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登呂遺跡

2010-11-09 21:51:41 | 史跡・文化財
登呂遺跡(とろいせき)。
場所:静岡市駿河区登呂5-10-5(静岡市立登呂博物館の住所)。JR「静岡駅」南口から南東に延びる「石田街道」を真っ直ぐに進み、約3kmで東名高速道路に交差する手前を左折(北東)して、数百mのところに駐車場あり(有料)。
「登呂遺跡」は弥生時代後期(3世紀)の遺跡で、日本で最初に集落と水田跡がセットで発見された。戦時中の昭和18年、軍需工場の建設中に発見され、本格的な発掘調査は昭和22年になってから。戦前の皇国史観から開放され、科学的・実証的な調査により史実を明らかにしようとする機運が高まり、考古学者のみならず、人類学・地質学・動植物学・建築学などの専門家も参加した。また、「日本考古学協会」が発足したのも、これを契機としている(昭和23年)。調査の結果、12軒の住居跡、2棟の倉庫跡、約7haの区画された水田跡などが発見され、豊富な木製農耕具などが出土して、弥生時代の人々の暮らしぶりが明らかになった(昭和27年に国の特別史跡に指定)。
こうしたことから、「登呂遺跡」は日本史の教科書にも載っている有名遺跡になったわけだが、集落としての「登呂」ムラをみると、人口は40~50人程度と推定されており、後に発見された「有東遺跡」(「登呂遺跡」の北側)の分村だったのだろうとされるようになった。また、墓地が発見されていないという謎もある。
その重要性を否定するつもりは全くないが、「登呂」ムラ自体は、大集落というわけではないし、代表的な集落というわけではなかったと思う。要するに、「登呂遺跡」を含めた周辺の多くの集落が後の有度郡を形成することになったのだ、ということで、そして、稲作だけでなく、海産物や塩などの交易も行うことで、この地区全体で「国」の萌芽となっていったのだろうということである。


静岡市のHPから(登呂公園):http://www.city.shizuoka.jp/deps/kyoikusoumu/torohaku_sub3.htm

同(登呂遺跡):http://www.city.shizuoka.jp/deps/kyoikusoumu/torohaku_sub2.htm


写真1:水田復元。奥に復元集落。


写真2:竪穴住居(復元)


写真3:祭祀建物?(復元)。平成5年以降の再調査で、集落とは少し離れた場所で発見された。倉庫のようにもみえるが、もともと「祠(ほこら)」の語源は「秀倉(ほくら)」とされており、収穫物を収めるものだったとすれば、納得できる。これが神社の社殿の起源か?
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