神が宿るところ

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雁堤

2011-09-06 23:45:47 | 史跡・文化財
雁堤(かりがねつつみ)。
場所:静岡県富士市松岡。県道396号線(富士由比線、旧・国道1号線)の富士川に架かる「富士川橋」の左岸(東岸)に「水神社」があり、そこから県道396号線に並行して東に堤が続き、約900mで今度は県道176号線に並行して、「岩本山」(標高193m)下まで北西に堤が続く。この逆「く」の字の堤を、雁(がん)が群れ飛ぶ様になぞらえて「雁堤(かりがねつつみ)」という。
富士川は「駿河」の名の由来ともなったといわれるほどの急流で、その渡河は、薩埵峠越えに続く難所だった。古代東海道については、承和2年(835年)の太政官符によれば、「富士川と相模川(鮎河)は急流で度々難船が起きるので、浮橋を置け」という命令が出ている。「浮橋」というのは筏や舟を並べて橋にしたものだが、富士川の渡河地点がどこであったか、不明である。富士川自体、現在の川筋よりも東を流れていたといわれているが、いくつかの枝川に分かれ、河口の三角州の上を乱流となって位置を変えていたのではないかともいわれている。現在でも、富士川の左岸(東岸)に五貫島、森島、宮島、水戸島などといった「島」の付く地名が多いのは、それぞれが川中の島だったからなのではないかと思われる。それが広い平野となったのは、江戸時代初期に、この地の豪族・古郡氏が「雁堤」という堤防を築き、富士川の川筋を変え、洪水を抑えた大工事を行った結果だという。戦国時代に加島荘籠下村を開いた古郡氏は江戸時代には郷士となり、その当主であった古郡重高が元和7年(1621年)に富士川の治水工事に着手した。その後、家督を継いだ子の古郡孫太夫重政、孫の古郡重年の三代にわたって工事を続け、現存するような「雁堤」が完成したのは延宝2年(1674年)だったとされる。
この工事では、「(松岡)水神社」(写真1)の鎮座する「水神の森」の地下に巨大な岩盤があり、この大磐石を堤防の基礎とした。このとき、この岩盤は川中にあり、富士川右岸(西岸)の庵原郡に属していたが、この工事後に富士郡に属するようになったという。なお、近世東海道では、ここに渡船場があったらしい。
さて、これだけの大工事で、その完成までには相当の苦難があったと推察される。それを示すのが、人柱伝説である。即ち、「今より3百余年前、大水が出て、この堤の辺りが切れそうになった。そのため、領主は人柱を立てて、堤を固めることとした。人柱は籤引で決めることになったが、当たったのは領主の信頼厚い家老だった。家老は潔く人柱になろうとしたが、そのとき、旅の六部(巡礼僧)が代わりに人柱になることを申し出、堤の底に埋められた。」(鈴木暹著「東海道と伝説」(平成6年3月))。籤引ではなく、千人目に通りかかった者を人柱にしたとか、人柱になったのは旅の武士であるとか、異なる伝承もあるが、それが単なる伝説だけではない遺跡がある。「(松岡)水神社」から堤防上を東に進むと、屈曲点に「護所神社」という小社があって、人柱の霊を祀っている。また、その境内に「人柱之碑」もある。


富士市のHPから(かりがね堤と人柱伝説)Flash Player

「日本の川と災害」(河川ネット)さんのHPから(水神社)


写真1:「水神社」(場所:静岡県富士市松岡1816-1)。祭神:弥都波能売神


写真2:「水神社」境内にある「富士川渡船場跡」の石碑


写真3:「護所神社」。祭神:人柱之霊


写真4:「護所神社」境内にある「人柱供養塔」と「雁堤人柱之碑」


写真5:岩本山から見る「雁堤」。「く」の字を連ねたような堤防の跡が見える。現在は「雁堤公園」になっている。
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