2023年3月18日(土)
稲日大郎媛命陵がある日岡山と太龍寺山と有田のハートの山は、3:4:5の大矩を描きます。
有田のハートの山は古代のベンチマークポイントの山で、この山と日岡山を結んだラインが、住吉神社に眠る第17代 履中天皇の古墳造営の基本軸となるラインでした。これって偶然でしょうか・・。
2022年3月25日(金)
卑弥呼には孫娘二人が居ました。
下の孫娘は、稲日大郎姫命陵に祀られています。
その稲日大郎姫命の姉の墓は、兵庫県姫路市林田町上伊勢に在ります。
二人の母親(卑弥呼の嫁)の墓は、兵庫県神河町長谷の山にあって、この三点(赤い図形)は、キッチリと直角二等辺三角形を描いています。
そして推古天皇の墓と、卑弥呼の嫁の墓と稲日大郎姫命の姉の墓の三点(黄色い図形)は、二等辺三角形を描いています。
推古天皇は、稲日大郎姫命の姉の血筋であると言っていますね。
そして推古天皇の墓と光明皇后の墓と卑弥呼の墓の三点(青色)は、2:1:√3の直角三角形を描いていますが、このことから推古天皇も光明皇后も「卑弥呼の血統である」と言っています。
2019年5月12日(日)
昨日、田舎の兄から電話がかかってきました。
「高価なものをありがとう! 母の日のプレゼントかと思った・・」と兄に言われて初めて母の日を意識しました。
テラファイトコアの誕生物語には、大いに母がかかわっていますので、真っ先に送るべきでしたが、遅くなってしまいました。
「私は、良かよか・・、皆さんに先に渡しなさい」と、近衛兵で出兵したという母の父、田代小次郎さんの性格をよく受け継いでいた母だと私は思っています。
母方の家紋は違い鷹の羽でしたが、上森家は抱き茗荷の家紋でした。
今年3月2日に母は、安栖里から嫁いでこられた御姫様が待っている長谷のお墓へとお参りに行って、お姫様を故郷安栖里へとお連れして宴が終わったころに他界しました。
どうも、安栖里の御姫様たちと共にあの世へと帰られたご様子でした。
母の名は、光子でした。 本当に名前のような人でした。
私は、セミナーで、「私は一切宗教はしていませんし、又、我が家は十字架にかかわる宗教者は誰もいてないのに、地図上に十字架を描かされて・・」と話していましたが、
イエスの生命の樹をいつの日か田舎へと帰って見せた時に、「不思議たいねぇ~、私はここで生まれたば~い」と、生命の樹のいイエソドを指さします。
イエソドは、女性の身体で言えば、まさにあの世から子どもを生み出す大事なところです。
不思議です。そして母は、「私は大牟田で生まれました。そして・・、小学生の頃、親にも兄弟にも誰にも言わず、毎週、近くの教会に通っていました」と話してくれました。
私は、このイエスの生命の樹(カバラ)を地図上に描かされ、全てのセフィロトへと行かされました。
不思議な不思議な物語ですぅ・・。ともあれテラファイトコアをやっと仏壇の前に飾れたようです。
安栖里から嫁いでこられた御姫様とは稲日大郎姫の母で、卑弥呼が入定した後、王家の方々の墓守をされていたことでしょう。
2019年3月7日(木)
「あの~、佐用町の天一神社へ行かれたことはありますか」
「もう一つ、養父市の名草神社はご存じですか」と、初めての方から、どうしても私に伝えたいことがあるので・・、と電話がありました。
そして調べてみると・・、なんと! 天一神社と名草神社と同距離の所に、先週の土曜日、播磨稲日大郎姫命の母のお墓参りと共に、その方の故郷である安栖里へとお連れしたばかりでしたからもうビックリ!です。
偶然ではあり得ない情報に本当にビックリ!です。
実は、女王卑弥呼には男の子が一人生まれました。
そして卑弥呼の息子の嫁にと、素戔嗚尊(モーセ)の流れを色濃く引き継ぐ方々の里である安栖里から御姫様が嫁いで来られました。
卑弥呼が岩戸隠れするときに、卑弥呼の息子と卑弥呼の弟も同行しましたから、嫁となったお姫様は、自分のお墓を、その山が見える場所に造りました。
卑弥呼たちと同行することはできませんでしたが、いつまでもその場所を見守り続けていました。
そしてそのお姫様の御霊を弔い、又、その場所が分かるようにと、出雲大社から持ってこられたという名草神社の三重の塔も意味ある場所に建てられています。
安栖里から嫁いで来られたお姫様は、二人の女の子を授かりました。
その下の娘さんが、播磨稲日大郎姫命であり、その方には、女、女、男の子がありました。
その男の子が第15代応神天皇であります。
稲日大郎姫命のお姉さんのお墓は、母と妹の墓と、1:1:√2となる直角二等辺三角形を描く地点に設けられています。
これらのお墓が、誰のお墓に繋がるかの話は、・・続きます。
長谷川様、あなたの情報は、間違いなく神様からのメッセージでした。
大事な情報をありがとうございました。感謝しています。
2018年4月7日(土)
4回目のビラが完成しました。
4月14日(土) 神河町の朝刊各紙に入れます。
素晴らしい内容が書かれています。
神河町は世界的遺産の宝庫です。
作畑の重箱石のすぐ右手には、方位石(下の写真)があって、大国主命の母のお墓を
教えています。近くの大歳神社の向きも全く同じです。
重箱石とその真南(同経度)にある日岡陵(下の写真)、岡山県美咲町の大国主命の母のお墓とその真東(同緯度)にある京都市山科区の岩屋神社・奥之院の磐座は、美しい菱形を描きます。
つまり、2地点ずつが等距離なのです。こんな偶然があるでしょうか?
稲日大郎姫命・日岡陵(加古川市)
雄大な姿の八幡山ピラミッド(渕)
小田の祇園神社は、秦河勝のお墓(赤穂市・生島)に向けて建てられています。平安京が造営された京都は、元々秦氏の勢力圏でした。
中村の埋田神社のお祭りはすばらしいものです。埋田神社にも大きな秘密があります。
中村の山中にある、アイヌの人形ニポポのような奇岩。
上森三郎著
ヒカルランド刊
私は昨年の町長選挙に出馬しました。
熊本生まれで神戸に暮らしていた私が神河町に初めて降り立った場所は、大山の七宝寺入口にある空海(弘法大師)さまの立像の前でした。2010年9月23日 秋分の日で、あれからもう7年半が経ちます。
その日から取り憑かれたように、全国の山々へと行かされ、町民の方々も行かないような神河町の奥山へと何度も登り入りました。
そしてこの町がただならぬ世界的歴史遺産が眠る聖地であることが分ってきました。信じがたいような話ですが、本当なのです。
南小田の山には標高836m地点に日本最初の前方後円墳と思われる大国主命の巨大な陵墓。大山には標高779m地点に女王卑弥呼の陵墓。正に神河町の山々は、王家縁者の方々のお墓が集まっている王家の丘の様相を呈しています。
前回の町長選の時に町の中で見て驚いたのは、立派なお宅の立派な塀には、必ずと言っていいほど大黒様や恵比寿神、弁財天や布袋さんなど七福神の焼き物が飾られていたことでした。
そうなのです! 七福神は架空の話ではなく、この国の礎を築かれ実在した現人神達であり、その方々のお墓がこの町の山々に存在していることを、ご先祖様達は、現代の私達に伝えていたのでした。大黒様は大国主命であり、弁財天は卑弥呼です。
他の方々のお墓も皆あります。 これは大変なことです。
隠され続けてきた本当の日本の歴史を表に出す時がやってきたということです。
神河町民の方々は、真摯に受け止めなければなりません。
この真実を教えられた私は、この町の発展のために何ができるかを今、考え続けています。
絶対に触ってはいけない山を破壊し、スキー場開発をするのでなく、「聖地神河」の自然や文化遺産である磐座を守りながら雇用を増やさなければなりません。
私の話を聞いた若者達が、卑弥呼の陵墓が綺麗に見える奥猪篠から、農業に従事しながら、この素晴らしい情報を世界へと発信しだします。 若者達の力は無限です。
私も、彼らが作ったお米や野菜などを、「聖地神河」ブランドで販売していきます。また、「聖地神河のゼロ磁場水」を今月中から全国に向けてお届けし、聖地神河応援隊を全国に募ります。
「聖地神河」は日本に留まらず、世界のブランドとして名を馳せることでしょう。
昨年発売した拙著『不死鳥のあしあと』は、英語、中国語、ドイツ語に翻訳されて、数か月後にはインターネットで世界に向けて発売されます。
世界的歴史遺産の町として世界中から神河町へと多くの人々がやってきます。 でも…現状の宿泊施設数でおぎなうことができるでしょうか。
6月からスタートする民泊で補完的に受け入れ体制を作っておかなくてはなりません。
従来にないガイドの養成も必要です。
これから神河町は、奇跡の町として大きく変容します。
私は、神河町が大好きです!
他から何をしてもらうかでなく、自分がこの町の為に、この国のために何ができるかを、ビジネスを通して実践してみたいと思います。
神河町は誇りある素晴らしい町です。ご要望がありましたら聖地神河ひろばで、または、各地区の会館で映像を見ていただきながらご説明させていただきます。
どうぞ、お気軽にお声かけしてください。
聖地神河ひろば (T.T.C 営業所)
〒679-3112 神河町鍛冶143-1
TEL : 0790-34-1727 FAX : 0790-34-1728
株式会社 T.T.C
本社 〒675-0036 神戸市灘区桜口町4丁目1-1-401
TEL : 078-855-8817 FAX : 078-959-7306
兵庫県知事登録旅行業・第2-745号
一般社団法人 全国旅行業協会正会員
2018年1月15日(月)
この世はあの世が仕掛けたゲームの世界です
女王卑弥呼の陵墓と、そこから真南に位置する姫路市別所町北宿の賀茂神社から、加西市畑町にある高峯神社が導き出されました。
卑弥呼の陵墓から高峯神社を結んだ延長線上に播磨稲日大郎姫命の陵墓がありましたから、先に日岡陵へとお参りしてから高峯神社へと行きました。
そこにはやはり空海様の痕跡がバチバチに目に飛び込んできました。
時間も無かったので、大急ぎでかけずり回りましたが、じっくりと武部さんと行かなくてはならないようです。
神社の裏山には重要な意味ある磐座が、武部さんと私と田中さんが来るのを待ち望んでいるということを強く感じて下見して帰ってきました。
やはり空海様は全てをご存知ですね。
2018年1月14日(日)
日本の歴史を紐解く大きなカギを握っているのが、播磨稲日大郎姫命が眠る御陵です。
やっとその場所へと13日(土)に行くことができました。
やはり、空海様の痕跡が強く残っていて、導かれていることを実感することができました。
そしてそこから又、別の場所へと車を走らせましたが、そこにも空海様の痕跡が強く残っていました。
隠された古代日本の歴史は、間違いなくこの大地に記されていることを確信する私です。
やはり空海様は全てを知っていましたねぇ。
空海さま~~~!
そうそう、神河町の人達は耳にしていましたねぇ。
「11日、飛行機が飛び回っていましたよ」って。
いよいよ 巨大組織が動き出した模様です。
巨大組織対、チーム上森。
一見、誰の目にも巨大な象さん対、蟻んこ。
でも・・
巨大組織対、霊界の大王空海様だったら・・どうでしょう。
人間 対 神様だったら・・どうでしょう。 つづく・・
2017年12月9日(土)
下の図は、神河町にある重箱石が教える古代王家の方々のルーツと墓の位置を割り出す基本図の一つです。
詳細は省略します。
下図は、秦河勝の墓と播磨稲日大郎姫命の陵墓から割り出される、近親者の墓の位置図です。
秦河勝の墓とされている生島は、代々、秦氏のご先祖様たちが眠る大事な島と言うことでしょう。
上は播磨稲日大郎姫命の姉の墓である。
このポイントから、秦河勝の墓である赤穂の生島までと、神河町の南小田の上にあるイエスの四男で第四代懿徳天皇の墓までは同距離。
そして、このポイントから播磨稲日大郎姫命の陵墓までと、神河町の長谷にある卑弥呼の息子に安栖里から嫁いできたお嫁さんの墓とは、1:1:√2の直角二等辺三角形である。
私には、秦河勝のご先祖様を辿れば、播磨稲日大郎姫命の姉に繋がり、ルーツに懿徳天皇がいることを教えている。
播磨稲日大郎姫と景行天皇との間に、女、女、男が生まれ、その男の子が応神天皇でしたから、応神天皇と秦河勝のご先祖様はいとこ同士ということでした。
ですから、歴史の上でも、応神天皇の代に19万の民を従えて秦河勝のご先祖様が日本へとやってきたことは納得がいくし、又、秦河勝のご先祖様達、秦氏は京の都の建設に多大な貢献をしていますが、晩年は赤穂に移り住み、お墓が兵庫県赤穂市の生島にあることも理解できます。
彼ら古代王家の人達は、どんな政変劇があっても、その先祖の大事な大事なご先祖様たちが眠る、女王卑弥呼や大国主命=イエス・キリストの墓に辿りつくように、この大地に、そして山頂に三角法を駆使して造っていました。
崇める という字は、このことを教えていますし、
祟る という字も又、このことを教えています。
御霊は、山の上に祀られていると言うことです。
特に神河町の方々は、朝な夕なに山に向かって手を合わされることを望みます。
2017年11月30日(木)
26日(日)に神戸でセミナーがありましたが、その時、とあることで「許せない!」と大きな声で語気を強めて叫んだ私でした。
その瞬間、応神天皇陵がある堺市から来られていたSさんが、突然嘔吐されました。
いえいえ厳密に言えば、Sさんの異変から私の口を使って、言ったのかもしれません。
「許せない!」と。
いつも私はSさんに、「あなたはイエスの血を濃く受け継いでいますね」と言いますが、応神天皇はまさにイエスの直系です。
第15代応神天皇は、私が教えられていることでは、景行天皇と播磨稲日大郎姫命との間に、女 女 男と三人の子供に恵まれましたが、その男の子が応神天皇です。
世の人達が教えらていることは、全く違った世界のお話のようです。
卑弥呼さんは、男の子を一人儲けましたが、お嫁さんは、素戔嗚命の血をくむ安栖里から現在の神河へと嫁がれてきました。
そしてその間に、2人の娘子が誕生しました。その妹にあたる子が播磨稲日大郎姫命です。
お姉さんと妹とお母さんのお墓の三点を結ぶと綺麗な直角二等辺三角形を描きます。
卑弥呼さんの岩戸隠れに同行したのは、卑弥呼の一人息子と弟でした。
ですから、息子の嫁である播磨稲日大郎姫命の母は、卑弥呼の陵墓から北北西の山の上にお墓を造りました。
いつまでもそこから見える場所にとどまっていたかったのでしょうね。
応神天皇のご先祖様達が眠る王家の丘に、自分も共に眠りたいと思うのは至極当然のことです。
応神天皇もご先祖様達のお墓参りを欠かすことがなかったことでしょう。
そしてこの祀りごとは、第50代桓武天皇の時代に一度仕切り直しをして、最澄、空海さま達に祀りごとを託していました。
その後も、弟子たちがそれを受け継ぎ、天皇家の人々の御霊を供養し続けてきました。
それが・・「何だ! 許せない!!」と、応神天皇が大変に激怒されたご様子でした。
Sさん、お役目、御勤めご苦労様でした。
次の日から、ずっと応神天皇とかかわりのあった人達の陵墓を、三角法で教えられ続けました。
・・・
2022年5月 今城塚古墳は義慈王=舒明天皇の御陵でした。
イエス王家の血を引く方々は、自分のお墓をどこに造営するか、又は、別に本当の亡骸をどこに埋めるかで、そのルーツを追いかけることができるようにしていました。
これは、厳格で厳密です。
このようなことから応神天皇の5代直系と言われる継体天皇の陵墓は、今城塚古墳が正解です。
だれも知る由もない、応神天皇の亡骸が入れられたという神河町にある山の三角点からマリアの墓までの距離と、今城塚古墳までの距離は、共に80.30㎞と全く同じです。
そして、今城塚古墳が向いている方角は、神河町に眠る応神天皇の亡骸が埋められた場所にキッチリと向けて造営されています。
宮内庁が継体天皇の陵墓と言っている近くの太田三丁目の陵墓は、王家の方々が真のルーツを教える法則に一切合致していません。
間違っています。
「継体天皇の陵墓は、今城塚古墳が正しい!」と王家の方々が伝承した法則は教えています。
又、マリアの墓と継体天皇の陵墓である今城塚古墳との丁度中間点に甲山があります。
この山も間違いなく意味ある場所に人工的に築かれた山であることは間違いありません。
2017年11月29日(水)
神河町には、イエスの墓、イエスの4男第四代懿徳天皇の墓、女王卑弥呼の墓、この流れをくむ第十五代応神天皇の亡骸をいれた山も存在しています。
いえいえ、神河町にはイエス王家の方々の亡骸が葬られた山々が沢山あります。
又、この我が国に富をもたらした七福神様たちの亡骸もこの町の山々に眠って居られます。
七福神とは、実在した神々なのです。
その方々に祈りを捧げる大事な遥拝の山が、大嶽山なのでした。
大嶽山は、最大にして重要で重大な世界的聖地をお守りお祈りする山なのです。
我国の中期天皇家の祖となる方々を祀るための祈りのポイントなのです。
ここに鉄柱を突き刺す行為は、天皇家に対する反逆的行為なのです。
このまま放置しておくと、必ずやもっともっと祟りや災難がこの町だけでなく我が国や地球規模で取り返しのつかないことになります。
天皇の最大の任務は、私達国民の代表としてご先祖の御霊を崇め祀ることにあります。
このまま放置していると、天皇家にも災難がふりかかってまいります。
この天皇家に対する反逆行為は直ちに悔い改めねばなりません!
天皇陛下の頭蓋骨に五寸釘を突き刺したまま放置するようなものでありますぞ!
天皇陛下をお守りする方々は、もっともっと真剣に取り組まなければなりません。
上の図形は、第十五代応神天皇の亡骸が入れられた山と、応神天皇の母である播磨稲日大郎姫命の陵墓とに祈りを絶やさない書写山円教寺の秘密を表した二等辺三角形です。
上の図は、播磨稲日大郎姫命は、マリアの血を引いていることと、稲日大郎姫命の母のお墓の位置と、その母の里である安栖里を教えています。
播磨稲日大郎姫命は、卑弥呼の一人息子に安栖里から嫁いできたお嫁さんが産んだ2人の娘の妹である。
上の図は、マリアの墓と女卑弥呼の墓と、卑弥呼の孫にあたる播磨稲日大郎姫命の陵墓との関係を教える直角三角形です。
上の図は、マリアの墓と応神天皇陵と、その応神天皇陵が教える応神天皇が思い出に残る故郷である安栖里とを教える2:1:√3の図形です。
この図形は特に重要な直角三角形である。
卑弥呼が248年11月17日に岩戸隠れをしてから、卑弥呼の孫娘である播磨稲日大郎姫命は、母親の里である安栖里に身を寄せて2人の娘と応神天皇を育てました。
チーム上森の皆さんは、いつも誰よりも早く古代天皇家の方々の御霊に手を合わせに巡礼の旅を行って居られます。
チーム上森の皆さんは、いつどんな大災難が日本列島であったとしても、必ずや王家の皆さんがお守りされることでしょう。
2017年10月15日(日)
昨日の神戸でのセミナーには、愛媛 広島 名古屋 岐阜 和歌山 などなど遠方より沢山の方々がおいでになりました。
本当にありがとうございました。 感謝しています。
隠された古代の歴史を教えられてきた私ですが、いよいよ核心部分に差し掛かってきているようです。
神河町作畑にある重箱石と、その右手にある方位石が教えることは、先ず南に播磨稲日大郎姫命の陵墓があること。
方位石が教える方向には、マリアの墓と稲日大郎姫命のお母さんのお墓でした。
稲日大郎姫のお母さんのお墓は、神河町渕地区の西の険しい山の上にあります。
そこのお墓から卑弥呼の陵墓が見えるような場所にあります。
稲日大郎姫命のお母さんは、卑弥呼の息子のお嫁さんでした。
卑弥呼と息子と、卑弥呼の弟が入定したことを思えば、当然の場所にお墓は造営されています。
そしてその稲日大郎姫命の陵墓と、お母さんのお墓とを結んで、1:1:√2の直角二等辺三角形を描ける場所に、稲日大郎姫のお姉さんの陵墓が存在します。
お母さんと娘さん二人が仲良く手をつないでお眠りになっておられます。
稲日大郎姫と景行天皇の間に、女 女 男の子が生まれました。
この男の子が応神天皇です。
大地に三角法で残されたポイントは、古代天皇家の方々のお墓の位置からルーツを知ることができるようになっています。
昨日のセミナーでは、このようなことを話させていただきました。
神河町の山々には、七福神様たちのお墓と、その方々を取り巻くイエス王家の御親族の方々のお墓がたくさん存在しています。
このような大変な町であることを知らずに、勝手に山山を破壊することは、それはそれは恐ろしい話です。 クワバラクワバラ。
2017年9月28日(木)
27日も小雨の中、卑弥呼にまつわる伝承を聞くことができました。
卑弥呼の陵墓が見える地域には、今でも沢山の伝承が残っていて、私が教えられたことをあたかも立証するような話が、聞いて歩けば歩くほど飛び出してきます。
そして、卑弥呼の陵墓がある神河町と、そこから姫路までの市川流域に大歳神社、大年神社が異常なほどに存在する事実と、その大年神社で手を合わせると、重要な陵墓に手を合わせるようになっている事実も浮かび上がってきます。
そこで、大歳(大年)神社の総本社である葛城御歳神社が向いている方角を調べると、葛城一言主神社に向いていて、それを延長していくと綾部の大本にラインが伸びています。
そこから直角に行った場所に、懿徳天皇の陵墓があり、そこから直角に行った場所に播磨稲日大郎姫命の陵墓があります。
神河町には、大国主命や、その子供達など沢山の古代王家の人達陵墓が市川流域に沢山存在しているようです。
大年神社を祀ったご先祖様達の声が聞こえてくるようです。