかにする所に非ずして之を明らかにする」ここに、彼らの倒錯がある。
 だから、恵子のように「堅白同異(ケンパクドウイ)」の弁などという愚にもつかない議論を、倦(あ)きもせず死ぬまで繰り返すのであって、たんに彼のみか、その論理学を受け継いだ彼の子もまたついに道を悟ることなく、その生涯を空しく終っているのである。要するに彼らのいとなみは、その偉大さにも拘わらず、至高至大の道の前では殆んど無にもひとしい。だから、若(も)し、この無にもひとしい昭文と師曠と恵子の三人のいとなみが「成」─ 道を究めたもの ─ といえるなら、我々凡俗と雖もまた「成」といえるであろうし、逆にまた、もしこの三人の偉大ないとなみでさえ「成」といえないとすれば、いかなる物、いかなる人間にも「成」ということはあり得ないのである。

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枝策(シサク)
 「師曠之施瑟柱」『淮南子』氾論訓)
 「枝」─ ささえる
 「策」─ 瑟の絃を支える竹の柱
 枝策=瑟柱(ことじ)を施す、琴の調弦をする


據梧(キョゴ・つくえによる)
 机にもたれること
 「據槁梧」(徳充符篇)
 「倚於槁梧」(天運篇)



 尽と同じ。つくすと読む。(宋の林希逸の説)


其子又以文之綸終
 「綸」は「論」の借字。(馬叙倫の説)