かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

姫路城と姫路の街を造った人達は、この国の真の建国者とその方々を守り祀っていました

2018-06-08 05:05:05 | かごめかごめの真実とは

2018年6月8日(金)

 6日(水)夕方、姫路駅の北口から小雨けむる姫路城を眺めていました。

駅からお城へと伸びる幅50m、長さ凡そ840mの大手前通り(駅前幹線)は、日本の道100選にも名を連ねている全線が無電柱化されている姫路のメインストリートです。

いつだったのか、姫路城の天守閣に上がって刑部明神に手を合わせたことを思い返していました

木の柱と柱の側面をコンパスグラスを覗きながら計測して、間違いなく神河町大山にある卑弥呼の陵墓(20度)に手を合わすように向けて築城していることを思い出していました。

そしてその時、天守閣から大手前通りを見下ろしながら、姫路城の向きと通りがずれているのを思い出しながら、この日は駅からお城を眺めながら又それを逆から目視で検証していました。

コンパスグラスでは駅舎の構造のせいなどで計測が場所場所によって大きく狂うこともあって定かではありませんでしたが、地理院地図からは、2度のずれとなっています。

Schloss Himeji

Nicht nur Schreine und Tempel waren so konstruiert, dass das darzureichende Gebet wie von selbst auf wichtige Orte ausgerichtet wird. Auch Schlösser wurden, mit jeweils vertieftem Gebet, unter genauen Planungen und Vermessungen gebaut.

Dies erkennt man sehr genau am Schloss Himeji. In der obersten Etage seines zentralen Burgturms befindet sich ein Schrein namens Osakabe-jinja.

Betet man in diesem Schrein, richtet man sein Gebet genau am 20. Grad auf dem Kompass aus, d.h. in die Richtung der Grabstätte Himikos in Kamikawa-cho.

Ein Schloss ist zwar eine Einrichtung, um Kriege zu führen, aber es könnte sein, dass dieses Schloss Friedensgebete für Himiko darreichen möchte, die sich eher für den Tod entschied, um Kriege zu vermeiden.

偶然にしてはあまりにも・・。

姫路城は、神河町大山にある卑弥呼さんの陵墓に向けて築造されていましたが、メインストリートである大手前通りは生野の地下神殿に向かって造られています。

この構図は、東京駅の丸の内口前から皇居前の和田倉門まで伸びる行幸通りの構図と全く同じです。

丸の内口から皇居に向かって手を合わせると、ユダヤの人達が神の山と崇める守屋山がある諏訪大社上社本宮に手を合わせるようになっています。

御所に守屋山がピッタリ重なるようになります。

偶然なのでしょうか・・。

上社本宮のご本尊は、中国大連にある遼寧省鞍山市にある道教の聖地千山を見つめ守っていましたね。

千山の神様を守る山 ・・ 守屋山。

おおーーっ、脱線しそうです。 もとの姫路に話を戻さなくてはなりません。

 ・・

これが偶然にも・・、不思議にも・・、姫路の駅から真東に行ったポイントと、なんと、地下神殿がある生野の絶峯の三角点を真南に伸ばして交差するポイントに・・。

おおーーっ、なんと言うことか、志方町山中にあるイエスの公的陵墓が存在しています。

ここにある大歳神社で手を合わせると、なんとなんと、神河町南小田の836m地点山中にあるイエス・キリストの墓に手を合わせるようになっていましたね。

そして、この陵墓の真東に卑弥呼さんの陵墓がありました。

姫路駅からお城に手を合わせると、千山に祀られている九福神様達(七福神)を祀っている生野の地下神殿に手を合わせるようになっています。

卑弥呼さんは実際に神河町の山中に葬られた現人神様達の墓守と、その方々を祀った地下神殿を祀り守るのが女王卑弥呼の務めでした。

邪馬台国の政治政体は奈良纏向で、国事国体は播磨国風土記に記された埴岡の里

つまり、現在の兵庫県朝来市生野町と、神崎郡神河町でした。

50代桓武天皇はじめ、和気清麻呂や最澄、空海様たち、そして秀吉や家康など戦国武将たちもこれらのことを全て知っていましたね

幕末までは・・。

んんーーん、不思議と言えば、2010年8月11日の私の56歳7ヶ月目の日でした。

ことの急激なドラマの幕開けは、その日台風4号で荒れ狂う宗像大社の参道に立った時でした。

「よう来たのう~~!」という声がして、不思議なことが急展開していったのでした。

その宗像大社のご本尊様も、諏訪大社上社本宮のご本尊様同様に道教の聖地千山を向いて居られます。

その宗像大社と諏訪大社上社本宮の二点を結ぶと・・、なんとぉーー! 卑弥呼の陵墓とイエス・キリストの墓の中間点を通ります。

あまりにも・・偶然とは呼べない事実がそこに存在しているのです。

 

右の青い点が卑弥呼の陵墓で、左の点がイエス・キリストの墓です


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自然の姿を見るとき、心が安らぎます。 

2017-10-31 07:07:07 | かごめかごめの真実とは

2017年10月31日

 29日(日)は、台風で雨や強風の中にも関わらず、神戸のサラ・シャンティには沢山の方々に集っていただきました。

皆様には感謝申し上げます。

素晴らしい時間を皆様と共に過ごせたことを幸せに思います。

本当に有難うございました。

これからもよろしく弧願いいたします。

・・・

 神河町には綺麗な川があり、そこには鳥たちが自然の中で戯れている姿を見ることができます。

そして・・、そこからは、卑弥呼の陵墓である婀月山が、どこにもない情景を作り出しています。

自然で綺麗な情景が残る町です。

自然を破壊することなく、この大切な情景は守らなければならないと思います。

 

 


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聖地神河に台風21号が残した爪痕は私達に何を語っているのか

2017-10-30 09:40:48 | かごめかごめの真実とは

2017年10月30日(月)

 聖地神河にあるイエス・キリストの墓への林道は、台風21号の影響で、完全に人も車も入れないように遮断されていました。

おそらく・・各所で倒木や、道にも大きな石などが転げ落ち、大変な状態になっていることでしょう。

誰かの、何かの企てを阻止したかのようにも思われます。

スキー場建設とも無縁ではなさそうです。

来月のツアーは、遠くから山を崇めることにいたします。

・・

私は神河町に七年間も頻繁に行っていますが、今まで台風が直撃したことが何度かありましたが、一切不思議なぐらいその影響は皆無に等しいものでした。

神社の倒壊もそうですが、ピンポイント的に狙われたようにエネルギーを集中させているようにさえ思える現場の状況です。

何か目に見えないものの存在の意図が働いているようにも感じます。

神様は確実に先を読んで、それを阻止したようです。

「彼らはじっくり時間をかけて実行しますからねぇ」と某人物から言われた言葉が、今でも耳の奥に残る私です。


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今からワクワク、ドキドキ

2017-10-27 09:47:10 | かごめかごめの真実とは

2017年10月27日(金)

 29日(日)はサラ・シャンティで、魔法のランプにゲスト出演します。

どのような一日になるのか、今から楽しみにしているワタシです。

ワクワク、ドキドキ、ワクワク、ドキドキ!!です。

出会いに感謝の一時を心待ちにしています。

・・・

 そして、お知らせです。

11月11日(土)の神戸でのセミナーは、中止いたします。

その日は、神河町でセミナーを行います。

このことも今から楽しみです。

・・

「11日は、神戸でセミナーをやってる場合?なん??」とF田団長。

「んん~~ん、そうですね」と、私。

「ありがとう!団長!!」と、私。

そういうことで、11日は、神河町でセミナーを行うことにしました。

詳しくは、NEXT★ HYOGO NET 田中 まで・・。

・・

んん?  NEXT★ KAMIKAWA NET もありましたが・・??  何!?

草花は、台風などなかったように咲き誇り、婀月山が見える情景に溶け込んでいました。


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卑弥呼の陵墓へ向かう霊ライン上の二つの神社が受けた災難の意味を考える必要がありそうです

2017-10-26 10:30:04 | かごめかごめの真実とは

2017年10月26日(木)

 神河町吉冨にある春日神社の舞殿が、台風21号の影響で倒壊していました。

大変無残な状態でした。

ここの春日神社は、神棚や仏壇に飾る榊・・つまり神様の木である東のメノラーの地上絵の中心から、女王卑弥呼の陵墓である婀月山とを結んだライン上に位置しています。

倒壊した場所に行くと、地元の方が居られましたので、いろいろ話を聞くと・・

「なぜかこのあたりは、雷も多いのです」と話をしてくれました。

「そうなんですかぁ・・、実は、向こうに見える山が248年に亡くなった邪馬台国女王卑弥呼の陵墓なんです。あの山と、工業団地がある中村の山が大事なメノラーなんですが、その2点を結んだライン上に、この神社はあります。そして、そのライン上にある中村の埋田神社もピタリと位置しているのですが、その埋田神社も御神木が折れて本殿が大きな被害を受けています」。

・・と言った話をしながら、無残になった舞殿を見つめていました。

でも・・、舞殿の周りの状況を見ても、一切の被害は見当たらないほど、不思議とこの舞殿だけにエネルギーが集中している状況と、埋田神社の御神木による被害も同じような状況であると思いました。

卑弥呼の霊ライン上にある二つの神社に甚大な災難があった意味とは何でしょうか。 深く考える必要がありそうです。

そして・・、春日神社の舞殿が壊れたことで、参道と本殿の角度が微妙に違うことに私は気付かされました。

参道は、南小田の第四代懿徳天皇の陵墓に向いているし、本殿で手を合わせると京都の神護寺の上になる高雄山(428.4m)山頂に手を合わせるようになっています。

春日神社は、藤原鎌足を祀る神社ですが、その藤原家の直系である第50代桓武天皇の亡骸が眠る陵墓に遠くから手を合わせるように造ってあることを教えられました。

埋田神社にしても、春日神社にしても、ご先祖様達が、誰に手を合わせてお参りするのかを理解してくださいと言っているようで仕方ありません。

春日神社の境内から、卑弥呼おばさんの陵墓がきれいに見えます。

埋田神社も大変な状態になっていました。

 


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大時計の針を4年先に合わせたようです。 そして・・カチ、カチ、カチ・・と針は動き出しました

2017-10-24 11:06:03 | かごめかごめの真実とは

2017年10月24日(火)

 国政選挙も終わり、その結果から見えてくるものがあります。

私には、私も含めてここ数か月の世の動きから、4年先を見据えて神様は、遅れていた大時計の長針、短針、秒針をキッチリと合わせたようです。

全てにおいて神様のシナリオ通りに、船は遠くの一点に向かって、穏やかに運航するのか、経験したことのない台風の荒波にゆられ続けるのか・・。

全てはシナリオに従って、それぞれが演じることでしょう。

そして、その日、その時が来るのでしょう。 4年先が今から楽しみです。

・・・

そのような話が、29日(日)サラ・シャンティ で言わされるのか、完全にチャックをされるのか・・・。

 魔法のランプに、またまたゲストで出演します。

 何を言わされるのか、いつもそうなのですが、その場の雰囲気と言いますか、誰かの言葉から反射的に口が動き出すようです。  

 神様は何を伝えたいのでしょうかぁ・・・。 

29日・・! フク  福  ・・ 七福神様たちが魔法のじゅうたんに乗ってやってくるのでしょうかねぇ。

 M浦さん、のど飴ありがとうございました。 アメちゃんをなめながら勝動!

N浜さん、いつも見てくれていてありがとうございます。この前、Tちゃんは一番前で神様の世界に行っておられましたねぇ。

Fさん、Sさん、Sさん、Mさん、Iさん、いつもありがとう!

M田さんもありがとう!

 


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神様はニコニコ猿田彦珈琲を目の前にさしだしました

2017-09-20 10:04:33 | かごめかごめの真実とは

2017年9月20日(水)

 9月17日(日) 台風18号は夜半にかけて兵庫県の中央に位置する神河町直撃の様相を見せていました。

その日の夕方、私は神河町の南小田に居てました。

・・・

んん?? 台風18号??

18と言えば、十八。 このメッセージはヤソだと言っていますよ。

ヤソ = イエス。

・・・

私 : 「自販機でコーヒーを買ってきてください」

Tさん :「はい」

・・

Tさん:「あれ~~、これ見てください、猿田彦珈琲と書いてありますよ」

私 : 「え~~っ」 「本当ですねぇ」

・・

 な~~んと、それまで、「向かいの山の山頂を登りつめたところに、大国主命のお墓があるんですよ」と話していた私でした。

「大国主命は、実はイエス・キリストなんです」とも説明していました。

そこへTさんが自販機から買ってきた缶コーヒーに、猿田彦と書いてありましたから、顔を見合わせました。

そして・・

「これ見てくださいよ。猿田彦と書いてありますよ。猿田彦とはイエス・キリストのことなんですよぉ」って。

もうどこまで行っても神様はニタニタして笑って居られる様子です。

こんな偶然? いえいえこのシンクロニシティは神様のなせる業なんですね。

そして、「最後の酒屋」と書かれた「立石酒店」があるその場所から猿田彦=大国主命=イエス・キリストの墓までの水平距離と、

猿田彦の四男で、加古川生まれの第4代懿徳天皇の陵墓までの距離が、1.23㎞の二等辺三角形を描くこの偶然の確率は、どのような確率なのでしょう。

そしてそして・・、なんとその立石酒店からコンパスグラスで33度の方角へ5.66㎞地点、標高1016.3m地点に恵比寿様のお墓(高星山)があります。

恵比寿様は、本当の名前はタダイで、マリアの妹の子供で、イエス様とは従兄弟同士なのでした。

空海様は、そのことを知っていて、恵比寿様にはヒラメでもなく、サンマでもなく、鯛(タイ)を持たせていたのでした。

いつも恵比寿さまと大黒さまは、セットでしたねぇ。 そうそう、イエス様は、七福神では大黒さまと呼ばれていましたねぇ。

恵比寿様のお墓からは、イエス様のお墓が綺麗に見えていましたねぇ

そうそう、そうなんです。もっと凄いことが立石酒店の場所にはありましたねぇ。

なんとぉ・・! 立石酒店と、恵比寿様のお墓と、女王卑弥呼の陵墓の三点を結ぶと、ほぼ正三角形を描くのです。

ああ~~、そうそう、言い忘れかけましたねぇ、 猿田彦珈琲の本社は、東京都渋谷区恵比寿にあるんです。 恵比寿なんです!

そして代表者の名字は、「大塚」さん。 大塚は大きな陵墓を表しているように聞こえます。

社長の挨拶にも、神様からのメッセージが込められているように思えますねぇ。

・・・

・・・

 神河町の南小田にある最後の酒屋と看板がある、これから上には酒屋はありませんよという意味あいの「最後の酒店」とかかれた「立石酒店」には、

幸せをもたらしてくれる福の神でもある大黒さまや、恵比寿さまや、唯一女性の弁財天=女王卑弥呼さま達が居られる場所のようです。

神河町には、この国を豊かにし富をもたらした実在の神々が山頂に祀られている七福神の総本山なのでした。

どうもその七福神さまたちが、この立石酒店に立ち寄ってお酒をお買い求めにいらしているご様子ですぅ。

そうそう、ここの御主人と奥様の顔をジ~~ッ見ていると、にこやかな瞳の奥に、七福神さまたちが見え隠れしていましたねぇ。

さぁ、この話、このシンクロニシティが起こる確率を、あたなは偶然で片づけることができますでしょうかぁ。

猿田彦珈琲だけでなく、お酒の銘柄にも何か神様のメッセージがあるかもしれませんね。

今度行ったら、よ~~く見てみよっと。 必ず神様からのメッセージが込められた銘柄のお酒があるはずです。

・・・

立石酒店 住所  兵庫県神崎郡神河町南小田1467 

       TEL  0790-34-0091     

今の世は本当に便利ですねぇ、カーナビにセットするだけで、その場所へと連れって行ってもらえますからねぇ。

・・・

イエス・キリストの墓は、この立石酒店の目の前の山を登りつめたところ標高835m地点に存在しています。

 


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感動!感動!のアンケートをいただいて帰りました

2017-09-19 10:18:29 | かごめかごめの真実とは

平成29年9月19日(火)

 16日のトータルヘルスデザイン様の京都本社でのセミナーには沢山の方々に来ていただきました。

そして・・、あっと言う間に時は過ぎ去ってしまいました。

でも・・こころ温まる感動のアンケートを沢山いただいて帰りました。

一人でもより多くの皆様方にこの日本の・・、そして世界の真実を知っていただくことで、皆さんが今まで以上に幸せを感じ取っていただけるようでしたら、私もこの上ない幸せです。

主催していただきましたトータルヘルスデザインの皆様方に感謝いたします。

そして、台風前の足元の悪い中にも関わらす、遠く愛知県など遠方からもおいでいただいたりして、本当に感謝しています。

ありがとうございました。

 次回も今から楽しみにしています。   (上森三郎)


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明日のセミナーは、皆さんのご意見を伺いたいと思います

2017-02-23 18:08:56 | かごめかごめの真実とは

 2017年2月24日(金)

 最近、私のセミナーに来られた方のブログを偶然に見ることになりました。

いろいろ書いておられて、読ませていただいて私にとって非常に為になる内容でしたので、ここに掲載させていただきました。

感謝申し上げます。

・・

明日は立ち見の状況が今から予想されます。

予約しておられる方も座れない可能性がありますので、お早目に・・。

 


 

世界的聖地とスキー場Add Star

 

「2017年末に 18年振りの新設スキー場が誕生」

 というニュースを目にした時は 少々びっくりしました 

 予定地は 兵庫県中部に位置する 神崎郡神河町・・・

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201603/0008937476.shtml


ウインタースポーツを愛する者としては 嬉しいニュースでしたが

一方で 何か・・・心にひっかかるものが ありました

元々 兵庫県豪雪地帯ではないですし しかも中部エリアに?

なぜ この場所なのだろうか?・・・


京阪神のウィンタースポーツ愛好者のためというならば

もっと他に 適切な場所があるのではないかなぁ?

「雪不足に対応するため 人工雪を降らせる設備も整えている」とのことでしたが

「そこまでして この場所に 新設スキー場を開くのは 一体なぜ?」

 という疑問が さらに強く湧いてきました


勿論 多額のお金が 地元行政に落とされるということがあるのでしょうが

どうしても それだけではないような気がして なりませんでした

新設スキー場のニュースから端を発し 神河町について調べていると 思わぬ情報に繋がりました


上森三郎さんという方が 発信されていたのは 

神崎郡神河町には イエスの墓と卑弥呼の墓が 隣り合って存在している」

 「上空から見ると 巨大な地上絵が浮かび上がってくる」

 「この場所こそ邪馬台国(邪馬壹国)のあった場所であり 地球規模の聖地である」

 http://blog.goo.ne.jp/kagome1248/c/9ebe960c76e41976b7aa72b76c7fc8d5

 http://blog.goo.ne.jp/kagome1248/e/df13f09920803a7c0954bbf19d4b0be2

 (私自身は感じ入るところがあり これらの情報が腑に落ちましたし 行ってみようとも思っています)


え???

その場所の緯度経度を地図で照らし合わせてみると スキー場建設予定地とは目と鼻の先でした


その巨大聖地には 勿論 磐座(いわくら)が 存在するわけですので

これは「西宮越木岩神社周辺のマンション建設問題」と同様の背景があるものと思われます

磐座(侵してはならない聖なる場所)を破壊し 御神木を切り崩すことは やってはならないこと・・・

聖地を切り崩して スキー場を建設するということは 確かに「行われてはならないことである」という一方で


現実的に建設が許可され 現在 工事が進んでいるということは

その背景には「人知を超えた大いなる意図」があるはずだと・・・そう感じました

それはつまり「これから この場所が人々に広く知られ 真実が開示されていく」という流れではないのか?

と 個人的に 思うわけです・・・


それは 日本と日本人のルーツ そして 全ての人のルーツが明らかにされ

本当の歴史と事実が開示され 今後急速に 地球がバランスを取り戻していくということ


今 希に見る色々な変化が起こっていると感じます

この変化を 単に「方向転換」と捉えるのではなく 

二極の内のどちらか一方を軸にするのではなく 

「全一」を選んでいくことを 自分自身が求めているのを感じます


確かに 私自身・・・

お金のために破壊を推進する企業や団体を 好ましいとは思いません

化学薬品も農薬人工甘味料も 苦手です

経済優先の社会が やっぱり好きではないけれど

それにも 同じだけの存在意義があります

それにも 同じだけの役割があることを知っています


何も責めないでいい 誰を責める必要もない

一人一人が「好きなこと」「信じること」を 堂々自由に 選んでいけばいいと思います


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私たちに共通の先祖がおられるならば 彼らが最も喜んでくれるのは

子供や孫である私たちが 活き活きと生きる姿ではないかと思います

「ありがとうございます」

「生きることは素晴らしいです」

「幸せです」

と言ってくれることではないかと思っています


誰だって 忘れられるより 想ってもらいたいですよね・・・

そして 子や孫たちに 真実を知ってほしいですよね

歪曲された事実ではなく 真の姿を知ってほしいはずです

自分が何をして 何をしなかったか 

何を大切にしていたのか・・・


時を超えて 繋がっていたいですよね

全てが循環している 繋がっている世界は どんな形であれ とても温かいですよね・・・



2017-01-28

神河町に惹きつけられ・・・(1)CommentsAdd Star

 

昨年 兵庫県神河町の新設スキー場の建設に違和感を感じて 調べているうちに

熊本県出身で神戸在住の 上森三郎さんのブログ http://blog.goo.ne.jp/kagome1248 に辿り着き 

そこに書かれていた「神河町には世界的聖地がある」という内容に驚いた・・・という記事を書きました

http://d.hatena.ne.jp/yurisis/20161004/1475593017


 その後 上森さんの著書を三冊読み 益々興味が湧いていました

理性がストップをかけるのですが 心の方がのめり込んでいく・・・

だんだんと気になってしかたがない・・・という感じです

 

間違いなく「神から啓示を受けた・・・」なんて言う人の99%がまがい物です

少なくとも私の経験では そのほとんどが お金や支配欲や性欲によって 動いている人たちでした

それは 経験上 痛いほど判っています

だから 理性が止めるのですが どうしても心が疼くのです

それで「ここはもう ご本人に会って 直接疑問を訊ねてみよう」と思い立ちました

 

神戸市灘区にある 上森さんが経営される会社の一室で開かれる セミナーに参加しました

初めは「騙されないぞ」「冷静に」なんて 構えていた私でしたが(笑)

上森さんが話される内容が至極真っ当で 次第に 自然に納得する私がいました

微塵でも「コノヒトオカシイ」と感じた時点で 席を立とうとさえ思っていました

でも 気が付いたら「そうそう!そうなの!」「そうなんですよ!」って ずっと頷いていました

 

この方は 「上森教」を創ろうなどとは思ってもいない

この方は 全く「欲得」の為に動いてはいない

少なくとも それだけは 確信できました

もうそれで十分でしたし 逆に驚きました

 

(以下 ブログに記すことは 上森さんから許可を得ております)

それで セミナーが終ってから 上森さんに直接 訊ねてみました

「私は 神河町に新設スキー場ができることに 強い違和感を感じています

 兵庫県中部は大して雪が降りませんし 巨額の費用を費やして建設するような場所とは 到底思えません

 何か隠された思惑があるのではないですか?」

(古代史や磐座ではなく スキー場に端を発して 私が上森さんに繋がったことに 少々びっくりされているようでした)

 

すると 上森さんは こう仰いました

神河町の太田ダムからイエスの墓に通じる道がありますが 現在それは閉じられました

 今はもう 許可がなければ 誰も立ち入ることができません

 しかし スキー場の建設という名目があれば 重機やダンプも入れます

 そうすれば 自由に掘り起こして イエスと卑弥呼の墓を調査することができます 

 何より 日本にそれがあるという事実は(地球規模の権力者にとって)消し去りたいことであり 現在躍起になって調査しています」

 

まさに 想像した通り!!!の回答でした

「やはり そうでしたか」とお答えすると 上森さんは

「・・・頑張ってくださいよ!」と仰る

理性で考えると「はぁ・・・何を?」と思うのですが

即座に「はい 頑張ってみます」という摩訶不思議な返答をしている自分がいました

 

「イエスの墓へ 個人的にたどり着くことは可能ですか?」とも訊ねました

「約3時間ほどの道なき道を進めば 可能かもしれませんが

正確に道順を把握している人がいなければ かなり難しいでしょう」との回答でした

整備されていない山とは 非常に複雑であり 行くことはできても帰り道がわからなくなる・・・

そんな危険なものだそうです しかも その辺りの山には熊がでるらしいのです

 

少々 意気消沈してしまいました

是非とも お詣りにいきたい 行かねばならない・・・と思っていたからです

なぜか? それは 私自身が自分のルーツを辿る旅をして 解ったことと一致していたからです

ルーツにあるもの イエスの真実・・・続きます

 

2017-01-29

神河町に惹きつけられ・・・(2)Add Star

 

2015年6月 上森さんたち一行が イエスの墓へ向かった時のことが

武部さんという方のブログにて 紹介されています↓

http://blog.livedoor.jp/omtakebe/archives/36491616.html

 正式に 太田ダムから入山する許可を得ての道程です

紹介されている写真からも 尋常ならぬ気の清々しさが伝わります

 

こちらのブログの最後に記されている言葉

注意  僕のこの記録を参考にこの地に行くことは容易い。林道があり難所は殆ど無い。

ただこの地に行くには、ある種の覚悟がいると、僕は強く思う。

その覚悟をもてる人だけが行くことが許される場所であるので、あくまでも自己責任において行動してください。」

 

(勿論 太田ダムから入山する許可を得ることは前提のお話で それは簡単なことではなさそうです)

この注意喚起には 二つの意味が含まれていると思われます

上森さんたちが挑まれていることは 凄いチャレンジであり 外側から想像する以上に大きな出来事です

(上森さんのセミナーへ行かれますと 書籍やブログに書かれていないことを含め 惜しみなくお話が聞けます)

 

上森さんが 著書やブログで記されていることは 理性で読めば 到底信じられないことばかりです

私自身は イエスと卑弥呼の墓については なぜだか文句なしに納得し 腑に落ちましたが

その他諸々・・・ご本人にお会いするまでは 半信半疑でした

見えない世界を当然に受け入れている私のような人間でも 自分の目と肌で感じるまでは疑わしいと思っていました

ましてや 科学的で論理的思考をされる方なら 全く信じられないことだと思います

 

しかし 上森さんの生の声で発せられる 本当の歴史 イエスや卑弥呼やマリア 空海の真実・・・

鶴やうさぎや魚やハートが指し示すもの 水の真実 健康でいるための秘密 アークの真実 トランプ大統領の役目・・・

その全てが 自分の体験と理解に 完全に一致するものでした

 

おまけに 昨年「ライオンロック」という奇妙な台風が通過した時

四重奏の耳鳴りが数時間も続き 身体が悲鳴をあげ 気が狂いそうになったわけですが

上森さんのお話から その謎さえ解けました

自分の体や心が感じることは やはり正しいのです

少なくとも 確認してみる価値はあります

 

「とにかくイエスと卑弥呼の墓に行きたい」と願っていたけれど もっと自分にできることがあると感じました

本質に気づかされた感じです

(きっと 私に行ける時機がくれば 簡単に行けるでしょう)

お墓の前でなくとも どこからでも祈りは届きます

どこにいても 時空など超えて 子孫の生き方や姿は 見えるものです

どのように生きることが 彼らを喜ばせる生き方なのか・・・それは明らかです

 

イエスや卑弥呼は 私たち日本人の共通の祖先です

そればかりか 日本こそ 本当のキリスト教の国です(ここが最大の難問であり 堪え処でしょう)

親やご先祖や祖先を敬う気持ちとは 神仏を敬うこと・大自然を敬うこと・自分とすべての命を敬うことと同義です

そのご先祖様の真実(歴史)が 隠されているということは それが失われているということであり 彼らの悲しみなのです

自分たちが何をして 何を望み何を望まなかったのか 正しく知ってほしいはずです

いつまでも 親は子がかわいいのです

私たちのことを愛おしく思い いつも見守り そして「生を全うしてくれよ・・・」と祈っておられるでしょう

 

本当のマリア様(イエスの母)は 例えるならば「モンペをはいた 田舎のおっ母さん」だそうです

上森さんから そのお話を聞いていたら 涙が流れました

キリシタンだった祖母の面影と重なり どうしようもなく心が震えました

神とは命のことです 親の愛とは神です 水や空気は神です 全てが神であり命です

そして 命の証は そこに心があるということです

 

後の世が あらゆるものが命の美しさに取って変わってしまう時代になるなんて ご先祖たちはどう思っておられるのでしょう

心が失われ 結果と方法論だけに終始する世界を どう思われているのでしょう

 

宇宙の成り立ちやこの世界に生きる自分という存在のことも まだまだ判らないことだらけです

でも 羅針盤は心(感覚と感性)しかありません

外側の情報や常識とされていることの脆弱さを 突きつけられた気持ちがしています

もしかしたら 上森さんのされていることは そのことを再確認させてくれたのかもしれません。


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日月神示 神一厘の仕組み

2016-08-29 18:42:09 | かごめかごめの真実とは

2016年8月30日(火)

風10号、あたかも何かをけん制しているかのようです。

ギリギリの攻防のように私には写ります。

その台風の進路にあたる鹿島灘沖に向かう霊ラインがあります。

台風はそこから塩釜へと向かう様子です。

昨日、日月神示が降ろされた麻賀多神社の存在を、千葉のHさんから教えられました。

それで私の脳裏には、「まさか・・・!」と思って国土地理院地図を開いてその神社の場所にポイントを打って、

イエス王家の陵墓である岡山県の天神山にポイントを打って、点と点を結んでみました。

なんと、「まさか・・・!」が的中です。

天神山から東へ熊山遺跡、京都御所そして東京の御所を通って麻賀多神社が見事に一直線です。

このような偶然はありえません。

オリオン座もさそり座もそろい、突然、岡本天明に日月神示が下された麻賀多神社の存在とその位置関係を教えられました。

いよいよ日月神示の神一厘の仕組みの始まりの時が近づいているのかもしれません。

藤原君は、自分のご先祖様がとてつもなく大きな神であることを知らなければ、大変な間違いを冒すことになります。

そして王家の方々は、初代大王イエス・キリストの事、その血を引き継いだ女王卑弥呼の事、そのルーツの方であるマリアの事を世の人々に語り、

世界の為に彼らが何を成したかを知らしめなければなりません。

一刻も早くそれぞれの陵墓に出向き手を合わせ、又、イエス王家の陵墓にも早く行って手を合わせなくてはなりません。

それが責任あるものの務めです。  

一筋のマコトを通して呉れよ!」と、龍神様も言って居られる御様子です。 

日月神示原文と解釈

 

麻賀多神社の社務所で天明が最初に自動書記で書かされた原文は下のようなものであった。

 「二二八八れ十二ほん八れ ㋹の九二のま九十の㋹のちからをあら八す四十七れる」  これは次の通りに読めると言われている

 「富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる」

 続いて

 「卍も十も九も八きりたすけて七六かしい五くろうのない四かくるから 三たまを二たんにみかいて一すしのま九十を十四て九れ四 いま一十九十六あるか 九の九六八三たまを三かいておらぬ十こせぬ 九の四八まって二十十七一九六てある」  これについても読み方は

 キリストも何もかもハッキリ助けてシチ難しい御苦労の無い世がくるから ミタマを不断に磨いて一筋のマコトを通して呉れよ 今一苦労あるが この苦労はミタマを磨いておらぬと越せぬ この世始まって二度とない苦労である」

 解釈としてはマコトの神が世に出現して神の力を現して、すべてを助け何の苦労もない理想的な世界に立て直していくが、その前には人類は未だかつてなかったほどの大災厄や大試練を迎えなければならない。助かるためには身魂[9]精神身体)を絶え間なく磨き、鍛練しつつ備えよ。磨いていなければ助かることが出来ない。という内容だと考えられている。

 

 麻賀多神社日月の山に向けて造られていることが後日分かりました。


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邪馬台国新論

2015-08-11 12:34:48 | 邪馬壹国

2015年8月11日(火)

       秘密NIPPONの《超建国》裏返史  11月発売予定!!

プロローグ       

 朝、電車の窓から何の気なしに空を見上げる。うわ~~~、きれい!! なんだろう、あの色・・!! 白いモコッとした雲のわずかな切れ目に、うすい紫がかったブルーの、神秘的な色。その一層の雲は、まるでこの世とあの世を繋ぐトンネルの入り口のように見えた。あまりにも美しい、その色をとおして、神様が「それでいいんだよ」と応援してくれているようだ。

 私が不思議な世界へと誘われて丁度5年が来ようとしている。

 一切の宗教にも関わりのなかった私だったので、神社にもお寺にも教会にも行くことが無い人生を送っていた。でも、物心ついた頃からというのか、自我がハッキリと芽生え出した頃からというのか、なぜか、「神様も安心して姿を現す世界を造らなければ・・」と、いつも思っている私がいた。

 私は、少年時代から、ひとりで寝転がって空を見るのが、とても好きだった。

 宗教が説く神様ではなく、生まれた時から、いや、生まれる前からかも知れない、私を誰よりもよく知ってくれている、ある絶対的な存在がいて、それを私は「神様」とよんでいる。

 56歳7ヶ月のあの時まで、私は、ただただ一方的に神様に話しかけるだけで、神様が言葉を発してくれるとは想像もしていなかった。黙って空をながめては雲の形や流れを楽しんだり、野山を吹き抜ける風に身をさらして心地よい思いをしたりして、神様を感じていた。私にとっての神様は、そんな寡黙な存在だった。

 ところが、2010年8月11日、56歳7ヶ月のその日、私は、初めて、はっきりと、神様の声を宗像大社で聞いた。

よぉ来たのぉ

これが神様からの初めての言葉だった。そして、その時から、私は、神様が私に語りかけてきてくれる声が、だんだん分かるようになった。それは、しばしば直接的だったり、「そう言われている“気”がする」という状態だったり、また多くの場合には、人々の口を通して伝えられてきたりする。

 その声の主は、時に左耳から聞こえるのは空海様のようであったり、右耳から聞こえるのは天皇家の誰かのようであったりもする。そうやって聞こえてくると、ほとんどの場合、言われるとおりに動かないと、居ても立ってもいられない心境に追いやられる。

 まだ初期の頃のある時、私に契約を迫った神様との交渉の中で、白紙委任状にサインさせられる、という事態まで起きて、それまでの、ごく普通の生活を一変しないとならなくなった。建築家としての仕事はもちろん、偶然に偶然が重なってできあがった超自然的な器具ネオガイア・テラファイトを製造するにも販売するにも十分な時間を与えられることなく、神様の指示に、ただひたすら従う、という生活に完全に変えられてしまった。

 神社仏閣にもほぼ無縁の生活を長い間送ってきた私が、数え切れないほど次々と寺社めぐりさせられたり、穴掘りさせられたり、山登りさせられたり、事務所にいればいたで、テーブル上に大きな地図を広げて、真剣に、行ってきた場所や脳に響いてきた場所にポイントを打って、無数の線やら図形やらを描き続けて、一見、仕事らしい仕事もしなくなってしまった。かつての私を知る人達が皆、異口同音に「上森は頭がおかしくなった。気がふれた」と言って、去って行ってしまわれたのも無理からぬことと判っている。

 こんなにまで私を使って、神様は、いったい何をしたがっているのか? 契約を迫ってきた時、神様は必死の様子で「時間がない! 時間がない!」と怒るように言われた。

 はじめは神様の指示が何の脈絡もないものと感じていたのだが、地図にひかれた線が十字架を示すものであったり、そのうち、きれいな正三角形や二等辺三角形が描けて、図形の点と点の場所にそれぞれ大きな意味が見いだせてきたりして、これは、ただならぬことだとわかるようになった。

 神様からの声もやり方も相変わらず続いている。しかし、神様の方では本当に時間が限られているようで、今年、2015年に入ってから、特に5月の連休あたりから事態は急速に進み出した。

 5年間、神様と文字通り会話することで、神様の全知全能ぶりもわかるようになった。私たち、3次元に肉体をもって生きている人間は、実は、無限の力をもっているのだが、真実を覆い隠されているために、自身を限定してしまっている。3次元の眼で見える事物しか見えていない。見える世界と見えない世界、この世とあの世、この両方の領域で私たちは生きているのだが、この事実を知らないでいる。また、もっと言えば、私たちは、過去、現在、未来に同時に生きている。それは、神様と一致した時、つまり、自我をなくした時、たいへんよく感じられるようになる。

 もし、教えられ、思い込まされていた過去が、全く違ったものであるとしたら、当然、現在の状況も、未来の予測も、違ったものになる。ほとんど教科書的な歴史の知識のない私が、それこそ神様から直接教えられた“歴史の真実”を語ることで、その内容を誰かが信じてくれるなら、そして、たったひとりでも勇気をもって行動を起こしてくれる人がいるなら、明らかに現在も未来も、想像外の世界を創りだせる。

 最近、自分自身でも驚くくらい、神様はいろんな事を一気に、おそらく誰も知らないであろう事柄を、私に直接教えてくれている。とても信じがたいような、奇想天外な話である。

 

 丁度 5年前の今日8月15日でした。  今も神様はこの国の秘密を私に教え続けています。 

その教えられたことを「邪馬台国新論」として纏めてみました。

 

『魏志倭人伝』に合わない日本の史書

「邪馬台国」は、西晋の陳寿(ちんじゅ・233~297)の編纂した『三国志』(成立は280年以降と言われる)という中国の正史の中の「魏書(ぎしょ)」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(うがんせんぴとういでんわじんのじょう)、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に登場する国の名前だ。

つまり、中国の歴史書に記された日本の歴史なのである。紀元239年、倭国の女王卑弥呼(ひみこ)が魏に使節を送り、240年には魏からの使節が倭国に来た。『魏志倭人伝』は、主にこの時の魏の使節の見聞を元に書かれたと思われる。

その後、243年に倭国の使節が再び魏を訪れ、247年には再び魏の使節が倭国を訪れている。このとき、魏の使節は卑弥呼の死に遭遇し、『魏志倭人伝』には、その前後の様子も記述されている。

 問題は、この「中国の史書に書かれた日本」と「日本の史書に書かれた日本」がぴったりと合わないことである。日本で古代の正史とされているのは、『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)だ。

『日本書紀』には、神功皇后の条に唐突に『魏志倭人伝』からの引用があって、神功皇后を卑弥呼にあてようという『書記』の編纂者の意図が見られるが、前後に引用されている百済史との年代の矛盾が指摘されている。『書記』の編纂者は『三国志』を参照できる立場にあって、これをなんとか当てはめようという苦肉の策をとったのだろうが、引用のみで済ませて、日本側からの記述がまったくないのも不自然だ。

 要するに、合わないのだ。『古事記』、『日本書紀』には、編纂当時の政治状況が大きく反映しており、その当時の天皇家が日本を治めることの正当性と正統性を主張する意図で編まれているため、それに合わない国内のものは抹殺(焚書)し、国外のものは先の引用のようにごまかすか無視しているのだ。

 つまり「邪馬壹国」も「卑弥呼」も、日本の正史には登場しないと言っていい。

果たして、どこにあったのか? 大和朝廷との関係はどうなっているのか?

この謎は解けるのだろうか?

 

魏志倭人伝が語る邪馬壹国への行程

 

さて、畿内・九州の邪馬台国論争が始まったのは江戸時代後期というから、すでに150年は論争を続けていることになる。

なかなか決着がつかない理由のひとつは、『魏志倭人伝』に記載されている「里程」にある。

これがなかなか曖昧で数々の解釈が可能なのだ。

 

見てみよう。(「・・・」は中略箇所)

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を度る、千余里、対馬國に至る。・・・又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。一大國に至る。・・・ 又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。・・・ 東南陸行、五百里、伊都國に到る。・・・東南奴國に至ること百里。・・・ 東行、不彌國に至ること百里。・・・南、投馬國に至ること、水行二十日。・・・ 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。

これは、なかなか解けそうもない。別のヒントはないのだろうか?

このような記述がある。

女王國自り以北、其の戸数・道里、得て略載すべし。其の余の旁國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に已百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に對蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

「女王国より以北」については、いろいろ議論はあるだろうが、要するに、今まで記述してきた国については、邪馬壹国への行程にあたり実際に使節が通った国なので、その概要(本論考では省略した。「・・・」の部分にあたる)を述べることができたが、以下の国については、名前だけを挙げるということだ。

 

魏志倭人伝に出てくる、耶馬台国の周辺国

 

さて、ここに挙げられた国名だが、神奈備こと瀬藤禎祥氏のホームページの解釈が非常に優れているので、引用させていただくことにする。瀬藤氏は「女王国周辺とその余遠絶国と神々」と題して、細かく神社名とその住所等を記載されているが、ここでは、国名に関する記述だけ抜き出す。

 

斯馬國 しま 三重県南部 志摩

已百支國 いほき 三重県 五百木

伊邪國 いせ 三重県の伊勢から鈴鹿山脈東部から北は養老山脈にあたる平地

郡支國 とき 奈良県添上郡都祁

彌奴國 みの 美濃、尾張である。

好古都國 こうち 大阪府河内

不呼國 ふこ 京都府綴喜郡、久世郡。木津川、宇治川等の合流点。ここに封戸と呼ばれる渡りがあった。

姐奴國 たな 滋賀県栗太郡、草津市と信楽町。

對蘇國 やす 滋賀県野洲郡、琵琶湖西側から越前までを考える。

蘇奴國 そう 層富。奈良市から北部、京都府相楽郡。

呼邑國 こう 滋賀県甲賀郡 信楽、水口、甲賀。

華奴蘇奴國 かんそう 奈良県添上郡。

鬼國 き 山城の紀伊郡、木津川北部から京都市の市街地付近。

為吾國 あが 三重県伊賀郡、伊賀上野、名張。

鬼奴國 きの 和歌山県、三重県南牟婁郡

邪馬國 やま 京都府 京都市北部、亀岡、園部、丹波高地

躬臣國 こし 北陸方面、越前、越中、越後、近江伊香保

巴利國 はり 兵庫県播磨

支惟國 きみ 岡山県広島県。吉備。備前、備中、備後

烏奴國 えぬ 上野、北関東

奴國 な 信濃、長野県

 

ちなみに、瀬藤氏の説は「邪馬台国畿内説」で、魏の使節の経路は日本海から来たとしている。

 上森は、この「周辺国」を邪馬壹国の「境界線」としてなぞって、その版図を比定した。その結果、邪馬壹国は、但馬、丹後、丹波、摂津、大和にまたがる国土であることがわかった。

 そして、行財政を司る首都は大和の纏向(まきむく)で、女王卑弥呼がいた都は、『播磨国風土記』に「埴岡の里(はにおかのさと)」と記された、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがるエリアだったと推定したのだ。

 

魏の使節は生命の樹を辿って倭国に来ていた

 

さて、版図が比定できたら、次は、魏の使節のルートだ。

 畿内への航路としては、日本海の外海を通るより、やはり瀬戸内海の方が良いのではないかと思われる。理由は3つある。

図をご覧いただきたい。

前出の「イエス・キリストの生命の樹」である。

 

 

この図形は、生野の八幡山から長崎の伊王島へのラインを中心として重要拠点の位置を決めるべく作られたまさに「古代日本の設計図」だ。

11番目のセフィラ、「ダート」は、福山・大門を入り口とする総社だ。

 この「日本の設計図」を霊的・精神的な意味で非常に重要なものと考えていた倭国の人々であれば、当然航路はこの「中心線(センター・ライン)」を意識して決められ、日本海ではなく、瀬戸内ルートになると思われる。そして、出雲大社と馬路を結ぶ「パス」とセンターラインの交点に重要な寄港地である大門がある。

 もうひとつは「航海の安全」である。瀬戸内海も流れのきつい難所が数か所あるが、台風や嵐の影響は外海よりは安全である。

最後に、監視ができることも重要だ。瀬戸内海沿いには海がよく見える山が両岸にあり、船の状況が手にとるようにわかるのだ。

 

順序が逆のようだが、先に結論の地図を示しておく。

『魏志倭人伝』の「郡」は「帯方郡」で、現在のソウル付近と言われる。港としては仁川(インチョン)である。現在は空港があって、ソウルの玄関口になっている。

さて、船の到着地の西宮にも、「仁川」という川、そして地名がある。六甲山を源流とする武庫川の支流の川であり、流域の地名にもなっている。出発地と到着地に同じ地名をつけたのである。すなわち「仁川」から「仁川」へのルートだ。

仁川(インチョン)から朝鮮半島を海岸沿いに「狗邪韓国」まで行く。狗邪韓国の港、馬山(マサン)は古代からの良港であり、元寇のときも基地として使われた。

馬山から対馬に渡る。ここで注意しなければならないのは、対馬で船を乗り換えるということだ。対馬は、北の島と南の島でできていて、「対(つい)の島」という意味なのだろうが、実は陸続きなのだ。小さな舟ならば、陸を運ぶことができるが、大きな船は無理である。そして、なぜか「対の島」ではなく、「対の馬」と書くのだ。

馬山→対馬と、対馬→壱岐→呼子は別の航路で、それぞれに習熟した船乗りがいたのではないだろうか。

 

 

使節のルートはレイラインにも一致する

さて、この図から分かるように、中国の道教の聖地・千山と、使節の出発地である帯方郡(仁川)、その使節が立ち寄る狗邪韓国(馬山)、対馬、壱岐、そして九州本土への上陸地点の呼子は一直線になるのだ。

 上森はかつて千山を訪問した際に、ピラミッド型の形のよい山が、千山を起点に一直線に並んでいるのを見て、コンパスグラスで方角を測っておいた。その角度が真北から145度、つまりこの直線の方向を指していたのだ。

 

2010年以来、上森が教えられているのは、古代からの重要な拠点は、一直線に並んだり、正三角形、直角三角形、二等辺三角形などのきれいな図形を描くことだ。また、そのために、ピラミッド状の美しい山が作られていることもある。

ここにもまさしくそれがあるのだ。

 

「福」の地と円錐形の山を通る七福神の道だった

 

呼子に上陸した使節の一行は、福吉、福岡、福津と、わざわざ陸路を歩かされる。船で行った方が早いのだが、陸路を行くことによって、国防の為に、島か半島を横断したように見せかけて、地理的な関係が分かりにくいようにしているのだ。

そして、航海の安全を守護しくれる宗像大社(弁財天の総本宮でもある)に参拝し、再び船に乗って、関門海峡を通り、八幡(ヤハウェ)信仰の拠点・宇佐八幡宮を船上から拝し、「イエス・キリストの生命の樹」の「ダート」でり、物部王国の総本部・総社(大名持=大国主=大黒様を祀る)への入り口、福山の大門までやってくる。これが水行二十日で、ここが『魏志倭人伝』の「投馬国」にあたる。大門には、鶴島・亀島があり、瀬戸内海の潮の変わり目になっている。

大門を出た一行は、瀬戸内海をさらに進み、西宮に上陸する。上陸地点の目印はきれいな円錐形の甲山(かぶとやま)である。ここには戎(えびす)神社(戎神社の総本宮)があり、甲山の東には仁川がある。

西宮から、宝塚、三田、篠山、春日、福知山、粟鹿を通って、卑弥呼の住む埴岡の里・栗まで1ヶ月の行程だが、陸路といっても、岸から馬や人力で船を曳いて川を遡れるところは、船で行った可能性が高い。西宮から武庫川を遡れば、宝塚までは十分に行ける。

西宮から栗までの間にも、要所要所の目印に、円錐形の山が配してある。三田の有馬富士、春日の小富士山、粟鹿の小倉(おぐら)富士・・・実際に踏査すればもっとたくさんあるに違いない。

「福」のつく土地と、弁財天、戎神の総本宮を通り、大黒天の総本部を意識したこのルートは、「七福神の道」ということもできるのだ。

 

 

国は国境線の警護が重要懸案事項である

 

九州の方から瀬戸内海を船で来て、生野・神河の「埴岡の里」に行くのなら、姫路から市川という川沿いを今のJR播但線のルートを遡れば、ずっと早く着ける。しかし、卑弥呼の時代、ここは邪馬壹国の領土ではなかった。安全のためには、領土が海に接している西宮から、ずっと領地を通って来てもらう方が、日数はかかるが、安全である。

卑弥呼の時代より以前、「大乱」が起こる前は、姫路から北上するルートも同じ国の領地であったのだが・・・。

 

 

 「南」について

 

今まで、「邪馬台国畿内説」を悩ませてきたのが、方角の問題である。里程の書いてある部分をもう一度引用してみよう。

 

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を度る、千余里、対馬國に至る。・・・又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。一大國に至る。・・・ 又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。・・・ 東南陸行、五百里、伊都國に到る。・・・東南奴國に至ること百里。・・・ 東行、不彌國に至ること百里。・・・南、投馬國に至ること、水行二十日。・・・ 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。

 「東行」「東南陸行」はそれぞれ1回出てくるが、「南行」は出てこない。原文では「南至投馬国」「南至邪馬壹国」となっている。

 さて、1冊の小冊子がある。兵庫県美方郡香住町の香住観光協会が発行した『御崎(みさき)平家村のおはなし』だ。

そのなかに、こんなくだりがある。

 壇ノ浦の合戦に敗れた平家の一門の内、清盛の異母弟にあたる平教盛(たいらののりもり)は、そのとき入水したことになっているが、実は落ちのびて、香住に来たという。

その教盛が落ちるときに言った言葉が、

「この壇ノ浦よりも遥か南に壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮らしていけるだろう」

というだ。結局、日本海を東に流されて香住に着くのだが、壱岐・対馬は、壇ノ浦からは、北西方向だ。「この壇ノ浦よりも遥か南」とはどういうことだろう。「南」は方角を指していないのだろうか。

 この小冊子は観光協会が地元に伝わる伝承を元に作成したもので、「史料的価値なし」あるいは「勘違いか書き間違えだろう」と言って片付けてしまえばそれまでである。しかし、上森の探究には、こういったことがつきものなのだ。ヒントは思わぬ形でやってくるのだ。

 では、「南」の字そのものを検討してみよう。まず上の「十」は「草の芽」だ。そして「冂」は「囲い」、「 」は「ナン」の音符であるとともに「入れ込む」意味を含んでいる。全体として「草木を囲いで囲って、暖かい小屋の中に入れ込み、促成栽培をするさまを示し、囲まれて暖かい意。転じて、暖気を取りこむ南がわを意味する。」(『学研漢和大字典』藤堂明保編より)

 

 

灘のつく海域

 

 さて、「囲む」といえば、この航路を見ていると、入江・内海に「灘」のつく地名がたくさんある。現在の地図で分布を調べてみた。

 

 黒丸が「灘」、白丸が「湾」である。地図以北も「湾」はあるが、現在では「灘」は「鹿島灘」が北限である。以前には「常盤灘」と呼ばれた海域があり、福島県沖までがその範囲だ。

今の地図にはないが、神戸沖は「摂津灘」だった。

他にも近世に呼び名が変わってしまっているケースもあるが、この図は、ある勢力の「制海権」をあらわしているように思える。

 

 ちなみに「灘」を漢和辞典で調べると、「水がながれなやむあさせ。」が元の意味である。「難」は水にとっての「難」なのだ。それが、日本に入ってきて「船にとっての難」すなわち「陸からやや離れて、波が荒い、航海の難所。」の意味に転じることになる。

 図を見ると、元の意味と日本での意味の過渡期に名づけられたのか、瀬戸内海の穏やかな海域にも、「灘」と名づけられている箇所がたくさんある。地形では、両側を岬に囲まれ、やや内側に湾曲した海岸線の場所につけられていることが多いようである。ちなみに、瀬戸内海での最大の難所は「音戸の瀬戸」と名付けられている。

 さらに、海域だけでなく、地名としても使われているので、国土地理院のウォッちずで「灘」と入れて検索をかけた結果がこの図である。海域ならずとも、西日本の海岸沿いにほぼ限定されていることがよく分かる。

石川県の河北潟、島根県の宍道湖と中海の畔に集中しているのは、それらの中海を「灘」と認識しているということだろう。また、淡路島の南の海岸沿いに並ぶのは「海に面した」という意味合いで、小豆島の灘山も同様だろう。

高知県は、湾の名前こそ現在は「土佐湾」だが、かつて「土佐灘」と呼んだ名残か、「灘」のつく地名はかなりある。それも「灘」1字を地名にしていることが多い。内陸部に1ヶ所あるのは、湿地帯だったのかもしれない。岡山県の内陸部には「灘池」がある。

岐阜県にある2ヶ所は、川の合流地点を「灘」と意識しているようだ。あるいは、水軍が川を遡って地名を運んだのかもしれない。

 海外の「灘」のついた地名が紹介されているウエブサイトもあり、大連の「老虎灘(ろうこたん・ラオフータン)」は入江というよりも河口、上海の「外灘(ワイタン)」は川の合流地点、古菫灘(ことうたん)は砂漠の中の小さな川の畔と、いずれも川で、日本の「灘」とはつけ方が違うようだ。日本の「灘」の地名の分布には、やはりある部族(水軍?)が関係しているように思える。

 それは、邪馬壹国への航路を守護していた水軍なのではないか。その勢力範囲を後に平家が引き継いだのではないか。平清盛が宮島の厳島神社に深く帰依し、瀬戸内海を航路とした日宋貿易に力を尽くしたことはよく知られている。

 

 

南無

 

「南無」を辞書で調べると、「サンスクリット(古代インド語)のナマスおよびナモーの音写。敬意、尊敬、崇敬をあらわす感嘆詞。」とある。

仏教用語としては、その通りだが、「なむ」と発音する言葉は、日本語には係助詞、終助詞、助動詞、連語、さらに「並ぶ」「並べる」という意味の動詞もあって、非常に身近な言葉だ。

もともと、漢訳の経典に登場したものとはいえ、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「南無大師遍照金剛」「南無釈迦牟尼如来」と庶民の間に流布したのは、おそらく日本だけだろう。

「南無」の意味は、日本語では「帰依します」だが、「南」(単独の発音「ナン」は「なむ」とほぼ同じ)の元の意味「囲まれて暖かい」を加味すると、さらに実感がわくのではないであろうか。「阿弥陀さま」「法華経」「お大師さま」「お釈迦さま」に守られて心から安心できる境地になるということなのだ。

 さて、再び「南」の字だが、「囲んで保護する」という意味合いと、「灘」と同じ「ナン」という音から、「内海」あるいは「領土内の海」「勢力範囲内の海」「安心できる場所」を意味する言葉であったと考えてみると『魏志倭人伝』も「平教盛の話」も合点がゆく。

 ここからはやや空想だが、魏の使節は太陽とか星を見て、方角を確認したのだろうか?あるいは、案内役の倭人に聞いたことをそのまま受け取ったのだろうか?

案内役の倭人が、魏の使者に「向かっている方向はどちらか?」と聞かれて「ナンだ」と答えたとしたらどうだろうか? 彼は、魏の使者をだますつもりなど毛頭ない。「内海で勢力範囲内で我々が安心できる航路だ」と答えたのだ。

 

 

女王国の東

 

畿内説を悩ませてきたもうひとつの記述が「女王国の東」である。引用してみよう。

 

女王國の東、海を渡る、千余里、復た國有り、皆倭種。

 

畿内説では、東に海がないからである。

上森説の邪馬壹国の版図は、日本海岸まで達しているので、東へ海を渡ることができる。千余里は1里=77mの短里で計算すると、77km余なので、80kmくらいか。

この距離は、丹後半島の伊根、あるいは宮津、舞鶴から出発して、敦賀湾の奥の敦賀までの距離に相当する。ここには気比(けひ)神宮という神社があって、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)というこの神社特有の神様だ。この神様の降臨の地、「土公」と呼ばれる塚には、大きな木が生い茂っているが、卵型の岩が八角形に並べられていて、最澄さま、空海さまが7日7夜の祈祷をされたというから、ただ事ではない。

また、気比神宮の摂社に角鹿神社(つぬがじんじゃ)があり、『日本書紀』に垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が祀られているのも注目に値する。

 

 

邪馬壹国の正しい読み方は「しゃもいっこく」

 

魏志倭人伝の原文では、卑弥呼が君臨した国はほとんど「倭国」あるいは「女王国」と表記されているが、一ヶ所だけ、邪馬壹国という国名が登場する。ところが、日本では「壹(壱の旧字)」は「臺(台の旧字)」の誤記とみなされ、一般には「邪馬台国」と呼ばれている。

どんな字が間違えたと言われているのか、大きく表示してみよう。

   

                

    

果たして、間違えるだろうか?

今に残る写本の時代はかなり新しいものではあるが、写本を作ったのはその道のプロである。内容は分からなくても、漢字の写し間違いは可能性が低いのではないか。伝わる間に草書が入ったのなら、写し間違えもありうるが、歴史書に草書は使わないのではないだろうか。

上森は原文の「壹」のまま読んで、これを「しゃもいっこく」と読む。

では、漢字をひとつずつ調べてみよう。

「邪」には、ふたつの意味がある。

ひとつは「よこしま」という意味で、この意味で使う場合、呉音では「ジャ」、漢音では「シャ」と発音する。ちなみに漢方医学では陰陽がバランスを失ってひずんでいる状態をこの字であらわす。「風邪(フウジャ・かぜ)」もそのひとつだ。

もうひとつの意味は「や・か」で、文末につけて疑問をあらわす。この意味のときの発音は、呉音・漢音ともに「ヤ」である。山東半島の付け根には「琅邪(ろうや)」という地名があり、徐福の出身地という説もある。

「馬」は「うま」だが、「向うみずに突き進む」の意味を含むという。

この字は呉音では「メ」、漢音では「バ」、唐宋音では「マ」と発音する。

「壹」  は「ひとつ」の意味で、呉音が「イチ」、漢音は「イツ」である。

 「国」は「くに」、呉音・漢音ともに「コク」と読む。

 「漢音」は、遣唐使が持ち帰ったそのころの長安の漢民族の正しい発音、それに対し「呉音」はそれまでに日本に伝えられていた発音なのだが、長安の言葉からすると「いなか言葉」のようなニュアンスで「呉音」と呼ばれたらしい。「唐宋音」は、鎌倉時代以降に禅宗の留学僧らによって伝えられた発音だ。

 

 「邪馬壹国」は、「邪」を「よこしま」の意味とすると、呉音では「ジャメイチコク」、漢音では「シャバイツコク」となる。

 「邪」が「や・か」なら、呉音では「ヤメイチコク」、漢音では「ヤバイツコク」となる。

 状況から考えて魏の使節は漢音を発音していた可能性が高い。つまり「シャバイツコク」または「ヤバイツコク」である。

 

 さて、上森は、2012年2月、丹後半島の竹野(たかの)神社の社殿の正面上部に掲げられた、つがいの鶏の彫刻を不思議に思っていた。この場所には通常なら竜や鳳凰の彫刻があるはずだからだ。一年後、これは「軍鶏(しゃも)」だと思い当たった。それは、この国の基礎をつくった「モー・シェ」の名前をさかさまに発音して「シェ・モー」そして「シャモ」。

 この神社の別の社の扉にはユダヤの「エフライム族」を象徴するブドウを背景にイエス・キリストを象徴する狐が彫られていたり、その脇障子には、仙人が息を吹くとその息の中にもう一人の仙人が現れる彫刻があって、日本で生まれたモーセの帰国をあらわしていて、神社全体としてこの国の基礎をつくった人たちへの尊崇の念が表現されていたのだ。

 そして、上森は「邪馬」も「シャモ」であり、「邪馬壹国」は「シャモイッコク」と呼び、意味は「モーセの律法を第一とする国」だと考えた。

 では、魏の使節は「シャモイッコク」の「モ」にどうして「馬」の字をあてたのだろう。

 漢和辞典によれば、「馬」の字を「マ」と読むのは後の時代なので、卑弥呼の時代なら、「馬」と書いてあれば「バ」と読んでしまうだろう。

 さて、鉱物の「雲母」は「ウンボ」ではなく「ウンモ」と発音する。天皇の生母「国母」は「コクモ」と呼ばれる。「m」も「b」もいったん唇を閉じてから、母音を発声するときに唇を開く。「m」と「b」は相互に変化しやすい音なのだ。

もし倭人が「m」を「b」のように発音する人たちだったら、正式名称「シャモイッコク」を「シャボイッコク」のように発音したであろう。この「ボ」を写すのに「馬(バ)」の字を使うという可能性も十分に考えられる。

つまり、『三国志』の読者の中国の人たちは「シャバイッコク」と読み、倭人は「シャボイッコク」と発音していたはずだが、正式名称は「シャモイッコク」なのだ。

 または、漢和辞典には「唐宋音」と書いてある「馬」の「マ」の発音が、魏の時代から行われていた可能性もある。もしそうならば、このような煩雑な考察を経ずに、「シャマイッコク」、母音を軽く読むと、「a」が「o」になって「シャモイッコク」の読みが可能だ。

 上森が千山に行ったとき、中国の知人に邪馬壹国を読んでもらったら「シャモイーグァ」と発音した。現代の中国でも「邪馬」は「シャモ」なのだ。

 さらに、魏の使節はモーセやキリストを意識していた可能性もある。モーセが日本に理想国家をつくろうとした拠点は、今の鳥取県の東郷池の畔、馬ノ山だ。「馬」はモーセの象徴として、「対馬」「馬路」「馬山」などの地名にも使われた。『魏志倭人伝』のなかにも、「対馬」以外に「斯馬国」、「邪馬国」、「投馬国」がある。

さらにキリストは、馬小屋で誕生したと伝えられている。やはり「馬」に縁があるのだ。というよりも、キリストはモーセの血をひいているので、それを示すためにこの「馬小屋」の話が作られたのだ。

そのモーセとキリストが理想国家をつくろうとした国、またそのふたりの墓を祀る国、「邪馬壹国」に「馬」の字を意識的に使ったとも考えられるのだ。

そうなると、一般には「邪」も「馬」も悪字で、中華思想から周辺国の名前に意識的に悪字をつけたと言われているが、「馬」は悪字ではなくなる。

ちなみに「卑弥呼」の読みであるが、呉音では「ヒミク」、漢音では「ヒビコ」となる。「ヒミコ」という読みは呉音と漢音を混ぜてしまっているが、よいのだろうか。われわれはあまりにも「ヒミコ」という読み方に親しみ過ぎているような気もする。

 

 

魏志倭人伝が伝えた卑弥呼の死

 

さて、248年に卑弥呼が死んだとき、ちょうど来日していた張政がその様子を見聞することになった。もっとも、国内のどこにいたのかは分からない。記事は人から聞いた話のようでもある。

 卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、奴卑百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺(ちゅうさつ)し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壹與(いよ)年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。

 

 宗女壹與については、この記述の通りではないと、上森は教えられている。これについては稿を改めることにするが、ここではこの記述にしたがって論を進めて行く。

 この墓も埴岡の里に実在する。上森が「婀月山」と名付けた779mの山の頂に、底円部直径100m、上円部の直径50m、墳丘の長さ150mの、どこから見てもきれいなドーム型の墓が作ってあるのだ。

 

(七宝寺から眺める女王卑弥呼の陵墓)

 

上森は殉葬の場所も教えられている。

 『魏志倭人伝』には倭の地の風俗や自然などの記述もある。その中に「山椒」があるが、今でも山椒は神河町の特産のひとつだ。また、『魏志倭人伝』に書かれている「橘」と同じ柑橘類の「柚子」も神河町の特産品だ。そして、猿や雉もいる。

さて、張政らは、政情が不安定な中、帰国することもできずに、命の危険を感じつつじっと身をひそめて不安な毎日を過ごしていたことだろう。帰国が決まったときには、さぞほっとしたに違いない。

 

政等、檄を以て壹與を告喩(こくゆ)す。壹與、倭の大夫率善中郎将、掖邪狗等二十人を遣し、政等を送り還す。因りて臺に詣り、男女生口(しょうく)三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。

 

魏から来ていた張政は、壹與に「そちが倭国を治めるのを、大帝国の魏が承認するので、しっかりやるように」との文を送った。それに対し、壹與は、先に「率善中郎将」の位を魏から賜った掖邪狗ら20人を、張政に同伴させて魏に帰国させた。そして魏の都に至り、男女の生口30人を献上し、そのほか、白珠5000孔、青くて大きな勾玉を2枚、織物20匹を貢いだとのことだ。

 

ここで、「臺」(魏の都、洛陽の中央官庁のこと)の字が使われていることにも注目したい。

そして少し前の卑弥呼が存命中の243年の記事には、

 

 其の四年、倭王、復た使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木 ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す

 

とあり、「壹拝」(拝受すること)という熟語も使われている。筆記者はきちんと「臺」と「壹」の区別をしているのである。すなわち、国名は原文通り「邪馬壹国」、宗女の名前もやはり原文通り「壹與」とすべきだろう。

 ついでながら、この使者の名前、伊声耆と掖邪狗は同じ人物を2重に表記したものとも言われているが、旧約聖書のアブラハムの子、「イサク」を意味するのではないだろうか。もちろん本人ではないが、イサクにちなんで名づけられた、ということだ。

 

 

        邪馬台国の謎は完全解明されました


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どんどんと埴岡の里の秘密が浮き彫りになっていきます

2015-07-23 12:26:36 | かごめかごめの真実とは

2015年7月23日(木)
現在の生野、神河町には大変な秘密がかくされていることが分かってきました。
もうこれは神様、空海様が明らかにしなさいと言ってると私は理解しています。

・・・このことは世界市民が共有すべき大切な事柄です。
一部の人で、隠ぺいできるものでもありません。
それは・・、あまりにも巨大な国仕掛けがされているからです。
天から降ってくる雨を防ぐこともできないことと同じようなものです。

今、この国と世界の歴史の秘密と謎を書きとめた本の原稿を執筆中ですが、
それはそれは・・常識ある人々には到底、理解できないでしょう。 
人間の常識をはるかにこえた世界があることを知ることになります。

これらのことをいち早く、26日(日)のツアーで話す予定です。 話さずにはいられないでしょう。
ノアの箱バスは 新神戸をAM9:30出発します。 
神河町の秘密を解き明かした市川慎先生がどんなことを話してくれるのか、今から私も楽しみです。
ノアの箱バスの限られたシートに座られる方々も、もうこの世に生まれた時からそのことは決められているようです。
そうとしか思われないような出来事が昨日もありました。

「私は北海道生まれです。それが今は明石市に住んでいます」と言われる女性の方が、
台風11号の夜、お友達の家に泊めてもらったら、お風呂が温泉と全く同じ感じだったと感動されて、
ネオガイアをすぐにでも取り付けたいと来店され、「日曜日ツアーがあるんですけど行かれませんか」と言うや、
「神様が行きなさいと言うことですね。私行きます!」
「お金はここで払ったら良いですか」と、それはそれは決められていたような流でした。

 ノアの箱バス、もう少々席はあるようですが、どなたが座られるのか・・・楽しみな私です。
 この世の真実を・・、自分のルーツを知ることで、人生は大きく変わることでしょう。

 ノアの箱バスには間違いなく空海様が乗られ、皆さんを御案内されることでしょう。

「大事なお客様たちが今度の日曜日においでになるので、ちゃんと打ち水をしっかりとお願いしますよ」と空海様。

 ・・・

 パラパラとページをめくると・・・

 


  ・・・に、大年神社は造られていました。
 加古川市志方町にあるイエスの公的陵墓の麓にも大歳神社があります。どちらも、そこから手を合わす方角にイエス・キリストの墓があるのです。
 ただお参りするだけで、自然に、イエス様の御霊に手を合わすように神社が造られているとは、まったく驚きです。
 なんと、ここ大年神社で手を合わせると、本当のイエス様が眠られている墓に向かって手を合わせるような設計になっているのです。
 先人達の思いと技術力の崇高さと素晴らしさには、心が熱くなります。」 



人類の聖地、神河町の遺跡を守り祀らなければばらない

 上森が発見したイエス・キリストの墓は、きちんとした手順を踏んだ末に、やがてはしっかり調査され、上森が神様から教えられたと主張してきたことが真実であると証明される日が来るのだろう。
 「十字架に架けられたはずのイエス・キリストは、実は我が国に来て、理想国家建設の初代大王になり近代日本の礎を築かれました。そして、紀元後99年11月17日に亡くなり、現在の兵庫県神河町の陵墓に手厚く埋葬されました。享年102歳でした。後には、多くの人が気軽にお参りに来れるような山の中腹に、公的なイエス・キリストの墓も造られました。
 初代大王キリストのもとで、倭国は統一され、平和と共存繁栄を謳歌しました。が、統一の要だったキリストが亡くなると倭国大乱の時代となりました。南北に分かれた勢力の和解に向け、女王として共立されたのが、イエス様の直系の卑弥呼でした。卑弥呼さんはいまの西暦でいえば199年、22歳のときに女王の座につかれました。
 でもいろいろあって、卑弥呼さんは、国譲りを強いられることになり、248年11月17日、イエス様の命日を選んで、自ら、神河町の墳墓に入定されました
 そうした古代の秘史の舞台となった現在の生野、神河町は、世界の聖地なのです。
 そしてその地には、日本の神道の神の祀り方の原型も、巨大なスケールで残されています
 イエス様の陵墓と並ぶハートが教える鶴と亀の地上絵に、日本神道の原型がそこに刻まれているのです。
 地上絵のなかには、イエス様のご先祖さまでもあるモーセの子どもたちが、日本にやってきたときに造ったものもあれば、モーセの時代、それよりずっと昔の時代のものもあるようです。
 イエス・キリストの十字架も大地に刻まれていました。その十字架の交点にイエス様の陵墓は造られていたのです。
 瀬戸内海に浮かぶ上島(神島)から小富士山と仁寿山の間を通って、北へ行って、亀ヶ壺を通ってメノラーの地上絵を通って行った先に、イエス様のお墓はあるのです。
 私が発見した地上絵は、私がその存在を公表した後に、グーグルマップでは見えないように手を加えられたりして、世の人々にはその存在が分からないようにされています。
 イエス・キリストの墓も同じように壊されることがあるかもしれません。
 心ある人たちの目、世界中の人々のより多くの方々の目で監視が必要です。
 特に、地元神河町の人達には大事な大事な世界の聖地ですし、人類的世界遺産の監視をお願いしたいと切に願う次第です。
 みんなで世界の聖地を守りましょう!!」


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イエス様の陵墓へは一切行けない措置が講じられたようです

2015-07-20 20:50:18 | かごめかごめの真実とは

2015年7月20日(月・祝)

台風11号の影響で、神崎南インターから北へは有料道路が閉鎖され、出口あたりで大渋滞でした。

お陰様で、「右手に卑弥呼様のお墓で~~す! 左手にイエス様が眠る御山が見えま~~す」という写真を写す絶好の機会に恵まれました。

   

イエス様のお墓へ行くために、太田ダムの第一ダムの駐車場に停めて、ゲート横の簡単に入れる柵から入ってほどなくしたら

「速やかに出てください!」と、どこからとなく聞こえてきたので、「私達のことでは・・」と言うことで戻りました。

ダムの方からは一切行けないようになっていました。 

私有地に付、「一切侵入禁止」という厳戒体制のようです。

 

   

それで、昼食の後、取材を終えて帰ってきました。

  

帰ってきて写してきた写真を見て私は、???

現場では一切気づきませんでしたが・・・、大きく拡大してみると・・・!?

イエス様の陵墓の上に 未確認飛行物体? 

UFOがイエス様の陵墓を守っているのでしょうか!

・・それとも、無人偵察機!?

 

神河町は本当に素晴らしいところです


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イエス様に会いに神河町へ

2015-07-20 08:23:36 | かごめかごめの真実とは

2015年7月20日(月)

 我国の初代大王イエス様に会いに、神河町の陵墓へと行きます。

台風11号の影響で、道路などが崩れていないか見てきます。

台風が大気の埃を落として、南の方角が淡路島まできれいに見えるか楽しみに・・。

今日はズバリ、取材です! 

映像は瞬時にして世界の人達につながる時代です。 素晴らしい映像が撮れますように・・・。

  

 

 

 


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毎日良い日バンザイ!

2015-07-17 09:53:28 | テラファイトと三鍼法とStapsalon鍼灸院

平成27月17日(金)

んん~~ん、良い日ですね。 なんでもない日バンザイ!

いえいえ素晴らしい、ユダヤの人々が一年で最高の日と崇める日ということのようです。

台風11号と共に空海様が浄化の旅をされているようです。

昨日も台風の風に乗って、スタップサロンを初めて訪ねられ、

施術を終わられてから少しだけ話をさせていただきましたが、

初めて会ったような気がしない私でした。

何か見えない方々が、話をなされているようで・・・。

元Jリーガーの内藤さんと、田中先生に身体を整えられて座られたHさん。

んん~~ん、ルーツ探しをされて居られたご様子に感じられました。

そして私も気づきをいただきました。 ありがとうございました。

今日、京都は素晴らしい御祭りにてご先祖様たちが集まっての宴のことでしょう。

私達のこの世は素晴らしい世界です。 でも・・向こうの世界も楽しいかなのようです。

最近私がセミナーなどで口からでてくる言葉は、

私達はタクシーの運転手さんのようですと。

自分の身体にご先祖様や、立派な神様が乗って居られて、「あちらに行ってほしい」

「どこそこまで直ぐに行ってほしい」とか言われるようです。

でも・・「忙しいので・・」とか「お客さん、そこよりもあそこの方が良いですよ」と、乗られたお客さんを無視して勝手に車を走らせてしまいます。

結果、お客さんから怒られる訳です。

お客様あっての自分なのに、どうも私の人生、私の勝手でしょ、とブツブツ言ってたら、「勝手に好きなようになされたらよろしい」と神様。

「ああ・・もう少し時間をください、ちゃんと言い聞かせますから」とご先祖様。

「もう何回ありましたか、こんなこと・・」と言って神様は、他のところに行ってしまわれる訳です。

ああ~~これは怖いことです。 知らないとは言え・・・。

そうなると・・「高貴な御霊で王家のDNAを引いている人を私は・・と、この時を待っていたんです」と、バッ!と身体を占領されます。

ああ~~これは怖いことです。知らないとは言え・・・。

身体の不調、不慮の事故、等、当然として起きてきます。

・・ですから、このような人達が施術家や医師を頼って行かれる訳ですから、そのような憑かれたと言いますか、

エネルギーが引き潮のように不調な人に、当然としてより多く接するプロの方ほど、何かを受けてしまい、身体に変調を感じることが多いという事実があるようです。

私は目に見えない不思議な世界を体験し、今もそれは進行中ですが、

スタップサロン鍼灸院で、人の心と身体がどのような関わりにあるのかを自分なりに答えが見えつつあります。

それは、心の在り様であり、その心は他との在り様で健全に満たされます。 そのことで心身共に健康で暮らせます。

 早く多くの方々に気づいてほしいと思う私です。

・・・

 東京のA神さん、出会いに感謝です。 ご先祖様たち、神様、ありがとう。

私がネオガイア・テラファイトを造らされた神様の真意を即座にご理解していただくとは・・。

多くを語らなくてもことがスムースに行くということは、神様の御意志の表れそのものです。

「お客様どちらまで!?」

「東京は板橋区まで・・」

「ヘイ合点でぇ!」

「運転手さん、東京でちゃんとした水道業者さんを覚えてないかい」

「ハイ了解しましたぁ。今も工事をやっているか聞いてみましょ!」

・・確かに、ご先祖様、神様たちの会話のような一日でしたぁ。

 7 7 7  今日は何かが起きると思っていましたが、 神様のお手伝いができた良い日でしたぁ!

 


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