神が宿るところ

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夕顔観音塚(伝平良文墓)

2014-05-10 23:27:41 | 古墳
夕顔観音塚(伝平良文墓)(ゆうがおかんのんづか(でんたいらのよしぶみはか))。
場所:千葉県香取市阿玉台字千堂。県道265号線(小見川海上線)沿いの小見川南小学校の角を西へ、約200m。小学校の石垣の端付近に「阿玉台遺跡」の案内板があり、そこから徒歩、数分。駐車場なし。
「夕顔観音塚」は中世~近世の塚で、平安時代中期の武将・平良文(仁和2年(886年)?~天暦6年(952年)?)の墓所との伝承がある。平良文は、臣籍降下した高望王(平高望)の五男で、関東に下って武蔵国村岡(現・埼玉県熊谷市)または相模国村岡(現・神奈川県藤沢市)に住んで村岡五郎と称した。鎮守府将軍として陸奥国・胆沢城(現・岩手県奥州市)に赴くなどしたが、晩年には下総国阿玉郡(現・千葉県香取市)に移り、同地で亡くなったという。良文は、上総氏・秩父氏・千葉氏など坂東八平氏と呼ばれる多くの支族の祖となり、関東地方に広く勢力を張った。なお、承平天慶の乱の際には、平将門の味方をしたのか敵だったのか不明(あるいは、まだ陸奥国に居たのかもしれない。)というが、乱平定後、将門の遺領である下総国相馬郡を継承している。
さて、平良文が晩年に当地に移り住んだというのは伝承であって、確証はないらしい(通説では、墓所は、現・神奈川県藤沢市渡内にある浄土宗「戒法山 宝国院 二伝寺」にある塚がそれであるとされる。)。「「阿玉台貝塚」・「夕顔観音塚」の北側(現在、「芳源ファーム有限会社 パッキングセンター」という会社のある辺り)に「伝平良文館跡」といわれる遺跡があり、昭和50年の発掘調査では、二重空堀・土塁・物見台といった城郭遺構が検出されたという(現状、遺跡らしいものは何も見当たらない。)。平安時代中期頃の住居跡や貯蔵穴の遺構も発掘されたといい、良文の館跡かどうかは不明だが、全く可能性が無い訳ではないらしい。
ところで、「伝平良文墓」を何故、「夕顔観音塚」というのか。それは、次のような伝承による。即ち、晩年、良文は夕顔(ユウガオ)の花を愛し、死に際しては子の忠頼に「我に会いたければ、畑に生えし夕顔の実を開けよ」と遺言した。忠頼が畑の大きな夕顔の実を割ったところ、中から観音像が出てきた、という。因みに、良文の法名は「夕顔観音大士」というのだとか。また、後に、亥鼻城を築いた千葉常重の夢枕に「この夕顔観音を本尊として祀れ」とのお告げがあり、大治年中(1126~1131年)、堂宇を建立した。これが現在の臨済宗妙心寺派「白華山 樹林寺」で、元は真言宗だったが、貞和年間(1345~1349年)に覚源禅師を開山として臨済宗に改宗したという。本尊の「夕顔観音」は千手観世音菩薩であるというが、秘仏で、見ることはできない。なお、夕顔の果実を紐状に剥いて干したものが干瓢(かんぴょう)であり、当地では干瓢を食べない、という。

※ 本来であれば「阿玉台貝塚」が国指定史跡であることから、そちらをタイトルにすべきかもしれないが、縄文時代にはあまり興味がない。一方、平良文は千葉氏の祖とされる人物であり、伝承も面白いので、「夕顔観音塚」を中心に取り上げた。


香取市商工観光課のHPから(阿玉台貝塚)


写真1:「国指定史跡阿玉台貝塚」の石碑。「夕顔観音塚」へは、この碑の後ろの木道を下っていくのだが、最初に訪問したときは夏草が生い茂って木道が全く見えない状態だった。実は、「夕顔観音塚」に向う途中は梅林になっていて、梅の花の時期は賑わうが、夏場は放置されているようである。


写真2:「夕顔観音塚」。台地の斜面に造られた方形の塚


写真3:同上。「夕顔観世音菩薩」と刻された石塔が建てられている。


写真4:「樹林寺」本堂(場所:千葉県香取市五郷内2063。県道265号線沿い、小見川南小学校の北西、約900m。駐車場有り)


写真5:同上。手水舎の水盤の横にある丸い石は「子持石」といい、浄水を掛けると子宝に恵まれたり、イボ等が取れたりする御利益があるという。なお、水盤に刻された紋は千葉氏の家紋である「月星」


写真6:同上。境内の「四季桜」


写真7:同上、こちらに訪問したのは11月。花いっぱいというわけではないが、可憐な花が咲いていた。
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