かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

法華山一乗寺開山堂うえにある賽の河原の磐座は、公的イエス・キリストの墓を教えていた

2018-11-24 06:28:09 | かごめかごめの真実とは

2018年11月24日(土)

 イエスの命日であり、卑弥呼が岩戸隠れした日の大事な日である11月17日の聖地巡礼ツアーで真っ先に行ったのが、法華山一乗寺でした。

そして、武部さんの案内で皆さんが開山堂の上の賽の河原まで行って磐座を眺めました。

私も初めて行きましたが、その磐座が何を教えているのかコンパスグラスで計測してきました。

そして、その磐座の方位が教えている場所の方向には、本当のイエス・キリストの墓を教える上島や、イエスが播磨の王として即位宣言をた高御位山であり、その山の北にある勾玉あるいは胎児の形をした公的イエス・キリストの墓を教えていました。

その反対側が丹後半島です。

イエスにまつわる大事な場所を磐座の切落とされた方位は教えていました。 

そしてそのことから次々と大事なことが浮かび上がってきました。

      


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亀石 の表示の場所にはいわれのある亀石と呼ばれる磐座があるのでしょうか・・岡山の人、教えてください!

2018-10-06 06:45:35 | かごめかごめの真実とは

2018年10月6日(土

 下の図形は非常にきれいな図形です。

本当のイエス・キリストの墓を発見するきっかけが、兵庫県加古川市志方町山中にコンターラインは勾玉の形をしていて実際に見に行くとピラミッドのような不思議な山の発見からでした。

比叡山延暦寺の根本中堂と、高野山の弘法大師廟とを結んで、正三角形の頂点には何があるのか無いのかを調べ、なんと一発でピラミッドのようなコンターラインの中心に線が交わったときでした。

その時の不思議な感覚は今でも覚えています。

そこからドラマはドンドンと展開していきました。

沢山の人達が、ツアーに参加してくれました。

最初は、ここがイエスの墓だ!と思っていましたが、イエスのツアー数日前に事務所の矢野さんが、「大歳神社と遥拝の場所とを結んだラインの先にも何かがあるのではないでしょうか」と言われるので、地図上にラインを伸ばして行くと、一発で前方後円墳の形と、その横に大きなハートのコンターラインもあり、それはそれは驚きでした。 一気に興奮状態でした。

ツアーでは、皆さんが気軽に手を合わせお祈りするイエスの公的陵墓と、祈るその先に本当のイエス・キリストの墓が存在することをツアーで初めて話しました。

それから、実際に神河町南小田にあるイエス・キリストの墓に11月17日にツアーで行ったり、今年もイエスの陵墓に行って、険しい山を下ってきたりもしました。

イエスの陵墓である証拠は、横に大きなハートのコンターラインの山があることがその証拠です。

そしてその場所へとたどり着く霊ラインがいくつもその場所へと集中していることでもそれは言えます。

遠く何百㎞とはなれた神社寺院からでも手を合わせると、そのイエス・キリストの墓に手を合わすように先人達は社寺を建築していました。

それはそれは先人達の執念でもあります。

 

弘法大師廟とイエスの公的陵墓と星ノ岩屋の三点を結んでも正三角形を描きます。

そして星ノ岩屋とイエスの公的陵墓ともう一点を結んで正三角形になる場所に「亀石」と言う文字があります。

場所は、地理院地図によると岡山県倉敷市水江という地名のようです。 

この場所には大きな意味を空海さまたちが持たせているように思います。

亀石 の表示の場所には伝承のある亀石と呼ばれる磐座があるのでしょうか。

岡山の人、教えてください

   

 


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大事な伊勢の壺を綺麗にしていただいて、有難うございました! 蓋をされていたものが開けられたということかもしれませんねぇ

2018-08-07 11:03:43 | かごめかごめの真実とは

2018年8月7日(火)

 5日の壺掃除、皆さまご苦労様でした。

全国から集われたんですねぇ。

私も一緒にその場に居たかったなぁ~~!

武部さんのブログからすかさず私の頭によぎったのは淡路島にある巨大な勾玉の山。

巨大な勾玉の山は、アブラハムのお墓でしたね。

間違いなく武部さんの思いは正しく、皆さんが禊ぎの掃除をされた壺は、淡路島の巨大な勾玉の山を教えています。

そしてその地点から直角にラインを伸ばすとそこには、神河町南小田にあるイエス・キリストの墓です。

壺と勾玉の山とイエスの陵墓の三点を結ぶと、きれいな直角三角形を描きます。

2:1:√3に近いですねぇ。 綺麗です!

偶然でしょうかねぇ・・。 絶対偶然にはできませんよ。

実は・・、もっと凄いこと教えていますよ。

これらのことは、役行者や行基さん達もしっていた痕跡がプンプンです。

当然、最澄さまや空海さま達もご存じだったはずです。

彼らは、絶対に時代は変わり移ろいでも消えない、変わらない岩や磐座にその意志を残しました。

武部さんの頭の中には、その暗号がびっしり詰まっています。

古代史の答えは、いくら古文献を読みあさっても答えは見出せません。

逆に迷路から抜け出せなくなります。

答えは、この大地に刻み込まれていますし、皆さんの身体に収められています。

そのようなことで・・、これから益々、この日本に海外からも沢山の人々が訪れることでしょう。

理由は分からなくても、この日本にどんどんと世界中からDNAのふる里を求めてやって来られます。

もうその流れは止めることができません。

小さな嘘はすぐバレルが、大きな嘘は、時間がかかって必ずバレル! ・・と八百万の現人神様たち。

この世からあの世に帰った人達は、「よくぞ勇気をもって働いてくれた!」と言われるのか、

「よくぞ頑張られました!」とニヤリとして言われるのか・・、審判は厳格でしょうねぇ。

「よいな!!」・・と、神様の言葉。ですかぁ・・!

 

 


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不死鳥のあしあと・・限定発売 予約受付中 

2017-08-14 11:16:21 | かごめかごめの真実とは

      不死鳥のあしあと ・・ 予約受付中


いよいよ私の不思議な7年間の体験を、オールカラーでA4の見開きで綴った図形の数々と写真集が、8月31日に出版されます。

 

 不死鳥のあしあと   

      神々はこの日本の大地に

         世界が平和になれる仕掛けを

             残してくれていました。   

 

             上森三郎

 

             定価=本体10000円+税 

            限定 3690冊 発売!

 

             株式会社 T・T・C にて 予約受付中

 

 

 

  目 次


 前書き 1

 それは3本の十字架から始まった

 黄金比の十字架


世界の聖地「埴岡の里」 5

 供えられた水・亀ヶ壺

 神棚の榊・1対のメノラー

 女神ハトホルの地上絵

 鶴と亀・魚・玄武

10 埴岡の里の地上絵全図

11 八幡山ピラミッド

12 イエス・キリストの生命の樹

14 絶峯御林と古城山御林

15 絶峯はイエスを、古城山はモーセを祀る山

16 モーセの地上絵


女王卑弥呼と邪馬壹国 17

18 卑弥呼の墓・婀月山

19 卑弥呼の墓はこと座のベガ

20 卑弥呼は初代斎王だった

21  瀬織津姫、弁財天、卑弥呼

22 邪馬壹国とオリオン座

23 オリオン座の山々

24 七福神の航路

25 使節は対馬に上陸した

26 折鶴


イエス・キリストの三つの陵墓 27

28 空海様と最澄様が守るイエスの公的な陵墓

29 イエス・キリストの本当の墓

30 イエスの墓の景観

31 イエスの陵墓を守る磐座

32 ベテルギウスは赤く輝く

33 イエス王家の墓・天神山

34 橿原神宮の不思議


イエス・キリスト終焉の地 35

36 イワナガヒメの神社とハート形の山

37 十字架の山

38 イエス終焉の地の風景


千山の九福神と日本の七福神 39

40 千山・雁塔の九福神

41 八福神のレリーフ

42 八福神の壁画

43 埴岡の里に七福神が祀られている

44 不思議な光の写真


マリアの墓は岡山県美咲町にあった! 45

46 マリアの墓 発見への道

47 「祖母」とは誰のことなのか

48 マリアの墓の風景


モーセの墓は丹後半島にあった! 49

50 モーセの墓 発見への道

51 竹野神社

52 モーセの墓と依遅ヶ尾山

53 モーセの墓から描ける図形

54 銅鐸は測量機器


淡路島の勾玉山はアブラハムの墓! 55

56 勾玉形の山を発見!

57 アブラハムの墓の神木

58 神野山の王塚はテラの墓

59 桓武天皇も祈った仙境・交野山

60 テラ、アブラハム、モーセの三角形

61 竹生島と曽爾の亀山

62 亀山から鎧岳へ


空海様の隠された生涯 63

64 空海様の生誕地は星の岩屋

65 アークは剣山から埴岡の里へ

66 奥鎗戸のピラミッドを中心に等比数列の図形が出現した

67 空海様の亡骸は移された

68 空海様のルーツに迫る


チーム空海が造った「日月の山」! 69

70 麻賀多神社は御所を結ぶライン上にあった

71 息栖神社は淡路島の勾玉山を向いていた

72 ついに「日月の山」が姿を現した


神社・寺院で祈れば… 73

74 大聖寺(岡山県美作市)

75 比叡山延暦寺

76 香寺町土師・大年神社

77 姫路城

78 城の描く図形


後書き 79

 後書き

私は、過去も現在も、どんな宗教にも関わりを持ったことがない。

これからもその姿勢に変わりはない。

そんな私が、2010年8月11日、ちょうど56歳と7ヶ月目のまさにその日に、福岡の宗像大社で目に見えない存在からの声を聞いた。その時から摩訶不思議な世界へと誘われて来た。

不思議な声に導かれ、最初は伊勢神宮から兵庫県中央部に伸びる十字架を、そしてさらに2本、合計3本の大・中・小の十字架を描かされた(本書3ページに掲載)。

全てはこの3本の十字架から始まったのだ。

それからまる7年が経った。

最初は自分が何をやっているのか、目に見えない存在から何をやらされているのか、全く分からなかったのだが、ここに来て、その意図ははっきりと分かってきた。

目に見えない存在は、「この日本の歴史は世界の中で最も古く、『世界文明の起源は日本』であること」を教え続けていた。

この日本は、アブラハムの父テラから始まり、アブラハム、モーセ、イエス・キリストもこの聖なる日本を拠点にして、地球的視野で助け合い生きる世界を希求し続けていた。

彼らはこの日本の大地に埋葬され、しかもその陵墓の位置(そして本当の歴史)が後世の人に分かるようにと、夏の大三角形やオリオン座などの星座をこの大地に降ろして位置決めしていた。

その後の王や賢人たちも、これらの重要な陵墓に三角法を使って関連づけて、自分の墓の位置決めを行うことで、この大地に足跡を残した。

山、墓、磐座、神社、寺院、城等を関連づけるこの三角法の位置決めは、後世まで引き継がれた。

テラ、アブラハム、モーセ、マリア、イエス・キリストの墓がこの日本にあるということを世に知らせるシナリオが、世界を平和に導く神様の計画のようだ。

何世紀にもわたってこの計画を守り伝えた先人たちの御霊も、「私が何をなしたかを世界中の人達に伝えてください」と伝言して消えた女王卑弥呼も、空海様も、この計画の成就を願っていることだろう。

 

               2017年8月31日

 

                  卑弥呼の誕生日を祝って

 

                                     上森三郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銅鐸は測量機器

銅鐸は、紀元前2世紀から紀元2世紀に至る弥生時代の約400年間、日本列島で使われていたが、その後姿を消した謎の青銅器である。

研究者の多くは祭祀に使われた楽器のようなものとしているが、私は「測量機器」であるという説を提唱している。

上部にあけられた穴から両目で覗くことによって銅鐸の向きを正確に決めることができるからである。

このことによって、他の用途不明の銅器の用途も判明する。

「有鉤銅釧」と呼ばれる青銅器は、銅鐸の上部にあいた穴を使って簡単に銅鐸を設置するための「吊り金具」である。

それを吊り下げるための紐は、「巴形銅器」から吊るされる。

巴型銅器は、予め結ばれていた三脚の紐に巴形の足をからめて、水平方向の微調整をする道具である。

そして、銅鐸の内壁に当てて音を出すための道具と言われている「舌」は、実は、銅鐸が地面の「基準点」の真上になるように、銅鐸の中心から吊り下「下げふり」として使われていたのである。

銅鐸としばしば一緒に出土する銅鏡も、測量現場で分度器や水平器として使われていたと考えられる。さらに、光通信にも使われたであろうと推測される。


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不死鳥のあしあと 8月31日 株式会社 T・T・Cより出版

2017-08-03 10:24:23 | かごめかごめの真実とは

2017年8月3日(木)

 いよいよ私の不思議な7年間の体験を、オールカラーでA4の見開きで綴った図形の数々と写真集が、8月31日に出版されます。

 不死鳥のあしあと    とタイトルは決めました。

 神々はこの日本の大地に

 世界が平和になれる仕掛けを

 残してくれていました。   

         上森三郎

 

   定価=本体10000円+税

 

   株式会社 T・T・C にて 予約受付中!

  アマゾンでも購入できます

  目 次

前書き 1

 それは3本の十字架から始まった

 黄金比の十字架

世界の聖地「埴岡の里」 5

6 供えられた水・亀ヶ壺

 神棚の榊・1対のメノラー

 女神ハトホルの地上絵

 鶴と亀・魚・玄武

10 埴岡の里の地上絵全図

11 八幡山ピラミッド

12 イエス・キリストの生命の樹

14 絶峯御林と古城山御林

15 絶峯はイエスを、古城山はモーセを祀る山

16 モーセの地上絵

女王卑弥呼と邪馬壹国 17

18 卑弥呼の墓・婀月山

19 卑弥呼の墓はこと座のベガ

20 卑弥呼は初代斎王だった

21  瀬織津姫、弁財天、卑弥呼

22 邪馬壹国とオリオン座

23 オリオン座の山々

24 七福神の航路

25 使節は対馬に上陸した

26 折鶴

イエス・キリストの三つの陵墓 27

28 空海様と最澄様が守るイエスの公的な陵墓

29 イエス・キリストの本当の墓

30 イエスの墓の景観

31 イエスの陵墓を守る磐座

32 ベテルギウスは赤く輝く

33 イエス王家の墓・天神山

34 橿原神宮の不思議

イエス・キリスト終焉の地 35

36 イワナガヒメの神社とハート形の山

37 十字架の山

38 イエス終焉の地の風景

千山の九福神と日本の七福神 39

40 千山・雁塔の九福神

41 八福神のレリーフ

42 八福神の壁画

43 埴岡の里に七福神が祀られている

44 不思議な光の写真

マリアの墓は岡山県美咲町にあった! 45

46 マリアの墓 発見への道

47 「祖母」とは誰のことなのか

48 マリアの墓の風景

モーセの墓は丹後半島にあった! 49

50 モーセの墓 発見への道

51 竹野神社

52 モーセの墓と依遅ヶ尾山

53 モーセの墓から描ける図形

54 銅鐸は測量機器

淡路島の勾玉山はアブラハムの墓! 55

56 勾玉形の山を発見!

57 アブラハムの墓の神木

58 神野山の王塚はテラの墓

59 桓武天皇も祈った仙境・交野山

60 テラ、アブラハム、モーセの三角形

61 竹生島と曽爾の亀山

62 亀山から鎧岳へ

空海様の隠された生涯 63

64 空海様の生誕地は星の岩屋

65 アークは剣山から埴岡の里へ

66 奥鎗戸のピラミッドを中心に等比数列の図形が出現した

67 空海様の亡骸は移された

68 空海様のルーツに迫る

チーム空海が造った「日月の山」! 69

70 麻賀多神社は御所を結ぶライン上にあった

71 息栖神社は淡路島の勾玉山を向いていた

72 ついに「日月の山」が姿を現した

神社・寺院で祈れば… 73

74 大聖寺(岡山県美作市)

75 比叡山延暦寺

76 香寺町土師・大年神社

77 姫路城

78 城の描く図形

後書き 79

 後書き

 

私は、過去も現在も、どんな宗教にも関わりを持ったことがない。

これからもその姿勢に変わりはない。

そんな私が、2010年8月11日、ちょうど56歳と7ヶ月目のまさにその日に、福岡の宗像大社で目に見えない存在からの声を聞いた。その時から摩訶不思議な世界へと誘われて来た。

不思議な声に導かれ、最初は伊勢神宮から兵庫県中央部に伸びる十字架を、そしてさらに2本、合計3本の大・中・小の十字架を描かされた(本書3ページに掲載)。

全てはこの3本の十字架から始まったのだ。

それからまる7年が経った。

最初は自分が何をやっているのか、目に見えない存在から何をやらされているのか、全く分からなかったのだが、ここに来て、その意図ははっきりと分かってきた。

目に見えない存在は、「この日本の歴史は世界の中で最も古く、『世界文明の起源は日本』であること」を教え続けていた。

この日本は、アブラハムの父テラから始まり、アブラハム、モーセ、イエス・キリストもこの聖なる日本を拠点にして、地球的視野で助け合い生きる世界を希求し続けていた。

彼らはこの日本の大地に埋葬され、しかもその陵墓の位置(そして本当の歴史)が後世の人に分かるようにと、夏の大三角形やオリオン座などの星座をこの大地に降ろして位置決めしていた。

その後の王や賢人たちも、これらの重要な陵墓に三角法を使って関連づけて、自分の墓の位置決めを行うことで、この大地に足跡を残した。

山、墓、磐座、神社、寺院、城等を関連づけるこの三角法の位置決めは、後世まで引き継がれた。

テラ、アブラハム、モーセ、マリア、イエス・キリストの墓がこの日本にあるということを世に知らせるシナリオが、世界を平和に導く神様の計画のようだ。

何世紀にもわたってこの計画を守り伝えた先人たちの御霊も、「私が何をなしたかを世界中の人達に伝えてください」と伝言して消えた女王卑弥呼も、空海様も、この計画の成就を願っていることだろう。

               2017年8月31日

                  卑弥呼の誕生日を祝って

                                     上森三郎

 

 

銅鐸は測量機器

銅鐸は、紀元前2世紀から紀元2世紀に至る弥生時代の約400年間、日本列島で使われていたが、その後姿を消した謎の青銅器である。

研究者の多くは祭祀に使われた楽器のようなものとしているが、私は「測量機器」であるという説を提唱している。

上部にあけられた穴から両目で覗くことによって銅鐸の向きを正確に決めることができるからである。

このことによって、他の用途不明の銅器の用途も判明する。

「有鉤銅釧」と呼ばれる青銅器は、銅鐸の上部にあいた穴を使って簡単に銅鐸を設置するための「吊り金具」である。

それを吊り下げるための紐は、「巴形銅器」から吊るされる。

巴型銅器は、予め結ばれていた三脚の紐に巴形の足をからめて、水平方向の微調整をする道具である。

そして、銅鐸の内壁に当てて音を出すための道具と言われている「舌」は、実は、銅鐸が地面の「基準点」の真上になるように、銅鐸の中心から吊り下げる「下げふり」として使われていたのである。

銅鐸としばしば一緒に出土する銅鏡も、測量現場で分度器や水平器として使われていたと考えられる。さらに、光通信にも使われたであろうと推測される。

 

 


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共謀罪強行採決の真の目的・・その2

2017-06-18 11:14:24 | かごめかごめの真実とは

2017年6月18日(日)

世界統治を目指す人達は、私の情報の信憑性に素早く反応しました(過去の記事より)。

特定秘密保護法と浦島太郎と、かごめかごめ

彼らは、一対のメノラーを探し求めていました。

イスラエル国歌

2013年11月27日(水)

 「それは特定秘密保護法に該当する事案です」と言われる前に、公開しておきましょう。

・・

イスラエルに アビグドール・シャハン博士と言われる、古代日本に辿り着いたユダヤ人の研究に人生の大半を費やしておられる著名な博士が居られます。

シャハン博士は今年の3月21日に神戸で「失われた十部族の足跡」という本の出版記念講演会を開催され、翌日には東京でも講演会をされておられます。

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そのイスラエルのシャハン博士に私が下記の文章を出したのが、今年の4月23日でした。

それまでは私の知人との間でメールでのやり取りが数回重ねられて、先方がメールの添付が開かないとのことで、博士の要望で、航空便を使って送ったものです。

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 シャハン博士にも、日本の浦島太郎の意味は、ヘブライ語で「統治権を守護せよ!」という意味があることを伝えていますが、かごめかごめの唄の最後の「後ろの正面、誰?」と歌う最後のフレーズもヘブライ語で全く同じの ウーシラッ、シム、タラ で ウラ シマ タラー うらしまたろう 浦島太郎 となります。

 さぁ~ 浦島太郎もかごめかごめの唄も、「統治権を守護せよ!」と言っていました。 統治権とは・・なんですか。 

そうです、浦島太郎のお話は、400年間もエジプトで奴隷になっていたユダヤの民を解放したモーシェのお話ですが、そのモーシェが神様との契約で作った黄金の柩 アーク がどれほど重要なものかを知っている一部の人達が必死に世界中血眼になって探しているものです。

なんと、その統治権的重大な意味を持つアークが、東経134度80(十進表記)の黄金比率の十字架に隠されているということが、私の情報から浮かび上がって来たんですね。

世界を統治したいと思う人達が、日本政府に猛烈にアタックしていると推測出来ます。

・・・

上記の情報が博士の手元に届いたであろう頃から、グーグルアースの地上絵が見えないように手が加えられたようで8月6日のブログに下記のことを書きました

・・・

いよいよ・・か! 134度80(十進表記)地帯のグーグルアースが見えにくく手を加えられた模様です!

 

久々に、鶴と亀 龍 メノラー 勾玉の山などの黄金比率の十字架上にある地上絵を見ると、以前は綺麗に見えていたのが、拡大すると白っぽくなって見えにくい状態になるように手を加えられています。

沖縄で米軍のヘリが墜落炎上し、オスプレイも増加配備されてきましたが、地上絵群がある生野、神河町とダビデの星の中心点にある勾玉の山も、スクリーンが掛けられ見えにくくなってしまいました。

今まさに何かが動きだしたことを思わせる気配です。

 当初公開されたオスプレイの飛行訓練ルートには無かった新たなブラウンルート。

そののピンポイント部分が黄金比率の十字架上にある地上絵群です。

奇麗に見えていた地上絵が見えにくくなってしまいました。

世界中の人の目で、この地上絵群がある場所を監視しなくてはなりません!

 

  皆さん!この情報をネットで緊急発信してください!

PhotoPhoto_2

 

「Google地図 」から確認することができました。

白い薄紙をかぶせたように、くっきり長方形になっていますね。

露骨ですね。

のほほんとしていてはいけないようですね。

・・と、Yさんからのメールより

北緯35.278  東経134.646~134.839

北緯35.004  東経134.649~134.840 

 までの地上絵群がある生野、神河町の範囲が拡大すると見えにくくされましたね

そして、勾玉の地上絵がある淡路島の中南部一帯が同じように見えにくくされました。

これらの地上絵群は、伊島から生野まで伸びる黄金比率の十字架の縦のラインに位置しています。

 これらの地上絵をわざわざ見えにくくする理由とは一体何なのでしょうか。

みんなで一度真剣に考えて見ましょう

・・・

 Hさんからのメールによりますと・・

さて、グーグルアースの写真ですが、この3月、4月に地上絵の周辺を撮影しなおしてますね。他のエリアは2010年とか、古い場所は2007年とかありますから。
かなり注目を浴びているという証拠でしょうね。

上記の 3月 4月といいますと、私の情報をイスラエルの某教授とのメールにて情報交換されたMさんが居られ、その方との情報交換がなされた頃で、そして・・、相手方が添付メールが開けないとのことで、下記情報をプリントして航空便で送った月が4月の末でしたね。

この情報により、グーグルアースに手が加えられてもなんら不思議でもありません。
今、この情報は、世界第一級の情報なのかもしれません。

 

 


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息栖神社 その1 本殿はアブラハムの墓である淡路島の勾玉の山を向いていた

2017-02-08 07:07:07 | かごめかごめの真実とは

2017年2月8日(水)

 2月4日(土) 息栖神社へと行きました。

中門からの参道と本殿もコンパスグラスで258度と、見事に国生み神話の淡路島、しかもアブラハムのお墓である勾玉の山を向けて造られていました。

勾玉神社と呼ばれていた麻賀多神社が向けて造って教えている岐阜の「日月の山」から、淡路の勾玉の山までの距離と息栖神社までの距離は、294~296㎞とほぼ同距離で、二等辺三角形を描きます。

日月神示の謎解きに大いに関係する神が宿る神社のようです。 明日につづく・・。

                                                              

 

 

 


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送って行ったのか、お連れしに行ったのか

2017-01-23 10:14:46 | かごめかごめの真実とは

2017年1月23日(月)

 正暦寺から北に見える山へと近づいていくと、そこには大本本部の長生殿(本殿)があった。

以前私は、この本殿の中で畳に両手をついて深々と頭を下げて、体験したことを思い出していました。

私はここに関係するものではありませんが、突然私の事務所を訪れた女性とともに、その翌日に何も告げられずに行ったところがその大本でした

最初、みろく殿の789畳敷の大広間に連れられて行って、

「私が祝詞を上げ終わったら、上森さんは両手を畳につけて深々と頭を下げて、願い事でもなんでも良いですから言ってください。そして言い終わったら頭を上げてください」と突然言われました。

私が頭を上げて、私の左横に座った女性が、「何かありましたか!?」と言われるので、「はい、ありました」と答えると、「それで・・」と女性。

それで私は、「それ本当か!?と言われました」と言うと、「それで・・」と女性。

「本当です」と答えると、「それホンマやろな~~!!」と威圧するような声で言われるので、「本当です」と私は冷静に答えました。

そして「大喜びで両手を広げて小躍りしていました」と言うと、「エ~~ッ、教祖様が現れた~~!」とそれはそれは腰を抜かさんばかりに驚かれていました。

そしてとっさに、手のひらを合わせて擦るようにして「もう一度お願いします。もう一度・・」と言われるので、みろく殿から出て、

「身内しか入れないところですが、もう一度お願いします」と言って連れて行かれたところが、長生殿でした。

そこも全く同じような広さと造りをしていました。

そして全く同じことをさせられました。

静寂な大広間に全く2人だけでした。 頭を下げる方角は、今になって分かりますが、御神体山に向かって祈らされたのでした。

そして・・

「今度は何がありましたか?」と言われるので、

「ハイ、今度は、身支度して待ってたぞ!と言われました」と告げると、「ヒエ~、やっぱり教祖様が現れた~」と驚かれます。・・ので、

「お~~い、今から出てくるからな~~と、振りかえって言っておられましたぁ」と言うと、それはそれはもう我を忘れたご様子で・・。

私の車に乗っても、助手席から後ろをチラッと振り向いてはすぐ前方を見て、「エ~~ッ、今後ろに教祖様が居られるんですよね~~」と、それはそれはもう興奮状態でしたね。

・・・

あまりにも不思議な体験でしたから私は、筒井翼さんにその日の夕方、このことを伝えると、

「石上神宮に私と行ってください」と言われるので、翌々日には石上神宮へと行ったのですが、その石上神宮の境内では鳳凰に似た雲が突然覆いかぶさるように現れたりしました。

そしてそこから笠置山まで車を飛ばして行きました。 行ったときにはもう真っ暗でした。でも・・綺麗な月が照っていたのを思い出します。

そしてその翌日のことです。

朝から小雨模様でしたが、私が穴を掘っていた生野へと行かされ、穴を掘ってた場所から上の方までは行ったことが無い私でしたが、雨が降っていると言うのに、上へ上へと山頂まで道なき道を歩かされていました。

フッと我に返ったように、「何で雨の中、こんなところを私は歩いているのだろう」と思ったことを思い出します。

不思議な不思議な体験でした。

・・・

 実は、大本本部の長生殿(本殿)は、キッチリと生野の地下神殿を向けて建築されていました。

驚きでした。

これはもう大変ですよ~~。

教祖様は数年前の2月3日節分の日に、「俺も連れて行ってくれ」と淡路島にある、アブラハムの陵墓である巨大な勾玉の山にも行かれたりしていましたが、ずっと私と共に旅しておられて、昨日やっと帰られたのか、いえいえまたまた私と共に行動されだしたのか・・・。

これは絵空事では済まされませんよ~~。

王仁三郎さんは、かごめの唄の、「夜明けの晩」の意味をよ~~~くご存じです。

そして彼は、「とうりゃんせ」の舞台である、モーセとイエスを祀る地下神殿の扉を一刻も早く開けることを皆に告げているようです。

 

              

 


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降り立った駅は飛騨小坂駅

2016-09-05 11:38:37 | かごめかごめの真実とは

2016年9月5日(月)

 3日夕方5:30 降り立った駅は飛騨小坂駅。

石子さんと棚橋さんが車で迎えに来てくれていました。

そして目指すは、泉岳館

泉岳館さんの前には立派な神社がありました。

富士神社。

エッ! 

富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる」??

茨城県神栖市にある息栖神社と淡路の勾玉山を結んで、その中間から垂線を引いたところに「日月の山」を発見し、

息栖神社と淡路の勾玉の山を結んだラインは富士山山頂を通り、息栖神社は富士山、勾玉の山に向けて建築されています。

又、麻賀多神社は、日月の山を向けて造られていたわけですから・・、「富士神社」にはビックリでした。

そしてその富士神社は、兵庫県神河町にある卑弥呼の陵墓にキッチリと向けて造られていました。

そしてそこには・・、宿に隣接されていたお寺には、「南無大師遍照金剛」の文字が・・。

間違いなく空海さまに呼ばれて・・、と言いますか、空海さまと同行しての旅のようでした。

                     

 

 

 


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どんどん謎が解けて行きます

2016-09-02 11:58:51 | かごめかごめの真実とは

2016年9月2日(金)

 岐阜県の日月の山の発見から、どんどん謎が解けて行きます。

日月の山と勾玉山(淡路)と斎宮(伊勢)は二等辺三角形を描きます。

斎宮とは何でしょう。

その斎宮は女王卑弥呼に大いに関係している・・、と言うより、卑弥呼そのものの存在を語っているようです。

そのことを敦賀の気比神宮が教えてくれています。

気比神宮 竹神社(斎宮) そして神河町にある卑弥呼の陵墓が二等辺三角形を描きます。

空海さまと最澄さまが、七日七夜気比神宮で祈られた意味がやっと解けました!

どんどん謎が解けて行きます。

 


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日月の幕開け

2016-09-01 10:36:23 | かごめかごめの真実とは

2016年9月1日(木)

 日月神示が降ろされた麻賀多神社は、岐阜県にある勾玉(日と月)の山を御神体山としています。

地図で見ても、3Dで見ても見事です。

岩山を使って、神様なのか人為的なのか、見事に日と月(勾玉)が造形されています。

近々に出口なおさんも王仁三郎さんも一緒に行かれることでしょう。

もちろん空海さまも卑弥呼さんも同行されることでしょう。

・・

2011年11月1日、前触れもなく突然私の前に現れた女性に、「黙って私と一緒に行ってください」と言われて、翌日には、「ここが大本教の本部かぁ」と。

そしてそこで不思議な体験をしました。

それ本当か!」と、王仁三郎

「本当です」と、冷静に私が答えると、

「それホンマやろな!!」と巻き舌で威嚇ような凄んだような声と態度に、

「本当です」と、もう一度冷静に答えると、

もう無邪気にばんざ~~い!と飛び跳ねて居られました。このことは、{イスラエルの「元つ国日本」にユダヤ人が戻ってくる}のP54~55に書きました。

本では亀岡になっていましたが、綾部での出来事でした。

  

それから、王仁三郎さんは私に乗って、淡路島の勾玉山へも行かれました。

勾玉の山では、大泣きに泣いて居られましたねぇ。

今度は、なおさんも同行で王仁三郎さんと一緒に岐阜の日月の山へと行かれることでしょう。

出口の見えなかった偽りの世界。 新たな世の入り口が見えたようです。

日月の幕開けのようです。

  


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卑弥呼生誕の日に、日月神示を解く!

2016-08-30 21:18:28 | 邪馬壹国

2016年8月31日(水)

 今日は、卑弥呼さんが生まれた日です。 1839年前の事でしたぁ。

そうそう、卑弥呼さんの幼少の頃の名前は、「あづき、と呼ばれていました」と言うことでしたね。

AD177年8月31日、現在の兵庫県香美町庵月山でお生まれになりました。

身長162cm 血液B型

248年11月17日。イエス・キリストの命日を選んで入定。5日後の22日に死亡。享年71歳でした。

大事な大事な卑弥呼さんの誕生日の今日、日月神示が解けました。

淡路島には、1.2㎞ほどの勾玉が造形されていましたが、なんとぉ! 玉と勾玉が岐阜の山にも造られていました。

その山に向けて、日月神示がおろされた麻賀多神社は造られているようです。

又イエス王家の聖なるラインの先に、重要な神社が存在していました。この神社は淡路島の勾玉の山に向けて造られているようです。

日月神示が教えていたことは、ダビデの星の中心にチョンを打つこと(見つけること)でしたが、これは生野、神河を頭にするダビデの星の中心に淡路島の勾玉山が存在していることを教えていました。

玉と勾玉(日と月)がセットで造られている山の位置情報は、亀さんが教えてくれます。

麻賀多神社ともう一つの神社は、日月神示の重要にして重大な神社が存在することを教えていました。

もう一つの神社と淡路の勾玉の山を結ぶと、丁度富士山山頂を通ります。

そしてその中間点で垂線をあげたライン上にその「玉と勾玉」の山は存在していました。 

その三点を結ぶと綺麗な二等辺三角形を描きます。

富士は晴れたり日本晴れ 神の国のまことの神の力を現す世となれる

と、その仕掛けはしてありました。

  最後の最後、卑弥呼さんが教えてくれました。

そうそう、そういえば、卑弥呼さんは、自ずから入定するときの大事な岩戸の中に、玉と勾玉の形をした二つの石を大事に内封していました。

凄いパワーをこの石は発しているようです。波動測定器ではその石の破片でも最高値を振り切ります。

卑弥呼さんの思いが詰まっているようです。

この二つの石は、大事にスタップサロンでお座りになられています。

又、卑弥呼さんのお墓の中には、血塗られてない王家の三種の神器が間違いなくあります。

現在、王家に伝わる血塗られた三種の神器はダビデの星の南の海に沈め、血塗られてない王家の三種の神器を一刻も早く王は手にすることです。

神河町にある779mの女王卑弥呼の陵墓からそれは出土します。

他国へ持って行かれるようなことあらば、それはそれは大変なことが・・、日月神示はそのことを告げています。

  

 

2013年1月23日(水)

国生み神話の淡路島。 その淡路島を囲むカゴメ紋(ダビデの星)の中心ポイントの山の形が気になり、「何の形なんだろう!? 何なんだ!?」と見つめていて、・・ハッと気がつきました。いつも私がキーケースに下げている、石上神宮でいただいた勾玉(まがたま)の形でした。

中心ポイントには、天皇家の三種の神器の一つの勾玉が、山で1,2kmの大きさで造られていました。

さぁ大変です、神様の神様、大の主(ス)の神様、天照主日大神様(男)がいよいよお出ましになられる気配です。 

ところで、淡路島に洲本(スモト)という地名がありますが、このことをキッチリと教えているのでしょう。

いや~~ここも、見事に守られてきました。 川で二重に取り囲み、難攻不落の山城のようでもあります。この場所から神河町にある卑弥呼の墓をキッチリと眺め、拝むことができます。又、福山の大門も見通せます。

でももっと不思議の一致と言いますか、この勾玉が指し示す方角にキッチリと熊山遺跡(岡山県)があり、その延長線上には、1996年に加茂岩倉遺跡で大量の銅鐸が発掘されたことで有名になった島根県安来市加茂町にある貴船神社や賀茂神社がある城山に行き着きます。

賀茂族とヒスイの勾玉と、女王卑弥呼と淡路のシオン山とに、大いに関係がありそうです。

出雲と卑弥呼と伊勢神宮の関係、邪馬壹国の真相を、天照主日大神様がキッチリと教えています。

もう天皇家も含めて、この我が国の本当の歴史を国民に、そして全世界に知らしめなくてはなりません。 我が一国の天皇という認識を改め、我が国の天皇は世界人類のスメラミコト(天皇)であると言わなければなりません。

天照主日大神様も天照大神様もそう言っておられます。

そして・・「整えよ!」 との御神託です。

そうそう、昨年の5月のことですが、「胎児が生れようとしているけど、死にかかっている」と神様が私に言われるので、飛んで行って、「おお・・これが代代受け継がれてきた王権の印、勾玉かぁ」と見つめ、白っぽくカサカサに見えた八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)に、丁寧に丁寧にピンクのテラファイトでパワーを与えると、白っぱかった勾玉がみるみる深みのある濃いグリーンに生き返りました。いつも鈍感な私ですが、この時だけは、テラファイトをかざした後に、そ~~っと両手を勾玉に近づけると、ビリビリジリジリと手のひらに伝わってきました。 それはそれは見事な大きな勾玉でした

「この三種の神器と全く同じものが卑弥呼の墓の中にもう一組みありますわよ」と、昨年6月に生れ出た卑弥呼おばさんの御霊が私に言うのですが、そんな気がしてきましたぁ

ああ・・、この情報を世間が黙って無視し続けて行くと、男神、女神、両方の天照大神様が、ちゃぶ台をひっくり返すような気もするこの頃ですが・・、そうなるともう手が付けられなくなるんですがぁ・・・

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Img1231725190001元ひとつ 安藤妍雪著

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日蓮大菩薩の素晴らしい書体が!

2016-04-25 15:52:31 | かごめかごめの真実とは

2016年4月26日(火)

 初代大王イエス・キリストの墓は、大々的な陵墓と、地域の人達の陵墓と、王家の人達の陵墓と三つ存在していました。

その三か所が下記の地図に記された場所です。

           

中央の御方はいったい何者でしょうか。 

そろそろ神仏習合と全世界宗教宗派の融合の時のようです。

 DNAは真実の情報を確実に語り継いでいるようです!

前中国国家主席 胡錦濤 の書がどうして日蓮大菩薩を祀る御方の所にあるのか。 

そしてこの書と共にこの方にプラチナのとある角印が渡されているのか。

そうそう、この方のところに大きな大きな勾玉もありましたねぇ。

白っぽく元気がなかったので、テラファイトを丁寧に何度もかざしましたら、みるみる濃いグリーン色に輝き出しました。

勾玉の目の淵は、クロスにクロスの模様でしたね。

この御方のところには、剣や鏡もありまよ!

 ↑ の御方は、日蓮大菩薩さまです。

日蓮さまが書かれた素晴らしい書体と同じ字体で彫られた立派な石柱が隠されるようにして私的な陵墓にある神社の建物裏にありました。

本物には魂が宿っています!

空海様や最澄様、日蓮様達 は、本当のこの日本の歴史や、初代大王イエス・キリストが何処でどのように祀られて来たかを全て御存知でした。

でも今、聖なる場所の陵墓に誰一人御参りされていません。

この国を創建された王家のDNAは誰が受け継がれたのでしょうか。

私達全国民は、少なくとも2000年前までご先祖様を遡れば、

初代大王大国主命=イエス・キリスト=大己貴命(おおなむちのみこと)=神武天皇にそのDNAは行きつきます。

大事な大切な貴いご先祖様の陵墓へ行って手を合わさないで平気ですか。

この国の王であり神様との誓約事をなされる立場の御方様達が、一切その大切な陵墓に墓参をしていない、しないとしたらどうなりますか。

これは異状です。 非情です。   ・・  これは大変なことです!!  

天皇家もバチカンも、そろそろ素直に真実を語らないと・・、大変なことになります。

藤原家の方々は俊敏に対応しなくてはなりません。 

いよいよ表に出なくてはなりません。    世界の平和の為に!!

    

地下神殿がある生野の姫宮神社と、その北に位置する朝来市の粟鹿神社の神紋の、菊と茗荷が合わさったデザインと、勾玉や剣や鏡など王家の秘宝を沢山もっておられる御方の鶴と菊花紋は、全く同じ意味の紋章です。

さぁ~~、これは大変ですよ~~~!!

 

 


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邪馬台国新論

2015-08-11 12:34:48 | 邪馬壹国

2015年8月11日(火)

       秘密NIPPONの《超建国》裏返史  11月発売予定!!

プロローグ       

 朝、電車の窓から何の気なしに空を見上げる。うわ~~~、きれい!! なんだろう、あの色・・!! 白いモコッとした雲のわずかな切れ目に、うすい紫がかったブルーの、神秘的な色。その一層の雲は、まるでこの世とあの世を繋ぐトンネルの入り口のように見えた。あまりにも美しい、その色をとおして、神様が「それでいいんだよ」と応援してくれているようだ。

 私が不思議な世界へと誘われて丁度5年が来ようとしている。

 一切の宗教にも関わりのなかった私だったので、神社にもお寺にも教会にも行くことが無い人生を送っていた。でも、物心ついた頃からというのか、自我がハッキリと芽生え出した頃からというのか、なぜか、「神様も安心して姿を現す世界を造らなければ・・」と、いつも思っている私がいた。

 私は、少年時代から、ひとりで寝転がって空を見るのが、とても好きだった。

 宗教が説く神様ではなく、生まれた時から、いや、生まれる前からかも知れない、私を誰よりもよく知ってくれている、ある絶対的な存在がいて、それを私は「神様」とよんでいる。

 56歳7ヶ月のあの時まで、私は、ただただ一方的に神様に話しかけるだけで、神様が言葉を発してくれるとは想像もしていなかった。黙って空をながめては雲の形や流れを楽しんだり、野山を吹き抜ける風に身をさらして心地よい思いをしたりして、神様を感じていた。私にとっての神様は、そんな寡黙な存在だった。

 ところが、2010年8月11日、56歳7ヶ月のその日、私は、初めて、はっきりと、神様の声を宗像大社で聞いた。

よぉ来たのぉ

これが神様からの初めての言葉だった。そして、その時から、私は、神様が私に語りかけてきてくれる声が、だんだん分かるようになった。それは、しばしば直接的だったり、「そう言われている“気”がする」という状態だったり、また多くの場合には、人々の口を通して伝えられてきたりする。

 その声の主は、時に左耳から聞こえるのは空海様のようであったり、右耳から聞こえるのは天皇家の誰かのようであったりもする。そうやって聞こえてくると、ほとんどの場合、言われるとおりに動かないと、居ても立ってもいられない心境に追いやられる。

 まだ初期の頃のある時、私に契約を迫った神様との交渉の中で、白紙委任状にサインさせられる、という事態まで起きて、それまでの、ごく普通の生活を一変しないとならなくなった。建築家としての仕事はもちろん、偶然に偶然が重なってできあがった超自然的な器具ネオガイア・テラファイトを製造するにも販売するにも十分な時間を与えられることなく、神様の指示に、ただひたすら従う、という生活に完全に変えられてしまった。

 神社仏閣にもほぼ無縁の生活を長い間送ってきた私が、数え切れないほど次々と寺社めぐりさせられたり、穴掘りさせられたり、山登りさせられたり、事務所にいればいたで、テーブル上に大きな地図を広げて、真剣に、行ってきた場所や脳に響いてきた場所にポイントを打って、無数の線やら図形やらを描き続けて、一見、仕事らしい仕事もしなくなってしまった。かつての私を知る人達が皆、異口同音に「上森は頭がおかしくなった。気がふれた」と言って、去って行ってしまわれたのも無理からぬことと判っている。

 こんなにまで私を使って、神様は、いったい何をしたがっているのか? 契約を迫ってきた時、神様は必死の様子で「時間がない! 時間がない!」と怒るように言われた。

 はじめは神様の指示が何の脈絡もないものと感じていたのだが、地図にひかれた線が十字架を示すものであったり、そのうち、きれいな正三角形や二等辺三角形が描けて、図形の点と点の場所にそれぞれ大きな意味が見いだせてきたりして、これは、ただならぬことだとわかるようになった。

 神様からの声もやり方も相変わらず続いている。しかし、神様の方では本当に時間が限られているようで、今年、2015年に入ってから、特に5月の連休あたりから事態は急速に進み出した。

 5年間、神様と文字通り会話することで、神様の全知全能ぶりもわかるようになった。私たち、3次元に肉体をもって生きている人間は、実は、無限の力をもっているのだが、真実を覆い隠されているために、自身を限定してしまっている。3次元の眼で見える事物しか見えていない。見える世界と見えない世界、この世とあの世、この両方の領域で私たちは生きているのだが、この事実を知らないでいる。また、もっと言えば、私たちは、過去、現在、未来に同時に生きている。それは、神様と一致した時、つまり、自我をなくした時、たいへんよく感じられるようになる。

 もし、教えられ、思い込まされていた過去が、全く違ったものであるとしたら、当然、現在の状況も、未来の予測も、違ったものになる。ほとんど教科書的な歴史の知識のない私が、それこそ神様から直接教えられた“歴史の真実”を語ることで、その内容を誰かが信じてくれるなら、そして、たったひとりでも勇気をもって行動を起こしてくれる人がいるなら、明らかに現在も未来も、想像外の世界を創りだせる。

 最近、自分自身でも驚くくらい、神様はいろんな事を一気に、おそらく誰も知らないであろう事柄を、私に直接教えてくれている。とても信じがたいような、奇想天外な話である。

 

 丁度 5年前の今日8月15日でした。  今も神様はこの国の秘密を私に教え続けています。 

その教えられたことを「邪馬台国新論」として纏めてみました。

 

『魏志倭人伝』に合わない日本の史書

「邪馬台国」は、西晋の陳寿(ちんじゅ・233~297)の編纂した『三国志』(成立は280年以降と言われる)という中国の正史の中の「魏書(ぎしょ)」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(うがんせんぴとういでんわじんのじょう)、通称『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に登場する国の名前だ。

つまり、中国の歴史書に記された日本の歴史なのである。紀元239年、倭国の女王卑弥呼(ひみこ)が魏に使節を送り、240年には魏からの使節が倭国に来た。『魏志倭人伝』は、主にこの時の魏の使節の見聞を元に書かれたと思われる。

その後、243年に倭国の使節が再び魏を訪れ、247年には再び魏の使節が倭国を訪れている。このとき、魏の使節は卑弥呼の死に遭遇し、『魏志倭人伝』には、その前後の様子も記述されている。

 問題は、この「中国の史書に書かれた日本」と「日本の史書に書かれた日本」がぴったりと合わないことである。日本で古代の正史とされているのは、『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)だ。

『日本書紀』には、神功皇后の条に唐突に『魏志倭人伝』からの引用があって、神功皇后を卑弥呼にあてようという『書記』の編纂者の意図が見られるが、前後に引用されている百済史との年代の矛盾が指摘されている。『書記』の編纂者は『三国志』を参照できる立場にあって、これをなんとか当てはめようという苦肉の策をとったのだろうが、引用のみで済ませて、日本側からの記述がまったくないのも不自然だ。

 要するに、合わないのだ。『古事記』、『日本書紀』には、編纂当時の政治状況が大きく反映しており、その当時の天皇家が日本を治めることの正当性と正統性を主張する意図で編まれているため、それに合わない国内のものは抹殺(焚書)し、国外のものは先の引用のようにごまかすか無視しているのだ。

 つまり「邪馬壹国」も「卑弥呼」も、日本の正史には登場しないと言っていい。

果たして、どこにあったのか? 大和朝廷との関係はどうなっているのか?

この謎は解けるのだろうか?

 

魏志倭人伝が語る邪馬壹国への行程

 

さて、畿内・九州の邪馬台国論争が始まったのは江戸時代後期というから、すでに150年は論争を続けていることになる。

なかなか決着がつかない理由のひとつは、『魏志倭人伝』に記載されている「里程」にある。

これがなかなか曖昧で数々の解釈が可能なのだ。

 

見てみよう。(「・・・」は中略箇所)

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を度る、千余里、対馬國に至る。・・・又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。一大國に至る。・・・ 又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。・・・ 東南陸行、五百里、伊都國に到る。・・・東南奴國に至ること百里。・・・ 東行、不彌國に至ること百里。・・・南、投馬國に至ること、水行二十日。・・・ 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。

これは、なかなか解けそうもない。別のヒントはないのだろうか?

このような記述がある。

女王國自り以北、其の戸数・道里、得て略載すべし。其の余の旁國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

次に斯馬國有り。次に已百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に對蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

「女王国より以北」については、いろいろ議論はあるだろうが、要するに、今まで記述してきた国については、邪馬壹国への行程にあたり実際に使節が通った国なので、その概要(本論考では省略した。「・・・」の部分にあたる)を述べることができたが、以下の国については、名前だけを挙げるということだ。

 

魏志倭人伝に出てくる、耶馬台国の周辺国

 

さて、ここに挙げられた国名だが、神奈備こと瀬藤禎祥氏のホームページの解釈が非常に優れているので、引用させていただくことにする。瀬藤氏は「女王国周辺とその余遠絶国と神々」と題して、細かく神社名とその住所等を記載されているが、ここでは、国名に関する記述だけ抜き出す。

 

斯馬國 しま 三重県南部 志摩

已百支國 いほき 三重県 五百木

伊邪國 いせ 三重県の伊勢から鈴鹿山脈東部から北は養老山脈にあたる平地

郡支國 とき 奈良県添上郡都祁

彌奴國 みの 美濃、尾張である。

好古都國 こうち 大阪府河内

不呼國 ふこ 京都府綴喜郡、久世郡。木津川、宇治川等の合流点。ここに封戸と呼ばれる渡りがあった。

姐奴國 たな 滋賀県栗太郡、草津市と信楽町。

對蘇國 やす 滋賀県野洲郡、琵琶湖西側から越前までを考える。

蘇奴國 そう 層富。奈良市から北部、京都府相楽郡。

呼邑國 こう 滋賀県甲賀郡 信楽、水口、甲賀。

華奴蘇奴國 かんそう 奈良県添上郡。

鬼國 き 山城の紀伊郡、木津川北部から京都市の市街地付近。

為吾國 あが 三重県伊賀郡、伊賀上野、名張。

鬼奴國 きの 和歌山県、三重県南牟婁郡

邪馬國 やま 京都府 京都市北部、亀岡、園部、丹波高地

躬臣國 こし 北陸方面、越前、越中、越後、近江伊香保

巴利國 はり 兵庫県播磨

支惟國 きみ 岡山県広島県。吉備。備前、備中、備後

烏奴國 えぬ 上野、北関東

奴國 な 信濃、長野県

 

ちなみに、瀬藤氏の説は「邪馬台国畿内説」で、魏の使節の経路は日本海から来たとしている。

 上森は、この「周辺国」を邪馬壹国の「境界線」としてなぞって、その版図を比定した。その結果、邪馬壹国は、但馬、丹後、丹波、摂津、大和にまたがる国土であることがわかった。

 そして、行財政を司る首都は大和の纏向(まきむく)で、女王卑弥呼がいた都は、『播磨国風土記』に「埴岡の里(はにおかのさと)」と記された、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがるエリアだったと推定したのだ。

 

魏の使節は生命の樹を辿って倭国に来ていた

 

さて、版図が比定できたら、次は、魏の使節のルートだ。

 畿内への航路としては、日本海の外海を通るより、やはり瀬戸内海の方が良いのではないかと思われる。理由は3つある。

図をご覧いただきたい。

前出の「イエス・キリストの生命の樹」である。

 

 

この図形は、生野の八幡山から長崎の伊王島へのラインを中心として重要拠点の位置を決めるべく作られたまさに「古代日本の設計図」だ。

11番目のセフィラ、「ダート」は、福山・大門を入り口とする総社だ。

 この「日本の設計図」を霊的・精神的な意味で非常に重要なものと考えていた倭国の人々であれば、当然航路はこの「中心線(センター・ライン)」を意識して決められ、日本海ではなく、瀬戸内ルートになると思われる。そして、出雲大社と馬路を結ぶ「パス」とセンターラインの交点に重要な寄港地である大門がある。

 もうひとつは「航海の安全」である。瀬戸内海も流れのきつい難所が数か所あるが、台風や嵐の影響は外海よりは安全である。

最後に、監視ができることも重要だ。瀬戸内海沿いには海がよく見える山が両岸にあり、船の状況が手にとるようにわかるのだ。

 

順序が逆のようだが、先に結論の地図を示しておく。

『魏志倭人伝』の「郡」は「帯方郡」で、現在のソウル付近と言われる。港としては仁川(インチョン)である。現在は空港があって、ソウルの玄関口になっている。

さて、船の到着地の西宮にも、「仁川」という川、そして地名がある。六甲山を源流とする武庫川の支流の川であり、流域の地名にもなっている。出発地と到着地に同じ地名をつけたのである。すなわち「仁川」から「仁川」へのルートだ。

仁川(インチョン)から朝鮮半島を海岸沿いに「狗邪韓国」まで行く。狗邪韓国の港、馬山(マサン)は古代からの良港であり、元寇のときも基地として使われた。

馬山から対馬に渡る。ここで注意しなければならないのは、対馬で船を乗り換えるということだ。対馬は、北の島と南の島でできていて、「対(つい)の島」という意味なのだろうが、実は陸続きなのだ。小さな舟ならば、陸を運ぶことができるが、大きな船は無理である。そして、なぜか「対の島」ではなく、「対の馬」と書くのだ。

馬山→対馬と、対馬→壱岐→呼子は別の航路で、それぞれに習熟した船乗りがいたのではないだろうか。

 

 

使節のルートはレイラインにも一致する

さて、この図から分かるように、中国の道教の聖地・千山と、使節の出発地である帯方郡(仁川)、その使節が立ち寄る狗邪韓国(馬山)、対馬、壱岐、そして九州本土への上陸地点の呼子は一直線になるのだ。

 上森はかつて千山を訪問した際に、ピラミッド型の形のよい山が、千山を起点に一直線に並んでいるのを見て、コンパスグラスで方角を測っておいた。その角度が真北から145度、つまりこの直線の方向を指していたのだ。

 

2010年以来、上森が教えられているのは、古代からの重要な拠点は、一直線に並んだり、正三角形、直角三角形、二等辺三角形などのきれいな図形を描くことだ。また、そのために、ピラミッド状の美しい山が作られていることもある。

ここにもまさしくそれがあるのだ。

 

「福」の地と円錐形の山を通る七福神の道だった

 

呼子に上陸した使節の一行は、福吉、福岡、福津と、わざわざ陸路を歩かされる。船で行った方が早いのだが、陸路を行くことによって、国防の為に、島か半島を横断したように見せかけて、地理的な関係が分かりにくいようにしているのだ。

そして、航海の安全を守護しくれる宗像大社(弁財天の総本宮でもある)に参拝し、再び船に乗って、関門海峡を通り、八幡(ヤハウェ)信仰の拠点・宇佐八幡宮を船上から拝し、「イエス・キリストの生命の樹」の「ダート」でり、物部王国の総本部・総社(大名持=大国主=大黒様を祀る)への入り口、福山の大門までやってくる。これが水行二十日で、ここが『魏志倭人伝』の「投馬国」にあたる。大門には、鶴島・亀島があり、瀬戸内海の潮の変わり目になっている。

大門を出た一行は、瀬戸内海をさらに進み、西宮に上陸する。上陸地点の目印はきれいな円錐形の甲山(かぶとやま)である。ここには戎(えびす)神社(戎神社の総本宮)があり、甲山の東には仁川がある。

西宮から、宝塚、三田、篠山、春日、福知山、粟鹿を通って、卑弥呼の住む埴岡の里・栗まで1ヶ月の行程だが、陸路といっても、岸から馬や人力で船を曳いて川を遡れるところは、船で行った可能性が高い。西宮から武庫川を遡れば、宝塚までは十分に行ける。

西宮から栗までの間にも、要所要所の目印に、円錐形の山が配してある。三田の有馬富士、春日の小富士山、粟鹿の小倉(おぐら)富士・・・実際に踏査すればもっとたくさんあるに違いない。

「福」のつく土地と、弁財天、戎神の総本宮を通り、大黒天の総本部を意識したこのルートは、「七福神の道」ということもできるのだ。

 

 

国は国境線の警護が重要懸案事項である

 

九州の方から瀬戸内海を船で来て、生野・神河の「埴岡の里」に行くのなら、姫路から市川という川沿いを今のJR播但線のルートを遡れば、ずっと早く着ける。しかし、卑弥呼の時代、ここは邪馬壹国の領土ではなかった。安全のためには、領土が海に接している西宮から、ずっと領地を通って来てもらう方が、日数はかかるが、安全である。

卑弥呼の時代より以前、「大乱」が起こる前は、姫路から北上するルートも同じ国の領地であったのだが・・・。

 

 

 「南」について

 

今まで、「邪馬台国畿内説」を悩ませてきたのが、方角の問題である。里程の書いてある部分をもう一度引用してみよう。

 

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓國を歴るに乍ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。始めて一海を度る、千余里、対馬國に至る。・・・又、南、一海を度る、千余里、名づけて瀚海と日う。一大國に至る。・・・ 又、一海を度る、千余里、末盧國に至る。・・・ 東南陸行、五百里、伊都國に到る。・・・東南奴國に至ること百里。・・・ 東行、不彌國に至ること百里。・・・南、投馬國に至ること、水行二十日。・・・ 南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日・陸行一月。

 「東行」「東南陸行」はそれぞれ1回出てくるが、「南行」は出てこない。原文では「南至投馬国」「南至邪馬壹国」となっている。

 さて、1冊の小冊子がある。兵庫県美方郡香住町の香住観光協会が発行した『御崎(みさき)平家村のおはなし』だ。

そのなかに、こんなくだりがある。

 壇ノ浦の合戦に敗れた平家の一門の内、清盛の異母弟にあたる平教盛(たいらののりもり)は、そのとき入水したことになっているが、実は落ちのびて、香住に来たという。

その教盛が落ちるときに言った言葉が、

「この壇ノ浦よりも遥か南に壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮らしていけるだろう」

というだ。結局、日本海を東に流されて香住に着くのだが、壱岐・対馬は、壇ノ浦からは、北西方向だ。「この壇ノ浦よりも遥か南」とはどういうことだろう。「南」は方角を指していないのだろうか。

 この小冊子は観光協会が地元に伝わる伝承を元に作成したもので、「史料的価値なし」あるいは「勘違いか書き間違えだろう」と言って片付けてしまえばそれまでである。しかし、上森の探究には、こういったことがつきものなのだ。ヒントは思わぬ形でやってくるのだ。

 では、「南」の字そのものを検討してみよう。まず上の「十」は「草の芽」だ。そして「冂」は「囲い」、「 」は「ナン」の音符であるとともに「入れ込む」意味を含んでいる。全体として「草木を囲いで囲って、暖かい小屋の中に入れ込み、促成栽培をするさまを示し、囲まれて暖かい意。転じて、暖気を取りこむ南がわを意味する。」(『学研漢和大字典』藤堂明保編より)

 

 

灘のつく海域

 

 さて、「囲む」といえば、この航路を見ていると、入江・内海に「灘」のつく地名がたくさんある。現在の地図で分布を調べてみた。

 

 黒丸が「灘」、白丸が「湾」である。地図以北も「湾」はあるが、現在では「灘」は「鹿島灘」が北限である。以前には「常盤灘」と呼ばれた海域があり、福島県沖までがその範囲だ。

今の地図にはないが、神戸沖は「摂津灘」だった。

他にも近世に呼び名が変わってしまっているケースもあるが、この図は、ある勢力の「制海権」をあらわしているように思える。

 

 ちなみに「灘」を漢和辞典で調べると、「水がながれなやむあさせ。」が元の意味である。「難」は水にとっての「難」なのだ。それが、日本に入ってきて「船にとっての難」すなわち「陸からやや離れて、波が荒い、航海の難所。」の意味に転じることになる。

 図を見ると、元の意味と日本での意味の過渡期に名づけられたのか、瀬戸内海の穏やかな海域にも、「灘」と名づけられている箇所がたくさんある。地形では、両側を岬に囲まれ、やや内側に湾曲した海岸線の場所につけられていることが多いようである。ちなみに、瀬戸内海での最大の難所は「音戸の瀬戸」と名付けられている。

 さらに、海域だけでなく、地名としても使われているので、国土地理院のウォッちずで「灘」と入れて検索をかけた結果がこの図である。海域ならずとも、西日本の海岸沿いにほぼ限定されていることがよく分かる。

石川県の河北潟、島根県の宍道湖と中海の畔に集中しているのは、それらの中海を「灘」と認識しているということだろう。また、淡路島の南の海岸沿いに並ぶのは「海に面した」という意味合いで、小豆島の灘山も同様だろう。

高知県は、湾の名前こそ現在は「土佐湾」だが、かつて「土佐灘」と呼んだ名残か、「灘」のつく地名はかなりある。それも「灘」1字を地名にしていることが多い。内陸部に1ヶ所あるのは、湿地帯だったのかもしれない。岡山県の内陸部には「灘池」がある。

岐阜県にある2ヶ所は、川の合流地点を「灘」と意識しているようだ。あるいは、水軍が川を遡って地名を運んだのかもしれない。

 海外の「灘」のついた地名が紹介されているウエブサイトもあり、大連の「老虎灘(ろうこたん・ラオフータン)」は入江というよりも河口、上海の「外灘(ワイタン)」は川の合流地点、古菫灘(ことうたん)は砂漠の中の小さな川の畔と、いずれも川で、日本の「灘」とはつけ方が違うようだ。日本の「灘」の地名の分布には、やはりある部族(水軍?)が関係しているように思える。

 それは、邪馬壹国への航路を守護していた水軍なのではないか。その勢力範囲を後に平家が引き継いだのではないか。平清盛が宮島の厳島神社に深く帰依し、瀬戸内海を航路とした日宋貿易に力を尽くしたことはよく知られている。

 

 

南無

 

「南無」を辞書で調べると、「サンスクリット(古代インド語)のナマスおよびナモーの音写。敬意、尊敬、崇敬をあらわす感嘆詞。」とある。

仏教用語としては、その通りだが、「なむ」と発音する言葉は、日本語には係助詞、終助詞、助動詞、連語、さらに「並ぶ」「並べる」という意味の動詞もあって、非常に身近な言葉だ。

もともと、漢訳の経典に登場したものとはいえ、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「南無大師遍照金剛」「南無釈迦牟尼如来」と庶民の間に流布したのは、おそらく日本だけだろう。

「南無」の意味は、日本語では「帰依します」だが、「南」(単独の発音「ナン」は「なむ」とほぼ同じ)の元の意味「囲まれて暖かい」を加味すると、さらに実感がわくのではないであろうか。「阿弥陀さま」「法華経」「お大師さま」「お釈迦さま」に守られて心から安心できる境地になるということなのだ。

 さて、再び「南」の字だが、「囲んで保護する」という意味合いと、「灘」と同じ「ナン」という音から、「内海」あるいは「領土内の海」「勢力範囲内の海」「安心できる場所」を意味する言葉であったと考えてみると『魏志倭人伝』も「平教盛の話」も合点がゆく。

 ここからはやや空想だが、魏の使節は太陽とか星を見て、方角を確認したのだろうか?あるいは、案内役の倭人に聞いたことをそのまま受け取ったのだろうか?

案内役の倭人が、魏の使者に「向かっている方向はどちらか?」と聞かれて「ナンだ」と答えたとしたらどうだろうか? 彼は、魏の使者をだますつもりなど毛頭ない。「内海で勢力範囲内で我々が安心できる航路だ」と答えたのだ。

 

 

女王国の東

 

畿内説を悩ませてきたもうひとつの記述が「女王国の東」である。引用してみよう。

 

女王國の東、海を渡る、千余里、復た國有り、皆倭種。

 

畿内説では、東に海がないからである。

上森説の邪馬壹国の版図は、日本海岸まで達しているので、東へ海を渡ることができる。千余里は1里=77mの短里で計算すると、77km余なので、80kmくらいか。

この距離は、丹後半島の伊根、あるいは宮津、舞鶴から出発して、敦賀湾の奥の敦賀までの距離に相当する。ここには気比(けひ)神宮という神社があって、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)というこの神社特有の神様だ。この神様の降臨の地、「土公」と呼ばれる塚には、大きな木が生い茂っているが、卵型の岩が八角形に並べられていて、最澄さま、空海さまが7日7夜の祈祷をされたというから、ただ事ではない。

また、気比神宮の摂社に角鹿神社(つぬがじんじゃ)があり、『日本書紀』に垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が祀られているのも注目に値する。

 

 

邪馬壹国の正しい読み方は「しゃもいっこく」

 

魏志倭人伝の原文では、卑弥呼が君臨した国はほとんど「倭国」あるいは「女王国」と表記されているが、一ヶ所だけ、邪馬壹国という国名が登場する。ところが、日本では「壹(壱の旧字)」は「臺(台の旧字)」の誤記とみなされ、一般には「邪馬台国」と呼ばれている。

どんな字が間違えたと言われているのか、大きく表示してみよう。

   

                

    

果たして、間違えるだろうか?

今に残る写本の時代はかなり新しいものではあるが、写本を作ったのはその道のプロである。内容は分からなくても、漢字の写し間違いは可能性が低いのではないか。伝わる間に草書が入ったのなら、写し間違えもありうるが、歴史書に草書は使わないのではないだろうか。

上森は原文の「壹」のまま読んで、これを「しゃもいっこく」と読む。

では、漢字をひとつずつ調べてみよう。

「邪」には、ふたつの意味がある。

ひとつは「よこしま」という意味で、この意味で使う場合、呉音では「ジャ」、漢音では「シャ」と発音する。ちなみに漢方医学では陰陽がバランスを失ってひずんでいる状態をこの字であらわす。「風邪(フウジャ・かぜ)」もそのひとつだ。

もうひとつの意味は「や・か」で、文末につけて疑問をあらわす。この意味のときの発音は、呉音・漢音ともに「ヤ」である。山東半島の付け根には「琅邪(ろうや)」という地名があり、徐福の出身地という説もある。

「馬」は「うま」だが、「向うみずに突き進む」の意味を含むという。

この字は呉音では「メ」、漢音では「バ」、唐宋音では「マ」と発音する。

「壹」  は「ひとつ」の意味で、呉音が「イチ」、漢音は「イツ」である。

 「国」は「くに」、呉音・漢音ともに「コク」と読む。

 「漢音」は、遣唐使が持ち帰ったそのころの長安の漢民族の正しい発音、それに対し「呉音」はそれまでに日本に伝えられていた発音なのだが、長安の言葉からすると「いなか言葉」のようなニュアンスで「呉音」と呼ばれたらしい。「唐宋音」は、鎌倉時代以降に禅宗の留学僧らによって伝えられた発音だ。

 

 「邪馬壹国」は、「邪」を「よこしま」の意味とすると、呉音では「ジャメイチコク」、漢音では「シャバイツコク」となる。

 「邪」が「や・か」なら、呉音では「ヤメイチコク」、漢音では「ヤバイツコク」となる。

 状況から考えて魏の使節は漢音を発音していた可能性が高い。つまり「シャバイツコク」または「ヤバイツコク」である。

 

 さて、上森は、2012年2月、丹後半島の竹野(たかの)神社の社殿の正面上部に掲げられた、つがいの鶏の彫刻を不思議に思っていた。この場所には通常なら竜や鳳凰の彫刻があるはずだからだ。一年後、これは「軍鶏(しゃも)」だと思い当たった。それは、この国の基礎をつくった「モー・シェ」の名前をさかさまに発音して「シェ・モー」そして「シャモ」。

 この神社の別の社の扉にはユダヤの「エフライム族」を象徴するブドウを背景にイエス・キリストを象徴する狐が彫られていたり、その脇障子には、仙人が息を吹くとその息の中にもう一人の仙人が現れる彫刻があって、日本で生まれたモーセの帰国をあらわしていて、神社全体としてこの国の基礎をつくった人たちへの尊崇の念が表現されていたのだ。

 そして、上森は「邪馬」も「シャモ」であり、「邪馬壹国」は「シャモイッコク」と呼び、意味は「モーセの律法を第一とする国」だと考えた。

 では、魏の使節は「シャモイッコク」の「モ」にどうして「馬」の字をあてたのだろう。

 漢和辞典によれば、「馬」の字を「マ」と読むのは後の時代なので、卑弥呼の時代なら、「馬」と書いてあれば「バ」と読んでしまうだろう。

 さて、鉱物の「雲母」は「ウンボ」ではなく「ウンモ」と発音する。天皇の生母「国母」は「コクモ」と呼ばれる。「m」も「b」もいったん唇を閉じてから、母音を発声するときに唇を開く。「m」と「b」は相互に変化しやすい音なのだ。

もし倭人が「m」を「b」のように発音する人たちだったら、正式名称「シャモイッコク」を「シャボイッコク」のように発音したであろう。この「ボ」を写すのに「馬(バ)」の字を使うという可能性も十分に考えられる。

つまり、『三国志』の読者の中国の人たちは「シャバイッコク」と読み、倭人は「シャボイッコク」と発音していたはずだが、正式名称は「シャモイッコク」なのだ。

 または、漢和辞典には「唐宋音」と書いてある「馬」の「マ」の発音が、魏の時代から行われていた可能性もある。もしそうならば、このような煩雑な考察を経ずに、「シャマイッコク」、母音を軽く読むと、「a」が「o」になって「シャモイッコク」の読みが可能だ。

 上森が千山に行ったとき、中国の知人に邪馬壹国を読んでもらったら「シャモイーグァ」と発音した。現代の中国でも「邪馬」は「シャモ」なのだ。

 さらに、魏の使節はモーセやキリストを意識していた可能性もある。モーセが日本に理想国家をつくろうとした拠点は、今の鳥取県の東郷池の畔、馬ノ山だ。「馬」はモーセの象徴として、「対馬」「馬路」「馬山」などの地名にも使われた。『魏志倭人伝』のなかにも、「対馬」以外に「斯馬国」、「邪馬国」、「投馬国」がある。

さらにキリストは、馬小屋で誕生したと伝えられている。やはり「馬」に縁があるのだ。というよりも、キリストはモーセの血をひいているので、それを示すためにこの「馬小屋」の話が作られたのだ。

そのモーセとキリストが理想国家をつくろうとした国、またそのふたりの墓を祀る国、「邪馬壹国」に「馬」の字を意識的に使ったとも考えられるのだ。

そうなると、一般には「邪」も「馬」も悪字で、中華思想から周辺国の名前に意識的に悪字をつけたと言われているが、「馬」は悪字ではなくなる。

ちなみに「卑弥呼」の読みであるが、呉音では「ヒミク」、漢音では「ヒビコ」となる。「ヒミコ」という読みは呉音と漢音を混ぜてしまっているが、よいのだろうか。われわれはあまりにも「ヒミコ」という読み方に親しみ過ぎているような気もする。

 

 

魏志倭人伝が伝えた卑弥呼の死

 

さて、248年に卑弥呼が死んだとき、ちょうど来日していた張政がその様子を見聞することになった。もっとも、国内のどこにいたのかは分からない。記事は人から聞いた話のようでもある。

 卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、奴卑百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺(ちゅうさつ)し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壹與(いよ)年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。

 

 宗女壹與については、この記述の通りではないと、上森は教えられている。これについては稿を改めることにするが、ここではこの記述にしたがって論を進めて行く。

 この墓も埴岡の里に実在する。上森が「婀月山」と名付けた779mの山の頂に、底円部直径100m、上円部の直径50m、墳丘の長さ150mの、どこから見てもきれいなドーム型の墓が作ってあるのだ。

 

(七宝寺から眺める女王卑弥呼の陵墓)

 

上森は殉葬の場所も教えられている。

 『魏志倭人伝』には倭の地の風俗や自然などの記述もある。その中に「山椒」があるが、今でも山椒は神河町の特産のひとつだ。また、『魏志倭人伝』に書かれている「橘」と同じ柑橘類の「柚子」も神河町の特産品だ。そして、猿や雉もいる。

さて、張政らは、政情が不安定な中、帰国することもできずに、命の危険を感じつつじっと身をひそめて不安な毎日を過ごしていたことだろう。帰国が決まったときには、さぞほっとしたに違いない。

 

政等、檄を以て壹與を告喩(こくゆ)す。壹與、倭の大夫率善中郎将、掖邪狗等二十人を遣し、政等を送り還す。因りて臺に詣り、男女生口(しょうく)三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。

 

魏から来ていた張政は、壹與に「そちが倭国を治めるのを、大帝国の魏が承認するので、しっかりやるように」との文を送った。それに対し、壹與は、先に「率善中郎将」の位を魏から賜った掖邪狗ら20人を、張政に同伴させて魏に帰国させた。そして魏の都に至り、男女の生口30人を献上し、そのほか、白珠5000孔、青くて大きな勾玉を2枚、織物20匹を貢いだとのことだ。

 

ここで、「臺」(魏の都、洛陽の中央官庁のこと)の字が使われていることにも注目したい。

そして少し前の卑弥呼が存命中の243年の記事には、

 

 其の四年、倭王、復た使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木 ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す

 

とあり、「壹拝」(拝受すること)という熟語も使われている。筆記者はきちんと「臺」と「壹」の区別をしているのである。すなわち、国名は原文通り「邪馬壹国」、宗女の名前もやはり原文通り「壹與」とすべきだろう。

 ついでながら、この使者の名前、伊声耆と掖邪狗は同じ人物を2重に表記したものとも言われているが、旧約聖書のアブラハムの子、「イサク」を意味するのではないだろうか。もちろん本人ではないが、イサクにちなんで名づけられた、ということだ。

 

 

        邪馬台国の謎は完全解明されました


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二つの三角形が教えることは・・

2015-08-06 17:25:28 | かごめかごめの真実とは

2015年8月6日(木)

テラとアブラハムとモーセの三角関係は特別だった

 淡路島の勾玉山がアブラハムのお墓なら、それは父親のテラのお墓と結ばれているはずだ。そう考えた上森は、地図上で、淡路島の南部にあるアブラハムのお墓と奈良山添村神野山のテラのお墓を直線で結んだ。そしてその2点をそれぞれモーセのお墓と直線で結んで三角形をつくってみた。

 すると、どうだろう。テラの墓とアブラハムの墓を結ぶラインと、テラの墓とモーセの墓を結ぶラインの角度は、80.7度。その80.7°を東西の水平ラインで分けると地球の傾きと同じ、23,4度と1ラジアン(≒57.3°)になる。

 そして、テラの墓とアブラハムの墓を結ぶラインと、アブラハムの墓とモーセの墓を結ぶラインの角度は1ラジアン(≒57.3°)になっていた。

 ちなみにラジアンとは角度を表す単位で、円における半径と弧の比によって決められている。 弧の長さが半径と同じになるような扇型の中心角が基本単位となる1 ラジアンだ。この角度は円の大きさにはかかわらず、小さい円においても大きい円においても同じ大きさだ。

 つまり、テラとアブラハムとモーセの墓を結ぶ三角形は、やはり、ただの三角形ではなかったことになる。古代の要人のお墓は、その関係性が後世の人にも分かるように、意図的に設計されていたのだ。

中国の道教の聖地千山と、台湾の半平山と徳島の半平山とを結んだ大三角形と、

モーセの墓とテラとアブラハムの墓の三点を結んだ三角形は全く同じ形をしています。

偶然とは考えられません。 

大宇宙の法則で山や磐座を配置して図形は描かれているようですよ。

地球の傾き23,4°と1ラジアンの法則を用いて・・・、そしてそれは星座を地上に下ろして営まれています。


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