2015年7月4日(土)
248年11月17日 イエス・キリストの命日の日を選んで卑弥呼は入定を計画。
そしてその日その時がやってきた。時間帯は夕暮れ迫る4:00頃であった。
陵墓は埴岡の里、標高764mの岩山に15m増設し、陵墓の後円部の底円部直径100m、上円部の直系は50m、墳丘長さは150mで、東西南北の
四方の丘や山から、透き通るような藍い空に白い雲も浮かび、緑豊かな山々が連なる情景との中に、出来上がった真新しい陵墓の葺石が陰りかけた太陽に照らし出されて黄金色に輝いていた。そのクライマックスの地は、現在の兵庫県神崎郡神河町婀月山標高779mの舞台である。
女王卑弥呼入定のその時を見守る人たちが、八幡山連峰を取り囲むように、老いも若きも、民衆が固唾をのんで見守っていた。
卑弥呼は白の衣装で、その両側には男性二人、向かって左側には36歳になる実子。右側に3歳違いの弟が毅然と立ち、一段下がった両脇に直立不動の姿勢で赤い旗が付いた棒を持った係りの男性が立っている。さらに下段の前方部の広場に選ばれし巻向の官僚たちが卑弥呼たちを仰ぎ見ていた。その中に、妹の夫もいた。
卑弥呼と妹とは5歳違いで、第九代開花天皇の第三王妃でしたが、開花天皇が247年2月8日に100歳で他界すると、巻向の官僚に求愛されて第二の人生を歩んでいた。実は、箸墓古墳は妹、倭姫命の陵墓で、4年がかりで213年には蘇我氏たちの手によって完成していた。
妹は卑弥呼や夫の要望で巻向に留まった。
巻向の人たちは、交野山(交野市)にも集まってその舞台の方角を見守っていた。倭国の人たちの大方が埴岡の里の方角に向かって祈りだした。
卑弥呼は大きな声を張り上げて、眼下にいる人々に御礼とお別れの言葉を告げた。 そして前方部の最前列にいたコヤネ爺の目をキッ!と見て、そして目元を弛め微笑みさえも見せた。それからもう一度遠くの山々から見ている人々にゆっくりと手を振り、最後にもう一度深々と太陽が沈みゆく真西の方角に丁寧にお辞儀をして、もう一度聴衆に一礼して、弟や実子にその時が来たことを告げた。
実子は、最上部に造られていた弧帯石を内封した45トンほどの岩戸に掛けられた4本の縄をもう一度見やって叔父に両目を閉じて軽く頭を下げた。
それを受けて軽く目を閉じ、すぐさま俊敏に目を見開いた弟は、30°に傾斜した薄暗い階段に白い服を着た卑弥呼が先に下り始め、その後に実子が続いた。すぐさま弟は、一段下に直立不動で立って旗を持っている係りの者に旗を振るように告げた。
係りの者は大きく上から下へと赤い三角の旗を振りおろした。
その瞬間、「ヤ~~~~!!」と張られていた大縄を前方部から大勢の者どもが一斉に引いた。
大きな岩戸は、「ド~~~ン!」と落とされ入口を塞いだ。
と、同時に埴岡の里の上空に大勢の群集のどよめきの声がこだました。
30分程のドラマであった。
そして・・「ヤ~~ッホ~~!」のこだまが鳴り響き、それから今でも日本の山々にこだまし続けている。(ヤッホーとはヘブライ語で神様という意味である)
天岩戸のお話は、この時のシーンである。
それから三日三晩祈りが捧げられ、76人は山を下りた。
そして5日後の22日に女王卑弥呼死亡。享年71歳であった。