かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

早楠阿蘇神社がある早楠から見える山並みに見とれていた

2023-06-20 01:35:47 | かごめかごめの真実とは

2023年6月20日(火)

5月28(日)、前日より特別に朝食は早い時間にお願いして産山温泉やまなみを出発したのは、8時20分だった。

目指した場所は、熊本県下益城郡美里町早楠にある早楠阿蘇神社だった。

レンタカーを返して、阿蘇駅から出発する時間は午後1時半過ぎだったので、早楠に到着してこの目に見届ける山をコンパスグラスで特定しコアロッドの反応を見ました。それは予想通りの結果でした。

ここの神社の神紋も違い鷹の羽でしたぁ。遠く懐かしい人達にどこからともなく見守られているようで、時間も無くすぐさま帰る心苦しさを感じましたが、長く居ればいるほど別れるのが辛くその場を離れられなくなるようで、「時間がありません」という理由付けで帰ってきたように思います。いつの日かもう一度は行ってみたいと思っています。


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泊まったのは奥阿蘇の宿やまなみ・・そこで真夜中に・・

2023-06-19 04:41:16 | かごめかごめの真実とは

2023年6月19日(月)

5月27日(土)荻岳を調査し終わってカーナビにセットしたのは、産山温泉 「奥阿蘇の宿やまなみだった。

この宿はどうしても泊まらなければならないようにセットされていたように思う出来事がありました。

それはそこの宿も違い鷹の羽の家紋であり、その前に荻神社の神紋もそうでしたし、そこでも会話したあと清らかな風が吹いて反応していたし、後で聞くと同行した中原椿さんも実は同じ体験をして居たと言うのです。その泊まった真夜中の話なのですが・・、私がトイレに行って布団に入って考え事をしていると人の気配がするのです。椿さんは隣の布団で寝ているのですが、間違いなく人の気配がするのです。・・洗面、トイレの方で人の気配を感じたので息を凝らしてしていると、部屋の主照明の灯りは全て消えていたのに、スッキリ薄明りなのです。私が気配を感じて観察しだしたとたんに、灯りがスーッと完全に暗く消えました。その後背筋が少しだけゾ~~ッとしたのを今でも覚えています。

翌朝、椿さんが、「久しぶりにお母さんの夢を見ました。本当に久しぶりで・・」と嬉しそうに話すので、実は真夜中に私は不思議な体験をしましたぁ・・」と詳しく話すことになりました。

実は、椿さんのお母さん方の家紋は「違い鷹の羽」で、私の母方の家紋も「違い鷹の羽」だったのです。 ここでは詳しく伝えることは到底無理なので・・。前田さん三津谷君、ツアーで泊まることがあれば・・、電気を消してその時の話をしましょうかねぇ。何!?高さんも聞きたいと・・ね。

泊まった部屋は、「すずらん」でした。

私は旅をするときはいつも、母の爪と「上森光子」と書いた紙をゼロ磁場の中心に入れたお守りのコアゴールド一緒に旅をしています。


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荻神社では何者かが応えてくれた

2023-06-02 06:06:06 | かごめかごめの真実とは

2023年6月2日(金)

先週の土曜日(27日)、阿蘇駅前のレンタカーを借りて私は荻岳を目指した。

途中で神社の鳥居が目に入ったのですかさず車を停めて挨拶をすることにした。

そこは荻神社だった。そして目に飛び込んできた違い鷹の羽の神紋に私はなつかしさを感じた。

それで社殿の前におごそかに進み出て、久しぶりにお賽銭を入れて、毎朝行う挨拶をすることにした。すると、挨拶が終えるや否やにそれまで無風状態だった空気に変化を感じた。私の右斜め後方から清らかな風が吹いてきたのだ。私は、何者かが応えてくれたように感じた。でもゆっくりすることもできず、目指す荻岳へと向かった。 つづく

                        

 


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統合

2019-05-13 06:36:33 | かごめかごめの真実とは

2019年5月13日(月)

「ネオガイアは凄かねぇ」「テラファイトは良かねぇ」と、一番の理解者が母でした。

私が開発した一号機も実家に付けて、野菜作りにネオガイアの水を使い、雨が降ったすぐ後でもネオガイアの水を撒いて近所の人から笑われていたようです。

「光子さんの野菜はなんでピーンといつも生き生き元気が良かとですかぁ」と、皆から言われると嬉しそうに話していました。

そして・・「足の膝から先がだんだん黒くなってきて、お医者さんから足を切断と言われていた人が家の水を飲みだして綺麗になってねぇ・・、水がなくなったら家に水をもらいに来らすとばい」と教えてくれたりして、母も喜んでいました。

その母(田代家)の家紋は「違い鷹の羽」で、父(上森家)の家紋は「抱き茗荷」でした。

この家紋を統合した家紋が、兵庫県朝来市生野町にある姫宮神社、山神宮の家紋です。

この場所は、山を使って鶴と亀の巨大な地上絵が造られていて、このエリアこそ生命の樹(カバラ)の王冠にあたる場所です。

そして今、このエリアで頻繁に爆音を立ててジェット戦闘機が飛んだり、夜12時ほどでも不気味な爆音がすると地元の方々から情報が届きます。

これからますます夜間訓練と称してオスプレイが飛んだりすることでしょう。

不穏な空気が漂いだすことでしょう。 それは・・・、世界の霊統とルーツがここであり、ここがこれから世界の中心になっていく場所なのです。

今、世界の巨大勢力は、アジアの西端エルサレムを中心にした世界を性急に築こうとしていますが、神様はアジアの東端日本のこの場所を数千年前から聖地としています。

この場所こそが、真のシオンなのです。

いつの日からか歌い継がれてきた「かごめかごめ」の後ろの正面なのです。

ユダヤの起源こそがこの場所であり、そのことをイエスの生命の樹(カバラ)やそれ以前の生命の樹の王冠にあたる場所がここであることが大地に描かれた設計図なのです。

イスラエル国歌ハティクバは、二千年間東の果て日本のシオンを探し求めていたのです。

世界はこれから激動の時代に突入です! 

そしてそれは新元号の「令和」の真の意味する「統合」、その日を目指す時の流れがスタートしたということです!!

                    イスラエル国歌

Photo

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母の日のプレゼントに

2019-05-12 06:16:12 | かごめかごめの真実とは

2019年5月12日(日)

昨日、田舎の兄から電話がかかってきました。

「高価なものをありがとう! 母の日のプレゼントかと思った・・」と兄に言われて初めて母の日を意識しました。

テラファイトコアの誕生物語には、大いに母がかかわっていますので、真っ先に送るべきでしたが、遅くなってしまいました。

「私は、良かよか・・、皆さんに先に渡しなさい」と、近衛兵で出兵したという母の父、田代小次郎さんの性格をよく受け継いでいた母だと私は思っています。

母方の家紋は違い鷹の羽でしたが、上森家は抱き茗荷の家紋でした。

今年3月2日に母は、安栖里から嫁いでこられた御姫様が待っている長谷のお墓へとお参りに行って、お姫様を故郷安栖里へとお連れして宴が終わったころに他界しました。

どうも、安栖里の御姫様たちと共にあの世へと帰られたご様子でした。

母の名は、光子でした。 本当に名前のような人でした。

私は、セミナーで、「私は一切宗教はしていませんし、又、我が家は十字架にかかわる宗教者は誰もいてないのに、地図上に十字架を描かされて・・」と話していましたが、

イエスの生命の樹をいつの日か田舎へと帰って見せた時に、「不思議たいねぇ~、私はここで生まれたば~い」と、生命の樹のいイエソドを指さします。

イエソドは、女性の身体で言えば、まさにあの世から子どもを生み出す大事なところです。

不思議です。そして母は、「私は大牟田で生まれました。そして・・、小学生の頃、親にも兄弟にも誰にも言わず、毎週、近くの教会に通っていました」と話してくれました。

私は、このイエスの生命の樹(カバラ)を地図上に描かされ、全てのセフィロトへと行かされました。

不思議な不思議な物語ですぅ・・。ともあれテラファイトコアをやっと仏壇の前に飾れたようです。

安栖里から嫁いでこられた御姫様とは稲日大郎姫の母で、卑弥呼が入定した後、王家の方々の墓守をされていたことでしょう。



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長嶽山 龍巣院は、大事な大事なお寺なのですが・・

2018-12-12 05:05:05 | かごめかごめの真実とは

2018年12月12日(水)

 東京でのセミナーが終わり、懇親会に出席して品川から「こだま」で掛川へと行ってホテルに着いたのは夜12:00近くでした。

そして、翌日はレンタカーで真っ先に行ったところが、「長嶽山 龍巣院」でした。

途中で、市のマラソン大会が行われていて交通規制にかかり、どうしても迂回が出来ず、道路脇に車を停めて休んでいるとコンコンとガラスを叩かれて目を覚ますと、

「規制は解除されました。・・ところでどちらへ行かれるんですか」と警察官。

「姫路から来たんですが・・」と私。

警察官 : 「へ~~、それはそれは。 ところでどちらまで」

私 : 「龍巣院に来たのですが・・」

警察官 :「姫路からわざわざ・・ですか!? 龍巣院は私の管轄エリアですが、何もないところですよ」

私 : 「大変な場所で、大事な大事なお寺なんですよ!」 と。

 たどり着いて・・入り口から目に飛び込んでくる光景からしても、そのように言われたことも致し方ないような哀れな情景をさらしていました。

でも・・人が作った建物は朽ちても、大事なポイントを消し去ることはできません。

朽ちた建物や石佛だけで人影もない静けさでしたが、今そこに「存在している」ことで逆に誰にも邪魔されず静かに先人達の御霊に触れたようで心が落ち着く一時でした。

その中にあって、入り口の門の左手に、梵字の「阿」が目に飛び込んできました。

今までがそうでしたが、振りかえってみると必ず新たなステージの幕開けには、梵字の「阿」から始まりました。

交野山でも、徳島の星の岩屋でも、奈良の東大寺大仏殿でも、大きく状況が変わりだすときには、始まりを表す梵字の「あ」を見せられてからでした。

小さくても 「阿」は「あ」であって、始まりは新たな始まりなのです。

今までは関西一辺倒でしたが、いよいよ活動は関東へも動き出すというサインかもしれません。

長嶽山 龍巣院は、やはり大事な大事なお寺でした。

                            

おお~~、一番左の方は、七福神様で言えば、福禄寿であり寿老人様ですよ。

何を隠そうこの方は、日本建国の大事な神様のお一人である素戔嗚尊であり旧約聖書のスーパースター、モーセなのです。

私達のご先祖さまを辿れば、必ずこの人に行きつきますよ。

「そんなこと言っても誰~れも信じませんがねぇ」と石佛。

「でも・・どうして分かります!?」と言われます。

・・ので、前だれをチョットめくって、

「ほらっ、右手に瓢箪がついた蛇の杖を持って、左手には宝珠を持って居られましたぁ。隠してもダメですよ、私にはすぐ分かります」

「分かってしまいましたかぁ」・・と。

・・

誰もいない本堂に上がらさせてもらいましたが、真正面の上には宝珠の刺繍と飾りもありましたねぇ。

意外と人々は観ていて、見ていない、見えていて見えない。 神様達の存在とは意外とそのようなものかもしれませんね。

下がり藤の藤原さんですかぁ。 そしてノーベル賞の授与式に袴姿で臨まれた方の紋章と同じ違い鷹の羽ですかぁ。


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64番札所前神寺へ行かされた訳とは

2016-05-16 11:47:16 | かごめかごめの真実とは

2016年5月16日(月)

 14日(土)は、神河町の新田ふるさと村の東1.6㎞に位置する奥山へと行って、それから福知山市にある重要な霊山へと行きました。

そして昨日は愛媛県伊予西条市へと行きました。

徳島市在住の知人から、脳梗塞で倒れて西条市の病院に入院していてので来てほしいとのことでしたから新幹線と特急列車で行くことにしました。

病院へと着くと、「Mさんは夕方の7:00まで外出中です」との事でした。

それで・・、私は考えました。

どうして前日、強行的に二つの山に行ったのか?

どうして今日、伊予西条市へと来たのか?

どうして私を呼んだ知人は、徳島市に住んでいるのに伊予西条に入院したのか?

そしてその本人はどうして病院に不在なのか?

どうして昨日、今日と性急な動きなのか?

このようなことを考えると、即、答えは閃きました。

間違いなく見えない方々に動かされていることに気づきます。

それで伊予西条駅まえから、帰りの特急の時刻を確かめてタクシーに乗ることにしました。

「空海様に関係するお寺か神社に連れて行ってください」と言うことで、連れて行ってもらったところが、四国八十八か所の第64番霊場 前神寺でした。

前神寺では大師堂で手を合わせ、その建物の向きがどちらなのかをおおまかでも知らなくてはなりません。

この日は山へは行かないと勝手に決めつけていましたから、コンパスグラスもカメラも持ってきていませんでしたが、太陽の位置で大まかに確認しました。

今日国土地理院地図とグーグルアースで推測するには、奈良県にある玉置神社に向かって祈るように大師堂は配置されていました。

それと、車窓から見えた山でやはり印象的だったのが、讃岐富士と呼ばれる飯野山でしたから、

これらの山山が何を教えるのか地理院地図にポイントを落としてラインを引くと、素晴らしいことを教えてくれました。

それは見事な2:1:√3のピタゴラスの三角形は王家の陵墓や、それらを教える重要な霊山などを知らしめていて、一番札所の位置決めも教えていました。

やはり・・、伊予西条市へと行くようにと、目に見えない方々のお導きでした。

そして、前神寺の近くの墓地にあった墓石に彫られていた家紋のほとんどが、違い鷹の羽でしたが、これの意味も大事なことを教えてくれているようでした。

伊予西条市と言えば、やはり石鎚山ですが、麓の石鎚神社へも行ってきました。

行かされて教えられる霊山や神社やお寺の作りから確実に教えられることは、間違いなく生野、神河町にある王家の人々の陵墓や祈りの地下神殿です。

役行者や行基、和気清麻呂や最澄様、そして空海さま達は、間違いなくこの国の礎を築かれた方々の陵墓や遺構や、現代の私達に伝えたかった事もみなご存じでした。

さぁ、いつまでこのことを知らんふりしてやり過ごそうとするのか・・。

邪馬壹国(邪馬台国)の謎も完全に解けたと私は思っています。

 

 

 

 


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自分は貧しくとも人に施しをせよ

2015-08-10 14:44:54 | かごめかごめの真実とは

2015年8月10日(月)  

母方の御祖父さんのところの家紋は違い鷹の羽だった。 名前は小次郎さんでしたね。小さいときには、囲炉裏端でお爺さんの胡坐の中で燃え盛る炭の赤い炎を見ながら眠り込んでいた情景や、 昼の陽だまりに莚を敷いた上で、鳥籠や竹製品を作っていたのを思い出します。 子供心に凄い!と思ったことは・・、あるとき、「今から向こうの電柱の上に居てるカラスを撃ち落とすから見てろよ」と言ってすぐさまお爺さんが肩に下げていた銃を持つやいなや、ズドーン!とその瞬間、カラスは電柱から真っ逆さまに落ちました。 小次郎さんは近衛兵で戦争に行ったということですが、戦争が終わって15,6年経ってもライフルの腕前が衰えていなかったのは、その証明の現れだったのかもしれません。そのお爺さんの教えを少しだけ、今度の本の中に思い出として書いて見ました。

・・・

天草四郎はジュリアおたあと秀忠の息子だ  

家康は、おたあを天国の島にかくまったんだろう、と上森は思った。気候が良くて、いい風が吹いて、潮の流れがよい日には、神津島から江戸までは一日で渡れたようだし、おたあが若い時から死ぬまで、神津島から出なかったとは考えられなかった。  上品で美しく、周りの人々からもとても信奉されていたおたあを、家康の死後、2代目将軍秀忠が放っておくことはなかったのではないか、とも上森は考えた。  記録では定かにされていない、本当のジュリアおたあの人生は、どんなものだったのだろう。  上森の頭にひらめいたのは、島原の乱だった。祖父に聞かされた昔話を思い出したのだ。  「ウチは平家で、壇ノ浦の戦いで敗れて、山の中に逃げ込んできたんだ。ウチの先祖は。 そこで平和に暮らしとったけど、また島原の乱で、狩りだされて戦に行った。けど、また負けて、また山の中に帰ってきたんだ」 と祖父は上森の頭の記憶回路に刷り込むように、繰り返し、言っていた。  上森は祖父に、よく  「でも、ウチは平家の武士なんだ、だから、誇りを持て」 とか、  「自分は貧しくても人に施しをせよ」 などと言われて育ったのだ。  その島原の乱といえば、思い浮かぶのは誰だろう?天草四郎だ。上森の祖父は、   「ウチも天草四郎に大いに関係がある」 とも言っていた。  それについて詳しくは聞かなかったが、上森は熊本の人間だから、歴史音痴とはいえ、天草四郎という名前くらいは知っていた。  伝承によれば、天草四郎はわずか15歳で、大勢の人を引き連れて、キリシタンのリーダーとして戦をした、とされている。が、普通は元服したばかりの年の少年が、十字架の話をしたり、キリストの話をしただけでは、大勢の人がハイハイ、とついてきて、命を賭けて戦に行くようなことにはなるまい、と上森は考えた。  やはり、天草四郎は、ちゃんとした血筋、DNAを受け継いでいて、周りもそれを知っていたから、みんなが動いた。そのように神様が上森に告げていた。  ここからは上森の推測だが、神津島を出たジュリアおたあは、江戸は避けて、小西家の領地で幼少時代を過ごした堺にいったん戻っていたのだろう。さらに、その後、恐らく、人目を避けるために、小西家の領地だった熊本県の宇土に移ったのだろう。というのも、実際、宇土にはジュリアおたあの記録がいまでも残っているのだ。  上森の想像は膨らんだ。  おたあは、徳川の2代目将軍秀忠に見染められて、子どもを産んだのでないだろうか。  もしかしたら、それが天草四郎だったのではないだろうか、というのが上森の憶測だ。  天草四郎が実は宇土の出であるという説も実際にあるのだ。  後に上森は、天草四郎は島原の乱で亡くならずに、現在の熊本の下益城郡に行き、宇土にいたが、生涯未婚だった、とも知らされた。おたあは47歳で下益城郡で亡くなったという。  ちなみに、その頃の堺は貿易で潤った、ベニスのような港町だったそうだ。いくら戦していても、一旦、堺の城壁に入れば、みんながケンカをやめるような、独立国のようなところだった。小西行長が造った平和で、国際色豊かな、素晴らしい世界が堺だった。  そうした世界の再興こそが上森に与えられた新たな使命のひとつなのかもしれない。  「日本人こそが、争いの無い世界平和を実現させる重大な鍵を握っている。その為にも、真の日本の歴史を明らかにして、キリシタンの方々の御霊鎮めをやるように」  と言われている気が上森にはするのだ。

・・・

 今度の本は実に面白いですよぉ! 全て実話ですし、神様が「皆に伝えなさい」と言われた世間様が一切知らないことを書いていますから、気が狂っていると言われても仕方ないことばかりです。 でも・・腑に落ちる不思議さに、「あり得るかも・・」と思われる人もないこともないと思っています。 お楽しみに・・!


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霊統 と ルーツ

2012-08-08 16:21:56 | かごめかごめの真実とは

2年前の8月11日に九州の宗像大社へお参りに行って、「よく来たなぁ・・・!」と声が聞こえたような気がして一瞬背筋がゾ~~ッとしたのを今でも覚えていますが、その日からほどなくして「契約しなさい!サインしなさい!」と不思議なテレパシー的な響きと数日間数回やり取りして、霊的に確かに契約してから全て不思議なことが起き出しました。

その契約をせまった主が誰だったのか、そして今ようやくその謎が解けたような気がしています。

私は1954年1月11日朝8時すぎに熊本に生まれました。現在58歳です。

父方の家紋は抱き茗荷で、母方は違い鷹の羽ということです。

私の故郷から徳島県の伊島大峯山・伊勢神宮・神島が一直線に並びます。

これを底辺にして、故郷から宇佐神宮・物部神社・出雲大社へと一直線で、出雲大社と神島を結んだ三角形は二等辺三角形になっています。  ・・偶然でしょうか。 さぁこれから何が待っているのでしょうか。

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