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人物評は主観的になる

2021-01-02 13:21:44 | 歴史
ビザンツ帝国のマヌエル2世について触れましたが、そもそも歴史書自体が事実をありていに記録したものではなく、恣意的に特定の目的をもって書かれたものだということを認識しておくべきでしょう。

ましてや人物評となると評価する人の主観による部分が当然大きなウェイトを占めることになります。

で、ビザンツ人を支えた精神的支柱としてローマ帝国の後継者であるという自負とキリスト教があげられますが、でしたら聖書の人物評について考えてみたいと思います。

最初に断りを入れておかなければならないのは、聖書の歴史書も例に漏れずありていの歴史的事実がそのままバランスよく記録されているのではなく宗教的な目的をもって恣意的に編纂されていることを指摘しておく必要があります。史実性については伝承をもとに編纂されていますから、
①史実そのものが記されている
②史実をもとに話が盛られている
③伝説・想像・神話の類
のどれかではなく、混在した記載となっているとみるのが妥当でしょう。
創世記は論外として後になるほど伝承からの編纂ではなく直接的な記載も増えてきますので史実性が増すのかと言えばそうでもない。エステル記はアケメネス朝ペルシア時代のことを記載していますが、ユダヤ教のプリムの祭りの起源ではあるものの、当時の聖書外の資料からは史実とは認められないでしょう。ただし、話の種となる何らかの出来事があった可能性自体は否定できません。一方で創世記のノアの箱舟はギルガメッシュの叙事詩に類似した話が出ることから、起きた出来事がそのまま記載された史実とするのは無理があっても、古代メソポタミアにおいて大規模な洪水があったことをうかがわせます。

さて、人物評ですが旧約聖書の列王記には北イスラエル王国と南ユダ王国の歴代の王様が出てきますが、聖書本文では賞賛される王とこき下ろされる王がいますが、列王記自体が宗教的な目的をもって編纂されていますので、政治的に王様の能力を史実通りに評価したものではないことを踏まえておく必要があります。

今回テキストはフランシスコ会訳聖書を使いましょう。理由は解説を通じて翻訳を行ったフランシスコ会聖書研究所の人物評がある程度出ているからです。また、聖書各書の史実性に対して一定の言及がされているからです。

聖書本文で特にこき下ろされているのがオムリ王朝の王たちです。一方で解説では政治的に一押しはオムリ王です。実際にメシャの碑文などで他民族から見たオムリ王の業績は彼が有能であったので、列王記の解説のみならず本文注釈に「オムリは、恐らくイスラエルの最も有能な王で、国外でも有名であった。オムリはメシャの碑文で言及されており、アッシリアの年代記で数回言及されている」とオムリの有能さを示唆している。本文では主の前に悪を行ったと手短にこき下ろされているだけである。ウィキペでは一定の評価をしつつも事績の解説は少ない。一方で本文では善良な王として多くの記述を割いている王として、アッシリアに朝貢することで捕囚を逃れたヒゼキヤと、アッシリアから新バビロニアへの転換期の周辺の大国の干渉が少ない時期に宗教改革を行ったヨシヤがある。ただ、解説では「その支配が政治的には取るに足りない」と一刀両断にされている。ただし、この聖書は新共同訳が始まる前にはローマ・カトリック教会公用の聖書となることを予定して翻訳しているので、史実との比較や政治的側面あるいは記述間の矛盾については批判的な視点から事実を焙ろうとする努力の痕跡が見えるが、教義については当然トーンダウンすることになる。ウィキペではヨシヤは取るに足りないとすることで一致するがヒゼキヤについてはそれなりの評価がうかがえる。

で、「時代の制約」という側面から見ると私はアッシリアの支配が周辺を覆いつくしているにもかかわらず朝貢することで一定の独立を保ったヒゼキヤ王は国力の制約の中でできることを行ったという点で高く評価したい。

ちなみに私が最も無能と断じたい王は北イスラエルでオムリ王朝を滅ぼしたイエフ王であろう。聖書本文ではバアル教を一掃したが心を尽くして主に使えなかった、そしてイスラエルの領土の切り取りが始まったと記載されている。実際は「主に対する私の熱意を見てください」と言いオムリ王家を皆殺しにするしか能のなかったイエフが、オムリ王朝が築いた周辺諸国との均衡を崩して態度を硬化させ侵略を許すようになってしまったってところが実情ではないだろうか。

歴史をレビューするにあたっては、大抵のテキストは編纂する人の主観というフィルターがかかっていることを踏まえる必要がある。ましてや古代の文書は政治的・宗教的に何らかの目的をもって編纂されているとみてよい。ただし、そのことをもって資料に価値がないと断じられるわけではない。また、今なお世界のベストセラーになっている聖書について、科学的・史実性に矛盾が見られ倫理的にも現代人の価値観にそぐわないものであっても、歴史的にはかなり重要な資料であることには違いないし、その教えは今なお褪せることなく多くの人々の精神的支柱となっていることも踏まえておく必要がある。

って長々書きましたが、結局歴史を客観的に俯瞰することは不可能で、レビューすること自体が主観の産物以外の何物でもないってことですね。ってことで、このブログも例に漏れず歴史カテゴリーのエントリーはまかり間違いなくブログ主の主観に基づくものなのです。







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