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明日は明日の風が吹く

明日の事を今日悩んだって何にも解決しない
まぁ何とかなるさ!

その後のお香マイスターの運命

2023-04-25 21:46:13 | 歴史

以前にお香の達人こと聖書に出てくるニコデモの話を書きましたが、今のネットツールの時代ならニコデモのファリサイ人仲間のLINEのグループチャットやSNSは炎上、メル凸の嵐はやまないことでしょう。仲間内で磔刑ザマァwなんて盛り上がってる最中にキリストの埋葬に間に合うように没薬のキロ買いに奔走してたわけですから。当時はもちろんAmazonやアラビア雑貨のネットショッピングなんて無いわけですから、キリストの磔刑の日にこの人がしてた地味な苦労は想像に難くはありません。

 

なんてことを思ってたら、リアルな世界ではこのお香マイスターはファリサイ人の仲間内からメッタ打ちにされて命まで取られてたらしいです。

 

で、8月3日に聖ニコデモの日なんてのがあるらしいです。

 

この日にニコデモのアロエと没薬の調達を偲んで、アロエヨーグルトを食べながら新しいお香の試し焚きをしてみますか。

 

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町石

2023-04-15 08:51:04 | 歴史

高野山の参道で交通事故があったみたいですね。

単独事故で運転していた人も軽傷で済んで何よりです。

この事故で参道の町石が破壊されたようです。ブラタモリでタモリさんが近江ちゃんと高野山を探索してたのを思い出しますが、ふもとの紀の川沿いの慈尊院から大伽藍まであと何町あるか距離を教えてくれるという昔の優れもので世界遺産を構成する遺跡でもあります。

対象が何であれカーブの運転は慎重を期するべきなのは当然として、ぶつけた先が世界遺産とは運が悪いとも思えます。高野山は何度か車で上りましたが、運転は慎重を期さないと見通しの悪いカーブがハンパなく多い。山門を超えると一気に開けた街に入るのですが、その近辺みたいで油断もあったのでしょう。物損事故としては国宝・重文・世界遺産とか都会の道端の地中送電設備をやっつけるのは避けたいところ。任意保険も、もしもに備えて対物無制限にした方が現代社会を自動車で運転するときにはいいでしょう。

気になるのはニュースのコメントで「死んでお詫びしてもそれで済む話ではない」などとありますが、世界遺産であろうが何であろうが所詮は物体、人間の命に代えてでも守るべきものではないと言っておきましょう。

 

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地味にお香の達人

2023-04-09 16:03:11 | 歴史

お香というものは極めようと思えばきりがない。

私が買い付けるのは京都の松栄堂ですが、ここは永平寺御用達でもあります。

永平寺の門前町でもお土産に線香を買えますが、日本のお香の本家本元といえば松栄堂だといえるでしょう。

ここで乳香を買ったときは線香のスタイルでした。

後にアマゾンで樹脂香を買ったんですが、やはりいい値段がします。さらに没薬となると10g単位でもめちゃめちゃ高い。今回はそんな没薬をキロ買いしたおっさんの話をしましょう。

出典は

聖書です。お香の達人の名前はニコデモ。当時のユダヤ教では民衆レベルで支持が多かったと思われるファリサイ派で地位の高そうな人です。

この人、キリストの処刑の日に皆さん罵声を浴びせるか悲しむか、兎に角キリストの市中引き回しと処刑を見に集まってるなかで、何をしてたかといえば没薬とアロエか沈香をキロ買いするのに奔走してたわけです。

新約聖書を読めばわかると思いますが彼が属するファリサイ派とキリストが始めたナザレ派(ここから世界最大の宗教キリスト教が出てきます)は少くとも良好な関係とは言えませんし、キリストのファリサイ人批判とファリサイ派のキリストへのあら探しはお互い口を極めてました。

そんな中でキリストを弁護した珍しい種類のファリサイ人でした。

現代社会の出来事ならニコデモのスマホにはファリサイ派のグループチャットで「ナザレのイエス処刑ざまぁw」みたいな着信をかわしつつアマゾンやアラビア関係のネットショップで最短で没薬のキロ買いが可能なところを検索し続けたことでしょうけど、もちろんこの時代にそんなものはありません。

店頭販売でキロで買えるところを探して相当な金額を現金払いで、33キロともなると輸送も大変。そんな中でキリストの埋葬に間に合うように調達できたって冷静に考えるとスゴいとしか言いようがありません。ネットでも没薬のキロ買いってなかなか出来ることではない。

 

ってことでお香マイスターを古典から探すならこのニコデモっておっさんがイチオシですね。

 

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鎖国下の数学

2023-03-12 15:07:32 | 歴史

以前に見逃された幼児が足利家を存続させた話をしました。幼名は永寿王、後に古河公方となる足利成氏ですが彼の兄たちは自害もしくは足利義教によって処刑されています。持氏の遺児を担ぎ上げたのが結城氏朝で敗戦の結果、結城氏は滅亡に向かうかに見えましたが成氏によって再興することが許されます。戦国末期には徳川家康の次男坊 秀康が養子に入って越前松平氏につながっていきます。一方で結城氏の一族で関氏に養子に入った人物が数学の天才で名を関孝和といいます。

生まれたのは寛永年間ですから島原の乱を前後するころ、戦国の完全なる終焉を見据えたころ合いと言えます。活躍したのは綱吉の時代、後の6代将軍家宣となる甲州藩主に仕えそのまま将軍となった家宣に仕えました。同じ6代将軍でも恐怖政治を敷いた室町将軍義教と違ってなかなか出来た人物で、反対意見の排除をしない、新井白石を師として尊敬し師弟の礼儀を将軍になった後も守るけど彼が気に入らない人物を新井白石がいくら排除しようとしても家宣は聞き入れなかったと言います。7代将軍となると室町も江戸もなぜかお子様将軍、ただ最近の研究では室町7代義勝も江戸7代家継も幼少ではあるけど言動はしっかりしていたんじゃないかと言われています。義勝は武家の棟梁たる将軍になるべく帝王学を授けられていて同母弟で公家に育てられて文化人としては一流だけど武家の棟梁としては三流以下で応仁の乱を引き起こした義政とは育ち方が違っていたと言います。一方で家継も家宣の実子で家宣の意向を受けて育っていたなら言動はしっかりしていたんじゃないかと思えます。ただし家宣の難点と言えば尾張宗春にも共通するんですが政治哲学・倫理・価値観が現代人の思考パターンに近く江戸時代の将軍や領主としては不向きだったのかもしれません。ただ、関孝和が家宣に気に入られたなら優れた人物じゃないかと反射的に思ってしまうところもあります。

和算で検索して画像を見るとパズルに近いものがあります。数学の本質がパズルだってことに近世の日本人は分かっていた。数学の授業では公式の暗記や繰り返し演習が主体で考えさせる授業に巡り合いにくいんですが、和算の時代は数学は考えることや解き方の分からないことに自分で答えを出すことにちゃんと価値を見出していたわけです。おおよそ数学で繰り返し演習が必要なのは基本的なことを理解するためであって難問の繰り返し演習は害悪でしかないと思いますから。明治以降に洋算にとってかわられるのは実用性と記号を使うことで少ないスペースに多くの情報を乗せられるってのがあるんでしょう。表意文字を使う私たちにしてみれば少ない漢字で意味を伝えるのは可能で、表音文字を使う人々にしてみれば同じ演算を多くの文字列で表さなければならない。だからこそライプニッツは数学の授業で必ず嫌悪感の対象にされる∑や∫など数学独特の表意文字を作り出していった。しかも私たちのようにもともと表意文字を使って文章を表す側より少ない文字列で多くの算術上の情報を盛り込めた。これも現代人が数学を使って技術上の計算を行うときに利便性がいいので洋算に頼る原因となっていくわけです。

さてさて、関孝和には関数の概念がなかったので微積分学をニュートンやライプニッツより早く見出したとは言えないにしても、面積・体積・経路の長さを細かい要素に分け足し合わせるってのは積分法の本質自体はつかんでいたといえるんじゃないかと思えます。ただ、関数という概念をライプニッツは分かっていたから積分法は微分法の逆の手法と気づけたわけで、多くの曲線に囲まれた面積や体積を厳密に一般化された手法で導出できた。この点では微積分学の太祖はニュートンやライプニッツにあると言えますし、後継者による理論の発達という点では圧倒的に現代数学は彼らの系譜をひいているものと言って差し支えありません。

さらには幕末に近い頃になれば複素平面上の積分論が発達して、産業革命で動力を人力以外で容易に得られた次は自動的に制御する必要に駆られるわけですがその基本理論となる複素関数のモードの計算に必要なラプラスの順逆変換の数学が整ってきて、寛永年間に西洋との接触を限定しつつも西洋に言われるほどは遜色のない文明を発達させてきた江戸期の日本の文明は嘉永年間には西洋に一気に先を走られることになります。足利義教の恐怖政治を潜り抜けた家系から和算の大家が現れたのに対し、複素関数の積分法はフランス革命の恐怖政治を潜り抜けた家系から現れた天才によって大幅な発達を見せます。彼の名はオーギュスタン・コーシー、日本でいえばもう幕末期に近い頃に活躍した人物です。

幕末期にあたるころの洋算の話をする前に、お次は微分・積分・複素関数のちょぼっとしたトリビアに触れておくことにしましょう。

 

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見逃された幼児が血統を守ることになる

2023-02-28 21:15:52 | 歴史

【ゆっくり解説】日本一貧乏なのに勝ち組大名!喜連川藩の謎!!

 

等持院の歴代足利将軍の木像では子供将軍である7代 義勝が目を引きますが、私が注目したのは義勝の父6代義教ですね。歴代の将軍が狸顔なのに対して彼だけが眼光の鋭い狐顔の将軍です。実際に彼の治世は恐怖政治そのもので人々は怯えて暮らしていました。

そんな義教に盾突いたのが関東公方の足利持氏で、関東公方というのが2代目将軍義詮の弟基氏を開祖とする関東にもう一つの幕府があるような状態だったわけです。当然尊氏の血をひいていますので何かあれば将軍家にとって代わろうとするのは何ら不思議なことではありません。そして起こるべくして起きたドンパチが永享の乱だったわけです。この戦は持氏の敗北に終わり息子の義久ともども自害し、他の遺児たちは落ち延びることになるわけですが幕府に不満を持つ結城氏朝が遺児たちを報じてドンパチを仕掛けます。これを結城合戦という訳です。これも義教の勝利に終わり報じられた遺児である春王丸12歳、安王丸11歳は義教の命令で殺害されます。彼らの弟であった永寿王丸はとても幼いので見逃された、義教が殺そうとするがその前に義教が赤松満祐に殺害された(嘉吉の乱)、結城合戦に参加していなかったのどれかの理由で生き延びて元服して成氏と名乗り再興をしようとしますが関東管領家の上杉家や後の関東の覇者北条氏の前に鎌倉にいられず下総古河に逃れ古河公方と呼ばれることになるわけです。この一族の血統を引く喜連川家が15代将軍義昭の後に将軍家は途絶えたあとも尊氏の家を残すわけです。

が、動画を見ると江戸時代はどうもグダグダの領主だったみたいですね。ちなみに遺児を担いだ結城氏ですが合戦で一度滅亡の後、成氏によって再興を許されたみたいです。戦国末期には徳川家康の次男坊の秀康が養子に入って越前松平氏につながってくる。松平姓を名乗っても越前の分家が結城氏の菩提を祀り続けたようです。どうも家康ってのは家庭円満に縁のないおっさんだったみたいで母子ともに処分した信康はもとより秀康とも相性は良くなかったようです。やはり越前藩も財政はグダグダだったみたいで雄藩になるのは松平春嶽が家柄に関係なく有能な人材登用を行ってからで、腹心の橋本佐内や兌換紙幣である藩札の導入によって貨幣流通の総量を御することをやってのけた三岡八郎などの活躍の後の事です。三岡八郎のちに東京府知事(今でいう東京都知事)になる由利公正の財務能力は相当なもので暗殺されるほぼ直前の坂本龍馬が福井を訪れて「三岡ぁ、話したいことが山ほどあるぜよ!」と言ったのも新政府の財政のキーマンと踏んでいたからこそなのでしょう。

 

そんな結城氏の分家には関家があり、江戸時代の和算の大家 関孝和が養子に入っています。この人は鎖国で西洋の情報が閉ざされている中でニュートンやライプニッツとほぼ同時代に彼らに匹敵する理論を展開しています。線分の長さ、面積や体積などを細かい要素に分けて足し合わせる、積分法にたどり着いているわけです。ちなみに積分の使いこなしのセンスを問うときは「積分の定義って何?」と問えばいいでしょう。積分とは連続した要素を無限に細かく分けたときにどうなるかを考えて足し合わせるという作業の事を指します。「積分とは微分の逆である」としか答えられない人は往々にして微積分の使いこなしが弱い傾向がありますね。積分が微分の逆であることは後からライプニッツってって親父が発見したのであって算術としては微分の逆になりますが、定義と意味を知っていなければ使いこなしがどうしてもあやふやになり、物理量を計算するときに「これって微分するんだっけ?積分だったっけ?」などと迷ってしまって理工系のセンスがないことを見抜かれてしまいかねません。

ってことで、次は関孝和と江戸時代の日本の積分計算について述べてみましょう。

 

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ブラック校則は悪くない

2023-02-26 20:03:00 | 歴史

校則の見直しをラップで求めた中学生のニュースが出ていますね。

校則が理不尽だからこそ中学生は意思表示と行動に移れたんじゃないでしょうか。

私たちの世代がやたら若い世代に理解を示す社会も、若い世代が私たち年配に対して従順な社会も住み心地は悪そうですから。

「この頃の若い者は」は古代文明の時代から年配の世代によって語られた常套句です。

変えようとする人々と立ちふさがる人々がいて、ぶつかり合うことが世の中の暴走と停滞を防ぐには必要なことでしょう。

私は若い人の言い分にいちいち理解を示そうと思いませんし、若い人たちは私たちの世代に従順な必要などないし従順であってほしいとも思いません。

 

 

 

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れいわ新選組の評価できるところ

2023-02-23 20:08:59 | 歴史

正直ガーシーはクズと思うし、れいわ新選組は私と真逆の政治的主張をする集団だとは思っている。

が、歴史的にいくつもの災厄を潜り抜けてきたユダヤ人の集団の意思決定の方法に「物事は多数決を行い、多数派の意見を採用する。ただし、全会一致の時はこれを採用しない。」ってのがある。全会一致で決まることと言えばわざわざ評決するまでもないどーでもいーことか、集団が危険な方向に走ろうとしているかのどちらかということを経験的に知っているから全会一致の案件を採用しないのであろう。

 

全会一致を避けるということ、何かが述べられるには反対側からの意見が忌憚なく述べることが出来る環境が担保されているということが集団の健全さを保つうえで必要なことと思うので、自分と真逆の政治的主張を行う集団が一定数存在していること。この2点においてれいわ新選組ってのは一定の存在価値を認めないわけにはいくまい・・・

 

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人は極端を好みがち

2023-02-18 10:17:39 | 歴史

釈尊の「苦行に意味はない」についてつらつら考えていますが、そもそも釈尊はなぜ苦行という普通に考えてみればしたくもないことをわざわざするようになったか・・・

もともと釈迦の名前はゴーダマ・シッダールタといい、インドのとある国の王子でした。何不自由のない暮らしが出来るように環境を整えてもらい、家族にも恵まれて現代風に言えば親ガチャ勝ち組だったわけです。そんな釈尊が生きる、老いる、病を患う、挙句の果てに死ぬという人間の逃れられない苦しみを見たときに、楽しく暮らしていてもやがては虚しさに囚われる運命にあることに気づいてそれらを超越した境地を得ようと苦行に入るわけです。

つまり苦しいことから目を背けて楽しみばかり追い求めても、人間の欲望にはきりがない。飢えの苦しみから逃れたら他に欲しいものが出てきて苦しむし、物質的に満たされるなら次は精神的な苦痛の種を人は見出だすであろう。だったら欲望から目を背けるべく苦行に打ち込もうとしたのかもしれません。

 

しかし苦しみに向かって行っても何も得られない。ほとほと疲れ切った釈尊が悩んでいるそばで竪琴の調律師が弟子に「弦は緩みすぎても締めすぎてもいい音が出ない」と教えるところを耳にして、快楽にふけって弦を緩めすぎても虚しさが募り苦行に打ち込んで弦を締めすぎても何も得られないことを知り、いい思いをしてやろうとか苦しいのを頑張りぬこうとか言った我から発する思いの呪縛を断つべくひたすら菩提樹の下に座り続けて悟りを得るわけですね。

 

偏ったバネを揺らさずに程よい位置に止めることが難しいように人の考えは極端に偏りがち。ましてや人間の集団となると世の中の歪を正そうとして反対方向への歪へとひた走る。個々人では何か変だと感じても集団の動きは止められない。

 

ほどほどが一番と思いつつ、極端に走ることを止められないのは私が悟りに程遠い俗人だからなんでしょうw

 

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苦行をする意味やめる意味

2023-02-15 21:00:36 | 歴史

お釈迦様が苦行をして「苦行は何の意味もない」と明言を述べて苦行をやめて悟りに至るエピソードに見る教訓って・・・

 

苦行をしたからこそ苦行は何の意味もないってことを確信をもって語ることが出来るようになったってのは前に述べたとおりです。

 

つまりは何もしないで努力する人をあざ笑う人よりも、それは意味のない努力かもしれないでもやってみなきゃ意味があるかどうかは分からないじゃないか!と行動と努力に移せる人の方が価値があるってことです。努力する人をあざ笑う人は自分が努力しても何も得られず傷つくことを怖がっているから、努力する人を笑いものにすることで自分を慰めようとしてるだけ・・・。そんな卑怯者が何をぬかそうが気にすることはない。

 

もう一つは、何かを苦しみぬいて答えを出そうとしているときに、その苦行に意味がないのではないかと疑念を抱いたときに多くの人は「ここで苦行をやめると今までやってきたことが無駄になる」と恐れて苦行を続けることにしがみつこうとするんですけど、過去が無駄になるかは知ったこっちゃないけど今の方法を続けても結局何も得られなさそうだと悟ったなら今まで積んだことを手放すことを恐れず進む道を変える勇気を持つこと。そうすれば無駄に思えた過去の努力だって今のより良い道に進むためには必要だったんだって分かってくる。方法が間違ってそうなのに同じ方法にしがみつきたくなるのは苦しんでいる自分に酔っていたいだけ。

 

お釈迦様は苦行する自分に酔っていたいだけのかつての仲間たちが離れ去っても道を変えることを恐れなかった。

 

何気なく聞くエピソードにも教訓はいっぱい込められている。

 

 

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今さら何を・・・

2023-02-11 11:17:56 | 歴史

共産党の党首公選を求めた古参党員の除名騒動であーだこーだと皆さん意見を述べていますが、

彼らの思想の根本にある共産主義、マルクシズムというもの自体がもともと民主主義と相いれない概念だってのは分かりきった話じゃあないですか。

 

共産党がもともと民主主義に仇為す勢力だって事実を包み込むために耳に甘い言葉をささやくけど、マルクシズムが何を訴えているかが分かっていれば今回の騒動は何も驚くに当たらない。

 

確かに共産主義は抑圧や搾取からの開放を謳う思想ではある。現実の世界が王政、天皇制、資本主義、民主主義、社会民主主義何であれ抑圧や搾取が厳然として存在することは彼らの指摘通りではある。しかし、抑圧からの開放の結果として労働者の代表者による独裁制っての自体が何を意味するか?

結局労働者、抑圧される人々の代表者と称せられる圧政者によって抑圧・搾取される体制への移行を意味する。そしてそれは抑圧されている人々の代表者を自称するから余計に質の悪い体制になる。

 

結局は現行の体制と支配者による支配を認めたうえで、抑圧や搾取を少なくしていくためにお上に対して完全に従順でない国民性を保つことが昔から行われてきた下からの力ってものじゃないですか?

室町時代に百姓たちは支配者の理不尽に対して一揆をおこしたわけですし、戦時中でさえ人々は生き延びるために官憲の目をかいくぐって闇米を買い求めたわけですから。

 

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