神が宿るところ

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一ノ矢八坂神社(茨城県つくば市)

2024-01-06 23:33:24 | 神社
一ノ矢八坂神社(いちのややさかじんじゃ)。通称:一ノ矢の天王様。
場所:茨城県つくば市玉取2617。茨城県道55号線(土浦つくば線、通称:学園東大通り)「一ノ矢」交差点から東へ進み、突き当りを左折(北へ)、約70mで駐車場。
伝説(民話)によれば、大昔、九州からカラスの大群が現れて田畑を荒らしたので、困った村人たちが弓の名人を集め、カラスを退治したのだが、その時、最初の矢でカラスを射落とした場所を「一ノ矢」と呼ぶようになった。また、射落とされたカラスには足が六本もあり、その足でしっかりと玉を掴んでいたことから、当地の地名を「玉取(玉鳥)」というようになった、という。また、別伝では、九州から飛来したのは一羽のカラスで、それを旭友永という弓の名人が退治をすることになったが、第一、第二の矢は躱されて、第三の矢で射落とした。それぞれの矢が落ちた場所を「一ノ矢」、「二ノ矢」、「三ノ矢」と称するようになり、第一の矢が落ちた当神社を「一ノ矢の天王様」と呼ばれることになった。なお、そのカラスは3本足で、死んだカラスを埋葬したところに亡霊が現れ、再び友永が退治したところ、玉を残して消えたので、その玉は「筑波山両部権現宮」(現・「筑波山神社」)に納めたという。
社伝では、貞観年間(859~877年)、山城国愛宕郡(現・京都府東山区の「八坂神社」、当時は「祇園社」か?)から素戔嗚尊の分霊を勧請して創建。天慶年中(938~947年)、俵藤太こと藤原秀郷が深く崇敬して、弓矢を納めた。正治年中(1199~1201年)、八田知家が現・つくば市小田に小田城を築いて初代城主となると、以来、小田氏歴代の崇敬社となった。また、知家は、常陸国に流されていた万里小路(藤原)藤房(「藤原藤房卿遺跡」2023年12月23日記事参照)と仲が良かったので、当神社にも度々来遊した。永禄~天正年間(1558~1592年)の戦乱で社殿炎上、文禄年間(1593~1596年)再建。その後も時の領主により社殿は修営された。現在の本殿は宝永8年(1711年)建立のものとみられるが、延宝4年(1676年)銘の棟札も残っている。明治6年に郷社に列した。現在の祭神は、素戔嗚尊。
なお、素戔嗚尊は牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれ、疫病除けの神で、例大祭を「祇園祭」というが、当神社では通称「ニンニク祭」と言われ、頒布されるニンニク守りを玄関先等に吊るしておくと良いとのことで、ニンニクを売る露店も出て、大いに賑わうという。


一ノ矢八坂神社のHP


写真1:「一ノ矢八坂神社」一の鳥居


写真2:一の鳥居を潜った左手にある「玉取一の矢古墳群」2号墳(円墳、直径約20m)


写真3:二の鳥居の前、駐車場の北東端にある境内社「岩大日社」(祭神:大日孁貴(オオヒルメノムチ)=天照大神)。なお、この塚が「玉取一の矢古墳群」1号墳(円墳、直径約10m)。ここの欅(ケヤキ)も大きいが、かつて境内に樹齢約800年と伝えられた「一ノ矢の大ケヤキ」があった(平成7年の台風で大きく損傷、枯死して平成13年に天然記念物指定解除、平成24年の集中豪雨のため倒壊して撤去されたとのこと。)。


写真4:二の鳥居と社号標


写真5:拝殿。なお、社殿は西向き。拝殿はつくば市指定文化財。


写真6:本殿(覆屋)。これほど立派な覆屋は、他ではあまり見られないだろう。覆い屋はつくば市指定文化財。


写真7:同上。本殿は茨城県指定文化財。


写真8:同上。彫刻も迫力がある。


写真9:境内社。向かって右:稲荷神社(祭神:宇迦之御魂神)、左:天満宮(祭神:菅原道真公)


写真10:南側の鳥居
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