じゅんむし日記

心は急いでいる。それなのに、何も思い通りの形にはなっていかない。がまんがまん。とにかく、今できることから始めよう。

「幸福論」アラン

2015-11-29 | 
幸福感についての記事を見つけたと前回のブログで書きましたが、
なぜそんな記事が目に付いたかというと、
「幸福論」という本を、寝る前にちょびちょび読んでいたせいなのかなとも思います^^;

若い頃読んだ本の読み返しですがね…。

ま、そもそも「幸福論」なんていう本を本棚から拾い出すこと自体、
最近気にかかっている言葉だったということなのかもしれません…。




このアランの幸福論…
・・論と言いながら、堅苦しい哲学書というわけではなく、
実生活などからエピソードを挙げて幸福感というものを語っている、小エッセイのまとまりみたいな感じです。
わかりやすく、スッと入ってきます。

人間が陥りやすい”癖”を取り上げ、不幸を感じてしまうワナといったようなものを教えてくれます。

そして、まず行動せよ、と。
過去や未来は、それらを考えるときにしか存在しない。過去も未来もわれわれを苦しめる事はできない。
とあるように、
考えているばかりで答えを導き出そうとせず、まず行動するのが大切であり、行動こそが未来をはらんでいると言っています。

そして、
・今の自分の仕事に真摯に取り組むことが大事
・人には、自分以外にはほとんど敵はいない
・礼儀とは自分の義務を感じることで、敬意や慎みや正義に対しても大いに義務がある
・望まなければ幸福になれない。内なる幸福を持っている人は、上手に幸福を取引し、上手に交換する
と言っています。

毎夜拾い読みをしているところですが、若い頃より身にしみて言葉をすくい取れる感じです。

行動、行動っと。
コメント

幸福を感じる才能

2015-11-22 | 想うこと
はたからみて、
境遇がだいたい同じで、生きている年代も同じ…
でも、感じる幸福感ってその人によって違うんだろうな…
そんなことは感じていました。

ヤフーニュースでもこんな記事が。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151120-00000025-kyt-l26
(大きいほど幸福感?脳の部位・・・)

「人はそれぞれ、人生の中でいいこともあれば悪いこともある。幸福なときもあれば不幸に感じるときもある」
そんな話を友人たちとしたばかりでもありました。

そして、私ってもしや感じる幸福感が少ないほうの部類かな(・・?
なんてね。

ブログを読んでくれた友人からは「楽しそうな生活~」と言われたけれど、
幸福だと感じているかというと、そうではないかな??

今の生活に感謝はしていますけどね。

でも、やけに気にしすぎるところがあるし、
夜イヤなことを思い出したりなんかして、一日を充実感をもって終えないこともしばしば(~_~;)
なぜあんなこと言っちゃったんだろう、こうしてあげればよかった…
数え上げればキリがない(^_^;)

・気持ちを切り替えて、どうにもならないことは考えないほうがよい。
・人は人で、嫌な思いをさせられて相手を憎んだところで、その人の人生を変えることは出来ないし、
ましてや自分の人生がよくなるわけがない。

これらのことはわかっていますが、
ならば、そんな負の感情がストンと落ちて、
自分は自分で良くなろうと努力するほうのみにならないのはどうしてでしょう。


頭では理解していても、その通りにできないってさ…。

脳のせいにしちゃいますか?
幸福感が強い人ほど右脳の内側にある「楔前部(けつぜんぶ)」が大きい
(上記ヤフーニュースより)


脳のせいにしたところで、
この性質を変えることはできないけどね。
ま、それは裏を返すといいところにも繋がる、と慰めますかぁ…(^_^;)
コメント

何かを本当に好きということ

2015-11-17 | 想うこと
人に対してもそうですが、
仕事、または趣味を本当に好きだ!
と言える時はどんなときでしょう。

最近、若い頃のような情熱がなくなり、考えるようになりました。

若いときは、
「私は音楽が好きだーーー」
と叫びたくなるほど、音楽が好きだと自分で思っておりました。

でも、この「好き」とは?

ギターを弾くのにいっしょうけんめい研究して、
音楽を聴くのさえいっしょうけんめいで、
音楽に感動して、慰められ…

そして今、
Charとか押尾コータローのギターを聴きながら、
絶対弾けないけど、楽そうなのをちょっと真似事くらいしてみたいなぁと思っても、サッと行動に移すことができません。

一人で弾けるようになってもなぁ、とか、
それからどうしたいのかなぁ、とか、
何でそんなことを考えちゃうんだろね(・・?

とにかくやりたいことをやるのだ!ということが出来ないで、
これは「好き」と言えるのでしょうか?

本はゆっくりですが読み続けています。
軽~いものから…
えっと…難解なものと言いたいところですが、それはムリ。
まぁ、小説からノンフィクションまで幅広く、というところ。

これは「好き」と言えるのですか?
最近なかなかアタマに入っていかないし^^;

やはり年齢?
年齢というものはオソロシイと言わざるを得ません。

感受性は衰える…
変化に対応できる柔軟な心も失われる…
好奇心が薄れる…
アタマに入っていかん…
何となく思い浮かぶのに、その言葉が出てこない…

あらら。
自虐っぽくなってきたじゃん。

年齢に逆らえないことはある…
年齢に立ち向かっていくことができるものもある…
年齢を理由とせず、努力できるものもあるのだと、しっかり心に命じたいなと思うこの頃。


若い頃のようでなくてもいい。
好きなことを見つけようっと。
コメント

本の解説いらないーって思うとき

2015-11-11 | つぶやき
岡嶋二人の「クラインの壷」という本を読んでその感想を書こうと思ったのですが、
あまりにも「解説」に衝撃を受けたので、ちょっと気持ちがそがれてしまったわね。

若い頃…
そうね、20年以上くらい前までは、
文庫本を読んで何がしかの思いを抱き、
さらに解説を読んで、思いを深めたり、なるほどと思ったり、作者のことを深く知ったり…

解説って、そんなものだと思い、
確かにその役目を果たしてくれていました。

しかし、ここ最近…(と言っても十数年前くらいから)←年齢の重みが出ている(-.-)
この解説いらないなぁ、と思うものが少なからず出てきました。

たまたま今日は「クラインの壷」の解説について取り上げたのですが、
まぁ何が引っかかるのかと言うと、

・口調が軽すぎて違和感がある
(えとね、まず…)
(何が怖いって…あう。困った)など

・解説者がどれだけファンなのかを切々と訴えているが、ファンレターにもならない
(言い散らかしている感じで、読むものに伝わらない)

まったく得るものがなかったと言うわけではありませんが、
いらいら感はぬぐえません。

それでも、これはまだいい方でしょうか。
憤まんやる方ない、と思ったのが、あさのあつこさんの「バッテリー」でしたね。
もうずい分前ですけど。

才能ある野球少年と家族や友人たちとの心模様を書いた児童書なのですが、
その文庫版の解説で、
・野球はピッチャーとキャッチャーだけがいっしょうけんめいやっていて、外野にいる人は何が面白いのか
(↑こんなニュアンス。正しいコピーではないです^^;)
みたいなことを書いていて頭にきましたね。
野球はまさしくチームプレーですよ。
ベンチも含めて試合ですよ。
何もわかってなくて、解説などしないでほしい、と思いました。

こういう解説の原稿書かれて、断れないのかしら…。
作者のあさのさんがなんと思ったのかは知る由もないですが。
コメント

頼まれごとは”おあいこ”の精神

2015-11-02 | 想うこと
あーあ…(-。-;)
何てワタシは小さい人間なんでしょう。

小さい、小さい(-.-)

この小ささゆえ、
人からの頼まれごともイヤとは言えませぬ。

頼まれたときに「エッ!?それって大変なんだけど?」
と思っても、なかなかイヤとは言えませぬ。

なので、事前にシミュレーション…
こう言われたら、こう返す、
なおも言ってきたとしても毅然と断る( ̄^ ̄)きぜん!

というのをしていたはずなのに、

「やってくれる人知ってるから大丈夫、って仲間に話してきたよー」
と、頼まれて…(゜o゜)ノ

これでは断れませんわね…(-.-)

お願いしている人は、
それがさも名案だと思い込んでいる節もある…

こうなると笑っちゃうね(^o^)ははは…

それでも受けた以上は、
これも勉強、と自分の気持ちを奮い立たせながらやるのです( ̄ヘ ̄;)

こう考えている時点でホントはダメ。
やるなら、心から任せてって思わないと。

そして!
かく言うワタシも、人のことは言えませぬ。
若い頃はたぶん、
相手のことを気にも留めずにお願いしていたんじゃないでしょうか。

随分、調子のいいお願いをしたことがあるのではないかと、
もう何かも忘れてしまっていますが、たぶんあっただろうと思うのです。

というわけで、
”おあいこ”というからくりです(~_~;)

時間差があって、おあいこの人は別の人になっていますけどね。

最近こそ、お願いすることが前よりもだいぶ減ったのではないかと思っていますが…

ん?(・_・)

いやいや…
最近も、
先週まで開催のグループ展に足を運んでもらう”お願い”というのをしていたわね。

やっぱり、人は変わっているけれど、今の時点でもおあいこなんだ~(~_~;)
コメント