2017年12月9日(土)
下の図は、神河町にある重箱石が教える古代王家の方々のルーツと墓の位置を割り出す基本図の一つです。
詳細は省略します。
下図は、秦河勝の墓と播磨稲日大郎姫命の陵墓から割り出される、近親者の墓の位置図です。
秦河勝の墓とされている生島は、代々、秦氏のご先祖様たちが眠る大事な島と言うことでしょう。
上は播磨稲日大郎姫命の姉の墓である。
このポイントから、秦河勝の墓である赤穂の生島までと、神河町の南小田の上にあるイエスの四男で第四代懿徳天皇の墓までは同距離。
そして、このポイントから播磨稲日大郎姫命の陵墓までと、神河町の長谷にある卑弥呼の息子に安栖里から嫁いできたお嫁さんの墓とは、1:1:√2の直角二等辺三角形である。
私には、秦河勝のご先祖様を辿れば、播磨稲日大郎姫命の姉に繋がり、ルーツに懿徳天皇がいることを教えている。
播磨稲日大郎姫と景行天皇との間に、女、女、男が生まれ、その男の子が応神天皇でしたから、応神天皇と秦河勝のご先祖様はいとこ同士ということでした。
ですから、歴史の上でも、応神天皇の代に19万の民を従えて秦河勝のご先祖様が日本へとやってきたことは納得がいくし、又、秦河勝のご先祖様達、秦氏は京の都の建設に多大な貢献をしていますが、晩年は赤穂に移り住み、お墓が兵庫県赤穂市の生島にあることも理解できます。
彼ら古代王家の人達は、どんな政変劇があっても、その先祖の大事な大事なご先祖様たちが眠る、女王卑弥呼や大国主命=イエス・キリストの墓に辿りつくように、この大地に、そして山頂に三角法を駆使して造っていました。
崇める という字は、このことを教えていますし、
祟る という字も又、このことを教えています。
御霊は、山の上に祀られていると言うことです。
特に神河町の方々は、朝な夕なに山に向かって手を合わされることを望みます。