神が宿るところ

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万箇将軍の墓(紫雲山 瑞光寺)

2016-08-20 23:44:24 | 伝説の地
万箇将軍の墓(まんこしょうぐんのはか)。
場所:秋田県由利本荘市町村字木戸口54(「紫雲山 瑞光寺」の住所)。国道108号線(矢島街道)から秋田県道287号線(南由利原鮎川線、広域農道と重複)に入り、西~南西へ約2.5km。駐車場あり。
曹洞宗「紫雲山 瑞光寺」の創建時期は不明。伝承によれば、大同年間(806~809年)に弘法大師、嘉祥年間(848~851年)に慈覚大師が訪れたという古刹で、中世には「由利三ヵ寺」の1つに数えられた。正中年間(1324~1326年)、由利氏と鳥海氏の争いが激しくなると、当寺が鳥海氏方の陣所となり、兵火に遭って史書や宝物なども焼失してしまった。明応元年(1492年)、加賀国(現・石川県)の曹洞宗「大乗寺」14世・明峰素哲によって再興され、戦国時代には蒲田館(現・由利本荘市東鮎川の山城)の館主・淵名氏の祈願所となったという。本尊・釈迦如来。
当寺には「万箇将軍の墓」と呼ばれる塚があり、次のような伝説が伝えられている。即ち、天平年間(806~809年)に、唐から使節として万箇将軍が遣わされ、水が乾かない奇硯や美しい玉など宝物を朝廷に届ける途中、暴風雨に遭って難破した船は「有耶無耶の関」付近に流れ着いた。このとき、宝物が光り輝き、紫色の雲がたなびいて、「瑞光寺」に向かって流れた。将軍は「瑞光寺」の呉竹和尚に宝物を朝廷に届けるよう頼み、当地で亡くなった。和尚は都に上り、光明皇后に宝物を献上した後、「万箇将軍の墓」を建てて供養したとされる。唐から宝物が届けられたのは、唐の皇帝の后になった藤原鎌足の娘が依頼したからともいう。天平年間とは時代が少し合わないが、享保18年(1733年)には当寺で万箇将軍の千年忌が行われたらしい。なお、「万箇将軍」というのは1万人の兵士を率いる将軍のことをいい、具体的な名前は伝わっていない。


「まるまる秋田」のHPから(万箇将軍の墓)


写真1:「瑞光寺」楼門形式の山門。


写真2:同上、本堂


写真3:同上、墓地の奥から石段を上る。


写真4:同上、「万箇将軍の墓」


写真5:「有耶無耶の関」付近(場所:秋田県にかほ市象潟関)。この道路は国道7号線で、写真の左手が「ウヤムヤノ関」という地名(字)で、日本海の海岸から約300m。「瑞光寺」は、ここから東北に約20km(直線距離)離れている。


写真6:上の写真の信号標識をアップ。一般に「有耶無耶の関」は、現・宮城県と山形県の県境である「笹谷峠」付近というのが有力らしいが、芭蕉の「おくのほそ道」などでは現・秋田県と山形県の県境「三崎岬」付近としているようだ。
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