神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

三輪神社(秋田県羽後町杉宮)

2015-11-14 23:03:07 | 神社
三輪神社(みわじんじゃ)。
場所:秋田県雄勝郡羽後町杉宮字宮林1。国道398号線「柳田橋」交差点から西に約1.3km進み、「三輪神社→」の案内標識のところを右折(北へ)、突き当り。境内に駐車スペースあり。
社伝によれば、養老2年(718年)、行基が当地を巡錫の折、杉の木の下で霊告を受けて草庵を営み、大和国一宮「大神神社」を勧請したのが創始とされる。また、「雄勝城」建設のために大和朝廷から派遣された官人が、故国を懐かしんで勧請したともいう。現在では見る影も無いが、かつては地名の通り豊かな杉林があり、大和国から一夜にして飛んで来た、との伝承がある。「大神神社」には本殿が無く、「三輪山」そのものを神体山としているが、当神社では杉林を神体としたのかもしれない。当然ながら、祭神は(「大神神社」と同じ)大物主大神。平泉藤原氏の崇敬を受けて藤原秀衡(1122?~1187年)の祈願所となり、現本殿は秀衡が造営したものと伝えられるが確証はない。当神社境内に三輪神社(中央)、須賀神社(向かって右)、八幡神社(向かって左)の3社の社殿が並んでいるが、建築様式などからみて、「三輪神社」本殿は室町時代、「須賀神社」本殿は桃山時代の建立と推定され、国指定重要文化財に指定されている(「八幡神社」本殿は羽後町指定文化財)。
別当寺の真言宗「三輪山 杉林寺 吉祥院」は行基を開祖とするが、「三輪百年祭記念誌」(平成元年10月)では、実際には二祖・快基(行基の弟子)の開創であって、当時の本尊は蔵王権現と行基の木像だっただろうとし、三輪神社は、その後の「雄勝城」建設のとき勧請されたものとする。最初は法相宗で、承和11年(844年)に「出羽の講師」になった安慧(その後、貞観6年(864年)に第4代天台座主となる。)が天台宗に転宗したという。その後、真言宗に変わるが、その時期は不明。寺の名前は、杉宮坊、杉本坊、養老寺、大倭寺、杉本寺などと呼ばれていたようだが、「元慶の乱」(元慶2年:878年)平定に勲功があった山北左衛門九郎吉定なる人物に因んで(同人は善政を布き、三輪明神の化身と讃えられたという。)「吉定院」とし、これが「吉祥院」となったと伝えられている。中世には、武装化して宗教豪族となり、末寺等20数ヵ寺を有するなど権勢を誇ったが、近世、佐竹氏が人封すると、自ら武装解除して従ったという。明治期の神仏分離により、僧侶は還俗して神職となり、仁王門は近くの「三輪山 久昌寺」(現・曹洞宗、元は「吉祥院」の隠居寺だったらしい。)に移された、とのこと。仁王門だけでなく、寺宝なども「久昌寺」に移されたようで、もともと「吉祥院」が「秋田六郡三十三観音霊場」の第6番札所であった(十一面観世音菩薩)が、現在では「久昌寺」が引き継いでいるようである。因みに、「久昌寺」の曹洞宗への改宗は寛久7年(1667年)で、本尊は釈迦牟尼仏。

なお、羽後町にはもう1つ「三輪神社」がある(場所:秋田県雄勝郡羽後町糠塚字家岸26。コンビニ「ローソン 西馬音内」店から国道398号線を北東に約400m進み、「糠塚→」という標識が出ているところで右折(東へ)、約600m。駐車場なし)。杉宮の「三輪神社」からの分かれというのが通説であるが、糠塚「三輪神社」側では、自らを行基開創の元宮、杉宮「三輪神社」を別宮としている。


秋田県神社庁のHPから(三輪神社(杉宮))

秋田県神社庁のHPから(三輪神社(糠塚))


写真1:「三輪神社」(杉宮)鳥居と社号標


写真2:同上、境内参道正面が「三輪神社」社殿。なお、江戸時代には「八幡神社」のほうが重視されたため、向かって左の「八幡神社」のほうが参道正面となっていたという。


写真3:同上、「三輪神社」社殿。江戸時代には「明神堂」。「杉ノ宮大明神」あるいは「三輪大明神」と称されていたらしい。


写真4:同上、境内社「須賀神社」社殿。江戸時代には「権現堂」。こちらは「蔵王権現」と称したらしい。現在の祭神は須佐之男命。


写真5:同上、境内社「八幡神社」。現在の祭神は誉田別命。


写真6:同上、神仏混淆の名残りか、境内に鐘楼もある。


写真7:「三輪神社」(糠塚)
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