神が宿るところ

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晴明稲荷大明神(茨城県石岡市)

2024-03-02 23:33:03 | 神社
晴明稲荷大明神(せいめいいなりだいみょうじん)。
場所:茨城県石岡市吉生723−1。石岡市道「フルーツライン」の「吉生」交差点から西へ約500mで左折(南へ)、道なりに約200m。駐車スペース有り。
当ブログで以前、平安時代の陰陽師として有名な安倍晴明(921?~1005年)の現・千葉県銚子市に残る伝説の地について4回にわたって書いた。その最初の項「晴明稲荷」(2014年6月7日記事)で、晴明に関する基礎情報を記したので、そちらを参照していただくとして、その際、現・茨城県桜川市猫島に「誕生の地」とされるところがあることも紹介した(同記事の写真3「安倍晴明誕生の地」(「晴明橋公園」))。晴明が常陸国生まれであることは、陰陽道の秘伝書「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」(略して「簠簋内伝(ほきないでん)」)の注釈書とされる「簠簋抄」巻頭の由来に、「簠簋内伝」が晴明に伝えられるようになった事情や晴明が上洛して陰陽師となっていく経緯が書かれている。「簠簋内伝」自体が中世の偽書とされるので、「簠簋抄」の内容も事実ではなく、物語に過ぎないが、その後、現在に至るまでの超人としての晴明の伝説の元ネタとなっている。極めて省略して書くと、「霊亀3年(717年)、遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂が武帝に責め殺されて帰国できず、死して赤鬼となった。同じく入唐して幽閉された吉備真備は仲麻呂の助けにより武帝の難題を退けて、多くの宝物を賜ったが、その中に、元は天竺で文殊菩薩が著したとされる「簠簋内伝」があった。帰国後、真備は、助けてくれた仲麻呂の子孫を探し、常陸国の筑波山麓、吉生または真壁の猫島に子孫が住むということを聞いた。吉生の村に至ると、6~7歳の子供が12~13人いる中に、オーラを放つ童子がいた。これが後の安倍晴明で、「簠簋内伝」を伝えられた。晴明は、「鹿島神宮」に100日参籠し、99日目に小蛇(実は竜宮の姫)を助けたことで、鳥の囀りの内容を理解できるようになり、その能力で天皇の病気を平癒させたことが陰陽師となる切っ掛けとなった。なお、晴明の母は和泉国「信太明神」(現・大阪府和泉市の式内社・和泉国三宮「聖神社」)の本体たる神狐で、猫島に3年暮らしたときに晴明を産んだ。」とされる。つまり、晴明が阿倍仲麻呂(筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫)の子孫という名族の血統に加えて、神狐を母とするという異類の能力も受け継いでいると説く。
さて、「簠簋抄」では、晴明の生誕地を猫島(現・桜川市猫島)とするが、真備が晴明に出会うのは吉生(現・石岡市吉生)としている。その吉生に現在も「本圖(もとづ)家」という旧家があり、その敷地内に稲荷社(神体は龍の髭と伝えられる。)や五角形の井戸(五角形は通称「安倍晴明判」という五芒星の紋に因む。)などがあったらしい。井戸は今は無いというが、推測するに、稲荷社の方は「晴明稲荷大明神」として一般に参拝ができるようにされたようで、訪問時にもアルコール飲料やペットボトルのお茶などが供えられていた。なお、本圖家は、同じ吉生にある天台宗「峰寺山 西光院」(前項)を創建した僧・徳一(一説に藤原仲麻呂=恵美押勝の子という。)の後裔であるとか、「西光院」の別当職を務めたなどと伝えられている。


「晴明稲荷」(2014年6月7日記事)


写真1:「晴明稲荷大明神」鳥居


写真2:拝殿


写真3:本殿


写真4:境内社
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