遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『悪玉伝』   朝井まかて   角川文庫

2024-03-13 18:40:55 | 朝井まかて
 「行くで。どこまでも、漕ぎ続けたる」が本作末尾の文。その少し手前に、「わしこそが亡家の悪玉やった。欲を転がして転がして、周りの欲もどんどん巻き込んで、江戸まで転がったわ。けど、これこの通り、生き残った。しかも船出するのや。惨めな、みっともない船出やけど、船には弁財天が乗る。悪玉の神さんや」(p436-437)という箇所がある。「悪玉伝」というタイトルは、この箇所に由来するようだ。
 わしこそ悪玉と述懐するのは、大坂の炭問屋に養子に入って、炭問屋の主となった木津屋吉兵衛である。なぜ、こんな述懐をしたのかがこのストーリー。
 大坂で名の知られた吉兵衛が、実家の辰巳屋を継いだ兄の急逝と事情により、正式に辰巳屋の跡目相続人となる。だが謀計による家督横領と訴えられたことが因となり、捕らえられて江戸送りの身に。伝馬町の牢暮らしと取り調べの日々を耐え抜いて、サバイバルして出獄する・・・・・その顛末の半生が描き出される。
 
 「悪玉」という言葉は経験的に考え、文脈により様々な意味づけやニュアンスで使われると思う。吉兵衛が己を悪玉と述懐する他に、視点を変えて本作を見直すと、様々な悪玉が登場しているストーリーと見ることもできる。真の悪玉は誰かと問いかけているストーリーという側面を内包しているようにも思う。そこがおもしろい。

 本書は2018年7月に単行本が刊行され、第22回司馬遼太郎賞を受賞。令和2年(2020)12月に文庫化されている。

 本作はその構成が実に巧みである。
 メイン・ストーリーは木津屋吉兵衛の半生物語である。そこには、大坂商人の慣習、思考、行動がベースになっている。商人の目で押し通す。
 吉兵衛は大坂の有数の炭問屋木津屋に養子になる。その商売面においてではなく、長年遊蕩と学問の方に走ったことで世間にその名を知られる。それが因で、三万両あった木津屋の身代が潰える寸前までに立ち至る。そこからこのストーリーが始まる。読者は吉兵衛のプロフィールをまず鮮やかにイメージできる。ここがいわば「起」と言えようか。

 実家辰巳屋の当主である兄の急死が吉兵衛に伝えられる。大坂の豪商「御薪 辰巳屋」に吉兵衛は駆けつけ、兄の通夜と葬儀に弟として采配を振るい、兄の娘・伊波を助けて、辰巳屋の家格・体裁を示そうとはかる。が、そこに大番頭の与兵衛が横槍を入れてきて、吉兵衛を排除しようと試みる。徐々に吉兵衛は長年離れていた実家辰巳屋の内情を知って行くことになる。吉兵衛は一旦、おのれが跡目相続人となる正式な手続きを推し進める。その背景の一因は、吉兵衛の兄が泉州の海商である唐金屋から養子に迎え、いずれ伊波と娶すつもりだった乙之助にあった。この通夜から跡目相続人になるまでが、ストーリーの最初の山場になっていく。「承」にあたる。

 パラレルにサブ・ストーリーが「第二章 甘藷と桜」から始まっていく。こちらの舞台は江戸。寺社奉行ほかの役職を担う大岡忠相が登場する。こちらは政治・行政の目という位置づけになり、大岡忠相の視点からストーリーが織り込まれていく。
 公方吉宗公に敬服する忠相は吉宗公に見込まれて行政手腕を発揮してきた。江戸町奉行から寺社奉行に栄進したのだが、内心は一種の左遷ではという思いを抱いている。そんな忠相が、吉兵衛の事案に関わっていくことになる。それは、なぜか。
 吉宗は将軍となり抜本的な財政立て直しに乗り出した最中の享保6年に、「御箱」を設置する仕組みを創設した。投函された「目安」(訴状)に自ら目を通し、吟味を要すると判断した訴状内容には、問題解決担当者を決めて吟味させるのだ。大坂商人の跡目出入の一件を吉宗は問題事象に取り上げた。大坂での裁きに対する不服を江戸で出訴した目安だった。この目安の内容の吟味・解決に対する御用懸4名の一人として忠相は関与する立場になう。この時点から、忠相が吉兵衛の事案に関わっていく。
 このサブ・ストーリーの興味深さは、まず、忠相の子飼いの役人である、薩摩芋御用掛の任に就いている青木文蔵(号は昆陽)と「公事方御定書」の編纂を任とする加藤又左衛門枝直を忠相の自宅に登場させる場面から始まる。さらに、忠相が染井村の霧島屋を玉川に桜の木を植樹する事案で訪れる場面、吉宗公から呼び出され吹上御庭に参上する場面が重ねられていく。これらの場面は、御用懸の任を担当することになる忠相にとっての伏線となっていく。

 江戸で投函された目安を吉宗が取り上げることになり、その当事者として吉兵衛が捕らえられて江戸送りとなる。この辺りからが、いわば「転」だろう。捕らえられた時の吉兵衛の思惑と行動、江戸送りの道中での入牢についての付きそう役人から教えられる知識、伝馬町での入牢生活が、吉兵衛の視点から描き出されていく。
 読者にとって、このプロセスは吉兵衛の観察力としたたかさ、彼の思考を眺めていくことになる。
 一方、副産物として、江戸時代の伝馬町の牢屋の仕組みと実態を具体的に知ることになる。このあたり、当時の状況を著者はかなりリアルに描き込んでいるのではないかと思う。
 
 遂に、具体的に「辰巳屋一件」の取り調べが始まる。ここからは一気に読み進めてしまう大きな山場となっていく。「結」のプロセスである。
 吉兵衛は入牢生活に絶え抜いていく。その中で智謀を巡らし、己がなぜその窮地に陥れられたかに思いを巡らす。取り調べへの対応策を練る。大坂での遊び仲間である升屋三郎太や大和屋惣右衛門が吉兵衛を支援する。だが、彼等もまた吉兵衛の取り調べに巻き込まれていき、己のことで精一杯になっていく。辰巳屋の番頭で吉兵衛を子供時代から知る嘉助もまた吉兵衛の居る牢屋に入牢させられる羽目に・・・・。
 牢内では牢内役人の辰三との関係が深まり、辰三は吉兵衛に情報を提供してくれるようになっていく。
 吉兵衛は己の立場を堅持する。奉行所側の取り調べの結果の請証文に対し爪印を捺すことを拒絶する。
 疫病がはやり牢名主が死ぬ。その直前に吉兵衛は思わぬものを入手した。吉兵衛は己の戦略で奉行所側と交渉をするタフさを発揮していく。
 さて、具体的にどのような展開になるかは、本書で楽しんでいただくとよい。

 江戸時代の政治経済状況について、ストーリーの背景に事実情報を数多く盛り込みながら、木津屋吉兵衛のしたたかさと行動に、読ませどころを盛り込んでいく。
 大坂と江戸の文化差も盛り込まれている。その中で、大坂の商人の目と江戸の政治・行政者の目の対比が興味深い。その底流に「民を動かす根本は美辞麗句でも脅しでもなく、『欲』だ」(p109)が潜んでいる。政治・行政の目の裏側にもまた、己の利が働いている側面が垣間見える。
 将軍吉宗もまた多面性を持つ人であることを大岡忠相の目を通して描写している。この点もおもしろい解釈だと思った。吉宗は「米将軍」「野暮将軍」と陰で呼ばれていたという。このストーリーの中では、大岡忠相もまた、政治の目で、吉宗の思考を忖度してこの御用懸の任を務め、判断している印象を私はもった。

 エンターテインメント性もたっぷり盛り込まれている。特におもしろいと思うのは、吉兵衛とお瑠璃の関係である。島原の遊郭で禿だったお瑠璃を身請けして女房にした。そのお瑠璃は吉兵衛を嫌う一方で、寒牡丹の育成を趣味にしている。この二人の関係性である。
 本書の表紙には、牡丹がデザインされている。ストーリーの底流では、牡丹が江戸の吹上御庭、木津屋と辰巳屋の庭、牡丹の連仲間、泉州の荒金屋へとつながっている。趣味の世界はそれぞれが無意識の内に輪環しているのだ。「寒牡丹が売れたんどす」(p434)とお瑠璃が吉兵衛に告げる一言にリンクする。

 全体の構成のおもしろさ。さすが受賞作だけのことはある。

 ご一読ありがとうございます。
 
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