北里研究所の小松博士━この人物像がすこしばかり
わかってきた。彦山光三が「編輯兼發行人」の『相撲』へ
寄稿したり・座談会に出席した医博の小松經雄だった。
昭和十二年の新年號「清水川關について」から━。
清水川關を私が深く識る樣になつたのは、健康診斷の
ために北里研究所の附属病院へ訪ねて來た折からです。
〔中略〕彼が入口で小聲で看護婦と「ヒソ〵」話して居たの
は、私はよく、親方に公然言へぬ樣な病氣で診察をうけに
來たり、本當の事を言はなかつたりする若い者をどなりつ
けるので、彼も巡業中帰京して私を訪れたのでは、或は私
から頭ごなしに叱りつけられると杞憂したらしいのです。
併し會つて話を聞けば、其の心掛けは實に立派なもので
すし、又診察した結果何も人の前に恥づべき種類の病氣
ではなく、力士として公然堂々表口から來て治療を受けて
然るべき病氣なのです。〔後略〕
昭和の名大関清水川元吉、後年寄追手風。「若気の至り」
で師匠から破門され、のち父親の自決をもって特例措置で
復帰をゆるされ、幕下筆頭から再出発━異色力士のひとり。
わかってきた。彦山光三が「編輯兼發行人」の『相撲』へ
寄稿したり・座談会に出席した医博の小松經雄だった。
昭和十二年の新年號「清水川關について」から━。
清水川關を私が深く識る樣になつたのは、健康診斷の
ために北里研究所の附属病院へ訪ねて來た折からです。
〔中略〕彼が入口で小聲で看護婦と「ヒソ〵」話して居たの
は、私はよく、親方に公然言へぬ樣な病氣で診察をうけに
來たり、本當の事を言はなかつたりする若い者をどなりつ
けるので、彼も巡業中帰京して私を訪れたのでは、或は私
から頭ごなしに叱りつけられると杞憂したらしいのです。
併し會つて話を聞けば、其の心掛けは實に立派なもので
すし、又診察した結果何も人の前に恥づべき種類の病氣
ではなく、力士として公然堂々表口から來て治療を受けて
然るべき病氣なのです。〔後略〕
昭和の名大関清水川元吉、後年寄追手風。「若気の至り」
で師匠から破門され、のち父親の自決をもって特例措置で
復帰をゆるされ、幕下筆頭から再出発━異色力士のひとり。
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