ここに改めて248年に自らこの世を去った女王卑弥呼の古墳調査の記録をまとめてみました。
調査記録の動画は下記にまとめましたので、クリックして見てください。
魏志倭人伝 (邪馬台国の会HPより)
18 栽培植物と繊維
禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。
26 植物
その木には、
・(おそらくは、たぶのき)
・杼(こなら、または、とち)
・豫樟(くすのき)・(ぼけ、あるいは、くさぼけ)
・櫪(くぬぎ)
・投(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りとし、「杉」とする。苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤りか)
・橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする)
・烏号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする)
・楓香(かえで)
がある。
その竹には、
・篠(しの。めだけ、ささの類)
・やだけ
・桃支(がずらだけ。苅住昇氏は、「しゅろか」とする)
がある。
・薑(しょうが)
・橘(たちばな。または、こみかん)
・椒(さんしょう)
・みょうが
があるが、賞味することをしらない。
27 存在する動物
猴(おおざる)・黒雉(きじ)がいる。
48 卑弥呼の死
卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)のは百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。
・・・・
墓は標高779mの山頂にあり、葺き石で葺きあげられ、墳丘長さ150m 後円部径100m、上円部径50m 高さ15m の帆立貝形古墳、又は前方後円墳 の初期の形の古墳が形成されている。測量図を元に、 卑弥呼の墓を探査レーダーで調べると・・非鉄金属の反応も捕らえた。
「卑弥呼はすでに死んだ。大いに塚を造った。径(さしわたし)は百余歩」と魏志倭人伝に書かれている墓の径と、上円部径50mは合致する。又、この山には山椒がたくさん自生していて、猿も きじ もいてる。
卑弥呼の墓の西麓、栗集落に今でも残る神護石と大量の石群
墓の頂上部の概況
頂上部には、重要な各方位を教える方位磁石が狂う石が並べられている。
卑弥呼の墓の測量
探査レーダーで地中調査
第一回目調査
概要 調査日 2012年6月14日
調査場所 北緯35,109763 東経134,766841 使用探査機 ROVER-C/Ⅱ 地下ロケーター ドイツ製
調査結果
人工的な山であり、非鉄金属反応も捕らえた。(詳細はデータ参照)
墓の掘削調査状況
2012年9月19日(水)~21日(金)
一日目
二日目
日目(21日金)
表面より2mほど岩を砕いたところから、無垢の弧帯石らしき不思議な石が出現
この石は方位磁石が狂うほどに磁化している。(4ガウスを検知)
表土20㎝ほどの黒い土を取り除くと、山肌は栗石の葺石で覆われている。
土木、建築の現場で、基礎工事をするときに敷き並べられる割った石の事を、栗石(ぐりいし)と呼びますが、その語源は、卑弥呼が暮す栗で、お墓の造営工事が大規模に行われたことに由来します。
卑弥呼の墓が向いてる方向は、香住町菴月山(上古竹野郡)であり、その反対側は日本で一番最初に造られた稲荷神社の糸賀稲荷神社である。
魏志倭人伝に記載された女王卑弥呼への朝見ルートとその内容は、全て合致する。
左図は、さらに10日かかって着く最終港である西宮市の市章と、
西宮市の市章の中の弓に田と言う文字は、東西南北の西という文字であることを教える古い謄本です。
日が沈む遠い西の果ての国からの最終港が西宮であると教えています。