「自分のリズム」はある意味では協調性を凌駕するほどの重要性を秘めている
強制的と自発的を見比べてみても、どちらが本人にとって有意義であるかは疑うべくもない
つまり、自発的に啓発させるような教育というものが子どもにとってどれだけの意味をもつのか
それは子ども時代よりもむしろ大人になった時に真に発揮されるものだろう
「勉強しなさい」という言葉は、子どものあらゆる可能性を潰す一つの言葉なのかもしれない
そして俺がまさにその張本人だったからだ
それに気づいた母親は俺に「勉強しろ」とか「~しろ」という言葉を使わなくなった
結果、今の俺がどういう人間になったのかは自分では分からない
ただ、少なくともあらゆることに「疑問を持ち」「考えれる」人間にはなった、確実に
俺みたいにぐちゃぐちゃ考える人を「めんどくさい」と嫌煙する人もいる
けど、人間って他の動物と圧倒的に違う部分ってどう考えても「脳」なのだ
その部分を一番使わなくてなにが人間なのだ!!!
別にいいです、俺の事をめんどくさいというのならそれで
でも俺は頭を使わないと死んでるのと同じなので、頭を使う理由はそれだけで十分でしょ?
でもなんでも考えてるわけじゃないけどね、「適当」っていわれることも結構あるし
ようは頭をつかう部分と適当な部分の差がはげしいんですよね、俺は
って話ずれたけど、ようは「やりたいようにさせる」ってのは大事
だけど・・・「放っておく」というのは「やりたいようにさせる」というとは違うんです
そこが教育の非常にムズカシイ点だと思う
そもそも知識を得るだけなら教育なんていらないんですよ、勉強なんて本があればひとりでできるじゃない
だから教育っていうのは勉強を教える事じゃないんですよ
俺はまだこの問題の自分なりの誰にでも分かるような答えに辿り着いていないのでうまくいえないですけど
子どもを育てるってのは生きてればいいってもんじゃないんです、めちゃくちゃむずかしいんです
子どもが大人になるまで自分の人生をその子の為だけに捧げなきゃいけない程の覚悟が必要なのだ