神が宿るところ

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平田篤胤之奥墓

2017-04-08 23:02:20 | 史跡・文化財
平田篤胤之奥墓(ひらたあつたねのおくつき)。
場所:秋田県秋田市手形字大沢21-1。「秋田大学」の裏手(東側)の道路沿い、「秋田大学大学院国際資源学研究科附属 鉱業博物館」の南,約250mのところに赤い欄干の橋があり、それを渡り直進(東へ)、その先の石段を徒歩、数分。駐車場なし。なお、「秋田大学 鉱業博物館」は、豊富な鉱物標本を展示していて入場料は何と100円という、石好きには見逃せない博物館である(駐車場有り)。そこから、「平田篤胤之奥墓」までは徒歩直ぐの場所になる。是非、併せて訪問することをお勧めする。
平田篤胤は江戸時代後期の国学者・神道家(1776~1843年)。出羽国久保田(秋田)藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤の四男として現・秋田市に生まれた。大和田家は千葉氏の流れを汲むとされ、後に「平将門より30世の子孫である」と自称している。20歳になると、無一文同然で脱藩し、江戸に出た。生活の苦難と戦いながら勉学に励んでいたところ、寛政12年(1800年)、25歳のときに備中国松山藩士で山鹿流兵学者であった平田篤穏の養子となった。その後、本居宣長(1801年没)に私淑し、享和3年(1803年)に処女作「呵妄書」を著してから、古代研究を中心に膨大な著作を次々に発表していった。平田篤胤は死後の世界(幽界・冥界)や仙界にも関心が高く、神仙界で修行してきたという「天狗小僧 寅吉」に取材して、文政5年(1822年)に「仙境異聞」を著している。その後も、「勝五郎再生記聞」、「古今妖魅考」、「稲生物怪録」など幽冥界に関わる奇譚の考察などを行い、後世の民俗学にも影響を与えているとされる。天保12年(1841年)、江戸幕府の暦制を批判した「天朝無窮暦」を出版したことで、秋田に帰るように命じられたうえ、以後の著述も禁止された。それまでも、厳しい儒教批判や尊王主義のため、幕府に目を付けられていたらしい。秋田に帰ってから、人魚の骨を手に入れ、食べたという書簡が残っている(国立歴史民俗博物館蔵)。長生きしてしまってよいものか、と悩む様子が書かれているが、人魚の存在と薬効は疑っていなかったようだ。しかし、その甲斐もなく、秋田に帰って2年後の天保14年(1843年)、68歳で病没した。没後も、その尊王攘夷思想が秋田に受け継がれ、戊辰戦争の際には久保田(秋田)藩が奥羽越列藩同盟から離脱し、新政府側につく背景になったともいわれている。
「平田篤胤之奥墓」であるが、遺言により、衣冠束帯の姿で現・秋田市の「手形山」に葬られ、墓石は本居宣長の没した伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の方角に向けられていると伝えられている。昭和9年、国史跡に指定された。なお、現・秋田市内には平田篤胤と佐藤信淵を祀る「彌高神社(いやたかじんじゃ)」もある。


「文化遺産オンライン」のHPから(平田篤胤墓)

秋田大学鉱業博物館のHP

彌高神社のHP


写真1:「平田篤胤大人終焉之地」石碑(場所:秋田県秋田市南通亀の町5−20)


写真2:後ろの小さい石碑は「石敢當」(前項「秋田市の石敢當」参照)


写真3:「平田篤胤之奥墓」入口。鳥居も見える。


写真4:「平田篤胤之奥墓」正面


写真5:「史蹟平田篤胤墓」石碑


写真6:自然石を使った墓石
コメント (2)
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